1章3話 Connecting the past and the future.
恒、レイア、ユージーン、旧神トリオの荻号への質問攻めは続いていた。
「あなたの細胞の21%の人間部分というのは、脳と神経系ですか?」
「ああ、何か問題があった時に脳がやられてちゃ話にならんだろ。だからまだ脳は置換しない」
彼は自らを実験台にしつつ開発を進めている。
次は神経系の一部、徐々に神経系を置換してゆき、最後は脳を置換するのかもしれない。
また、これらの細胞を恒たちに移植することは勿論可能だが荻号自らの装用を想定しているので、何かあったときを考えると、あまり移植はお勧めはできないという。
しかし、もはやそんな事を言っている場合でもないのかもしれない。
恒はいざとなれば、危険を冒してでも移植もやむなし、だろうなと腹をくくる。
「ところでユージーン、お前も自分で神具造るか? アトモスフィアチャージ式の神具にすれば、お前でも扱えるだろう」
少し神銀の材料を分けてやろうかと荻号はユージーンに提案するが、ユージーンは渋い顔をする。
確かに、神具作成を手掛ける職人は必ずしもアトモスフィアを豊富に所持する神でなくてもいい。
神具はアトモスフィアが元々込められているものではないからだ。
神階では、位神の神具は神具職人が作るか先代のものを引き継いでいた。
「自前で神具を造ったことは?」
「ありません、アカデミーで神具作成の概論は学びましたが、実際に造ったことは……」
「枢軸だったのにか! 造らない意味がわからない!」
彼はオーバーリアクションでのけぞりながら信じられない、といった顔をして目を丸くしていた。
完全に、しかも必要以上に馬鹿にされていると恒は思うが、相手が荻号なので腹も立たないのは不思議だ。
荻号が現役だった時代とは、枢軸神の質が違うといったところだろうか。
ユージーンも同じで、気分を害することもないようだった。
「あなたのいらした時代と違って、神具は造るよりも先代から引き継ぐのが慣例だったんですよ。比企様は造っておられましたけど」
神具を手作りなど、生体神具であるかユージーンの知る限りは懐柔扇を造っていた比企ぐらいのものだ。
職人ではないし忙しいのでそんな暇もない。
ノーボディと意識を共有していた頃であればできそうな気もするが、生憎今はそうではない。
恒やレイアに至っては、神具の作り方はおろか動力機構すら分からないので完全に蚊帳の外だ。
「俺たちは詳しくないので、神具作成は荻号さんにお任せしてもいいですか。こっちはSOMAの創薬に集中しますから」
というより、素人が造るよりその道の達人である荻号に一括して神具作成を任せた方が効率がいいような気がする。
レイアも同感だった。
「まあいい、それじゃあ俺がいくつか造ってみよう。織図のLiving Twivilはかなり大型なもんで、ばらして潰せばいくつかできるだろう」
一つじゃなくて複数造るつもりなのか……このヒトはどんだけチートなんだ。
と、恒は内心つっこんでいたがそれを声に出すことはなかった。
「どんな神具を造る予定なんですか?」
「この非常事態だ、時空間操作系の超神具を造るしかないだろう。もし未来から何かが来るとしたら、向こうもそれに匹敵するものを持ってくるはずだ」
というかそれがないとそもそもこの時代には来ないだろう。
相手がタイムマシンのようなもので来るのだとすれば、確かにこちらも時空間操作系神具がなければ永遠に勝てないということになる。
いつだって、正しい情報を知る者が全てを制するのだ。
「超神具……なんですね。例えば相転星のような?」
当たり前のように超神具を造ろうとするあたり、驚きを通り越して呆れ返ってしまうが、いちいち驚いていては話が進まない。
その後、ユージーン、恒、レイアは場所を移して荻号の自宅の一階応接間のカウチに三人並んで腰掛け、ハーブティーをいただいていた。
