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1章6話 αθάνατο vs. XERO

 時空の観測者として、重大なものを見落としていた。

 そんな不穏すぎる言葉とともに現世へと帰還したINVISIBLEは、荻号正鵠の肉体を依代とすることにしたようだ。


「あのなぁ、一つ聞きたいんだが」


 自宅へと転移をかけ、リビングで一息ついた荻号と、成り行きでついてきた織図。

 彼は戸惑いながら、彼の裡にいるINVISIBLEに確認する。

 尋ねるといっても思念で会話をしているので完全に独白のようなもので、織図には聞こえないのだが。


【質問は既に解している。そうだ】


 この状態でもまだ人間か? と荻号は訊ねようとしていたのだが、INVISIBLEは間髪いれず肯定した。なんとも味気ないものだ、INVISIBLEは荻号が質問をする前に、その答えが分かっているのだから。


「この状態で人間なのか? 嘘だろう?」


 唖然とする荻号に、何を今更驚くことがあるとINVISIBLEは言いたげだった。


【言っておくが、あなたもそうならわたしも人間だ。それに、定義など瑣末なものだ】


 そんな立場を貫いているようだ。

 ああ、そうだったな。と荻号は折れる。

 INVISIBLEが荻号正鵠の肉体を依代としたことにより、彼の身の79%を構成しているGED細胞様コンパートメントのアトモスフィア伝達効率は、細胞置換率は変わらないながらも劇的に改善された。

 同時に脳神経の接続も極限にまで効率化され、彼は以前、彼が闇神と呼ばれていた頃の鋭敏な感覚を取り戻しつつある。

 神経細胞一つ一つ、シナプスの一つ一つが鋭敏に連絡され、心のままに肉体を操作できるという、「神として」ごく当たり前の感覚をだ。


「お前が現世に降りてきた状況は、時空歪曲率を上昇させているか?」


 INVISIBLE。


 それは過去も未来も時空の全てを観測し人類を庇護する、元人間の高次元生命体である。

 彼はもう二度と四次元空間には戻らないと覚悟を決めていたが、現状いかんともしがたい非常事態らしい。

 INVISIBLEがスティグマを通して生物階に実体投影される際には、強大なエネルギーが空間を歪ませるが、今回はやむを得ずのことだった。


【補正はかけているが、完全に影響は取り除けまい。しかし一時的なことだ。問題が解決すれば、後で繕うことができるしわたしはそうする】


 とにかくこの危機をやり過ごさなければINVISIBLEは消滅し、同時に歴史は終焉を迎えてしまう。


「まあ、空間歪曲率については仕方ない。ヤバいことがあるんだろ?」


 織図が話を促す。

 成り行きで一緒についてきた織図は、荻号の家のリビングテーブルの上にあったスナックをつまみながら寛いでいる。 

 勝手知ったるものだ。

 そんな織図だが、INVISIBLEが最適な状態でないことを懸念していた。


「ところで現世にはユージーン、セウル、レイアと、プライマリのトリオが揃っているが、依代は奴らじゃなくていいのか? お前、もともと荻号さんとは相性悪くないか?」

「まあ、俺はNo-body専用の器だからな」


 できることならそうしたいのが正直なところだが、そうもいかないのだ、とINVISIBLEは事情を打ち明ける。


【彼らはもはや不死ではない、ただの人間だ。彼らの肉体は借りられない】


 脆弱な人間の器では耐えられず殺してしまうということだ。

 逆にいうと、荻号が肉体改造をしていたからこそ、INVISIBLEが現世に戻れた。


「だろうなァ、じゃああんたも全く調子がいいわけではないのか」


【荻号 正鵠。あなたに宿るのも、かなり力を抑えている】


 荻号の肉体はINVISIBLEの手が加えられ、多少INVISIBLEにとって居心地よく再構築され、以前の神体と遜色のないほどのポテンシャルを得ているとはいえ、No-body専用の依代として創られた荻号は、INVISIBLEとの肉体的な相性はもともとそれほどよくはない。

