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1章7話 Euthanasia again.

 ユグドラシルの根元に化石化して、31万年前より眠っていた初代絶対不及者・時空神 セトは、西暦2023年の時空から荻号 正鵠が西暦8125年へ送った超神具、開放軸(Stem Opener)と、最後の人類、INVISIBLEの託した記憶素子によって復活を遂げた。

 時空神セトは、神階に初めて絶対不及者という概念をもたらし、何者としてかなわず、神々の大虐殺を実現した恐怖の存在であったが、INVISIBLE/ゼロの記憶を引き継いだ彼に、もはやその面影はない。

 その恐ろしさは、時空神の名を冠するとおり、神具を無効化する時空間制御能にある。


『われは汝らに与する』


 明確な宣告のもとに、敵意を脱ぎ捨て、セトは神階へと復帰した。

 彼は神階が滅んだこと、三階の人々が集い、宇宙連邦として新たな歩みをはじめたことも理解している。だから、もはや時空神という肩書を名乗らなかった。

 さっそく旧神らに相談もなく亜空間開闢を始めようとするセトを比企がとどめる。


“待て、セト。空間開闢はどの様式を用い、どの時間軸に接続するつもりだ”

『INVISIBLEのやりかたで、時間軸を切り離した亜空間へと繋ぐ』


 比企は断固としてそれを制止する。


“まだ陽階への連邦構成員全員の避難が完了しておらん”

『移動の必要はない、“人類”全員を連れてゆけばよいのだろう?』


 全知の時空連続体INVISIBLEの記憶を引き継ぐということは、過去も未来も全ての空間開闢様式を知り尽くしているということになる。

 ゼロを味方につけ、彼の知識を活用するということは、藤堂 恒の制御を受けながら手探りで亜空間開闢を成し遂げたセウルとは根本的に違う。

 セトは間違いなく、空間開闢のエキスパートだ。


『開闢開始』


 セトは比企が何か言おうとする間に片手間のように切離空間の創世を行い、全人類をさくっと救助したうえで時空を均して最適環境を構築し、転移させていた。

 セトはアトモスフィアを直接可視化させた立体画像で、切離空間に展開した新たな神階の構造を示す。

 巨大要塞型で、積層構造をなしている。

 使徒階の構造に近い。

 セトがユグドラシルから脱出したために、陰階と陽階が合体したような構造になっている。

切離空間内の時空間はきわめて安定化している。

安定化した段階で神々を覚醒させた、というほうが正しいのだろうが。

 大気組成は、かつての神階と同様に構成されているようだ。

 セトは自身の強大なアトモスフィアを押さえつけるために、久遠柩を分解し、ローブのように仕立て直して着つけていた。

 さらに彼の膚には荻号 要がそうしていたように、幾重にも制紐が縫い込まれている。

 旧神たちが禁視を直視することがないよう、目を閉じている。

 それほどまでにセトが自らを封じていても、その場にいる旧神ら全員が圧倒的な気圧の差の前に埋没状態にされる。

 