一応、隣の大家に貰ったというこのハーブティーは怪しくないだろうな、と用心しながら三人がカップに口をつけたのは言うまでもない。
荻号の家で出される食品は、昔から飲み物といい食べ物といい怪しいものが多いのだ。
とはいえ、商店街のケーキ屋で買ったと思われるクッキーが皿に並べられ勧められたので、レイアと恒は一つずついただいた。
怪しい家主の荻号は対面のソファで天井を見上げ何か考え込んでいるらしかった。
暫くして、思い出したようにこう呟く。
「消えゆく未来の神々……比企らが黙って滅亡を受け入れるんだろうか。何か手を打っているのではないかと、考えたいがね。あいつら案外アホだからな」
「空間歪曲率が高まっていると、気付いてはおられるでしょう……ですが、INVISIBLEの支援がもはや望めないとなると……何をしてよいのか分からないのが現状でしょう」
ユージーンが悔しげに言葉を噛みつぶす。
「昔のセウルさんや、INVISIBLEであれば亜空間を造って脱出という手があったでしょうけどね……」
今、向こう側に残っている神々には空間開闢のできる神がいない。
アルシエルもいるし特務省には数名いるのかもしれないが、さすがに無理だろう。
そう思うと、ユージーンはつくづくこちらに残ってしまった責任を痛感する。
セウルという言葉を聞いた荻号が、はっと閃いたようだった。
「いや、一つだけ方法はある。奴らがそれを思いつけば」
「というと?」
「初代絶対不及者 セトの抜け殻が未来にある筈だ。あいつを再召喚すればいい。あいつがいれば、空間ごとどこかへ脱出することはできる筈だ」
「セト……?」
歴代の絶対不及者は、初代から絶対不及者 セト、二代絶対不及者 セウル、そして三代候補はユージーン、四代候補はレイアとなっている。
セウルは意識が抜け特務省の動力源となっていたのを織図が彼の記憶を取戻し、神体に無理やり押し込めて現代に呼び戻した。
そのセウルは創世者に準ずるほどのエネルギーを秘め、生物階を切離空間へと避難させX-デイを回避してくれた。
セウルの土壇場での働きがなければ、生物階が今も無事だったかどうかわからない。
彼はそれだけの多大な貢献をした。
今は、SOMA開発の機会を奪い歴史を狂わせた張本人、……という不名誉な地位にあるのだが。
「最初の絶対不及者、ですか」
確かに未来側に元絶対不及者がいるとすれば、未来世界が不安定化する前に神々を避難させることはできるだろう。
もし、神々が彼を制御できれば、の話にはなるが。
「だが、どうかな……向こうの新しい死神がEVEの最下層に潜ってセトの記憶を持ち帰り、織図のようにうまくやれるかな。また、セトの抜け殻もどこにあるのかは分からんし」
言いながら荻号は、無理だろうな。
と口元に手をやる。
まず、EVEが残っているとも限らないし、神階にいる新しい死神が織図より優秀であるかというとそれはもう絶望的だった。
織図は歴代の死神のうちでも最も優れていた逸材だったと荻号も認めている。
「あ、それなら知ってますよ。多分セトのことだと思いますけど」
と、ユージーンが言うと、私も、とレイアも頷いて手を挙げた。
INVISIBLEと一時期意識を共有していたコンビだ。
彼らは絶対不及者に関して、荻号より多くの情報を知っている。
「神階の陰陽階にまたがるユグドラシルの樹の根元に、セトの抜け殻があります。ノーボディが彼の神体を礎に神階を造りました」
「セトの亡骸が、神階を支えていたのか」
確かに、恒も思い出すに神階には謎の重力中心があった。
その発生源を誰も気にしたことはなかった、あるいはユグドラシル自体が重力発生源なのだと考えていた、そういうことか、と恒は納得する。
あんなところに神階の至宝、あるいは最悪の負の遺産が眠っていたなどとは、極位神でも思うまい。
そう考えると恒はぞくぞくと鳥肌が立つ。
「てことは、セトを起こせば神階は瓦解するんじゃないか? セウルを失った特務省が機能を停止したように」
