1章1話 Wavefunction collapsed
果てしなく広がる大空へ、どこまでも落ちてゆく。
瞳を閉じて身体を空に放つと、地を離れ高く飛翔することができる。
大地を全身で拒絶する心地だ。
背を撫でる風と、慣れ親しんだ大気圧。
この浮遊感、あるいは反発は一貫して身体の奥に染みついたまま、少年の頃から変わらない感覚だ。
それは彼が人でありながら、人にあらざるものであると自覚するひとときでもある。
今年、西暦2023年を迎えた。
全世界および全宇宙の命運を分けた一大決戦から十二年が経過していた。
世界の命運を背負って立った少年はいつしか大人になり、彼は創世者との邂逅を果たし何十世紀もの果ての未来を見て、この十二年もの間、歴史はINVISIBLEの見せた未来像をそのままにトレースするかのように進んだ。
彼はこれから先何が起こるかを克明に知っているが、知り得た未来はむやみに明かされてはならない。そう、青年、藤堂 恒は思う。
でなければ、本来存在するべきではなかった時間と空間を錯誤したファクターが介在することになってしまう。
恒たちが動けば動くほど、本来の歴史を変えてしまうことになる。
それはあまりよくないことだと、感覚として理解できていたことだった。
したがって、彼がその手にとらえて救うことのできるものは今はもう多くはない。
できたとしても一人分の、人間の手になせることが限度だ。
人として人間らしく生きる日常に、幸福を感じながらもどこか罪悪感も拭えない。
INVISIBLEからの連絡は途絶えて久しい。
便りのないのはよい知らせだと、恒は前向きに考えるようにしている。
とはいえ、いつ連絡してくるとも、二度と連絡がくるかすらも分からないのだから、彼が支柱となって支える世界の裡に全ては存在することを許されて、世界の運行は滞りなく進んでいるのだろう。
あの少年時代の過酷な日々を思うと、平穏すぎて今となっては何もかも夢だったのではないかとすら思えてくる。
そうではないと否定するために、彼はこうして時々、生身で空を翔ぶのかもしれなかった。
非日常への回帰と、そして彼に残されたわずかな「非人間的な」感性を、呼び覚ますために。
「よいしょっと」
僅かに足裏に響く、じわりとした痛覚。
以前のように降下速度をコントロールすることは困難で、着地時にはいつも足の裏が痺れる。
少年時代と比べて体が重くなった、という理由もあるだろう。
彼の降り立った村の畔道には、鮮やかな夕陽が色濃く影を落としていた。
耳をすませば、背後から自転車をこぐ音が聞こえてくる。
体を半歩どかせ道を譲って歩いていると、短いブレーキの音が聞こえる。
何用だろうかと振り向けば、そんな彼にふわりと投げかけられたのは、懐かしい声だった。
「帰ってきたと思ったらまた、空を飛んでいたのかい?」
振り向きざま陽の逆光にあてられる。
恒は眩くて目を細めたが、それは一人の外国人青年だった。
風岳小学校教師、ユージーン・マズロー。
彼はかつて軍神であり、神階に住まう神の一柱であり、超人的な力を持っていた。
その頃のことが嘘のように、今は外見だけ見れば何の変哲もない青年であり、生物学的にみても上島が太鼓判を押すほどまっとうな人間であった。
自転車に重そうな鞄を積み、勤務先である学校からの帰り道だということが分かる。
彼は黒いスーツを着てはおらず、人間らしく村人らしい自然ないでたちとなっていた。
妻の吉川 皐月のセンスもあるのだろうか、と恒は微笑ましい。
ユージーンと皐月の二人は結婚して七年目になる。
息子と娘にも恵まれ、平穏で幸福な日々を送っている。
彼らは昔も今でも、恒にとってよき教師たちだと彼は思う。
「お久しぶりです、ユージーン先生。奇遇でしょうか」
「それはどうかな。一応、出迎えたつもりだよ」
ユージーンは飛翔する恒を自転車で追いかけてきたのだろう。
信じられない体力とスピードだな、と感心する。
「俺が帰ってきたの、わかりましたか」
「ああ、君のは分かりやすいんだよ」
彼は大きく頷いた。
以前ほど厳密ではないが、まだ人ならざるものの気配や村に起こる異変をユージーンは察知することができるのだ。
そうして常に、何か異変がないかと警戒を怠らずにいるのだろう。