 しかし、INVISIBLEとて人間と変わらない脆弱な彼らの肉体に宿ることはできず、とりあえずの処置だった。


「んで? 全知全能の超高次元時空の観測者が、何を見落としていただって?」


 更にこじれた話になるだろうことを予測して、荻号は、その身が静かな興奮で研ぎ澄まされてゆくような感覚を覚えていた。


 その日の夕刻のうちに、INVISIBLE帰還の一報を受け、旧神たちが急遽集まった。

 ブリーフィング会場は風岳小学校の視聴覚室を借り切って、ささやかな集いだ。

 集まったのは荻号、ユージーン、織図、恒、レイア、遼生の、旧神の面々と、吉川 皐月である。

 皐月は記録係として参加した。

 レイアが気を利かせて飲み物のお茶を配る。

 ユージーンは、全く協調性もなくばらばらに座った彼らを壇上から眺めながら、モバイルと視聴覚室のモニタをリンクさせる。


「いいですね、ここ」


 大講義室に慣れた遼生は、こじんまりとした空間が気に入っているようだ。


「設備はよくはないけれど、この村ではここが適当だろう」

「いいんですけど、椅子が学童用で狭いですね」


 恒は膝が前の席にあたると苦笑していた。


「窮屈だったら机の上に座ってもいいよ」


「彼はまだかな?」


 ユージーンはモバイルの時計を見遣る。


「さて、7時だ」


 時間ちょうどに、窓ガラスがコツコツとノックされた。

 一同が窓際へ視線を向けると、視聴覚室の窓の外に浮遊している青年の姿がはめ殺しの窓の外にあった。

 スーツケースを片手に不自然な登場をしたのは、セウルだ。

 別の場所のカギを開け、ガラッとユージーンが窓を開ける。


「いらっしゃい、セウル。ジャストタイムだ」

「そんなところからですか。お久しぶりですセウルさん」


 恒も会釈をする。恒はセウルにだけは、長期間連絡をとっていなかった。


「よー元気してたかー? しばらく見ない間に、また痩せたんじゃねーけ?」


 織図も何だかんだちょっかいをかける。

 セウルは、織図とはちょくちょく会って近況を話し合っていた。


「わたしの責任で、過去のみならず未来にまで多大な迷惑をかけてしまったようだ」


 セウルはアフリカや貧困地区を転々として、現地医療に貢献してきたが、自らの行動がSOMAの誕生の機会を奪ったと知るや、猛烈な罪悪感に襲われたようだ。


「いえ、そうご自分を責めないでください。セウルさんでなくとも俺たちの存在そのものがこの時空にとって異物なので、いつかはこうなったのかもしれません」


 恒はフォローする。

 セウルだけの責任ではない、それは誰もが思うところだった。


「よし、揃ったな」


 荻号は彼らの話をぶった切り、教室にゆったりと浮遊する。

 大きく伸身宙返りをうち天井を蹴り着地するまでの間に共存在を発動。

 分身を生成し、半身をINVISIBLEに与えた。すると、


「まずは、応召に感謝する」


 分身に憑依したINVISIBLEが、肉声での発語をはじめた。

 その姿は荻号のそれではなく、彼と似ても似つかない、INVISIBLEの本来の姿へと変化していた。

 視聴覚室では、一気にINVISIBLEへと注目が寄せられる。

 過去、INVISIBLEの肉声を聞いたのは彼の実体と対話した恒とレイアだけだった。


「おっ、肉声で喋るのか! 素晴らしい」


 織図は物珍しそうに目を見開き、机上で頬杖をつく。


「さて、わたしは観測者INVISIBLEとでも名乗ればよいだろうか」

「それなー。なんかこう、気軽に呼べないんだなー。本名とか、思い出せないのか? あ、お前さんって本名で呼ばれると力を失うんだっけ」


 織図の無茶振りに、てっきり反応がないものと思いきや、INVISIBLEはあっけらかんと本名を白状した。


「以前はそうだったが、今はそれはない」


 INVISIBLEの精神は、以前よりはっきりとして健全である。

 レイアの裡に宿り、長い時間をかけて崩壊しかけていた自我を完全に修復したためだ。


「わたしの名は、ゼロだ」

「はあーっーーーー!?」


 訊ねた織図本人が、訊ねておきながら素っ頓狂な声を上げる。

 ここにきて遂に、INVISIBLEの名前が判明した。

 誰も知らなかった、その名が。


「そ、それは数字のゼロ、ですか?!」


 織図につられて興奮で思わず立ち上がる皐月を、そんなわけないですよ、と後ろの恒がたしなめる。


「あなたがたの知らないゼロだ。強引に訳すと、平穏、という意味に近い」


 ゼロは眉ひとつ動かさずこたえる。

 感情に合わせて表情を作るのが億劫なのだろう。


「へー……そんなニュアンスなんですかー。遠未来の言語って興味深いですね」


 恒と遼生は、同じような角度で感心したように頷いている。

 異母兄弟ながら、そのしぐさや行動は似ていた。


「それ、お母様につけていただいたお名前ですよね? そのお名前で呼んでもいいですか?」


 律儀に挙手をしてからレイアが訊ねると、ゼロはレイアの瞳を見て明瞭に頷く。


「どうとでも呼んでいい」


 感情はもうないと以前レイアに言ったように、ゼロには本名への執着や、感傷などはなさそうだった。


「まぁ、あんたの本名の通りこの時代が平穏であってほしいところだけどな。そうもいかないのか?」


 先ほどから沈黙を貫いていた荻号は、腕組みをしたままだらしない姿勢で視聴覚室の隅で壁に背を凭せ掛けているように見える。

 だがその実、あらゆることに頭を使っているようだった。


「で、本題に入ろう。重大な見落としというのは?」


 INVISIBLEもとい、ゼロの要約したところはこうだ。

 SOMAが開発されなくなった未来が適用されたために、正史が消滅しようとしている。

 その結果、神々は誕生しなくなった。


「その話は以前に、恒に伝えた通りだ」


 新たなる情報は、それらの変化が高次元にいる思考機械の介入によるものかもしれない、というものだ。

 正史の思考機械というのは、連続体型人工知性(旧き者;現代語訳 オールド・ワン)と呼ばれていたものであり、新たな思考機械はゼロの存在を感知し、過去の事実を矯正することによりゼロを破壊しようとしている。とのこと。