まあ、神階が崩壊しても宇宙空間で生存可能な神々が死ぬわけではなし。
背に腹は代えられまいな、と荻号はぶつぶつ言っている。
「もし、セトを呼び出すだけの時間がなければ。あるいは奴らが思いつかなければ……全ては終わりだがな」
気まずい沈黙が一同の間に流れた。
というか、セトが極位神のおひざ元、ユグドラシルの根元に眠っているなど、レイアとユージーン、そしてセウル以外には誰も知らないのだ。
「一つ、試してみたいことがある。相転星は向こう側にあるんだよな? 誰が持っている?」
「比企さんじゃないでしょうか、神具の適合が違うので使えないとは思いますが。管理者というなら比企さんになるでしょう」
荻号が何かよからぬ企みをしている。
こういうときの彼の企みは、かなり有益であることが確定しているので、恒は期待に胸を膨らませ身を乗り出す。
「他に適合者はいなかったか?」
「というかここにいる全員とセウルさんが適合していますが、神階での適合者はいないんじゃないでしょうか」
「新しく造った神具の神具間連絡機能で、時間軸を指定して相転星へと通信を試みてみるか。うまくいけば比企が出るだろう、相転星の抗体適合性を緩くいじることができればな。さらに奴らの勘がよければ、セトが出る」
さすがにセトは出ないんじゃないか、と三人は一様にそんな感想を懐いたが、神具間連絡機能を使うというのは妙案だった。
話が脱線気味になってきたので、ユージーンが軌道に戻す。
「未来のことを心配するのも大事ですが、こちらの世界……過去を元に戻すのが先ですね」
そう、過去を正しく生きることが、遥か彼方の未来の運命に直結しているのだ。
完全に正史へのルートに戻すことができれば、何も起こらないことは分かっている。
INVISIBLEも再び息を吹き返すだろう。
成功するにしろ失敗するにしろ、結局、神具云々よりもSOMAを造ること、それが最善の策だといえなくもなかった。
陽が高く昇って、昼下がりとなったので三人はお暇することにした。
これから荻号は、東京都内にフィドルの出張演奏に出かけるらしい。
一時間後にワンマンライブだという。
彼のフィドルの腕前は素晴らしく、大きなライブも成功させ国内でも有名なプレイヤーになりつつあった。
というか一時間後って間に合わないんじゃ……と恒とレイアが慌てていると、交通手段は転移術だと聞き納得する。
彼は国内移動のために、転移術が必要だったと言っていた。
お気楽なものである。
荻号の自宅に数時間滞在しての帰り道、三人の足取りは重かった。
「荻号さん、すごかったですね。もうあの人はとっくに人間の域を超えてますよね」
それに引きかえ、自分が生身でできることは何だろうか、と恒はげんなりする。
飛翔がせいぜいと、看破程度だ。
荻号の能力に比べると、箸にも棒にもかからない程度である。
「地力の違いを見せつけられたなあ。彼のあの知的探究心は見習うべきところがあるよ」
ユージーンはやや落ち込んでいる様子だった。
まさか神具を新しく作り直そうと言い始めるとは……。
そして既に、織図が神具の破片を見つけていたとは。
それで彼は世界中をぶらり旅していたんだな、とユージーンは今更のように思い出す。
旅の目的を聞いたことがなかったので、織図も特に話さなかったのかもしれないが。
もっと突っ込んで聞いておくべきだったと後悔したのは言うまでもない。
レイアはあまり気にしたり落ち込んだりしていないようだった。
「彼はどの集団においても突出した天才ですからね」
「私たちは私たちのすべきことをしよう。私の家に来るかい、お昼にしよう」
「いいんですか? じゃあお邪魔します」
どちらにしても今日、明日は土日で休みだ。
土日を潰して、徹夜で作業してもいい。
恒もユージーンとは別に創薬デザインを考えることはできるが、意見を合わせた方が効率はよいだろう。ドラッグデザインができたら、荻号が現物化してくれるという。
話はそこからだ。