何故かユージーン、セウル、荻号、織図の能力は人間と化した後も恒や遼生、レイアよりも遥かに高い水準にあった。
驚いたことに、荻号に至ってはまだ転移もできるのだそうだ。
その差が何故生じたのか、恒にはよく分からない。
遼生のアトモスフィアは目に見えて衰えていたから、人間となったときに成神していたかどうかというのが鍵なのかもしれないが定かではない。
「あまり人に見られない方がいい。もう、ODF(視覚廓清フィールド)もないのだから」
「そうですね、気を付けます」
忠告は素直に受け入れておくことにして、恒もそのあたりは自覚して十分に配慮している。
下から見えないように雲の上を飛んでいたし、着地にも目立たない場所を選んだつもりだった。
「でもこの村の人に見られるのは、別に問題ないと思います」
「ここ最近は村人も、入れ替わりが激しいんだよ。わたしたちのことを知らない人間もいる」
「軽率なことをしてすみませんでした。皐月先生、お元気ですか?」
恒は皐月とは、半年前に会ったきりだ。
今は春休みだということで、子供たちと実家の愛媛に帰っている。
君にも会いたがっていたよ、という話を聞きながら、彼もすっかり所帯じみて村の生活に馴染んでいるんだなあと微笑ましく思う。
また、教師としての皐月と母親としての皐月の両面を知って恒はどことなく、照れくさいような複雑な気分になってしまった。
ここ風岳村は、元神々にとって非常に住みやすい場所ではある。
普通に暮らしてゆくぶんには目立ちすぎず、住民の理解も協力もあって快適だ。
また、分岐異界での記憶……つまり以前の、神々としての恒やユージーンを知る人々も大多数いて、そういった人々からは何かにつけて感謝され、互いに助け合い、もちつもたれつのよい関係を築いている。
風岳村に常駐しているのは、ユージーンと荻号ということになる。
他の元神々はというと、遼生は米国で大学院生をやっている。
レイアは広岡県内の大学に通い一人暮らしをしていて、週末になると風岳に帰ってくる。
織図はあてどもなく、目的も行く先も告げず一人旅をしている。
現在の行方は知れないが、たまにふらりと村に戻ってくるのだという。
セウルはアフリカで積極的に慈善活動をしていると聞いた。
生物階に残ったのは、思えば人間と縁のある神々で、比企らをはじめ大多数の神々は未来に還った。
神々の帰った時代は、年号は定かではないが、西暦でいうと八千年代になるだろうとINVISIBLEは告げた。
使徒は神との主従関係から解放され、神階も解階も解体され一つの共同体を成しているということだが、未来は過去の結果によって常に揺らいでいるために、INVISIBLEにもいつを真の歴史と定めるべきかは分からないと言う。
そして、それがどのような結果となるかは、大きな異変がない限り互いに知らない方がよいだろう、とも。
過去と未来が相互作用しすぎてはいけないのだ。
未来の神々にとって、恒たちは死者であった。
同様にINVISIBLEは死者と話している。
あの日、INVISIBLEが過去と未来を分離したその瞬間に、この時代に残ると選択をした者達は、未来の彼らから見れば全て死んだ……そういうことになっているはずだ。
ただそれが悲劇的な別れでなければよいと、恒は思う。
同時に、彼らはまだこの時代にはその存在の痕跡もない。
いつか神々へとつながる遺伝子の系譜も現代に存在するはずだが、その血筋がどうなるのかは、いまだ混沌として知れない。
60世紀も先のことである。
そんな恒は24歳となり、今年、名門大医学部を卒業し医師のたまごとなった。
とはいえ駆け出しの研修医は研修に忙しい。
彼が医師になった理由はというと、後継者のいない上島医院の後を継いで村でのんびり暮らしたいと考えたからだ。
上島は「そりゃ後継者もいないし、継いでくれたら嬉しいが、恒くんにこのおんぼろ病院は勿体ない。もっと人の役に立つことをせにゃ」と言うが、首都圏で働くつもりはさらさらなかった。
村に戻って来たら、週末だけの兼業農家と医師をするつもりでいる。
彼は少年の頃からそう思っていたように、母親の命が尽きるまでは彼女の人生を犠牲にした責任として彼女の近くにいたいと思った。