「何でまた思考機械が動いている。オールド・ワンの思考機械は破壊したんだろ、ゼロ、お前が」


 荻号が一語一語確認しながら、鋭く指摘する。


「いかにもそうだ。――そうだったはず、だ」


 オールドワンの生み出した二つの思考機械は、アルティメイト・オブ・ノーボディとブラインド・ウォッチメーカーである。

 これらを停止させるために、ゼロはグラウンド・ゼロを通じて11次元へと入り、不可視の連続体となった。

 だが。


「オールド・ワンではない新しい思考機械が誕生したのだ。その誕生は、わたしの力では介入できないものだった」


 ゼロは淡々と打ち明ける。

 それは過去に先回りして開発者の行動を挫くことにもできなかった、ということを意味する。

 思考機械が、開発者を守っているのだ。


「手ごわいな。お前にできない、なんてことがあるのか」


 超時空に住む時空連続体INVISIBLEとなったゼロは、全知全能に限りなく近く、オールドワンを滅ぼした現在、彼と同格の存在はない。

 しかしゼロの感触だと、彼は完全には時空を観測できていない、という。


「思考機械はいくつあるんです?」


 ユージーンの質問に、ゼロはモバイルを思念で操作してプロジェクタに映し、イメージを彼らと共有させた。

 手っ取り早く全員に念を送ってもよいが、彼らは人間であり、ゼロの思念を受け止めるには耐えられない。モニタにゼロの居場所と、時間軸、思考機械のそれを表示する。


 この四次元世界を包括する11次元時空世界、そしてすべての時空間に、ゼロがいる。

 彼は時空全域を支配しているが、彼の出生の因果は必ず遠未来世界に固定されている。

 つまり、この時空が仮にゼロが誕生しない未来へと派生すれば、ゼロは消滅してしまう。

 厳密に言えば時空連続体であるゼロは死なないが、この時空間ではゼロを失い、彼の観測による庇護を受けられなくなる、ということだ。


 それはこの世界が、この地球が。

 異なる時空へ漂うそれへと再構成されることにほかならない。


 下位次元、ゼロの存在しない過去に、第五世代HEIDPAを用いて高次元時空へのゲートをくぐった思考機械が出現した。

 この観測機械の存在をゼロは織り込んでいなかったが、オールド・ワンに代わるものが出現したのである。


「思考機械は複数開発され運用されたが、もっとも狡猾なプログラムが全てを食らった。その開発コードは、ギリシャ語でαθάνατο(アサナト)と呼ばれていた」


 ギリシャ語でαθάνατοというと、不滅を意味する。


「ゼロ、お前は未来にも過去にも介入できたはずだ。そのαθάνατοのどんな妨害にあったんだ?」

「妨害というより、αθάνατοが存在する空間の歪曲率が高く、局所的にアクセスできない状態が続いている」


 局所で起こった因果が、遠未来の因果を崩すのだ。

 それはさながら、一本道をふさいだ巨大な障害物のようなもの。

 障害物の下敷きになってしまった時間軸に、ゼロが手を加えることができなくなったというのだ。


不滅アサナトだなんざ、たまったもんじゃねえな。どうする」


 元死神、織図が悪態をつきながら、忌々しそうにボトル入り緑茶を呷った。


「ってことはだ」


 荻号もつられたように、無愛想な顔で続ける。


「SOMAを予定通りに作り、αθάνατοが生じないよう、なおかつオールド・ワンが開発されるように仕向けなければならないのか」

「そうなればよいのだが、αθάνατοはわたしの存在を観測し、わたしと同様に過去へと手を伸ばしている。すなわち」

「αθάνατοとわたしは、現在進行形でこの時空の覇権を争っている。

 計算した限り、わたしの勝率は30%をきった」


 ということは……、と、セウルが考え込む。


「ここは、既に分岐異界なのですか?」


 もしもそうだとしたら、おそるべき質問だった。


「そう、なりつつある。αθάνατοがかなり圧している」


 ゼロは否定をしない。


「いつから、正史ではなくなったんですか?」


 恒も遼生も、ようやく事の重大さを認識しはじめた。


「まだ揺らいでいるのだ。収束はしていないが」


 アサナトの演算能力は、下位次元に存在するにもかかわらず想像以上のものだった。

 ゼロを凌ぐほどに。彼はそう、認めていた。


「俺たちもそうですが、未来に生きる旧神たちの存在も危うい……ですよね」


 恒は、未来に取り残された彼ら旧神たちを思えば、気が気ではない。


「そも、誰なんでしたっけ? その装置を創っているのは」


 正史では未来の、ポストヒューマンの科学者たちだったという話だった。

 だがSOMAが開発されなかったことと、ケネス・フォレスターの存在がひとつの分岐点ではある、とゼロは答えた。


「ああ……やっぱりケニーか!」 


 遼生が頭を抱えそうになった。

 ケネス・フォレスターにマインドスキャナで看破された遼生のせい、と言い換えることもできる。

 複数の要因が、複雑に絡み合っている。


「そのSOMAなんですが」


 と、ユージーンがモバイルを操作する。


「何とかSOMAのドラッグデザインはできたんですけど、あなたの知るSOMAはこうでしたか?」


 データをプロジェクタに放り込み、モデリングデータを開示。

 SOMAの候補デザインは、遼生、ユージーン、恒、そして荻号の共同開発といっていい。

 分業制で、数日で完成させた。

 そのデザインが完全であれば、いつでも荻号の自宅地下の実験室で合成可能だ。


「その構造で正解だ」


 ゼロはそれを一瞥するまでもなく、無感情に頷いた。

 ほっとする遼生と恒は、成功を喜び軽く拳をぶつけあう。


「あーそれから。今から遠未来にいる比企らに通信を送ってみようと思うんだ。うまく機能していれば、まだ通信が届く。もしこの時空が完全に分岐異界へ入っていたら、届かないだろう。今のうちに確認をしておきたい」