「空間歪曲率、正常化しました」


 はっと我に返ったファティナ・マセマティカはP≠NPを見ながらほっと胸をなでおろす。

 そして、取り寄せた情報に驚いて比企に報告する。


「空間情報を収集しました。

 情報転送量 1.0x10^35 byte

 密度変数Ω(オメガ)=1.000109

 切離宇宙径  3.1 Gpc (ギガパーセク)と見積もられます」

「あー……狭ければもう少し広くしてもよい」


 セトはそう言うが、かつてセウルが創出した切離空間より何百倍も広い。

 観測可能な宇宙の範囲をほぼ網羅している。

 旧神らはそのすさまじさにもはや言葉を失ってしまう。

 これでも、INVISIBLEの力のほんの一部を与えられたにすぎないというのだから、本体のINVISIBLEの権能たるや、想像を絶するものがある。


「見事なものだ。あれからどれほど時間が経った?」


 時間とは相対的なものであることは重々承知しつつも、比企は念のため確認する。

 セトは開放軸を手にしたまま比企の質問に答える。


「時空間歪曲をただす以前の切離時間内での時間経過を知ることに、何か意義があるのか?」

「神銀の劣化度合を推測し、性能を見積もらせねばならん。時間にとらわれた我らにとっては必要な情報だ」

「汝らの神具に用いられている神銀は、設定を除き最初期の状態にした。劣化の影響は皆無だ」


 そういわれてみれば、比企の懐柔扇の光沢が違う。

 開放軸までもが、新品のようになっている。

 神銀を劣化させないように細心の注意を払ってきた旧神たちには嬉しい悲鳴だ。


「それは助かる」

「礼には及ばん。改めて開放軸を繋ぐ」


 セトは彼らの準備が整うと、開放軸を起動し、2023年に向けて神具間連絡機能を介した通信を発した。


 *


 西暦2023年側では、荻号が手にしていた開放軸が共鳴を始めた。


「比企がセトを起こし、セトが切離空間に避難を完了したようだ」


 ゼロがあたかも未来を見てきたかのように解説する。


「セトさん、比企さんたちの味方になってくれたんですね」

「敵対する理由もないしね」


 恒と遼生は感慨もひとしおだ。

 皐月もメモをとりながら、「セウルさんみたいな方なのかしら」と想像を巡らせている。

 セウルはセトの復活の報を耳に入れ、心境も複雑なようだった。


「お、交信がきたぞ。開放軸、時空間ゲート開放」


 荻号は西暦8125年より神具間連絡機能による通信が入っていることに気付き、再接続する。

 メンガーのスポンジは解きほぐされ、今度はノイズはなく鮮明な立体映像を結んだ。

数百名は超える人だかりができて、開放軸を中心に集まっているようだ。

それは、まさに旧神らが安定した時空にいることを意味する。


「比企さんたちだ……」


 懐かしい面々が、画面を通じてそこにいる。

 比企は変わらない様子で、相変わらずの鉄面皮だ。

 ファティナ・マセマティカがにこやかに手を振っている。

 恒は彼らとの遠い再会に泣きそうになる。

 手を伸ばせば届きそうだが、彼らとの間には時空の壁がある。

 もう二度と会えないと諦めていた。

 束の間の再会でも、一目だけでも、彼らの元気な姿を見るのは嬉しい。


「セト、わたしがゼロだ。現在、荻号 正鵠の共存在体に憑依している。すでにわたしがそちらに関与しているだろうが、現時点での状況を教えてほしい」


 ゼロがセトを指名して問いかける。

 セトは目を閉じたまま頷いた。

 かつての宿敵同士だが、もはやわだかまりはない。

 セトが目を閉じているのは禁視を持っているからだろうな、とユージーン、レイア、セウルは推測する。


「汝の指定したとおり、切離空間は2023年の分岐異界時空に同調している」

「えっ!」


 旧神らに衝撃が走った。

 皐月も身をこわばらせる。

 震えるその手に手を、ユージーンがそっとかぶせた。

 そもそも、未来と過去を繋げ、生物階に神々が干渉を始めたこと、それがすべての元凶だったのだ。過去と未来を分離し、正史へと戻していた努力を無にするかのような報告なのだが、西暦2023年、神なき世界を歩み始めたこの時空では、思考機械に対抗するには戦力が足りない。