ユージーンの家は、風岳村の住宅地の中でも比較的新しい団地の中にある一軒家だ。
表札は吉川になっている。
築四年でいつ見てもきれいで羨ましいと恒は思う。
ユージーンが設計した家なのだが、デザイナーズハウスかと見違えるほどにハイセンスな家だ。
シンプルなホワイトベースのコンクリの外観に、木目の美しい格子が外壁にメリハリをつけて調和しモダンだ。
窓も広く開放的で、ウッドデッキのある庭にはイングリッシュハーブの新緑や花々の色彩がまぶしい。
全体的に彼の家は、家主のイメージに似て爽やかな印象だ。
レイアと恒は吹き抜けの天井のある明るく広いリビングダイニングに通される。
ユージーンは冷蔵庫から食材をあれこれと取り出し、手際よく野菜や魚介類に包丁を入れてゆく。
「お手伝いしましょう」
レイアが張り切って席を立つと、いいから、お客さんは座っててそこで寛いでてと笑う。
恒はお言葉に甘えてとばかりテレビをつけ、ニュースをチェックする。
セウルが映っていないかと気になったのだ。
セウルの動向は気になるところではあった、早急に彼に連絡をつけなければならないのだが、困ったことに彼の連絡先が分からない。
ダイニングテーブルの上には、物理学の論文がフォルダに綴られている。
本棚も洋書の専門書がきれいに整頓されて並べられている。
今もユージーンと皐月が共著で、宇宙論に関する論文を発表しているのだろう。
そして言うまでもなく、ナチュラルな木製の飾り棚には、家族写真のフレームがいくつか飾ってある。
少し生意気で腕白な長男 尚人 5歳、
おしとやかな長女 小春 3歳、
両親に似て美男美女だ。今は皐月の実家の愛媛に帰省中とのこと。
また、壁には大判の、鮮明な天体写真がフレームに入れられて飾られている。
全て彼の家の反射式天体望遠鏡で撮影されたものだ。
この家には、3Fに天体ドームと大型の天体望遠鏡がある。
灯りの少なく空気の澄んだ風岳村は、天体観測にうってつけなのだった。
時々、小学校の教え子たちが彼の家に天体観測にやってくる。
以前訪問した時とは違う、新たな写真作品が増えているのを見て恒は目を細める。
パエリアとスパニッシュオムレツ、スープ、シーザーサラダ、バケットとあっという間に料理がテーブルの上に並ぶ。
ランチはスペイン風のようで、おいしそうな匂いがダイニングに充満し、見た目にも豪華だった。
「皐月先生もお子さんたちも、ユージーン先生がこんなに料理できたら幸せですね」
「彼女の料理の方が私より上手いよ。子供たちは和食の方が好きだしね」
などというのろけた話を聞きながら、この夫婦はうまくいってるんだろうなあ、と恒もレイアもほっこりとした気持ちになる。
彼らは有難く昼食を平らげると、少し休憩を挟み、2Fの書斎に案内される。
部屋全体の電源を入れると、彼と皐月の書斎は理論物理学を研究しているだけあって最新の端末や大型の装置がひしめいているコンピュータルームのようだった。
「取り掛かろうか、恒くんはそっちの端末を使って」
書斎の中央は、何らかのデバイスと思しき円形の黒いステージがあった。
それが二台分設置されている。
ユージーンがステージの床を蹴って起動すると、恒を囲むように円筒形のディスプレイが出現した。
レイアは椅子に座って見学である。
「これって……360度ホログラフィックモニタですか」
とはいえ、さっき荻号の家で、脳波と連携するもっと進んだものを見たのだが。
どうやら彼がデバイスとモニタを改造して造ったものらしい。
理論物理学をやるのに性能のよいコンピュータは必須なのだろう。
立体PCは既に市場に存在したが、完全に電磁フィールド上に投影される形で再現されているものを見たのは初めてだ。
「まあ、モニタのスペースが足りなくてね、広く作業したいだろう? さてドラッグデザインにとりかかろう」
まず、ユージーンは自身のゲノムデータ、荻号のものもモニタ上に展開し投影する。