 荻号が暢気に、とんでもない話を持ち掛ける。


「遠未来に? どうやって?」

「この神具でな」


 荻号は、掌に小さな立方体を載せていた。

 それはかつて恒の所持していたFC2- Metaphysical Cubeにも似ているが、メンガーのスポンジに似た立方体のキューブ状神具だった。


「もしかしてそれを、一日で作ったんですか?」


 ユージーンの声が震える。


「時空制御素子と神銀があって、アトモスフィアと設備があったら」


 ゼロの手を借りんでも、んなもん集中すれば半日でできるわ。

 荻号はいとも容易くそう言ってのけた。


「開放軸で繋ぐぞ!」


 彼は、開放軸と名付けた新たな神具、黒光りする硬質の立方体を彼らに向け、浮揚させてみせる。

 開放軸はゆっくりと、次第に高速にスピンを始め、そのフラクタル図形はlog20/log3次元へと近づいてゆく。

 表面積は無限にまで発散し、体積は0へ収束する。


「至適時間座標へ」


 カッと、質量を持った重い閃光が走った。

 虚無を連想させる強烈な閃光の導く先は、時間を跳躍した異空間だ。


「接続開始」


 日本の小さな山村で、60世紀後への遠未来へのゲートが開闢した。


 *


 比企は、開放軸(Stem Opener)と呼ばれる未知の神具の神具間連絡機能に、通信が入っているのに気づいた。

 彼が神具を手に取るのを待ちかねていたかのように、ホログラフ領域を発生させ、比企をその内部へとすっぽりと包み込む。


「己は比企という者だ、其方は何者だ」


 比企が神具のホログラフの内部で見た映像は……、過去の地球のような場所だった。

 教室だ。

 そこに複数の人影がぱらぱらと、影絵のように写りこんでいる。

 解像度は低く、明瞭には見えない。

 