 邪悪な思考機械を克するためには、過去と未来を結び、旧神らが再び集う必要がある。


「理解しているようだ。これからわたしは、この時空を庇護しつつ、思考機械αθάνατοを迎え撃つ」

「一人で背負い込むなって。人類の一端として微力を尽くすつもりだが、援けはいらんのか?」


 一人静かに覚悟を決めるゼロに、荻号が言葉をかぶせる。

 ゼロは暫く迷っているようだったが、やがて深々と頭を下げた。

 彼も、対人コミュニケーションを身に着けている。


「その意志があるものは、わたしに与してくれると助かる」


 全知全能を誇る彼だが、すべてを一人で解決しようとして助けを求めなかったから、過去あそこまで話がこじれてしまった。

 一人一人の力は微力だが、それらを束ねれば大きなうねりとなる。

 彼はやり直しを図っている。

 今度は、全員の協力をとりつけた。


「よく言った」


 それは、人類から思考機械へ向けての、高らかな宣戦布告だった。


 会議も夜更けとなり、議場としてた小学校の視聴覚室を閉めなければならなくなったので、一時解散とし、旧神らはそれぞれの帰途についた。

 この地に住所のないセウルと織図は、何人こようが宿泊には困らない、大きな農家である藤堂家に泊まる。

 荻号の共存在を使っているゼロは、荻号と行動を共にする。

 ユージーンと皐月の夫妻もまた、自宅に戻った。

 世界の終末の序曲など聞こえなかったかのように、近所の友人に預けていた尚人と小春とともに夕食を終え、尚人と小春を寝かしつけたあとのこと。

 皐月はユージーンの姿が見えないことに気付いた。

 家じゅう探し回って、思いついて三階に上る。


「お風呂、お先に。あっ、やっぱりここにいたんだ」


 吉川家の三階には、全天を見渡せる天体観測用のドームがある。

 ユージーンは憂わし気に宇宙を眺めていた。


「今日は晴天だもんねえ。星もきれいに見えるよねえ」


 会話の糸口を見つけ損ねて、なんとなくそう言って、皐月はその発言に情報量がなかったことを反省する。

 仮に空が曇っていても彼は雲を退け、雲の上から天体観測をすることだってできるのに。


「お風呂、入っちゃったら? 今日は入浴剤変えてみたんだ、ラベンダーだよ! 小春は大喜びで」

「ありがとう。もう少しここにいるよ」


 ユージーンの声のトーンから、皐月は風呂を勧めている場合ではないと気づく。


「ごめん。ゼロさんの説明だと、状況は思った以上に深刻みたいね……触ってもいい?」

「ギャップは解いたよ」


 皐月はそっとユージーンの隣に立ち、肩のあたりにもたれかかった。

 彼の周囲にはまだ、フィジカルギャップという物理防御を可能とする結界が張り巡らされている。彼が意識してその物理防御を緩めると、皐月ははじめて彼に触れることができる。


 フィジカルギャップは、時空間を介した敵の急襲から、いつなんどきも自動的に彼を守る。

 あの会議のあと、皐月は旧神たち全員が、それまで必要としていなかったフィジカルギャップを展開していたのを感じた。

 だからもう、声をかけてからでないと、ユージーンに触れることができない。

 それが寂しくもあり、頼もしくもある。

 二人の間にしばしの沈黙があった。


「いつ、アサナトはやってくるのかしら」

「それを計算していた。セトが与えた時空歪曲率のインパクトを考えると、少なくともあと一か月は来れないと思う。これ以上介入しようとすると、時空が崩壊する」

「そう、だから皆、こんなときでも家に帰ったのね。それだけの時間があるのよね、皆何も言わないけど、すぐ計算したのね」


 皐月の頭では何年かかっても導き出せない答えを、ユージーンをふくめ、旧神らは即座にはじき出せる。


「……皐月さん」

 