恒とレイアのデータも荻号の家で採血し、短時間で解析を終え取得してきた。
四人分あれば、データを比較することで共通している染色体安定化遺伝子を特定できる。
それは治癒血の成分を特定した方法と基本的には変わらないが、今回フォーカスを当てるのは有機化合物というより特定の遺伝子だ。
「あ、これって神階にあったパソコンと同じ構成です?」
「まあ、OSの基本的な機能はね、スペックはだいぶ劣るけれど」
少年時代、遺伝子神 岡崎 宿耀のもとでゲノム解析をしていた恒のことである。
遺伝子解析の作業はどちらかというと得意分野だ。
二人で手分けして、データを紐解き染色体安定化に関わる共通遺伝子を洗い出してゆく。
「その遺伝子はこっちにおいとこう。それは活性化すると癌化に関与する」
「保留しておきましょうか。おっと、これも荻号さんと俺とでかぶっていますね」
その結果、数時間後には数十の遺伝子に絞り込むことができた。
「さて、これらの遺伝子を複数の人種の遺伝子とマッピングさせてみよう」
遺伝子情報リソースへアクセス、一般人の遺伝子発現プロファイルに対して、何ら異常を起こさない発現制御機構を模索してゆく、バイオインフォマティクスを駆使し膨大なデータを整理してゆく。
遺伝子名とその機能を余すところなく記憶しているのだろう。
表示される煩雑かつ暗号化されたデータを、ソフトウェアを使いつつも自らの目で選り分けてゆくその手際は見事なものであった。
ユージーンに至っては二人分同時に解析を進めている、速読を可能とする彼らが今何を見てどんなデータを整理しているのか、レイアはもはや追いつかない。
彼らはあたかもゲノムを文字情報、手紙か何かのように翻訳しながら読むことができるのだ。
レイアは真剣に取り組む二人を応援しながら、彼女の専門外であるということもあって、何となく手持無沙汰になっている。
こういうときレイアは何でもそつなくこなしてしまう恒や遼生、二人の兄たちに気おくれしてしまうのだった。
神としての能力の殆どを失ったレイアは、比較的高い水準にある知能のほかには、一般的な人々と比べてとりわけ秀でている点も特殊能力も見当たらない。
私にも何か少しは才能があればよかったのに……、と俯いてしまう。
そんなレイアの心情を察したのか、恒がレイアを呼んだ。
「レイア、兄さんに連絡取って今の状況を伝えておいて。おねがいね」
「はい」
レイアは恒の指示でアメリカに留学している遼生のモバイルにコールし、複数の端末に転送されたのち遂に連絡をとりつけた。
遼生に、事のあらましを順を追って丁寧に伝えてゆく。
レイアは話を端折ったりせずゆっくりと正確に要点を伝えてゆくので、遼生も事態が把握しやすいし落ち着いて聞けるだろうな、と恒は耳だけそちらに傾けながら彼女に感謝するのを忘れなかった。
恒では何かと早口になってしまうのだ。
「よし、絞込みは完了だ。これらの遺伝子を制御させる薬剤をデザインし、理論的に最適化させてゆく作業だ。ここからが長くなりそうだ」
「ちょっと待ってください、兄にも手伝ってもらおうと思います」
「そうか、遼生君は確かに得意だね。通信にはこのモニタを使うといいよ」
「レイア、そのモバイルをこっちに投げて」
恒はモバイルの映像を360度立体ディスプレイに放り込み、遼生の立体ディスプレイと繋げる。
白衣を着た遼生の全身像がモニタに投影された。
どうやら彼は研究室の中にいるらしい。
大事な実験中だったのだろうが、今はそれどころではない。
一人でも二人でも多く手分けをして一刻も早く作業をしなければ実験どころではなく大変なことになってしまう。
「やあ、恒。元気にしていたかな。話はレイアから聞いたよ、まずいことになったね。何を手伝ってほしい?」
青年、八雲 遼生は相変わらず涼やかな顔をして、捉えどころのない不思議な雰囲気を醸し出していた。
恒の兄なのだが、いつも彼が何を考えているのか、恒にもよく分からない。
用件は手短に伝える。