『こちらは2023年、俺は荻号 正鵠だ。開放軸を通じて通信をしている。比企か。見えるか?』

「貴殿か。左様だ、映像は不鮮明だが、音声は聞こえる」


 時空間操作能を備えた荻号 正鵠が、この時代に通信を寄越している。

 比企も旧極陽としては不本意ではあるが、荻号の通信をこれほど心強く感じたことはなかった。

 過去側に見える空間に集まっているのは、懐かしい旧神たちだ。

 比企の耳に聞こえる声は、開放軸を操作している荻号のものだけだが。


『こっちにはINVISIBLEもいるが、こっちからはINVISIBLEは直接干渉できなくなった。そっちはまだ持ちこたえてるか?』

「こちらは……ああ、西暦に換算すると、西暦8125年になる。空間歪曲率の上昇が止まらない」 


 未来側はもう、滅亡までの時間がないといっていい状況になりつつある。

 もって、一日。

 それまでに、旧神階4546万名、旧解階が2億3501万名の宇宙連邦の住民を陽階へと集めなければならない。

 陽階は宇宙船としても機能するので、亜空間開闢を行い、その空間への脱出をはかる。

 そのために、比企は相転星の免疫寛容を行い、ה י ב ו מ ך ה±で呼び出した荻号のコピーに相転星を使わせ、亜空間開闢を行おうとしていたところだ。


 しかし、荻号正鵠は比企にとって全くといって予想外の一言を繰り出した。


『やはりそうか。じゃ、セトを起こせ』


 比企は一瞬、言葉に詰まる。


「セト? それはABNTのセトか?」


 セトというのは、初代絶対不及者 時空神 セトだ。

 荻号の話だと、かつて特務省を支えていたのがセウルの抜け殻だったように、神階の陰陽階にまたがるユグドラシルの樹の根元に、セトの抜け殻があるとのこと。

 セウルの場合は死神・織図がEVEの最下層に潜り、セウルの記憶を持ち帰って抜け殻に戻した。

 その結果セウルは切離空間を創世し、X-デイを回避したのだった。が、


「そんなことが……だが、EVEはもう存在しない、つまり、セトの記憶が手に入らない」


 それに、セトが覚醒すれば神階は崩壊する。陽階と陰階も分解するだろう。


『いや、そりゃ心配ない』


 荻号は自信たっぷりに言葉を繋ぐ。


『セトの記憶はINVISIBLEが持っている。開放軸のコアにセトの記憶を封入しといたから、記憶素子をセトに埋め込め。だそうだ』


 彼ら過去に残った旧神々は、セトを起こして、セトの圧倒的な能力で亜空間を創世し滅亡を回避しろといってきているのだ。

 悠久の時を超え、観測者INVISIBLEからの啓示が与えられた。


「それにしても、なぜ、我らに通信を……」


 もはや、過去に生きる彼らに未来への責任はないはずだ。

 それでも、彼らは未来の崩壊を予知し、決定的な情報を比企に与えた。


『何故って? 俺らと逆の立場だったとしても、お前ら同じことをするだろ? INVISIBLEもそう言ってるぜ。あとは何とかしろ、じゃあな』


 通信は次第にノイズに侵食され、最後には完全に途絶してしまった。


「これか……」


 通信を終えると、比企が何も操作をせずとも開放軸の中からセトの記憶素子と思しきクリスタルが現れた。

 クリスタルは青く妖しく輝く棒状の結晶となっている。

 荻号のいうよう、INVISIBLEのバックアップを受けているというだけあって、何から何までお膳立てをされていたようだ。

 INVISIBLEは過去も未来も見捨てない、という姿勢のようだ。


 比企は神具管理機構からあらゆる神具を引っ張り出し、旧神らへの装備を許した。