 ユージーンは皐月の肩に触れ、真正面に向き直ると言いにくそうに切り出す。

 その表情があまりに辛そうだったので、皐月は彼を救う。


「まって。これから何をするつもりか、当ててみようか」


 彼の言葉を遮り、皐月は自分を傷つけながら先回りをする。

 こんなの、言い出せないに決まってる。


「昔のあなたに戻ろうとしている。まだ、あなたが人間ではなかったころの」


 皐月は思い出す。そう。

 彼女の夫はかつて、戦争と平和を司る、「軍神」と呼ばれていた――。

 彼の肩に消えない咎のように残る黄金の展戦輪の御璽印、それは彼がかつて枢軸神であった証だ。


 太古の昔から天上に住まい、人類を支配し、偉大なる力をふるい、何千万もの使徒を従え、人々を殺し、それ以上に多くの人々を救い、あらゆる神秘を体現してきた。

 神々の神秘を実現していたのは、神具と呼ばれる超科学装置と、彼ら自身が生合成していたダークエネルギー・アトモスフィアと呼ばれるもの。


 この、アトモスフィアを合成するための生体機構を、彼は今、持ちえていない。

 かつては眩しいほどだと感じていた彼の後光も、今はもうない。

 ユージーンを含む旧神らがこの神なき時空にとどまるために、時空連続体INVISIBLE/ゼロと契って、神秘を放棄したからだ。

 それを取り戻せば、彼はゼロに適するプライマリの個体として、INVISIBLE/ゼロをその体に宿すことができる。

 絶対不及者という存在になり、数々の超神具と、無尽に近いエネルギーを操ることができるようになる。


「どこまで戻るんだろう」


 彼はさらに、ほかの神々とは一線を画した経歴を持つ。

 彼は旧神らのうちで唯一No-bodyの管理を逃れ、第四の創世者として君臨していた時期がある。

 その情報量はINVISIBLEには及ばないながらも、思考機械らのそれを凌駕していた。

 そうまでしなければ、新たな思考機械の襲撃に対抗する戦力にはならないこと。

 ゼロの力を完全に引き出し、彼のもっとも強力な支援者となるにはユージーンが適任だということ。

 ゼロは今、否応なくかなり適合の悪い荻号へと宿っているが、この状態ではゼロの力を発揮することができないどころか弱体化させる。

 このままでは、確実に負けるのだ。


「神様や絶対不及者に戻るのはいいとしても、創世者には、戻ってほしくないかなあ……尚人と小春が、お父さんいなくなっちゃったって、泣いちゃうと思うから。でも、そんなこと言ってる場合じゃないんだよね?」

「はは、まいった。いつから私の心を読めるようになったのかな」


 ユージーンはたじたじになって降参する。

 皐月は聡明なので、ユージーンが何層のマインドギャップを持っていようと、彼が何をしようとしているかお見通しだった。

 ユージーンは皐月の内心を看破してうなだれる。


「わからない。でももう、戻ってこれないかもしれない」


 それは二つの意味を持つのだろうな、皐月は推測する。

 一つは、思考機械との戦いの中で、滅びてしまうということ。

 もう一つは、まったく異なる存在となってしまうこと。

 尚人と小春は、遠からず父親を失うかもしれない。


「そっか……もう、そういうのは終わったと思っていたのにね」


 全知全能は、完璧という意味ではない。

 ゼロに無謬性を求めることは間違っている、皐月はわかっていたのに、声にならない。

 必死に涙を飲み込む。彼は新たな戦いに往こうとしている。

 皐月と、尚人と小春を置いて。

 いつだって彼は勇敢だった。

 誰かを守るために、自分の身がどうなろうと、途方もない敵にもひるまない。

 それは、常に自らの命を天秤にかけてきた、生死の駆け引きをしてきた軍神だったから。

 あるいは、INVISIBLEの器として作られた命の存在理由だったから。

 そうなのかもしれないけれど、あまりに泰然自若として、些細なものを手放すように命を粗末にしようとする彼の存在を、皐月は何をしてでも繋ぎ留めたくなる。

 世界を救う力を持つ、神様だった人と結ばれた。

 だからこそ、きたるべき時がきたら、その背中を押さなければならないのに。

 できそうにない、と皐月は嗚咽する。

 ユージーンは皐月の肩をさすりながら、静かに心情を吐き出す。


「あなたの夫として、尚人と小春の父親としても。子供たちを頑張れといって励ましてきたいち教師としても。最善を尽くさずして諦めて滅びを受け入れたくはないんだ」


 思考機械αθάνατοに抗うことによって、死を早めるかもしれない。

 それでも、諦めて滅びを受け入れるより、希望に賭けて抗うほうがいい。

 この世界に残った旧神たちは、全員がその思いだ。

 誰も諦めていない、逃げようともしない。

 だから、その時にむけて備えている。


「あなたと歩んだ日々は、絶対に忘れないわ」


 ようやくそれだけ伝えた皐月は、冷たくなった手を彼の手に重ねる。


「それから、たとえどんなに変わり果てたとしても、私はあなたを覚えているから。だから、ちゃんと見失わずに帰ってきてね、ここにいるから。見えなくなってもいいから」


 ユージーンはたまらなくなって皐月を抱きしめた。

 皐月の髪のふわりとした柔らかい香りが彼の鼻をくすぐる。


「ありがとう。十二年間……家族となって七年、なんのとりえもない私を人間として受け入れてくれて、愛しい子供たちをいだかせてくれて、本当に感謝している」


 懐かしい思い出が、皐月の脳裏にフラッシュバックする。

 村人たちに祝福され、結婚した日のこと。

 子供たちが生まれたときのこと。

 愛媛の実家で少し緊張していた彼のこと、家族旅行に行ったときのこと。

 子供たちとふざけあっていた彼のこと。

 