「こっちの映像が見える? SOMAの創薬に関連しそうな遺伝子群をリストアップしたから、ゲノム創薬を手伝ってほしいんだ。そっちには専用ソフトもあるだろう?」
本職の研究職である、遼生の置かれている環境の方が整っているのは間違いなかった。
「オーケー、じゃ立体構造予測から取りかかってみよう。二日ほどもらえるかな、創薬ターゲットが複数となると最適化する時間がほしい」
「おおっ、頼もしいねえ遼生君は」
ユージーンが感心したように相槌をうつ。
「俺もユージーン先生とやってみるよ。お互いにできたものを較べて検討しよう。こっちのデータはそちらの端末に同期しておくよ」
「ああ、そうしよう」
こうやって何か行動を起こすことで、今も少しずつ未来は変化を遂げているのだろうか。
もし、何か少しでも変化があったのなら……INVISIBLEからの連絡が再びあるはずだ。
その成否は、INVISIBLEに報せてもらうほかにない。
*
恒たちのいる場所から時空を超え約60世紀後の未来――。
そこは神々と使徒たちの暮らす宇宙要塞、かつてその場所を神階と言った。
神階は解体され、神々と使徒、そして解階の住民たちは同じく人類として平等の権利を得て複数の惑星の居住区にコロニーを形成し、思い思いに平和に暮らしている。
解階と神階の政体は統一され、宇宙連邦へと名称を変えた。
それでも位神と呼ばれた陰陽階の旧二百柱は旧神階に住まい、数々の特権こそ制限されているものの、未だにその圧倒的な能力と神具を以て未来世界の管理、運営を多くの人々の信任のもとに担っている。
比企たちが未来に帰還してより十余年、平穏かつ充実した未来世界の日々は続いていた。
その日常の裏で、密かに誰も気づかなかった大異変が進行しつつあったのだ。
彼らが異変に気付いたときには、もはや手遅れという段階に差し掛かっていた。
「比企様。空間歪曲率が、昨日から既に許容できない域に達しています」
ファティナ・マセマティカが、もはや絶望的といった表情で宇宙連邦、最高指導者にして総統の地位にある比企 寛三郎の執務室に報告にきた。
ヘクス・カリキュレーションフィールドでのシミュレーションが、わずか数日でこの宇宙空間は崩壊するとの見通しを出してきている。
数日前にはこのような兆候はなかった、まさに激変ともいえる変異だった。
「さようか」
今朝になって異変を察知した比企は、ADAMから帯出した歴史書を食い入るように眺めていた。
西暦二千年代の日本を記した歴史書だ。
そのページの文章が、項目が、少しずつ消えてゆくのだ。
ファティナの観ている傍から文字が薄くなり白紙へと化してゆく。
それは見るも恐るべき光景で、尚且つどうすることもできないものだった。
「過去が、消えてゆく……過去に残った藤堂らは、一体どうなってしまったのであろう」
歴史が変わりつつあるのだろうか。それとも……
「あるいは、我々の時空が消えゆくのだろうか」
「この時代から私達にできることは……何もありません」
そう、未来世界の住人がどう渇望したところで、過去を変えることはできないのだ。
過去の時間は、過去の人間たちのものだ。
手を差し入れて、修正することはできない。
比企は不可能を知り、時間をかけてうなだれた。
この時空に相転星の使い手がいれば、誰か一人でも過去に干渉し歴史を修正することはできるかもしれない。
一体、何が過去を変える分岐点となったのだろう――
生物階の過去を記した歴史書は沈黙したままだ。
ファティナは思いつめたような口調で比企に提言した。
比企の動揺を察してのことだ。
「比企様、バイタルロックの発動の許可をいただけませんか。それで、相転星を無理やりにでも起動できる者を捜しましょう」
ピンク色ボーダーマフラーのファティナは、青ざめた顔でそう言った。
主を失った超神具、相間転移星相装置(SCM-STAR)は、比企の執務室に鎮座している。
それが目下、最善の策であるように思えた。