 比企自身も、懐柔扇を手にする。

 持てる装備は最大限に使わなければならない。

 彼らはそれぞれ陽階、陰階側への天皇階へと転移をかけた。

 旧陽階神たちを見渡し、比企は声をかける。


「陰陽双方向から、根元まであらためてゆく。各自、異常の見落としのないように」


 旧枢軸神たちは、一様に警戒で身を固く引き締めていた。


「誰が先にセトの亡骸を見つけるか、競争ってことでいいですか?」


 旧音楽神 ケイルディシャー・ムジカは楽しそうにおどけて、場を和ませる。


「ああ、そうしてくれ。発見者には褒美を出そう」


 比企はそれも一興だな、と頷いた。


「くれぐれも、油断なきよう。よいか。万一の危険があれば神具の使用を許す」

「よしきた!」


 神階という宇宙要塞の中心の軸であり、双極方向の陰階と陽階を繋ぐ、数十キロにわたる硬質の樹幹のような巨大構造物、それが通称ユグドラシルだ。

 ユグドラシルの双極は先細の構造をとり、頂上は極陽と極陰の玉座がある。

 そこが天皇階だ。

 神階はユグドラシルの幹を覆うように構築されているが、神階で直接ユグドラシルがむき出しになっている部分は、天皇階しかない。

 つまり、その幹の全貌を知るには、陰陽の天皇階から表面を辿ってゆくほかない。

 比企は天皇階から飛び降りるようにして、ユグドラシルの表面に沿って陰階側へと降下してゆく。

 天皇階からユグドラシルを辿ると、やがて宇宙空間へとアプローチされる。


 樹幹部分では細かったそれは根元に近づくにつれ、幹直径が太くなってゆく。

 陰階と陽階へまたがる幹の接続部分はもっとも太く、大きな瘤が存在した。

 その瘤については、存在は知られていたが、比企を含め、歴代の極位神の誰も気に留めたこともなかったが。

 この事象に対する無頓着さも、No-bodyからのフィルターがかけられていたのだろう。


”比企。精査したが、怪しい部分は見あたらなかったぞ。そちら側は知らんがな”

”さようか”


 旧極陰、鐘遠 恵が念話で報告する。

 真空中なので、音声が伝わらないのだ。

 陰階神や旧特務省の神々らもわらわらと合流しつつ、首を横に振る。各々の神具を駆使して調査したのだ。


”なーんすかね。これやっぱり怪しいですね、この根元のぽっこりしたの。ほじくりますか、比企さん”


 旧光神・レディラム・アンリニアはそう言いながら、生体神具Optical Eyeで内部構造を推測する。 


”そうか、ここはステム(Stem)か……”


 真空にその身を曝露しながら、比企は目を眇める。


”ああーでも、中には何もないようですよ”


 レディラムの内部構造透視では、そういう結論だ。


”だが破壊せねば、わからんだろう”

”かといって、ユグドラシルを破壊するのは下策です。ユグドラシルは神階の要。破壊すれば、13分以内に神階は崩壊します”


 旧数学神・ファティナ・マセマティカがP≠NPで崩壊までの時間を計算して進言する。


”ものは試しだ、使ってみるか。ここはステムだからな”


 比企は開放軸を見る。

 Stem Openerステム・オープナーという名がついているのは、偶然ではなさそうだ。


”起動”


 比企はガイドに従い、開放軸を展開した。

 メンガーのスポンジに似た自己相似系のフラクタル図形と対話をしながら。

 開放軸は次第に明度を増し、比企のアトモスフィアを放散し透明になってゆく。

 完全に透明になってしまったところで、比企は開放軸を放った。

 するとStem Openerはユグドラシルの幹を透過し、貫通したのだ。


”通った!”