「言わないほうがいいと思ったけど、大切なことだから伝えておくよ」

「何?」


 ユージーンは皐月に耳打ちする。


「尚人にはフィジカルギャップが1層、小春にはマインドギャップが1層ある。生まれたときにはなかったけど……恒くんみたいに、これから増えてくるかもしれない」

「そっかあ……いつか言って聞かせなきゃ、なんだね。どうやって説明しようかなあ……あなたが説明してくれるとわかりやすいのだけれど」


 そうもいかないから、ユージーンは今話しているのだ。


「来るべき時がくれば、説明しようと思っていた。特に尚人は、自分の特性を理解しておかなければ人を傷つける。それどころか、人を殺してしまうかもしれない。今は私が傍にいて埋没させているけれど……これからは」

「わかった。親として、ちゃんと伝えるね。まかせて!」


 皐月はうつろな笑顔を崩さず、彼に聞こえないよう小さなため息をつく。

 尚人と小春がユージーンの能力を受け継いでいること、完全な人間ではないこと、想像はできていた、理解もできていた。

 でも、自分の腹から産まれた子供がそうだと、にわかには信じがたいものがある。

 あの時、まだ10歳だった恒は、あのINVISIBLEとの壮絶な戦い中で、血反吐を吐くような思いで極位クラス、10層ものマインドギャップを身に着けた。その道のりの凄惨なること、皐月はわかっていたはずだ。