 宇宙空間の真空の無音のなか、ユグドラシルの表皮は夥しい量の硬質の繊維となってほどけてゆく。

 繊維はほつれ、そのほつれは内部へ、内部へと進む。

 そして中枢部から姿を見せたのは、彫像のようにしか見えない一柱の神の亡骸だった。

 しかし、特務省の動力源となっていたセウルとは違い、その神体からアトモスフィアは枯れ果てている。


”これが……そうなのか”

”ミイラというより。これは化石ですね……時間が経ちすぎたか”


 レディラムが頭をかく。

 どこからどう見ても干物だ。


”セウルさまのようにアトモスフィアも残っていませんか”


 期待をしていたファティナも、石像に蓄えられているアトモスフィア量を見積もりながら肩を落とす。


”に、見えるがな。試してみる価値はあるだろうよ”


 比企はINVISIBLEの指示に一縷の望みを託し、記憶素子のクリスタルをセトの頚部に当てる。

 クリスタルがセトに触れたそのときから石化が解けはじめ、ほどなくしてセトの肌に赤みが差しはじめた。

 無機的な黒光りの石像は、有機体へと変貌してゆく。

 セトの外見は、正真正銘のプライマリの個体としての特徴を持っていた。

 目も覚めるような輝きを放つ長い金髪と、そして禁視と呼ばれる黄金の瞳。

 セトは息を吹き返し、アトモスフィアが爆発的に増幅する。

 彼は拘束具のようなものをつけられているが、その物体は神々の神体からできている。

 極戒厳綬縛、久遠柩の奥義の自爆業だ。

 いにしえの神々は命を削り、その身を久遠柩へと変えセトを拘束したまま果てた。

 その拘束具すらも、セトのアトモスフィアに破壊され、朽ち果て宇宙の塵へと変わる。


”神具を抜き、万事に備えよ”


 場にいた旧神たちは、比企の号令とともに全員が神具を起動し警戒を強める。

 覚醒と同時に、相手が暴走して襲い掛かってくる可能性も多分にある。

 相手は、抜け殻であるとはいえ元絶対不及者だ。

 決死の戦闘となるだろう。

 しかし生気の戻り、拘束を解かれたセトは微動だにしない。

 蹲ったまま放心状態のように見え、旧神らの接近にもしばし反応しなかった。


"時空神セト、聞こえるか。貴殿の力添えを乞いたい"


 比企が細心の注意を払いながら呼びかける。

 懐柔扇のリミッターは解除され、いつでも臨戦態勢にある。


『ああ……しばし待て』


 真空間で、セトは静かに息を吐く。

 そして一つ一つ、神体の機能と神経の接続を確かめてゆき、踏みしめて立ち上がった。

 INVISIBLEが、セトの記憶の中にこれまでの経緯説明も刷り込んでいたようだ。

 絶対不及者にかかれば言語の壁などないに等しい。


『神階の基柱へと化身するものと心得ておったのだが』


 セトの表情は、穏やかというより虚ろだった。


”そうもいかんのだ、セト。それに過去のことは汝の罪ではない、ここには汝を責めるものはおらん”


 セトは言葉を失ったらしく、力なく俯いた。

 同属を大量虐殺した罪悪感を拭いきれずにいるのだろう。

 彼を中心にアトモスフィアが迸り、全神がセトの前に埋没状態に陥る。

 その場にいた全ての旧神たちが心層を丸裸にされ、看破されつくしたと自覚したが、抵抗は無用だった。

 セトはINVISIBLEから与えられた情報を鵜呑みにせず、神々を調べつくすことによってそれを事実と認めたのだ。


『われは汝らに与す』


 初代絶対不及者・時空神セト。

 自在なる空間創出能を持ち、今から31万年前、栄華を極めた太古の神々の文明を破壊しつくし、総個体数を僅か半数にまで削り込んだ史上最凶の神が、数十万年の時を経て、呪縛から解放され長き眠りから目覚めたのだ。


『αθάνατοだろうが何だろうが、目にもの見せてくれよう』 


 セトは振り上げたその指先で、亜空間開闢を始めた。


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