 力を持ったばかりに、あんな生き方をしなければならないときがくるのだろうか。

 切なくなって、皐月は過去を振り返る。


「私たちが初めて出会った日のこと、覚えてる?」

「こんなふうに星がきれいな、祭りの日だったね」


 あの日のことは、皐月にとってはほろ苦い思い出だ。


「私、あなたのこと詐欺師だと思ってて。結構冷たくしちゃったんだけど……でも、あなたはずっと優しくて、忍耐強くて、なんていうか、」

「お父さん、お母さん何してるの?」


 トイレに起きたらしい尚人が、両親がいないのを見つけてわざわざ小春を起こして、二人で目をこすりながら階段を上がってきた。


「おっとぉー! 星を見ていたのよ! ほら、晴れてるから」


 慌てて夫婦は距離をとり、皐月は涙をぬぐう。


「えーうそだー、お母さん声震えてるー。お父さんがお母さんなかせたー?」

「ほら、もう寝なさい」

「寝ないのー」

「お母さんも一緒にベッドきてー」


 二人が納得しないので、ユージーンは皐月に目配せする。

 以心伝心で、皐月も頷く。今日ぐらいは、いいだろう。


「じゃあ、お父さんと星を見に行こうか」

「いくー!」


 どうかこれが、最後の思い出にならないように。

 皐月はユージーンの意図を察知して頷き、二人の子供たちが寒くならないよう、羽織ものを持ってきた。

 それをすっぽりとかぶせて、いってらっしゃいとほほ笑む。

 ユージーンは二人の子供たちを両腕に抱くと、軽く屋上の床を蹴る。

 彼の体は重力をたちきって、夜空に浮かんだ。

 子供たちはユージーンにしがみつきながら、おおはしゃぎだ。


「空飛んでるー!」

「ゆめみたーい」

「そのとおり。ただの夢だよ、目が覚めれば布団の中だ」


 皐月は三階の屋上から、いってらっしゃいと手を振る。


「はじめようか、天体観測を」


 遥かな高みから見た宇宙、彼が守ろうとしている月や星、銀河や宇宙は、きっと彼らの脳裏に忘れえぬ思い出として焼き付くことだろう。



 ユージーンが子供たちを今度こそベッドの中へ収納し、深夜、荻号の家を訪ねる。

 明日、場所を変えて旧神らが集まり、対策会議をうつことになってはいたが、それ以前にどうしても、ユージーンは荻号を訪ねなければならないと思った。

 インターホンを鳴らさなくても、荻号はユージーンの来訪を知っていたのか、薬草園の庭に面した縁側に座っていた。

 彼はゼロと隣り合って座って何かを話し合っていた。

 隣にはいつセトからの着信がきてもいいように、開放軸を置いている。


「ゼロさん、荻号様、夜分に失礼します」

「ああ、来ると思っていた」


 縁側にこしかけていた荻号はユージーンを手招きする。

 ユージーンは中庭からひょいと生垣を飛び越えて彼らの会話に加わる。

 ゼロと荻号は同じ姿をしているが、口調とアトモスフィアが違うので区別がつく。

 話す前から、荻号はユージーンが何を覚悟し、何を必要としているか把握している。


「GEDコンパートメントな。一応、メンテナンスはしていたんで、いくらでも使えるようにはしているぜ」


 荻号は怪しく赤蛍光に輝く試験管を一本、懐から取り出してユージーンに見せる。


「話が早くて助かります。準備もしてくださってありがとうございます」


 マインドギャップとマインドブレイクを駆使した看破の応酬。

 腹の探り合い。

 裏読み。権謀術数。

 一瞬として気が休まらない、これが神々のやりとりだ。

 情報を制する者が勝負を制する。

 この世界に神を降ろすためには、アトモスフィア産生代替細胞である荻号のGED細胞様コンパートメントが必要だとユージーンが考えていることを荻号はすでに理解して、それを旧神らの誰が装備してもよいように準備していた。

 もちろん、荻号からユージーンに強制はしない。

 誰かが求めたときのために準備をしておく。

 そして、最初に訪れるのがユージーンだとわかっていた。

 何故なら、現代に残った旧神たちの中で、テトラの創世者にまで到達した彼は経験値が違う。

 他の誰かが犠牲となる前に、最適格者として申し出て、その身を捧げに来たのだろう。


「置換率は100%でかまわないんだな?」

「はい」

「俺はよくわかんねーんだけど、吉川さんはそれでいいって言ったのか? こう、不可逆的に人外になってしまうわけだが。自分の夫がそんなことになっていいのかね? お前、子供も二人いただろう。子供、泣くぞ?」

「どんな姿になっても、見えていたらいいとのことです」

「はー……トポロジーの問題なのかもしれんが、物理学者は肝が据わってるね。グラウンド・ゼロに生身で乗り込もうとしたり、吐きながらセウルと面会してたってだけはある」


 ユージーンがプライマリの状態に戻る。

 これを再現しようとすると、100%置換以外の選択肢はない。

 荻号ですら躊躇した、GED細胞様コンパートメントによる脳と精神系への置換。

 すなわち、全身を人外のそれへと転化せしめること。

 ユージーンは決意をもって頷く。


「はい。ゼロ、覚悟はできました。私の体を使ってかまいません」


 いつだって、記憶を奪われ、何者かに支配されるのは躊躇する。

 特に、自我を保てなくなるかもしれないという恐怖は、なかなかにこたえる。

 これきり、二度と目覚めないということもありえるのだ。

 しかしゼロは首を振った。


「ユージーン、以前とは異なり、わたしの精神は健全です。あなたの意識と融合することはありません、あなたは人身御供ではないのですよ」

 

 ゼロは無表情ながら、誤解を解くべく念押しをする。

 今のゼロは、かつてのINVISIBLEとは別人かと思うほどにまともだ。

 あれほど不安定な状態ではなく、このまともな状態で過去に介入してくれたらな、と思わないでもない。

 ただ不幸なことに、セトとセウルに憑依したときは、彼の精神が不安定であったために、彼らの神格を蝕んで最悪の虐殺者を誕生させてしまった。

 そのトラウマは、ユージーンでなくても誰の中にもまだある。


「ただ、100%をやっちまうと記憶がどうなるかわからんが。GEDコンパートメントはDNAベースの細胞をアトモスフィア産生代替細胞へと置換する感染性の細胞だ。飲めば感染し、お前の遺伝子複製機構を読み解き一時間で全身を侵食する。俺は人間であることを放棄していない、そのために神経ブロックを施して脳領域を含めた全細胞の21%を未置換状態で確保している」

 

 荻号は腕組みをするが、ゼロはその点はあまり問題視していない。


「今日、この時点までの記憶はわたしが保存しているから問題ありませんよ」


 EVEがなくとも精神系や記憶を保持しているだなんて。

 何でもありだな、とユージーンは感服する。

 最低でも、脳を失ったその時点で、脳様構造体に移植される記憶はコピーとなるのだが。

 だが、寝て起きただけで記憶の連続性は途絶えているのだ。

 今更拘泥するものでもない。


「共存在でバイタルを分割するのは得策ではありません。二人三脚でいきましょう」

「そんじゃ、仰げよ毒杯」


 ユージーンは放り投げれた試験管をしかと受け取った。

 こうして、彼は何度目かになるeuthanasia(よき死)を受け入れた。


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