志帆梨は魚屋の三笠 和成と結婚し、創作料理しほりは寿司も扱うようになり人気である。
母の幸せそうな姿を見て、恒は少し寂しく思うと同時に、やはり嬉しかった。子供は一人、志帆梨によく似た娘がいる。レイアは志帆梨の養女という関係で、土日には風岳にかえってきて志帆梨の店の手伝いをし、実の母子のように仲が良い。
大きな荷を下ろすことができたのは恒だけではない、レイアもだ。
レイアに彼氏はまだいない様子だが、恒はそのあたりは敢えて聞かないことにしていた。
そういうわけで、恒も好きな場所で好きな事をしなさいと志帆梨にはいつも言われるのだが、恒の気持ちは変わらない。
親離れできていないのだろうか、と最近は少々気にしている。
あの、山の中腹の旧い農家の藤堂家は恒の名義に変えて、将来はそこをリフォームして住むつもりにしていた。
その意味では、恩返しの意味も兼ねて恒は最も身近な人々の役に、渡米して研究者としての才能を発揮しはじめた遼生は、より多くの人々の役に立とうとしている。
自分はこの村が好きなのだろう。
好きになったのだろう、と恒は思う。
一時期、命をかけて守ろうとしたこの故郷、そしてそこに住まう人々の為にこれからを生きようと彼は思った。
「俺もあなたも、そうやってこの村に残るのでしょうね」
恒はしみじみとそう思う。
「いや、どうかな。ゆくゆく、旅に出るというのは正しいのかもしれないよ。私達もずっとここにはいられないだろうしね」
唐突に、ユージーンは恒の思ってもみなかったことを口に出した。
どういう風の吹き回しかと恒が面食らっていると、自転車のホイールが小気味よく、どこか白々しくカラカラと音を立てていた。
「一杯、飲んで帰る? 志帆梨さんの店で。今日、私は一人だし」
恒も、合法的に酒を嗜んでよい年齢になった。
「それはぜひ、レイアもお店にいると思います」
四つ角を、二人で駅前方面にのんびりと曲がる。
「ところで先ほどの、この村にいられないというのは、何故?」
「私たちは、死にはするが老いないみたいだよ。まだ、脳下垂体にアトモスフィア産生機構があるから」
ユージーンは、自らの遺伝情報を読んで確かめたのだろう。
定年までこの姿というわけにもいかないし、さすがに村を出ないとね、と苦笑する。
不老長寿の人間が人間社会で生きてゆくには、苦労をするのだ。
「俺たちの推定寿命は?」
もしかするとそうなのかもしれないと思いながらも、恒は考えるのを後回しにしてきたことだった。
自分の遺伝情報は、誰でも病院で簡単に入手することができる世の中だ。
だが、敢えて恒はそれをしていなかった。
何か”人として”異常があってはいけないからだ。恒の勤務先が病院という環境だけに、素性が怪しまれるとまずい。
逆にユージーンはそれを気にしていたようだった。
ユージーンも家族を持つ身である、子供に遺伝する遺伝子がどうなるのか、病気や異常はないのか気になって、あらかじめ調べていたのだろう。
「何も病気にならなければ、私は素で300年はいくだろう。君は150年かな」
控えめに見積もっても、ということだった。
「やはりそうですか。織図さんたちは、それを見越して?」
「そうかもしれないし、ただ旅をしているだけなのかもしれない」
時間をかけわざと不便な方法で世界中を放浪しているように見えた。
彼らしいな、と恒は思う。
メファイストフェレスはハンガリーに腰を据え、定職も得て念願であった文学研究にあけくれているとのことだ。
彼女の以前からの興味は人間研究と文学研究だったので、人間社会に馴染み上手くやっているのだろう。
少しずつ、あの頃の仲間は世界中を散り散りになりつつある。
しかしそれでいいのだと、恒は思う。
ひっそりと生を遂げ、歴史を変えてはならない。
そしてセウルはアフリカや貧困地区を転々とし、医学、技術分野において慈善的奉仕活動を続けてきた。
彼がこの時代に残ったのは人の役に立ちたいという意識が強かったためだ。
奉仕活動の資金を得る為にいくつか新技術の開発を行ったそうで、技術者、医学者として今、世界的に一番目立った活躍をしているのは彼だろう。
ここ数年間だけでも、彼の名をニュースで何度耳にしたともしれない。
彼は、ひっそりと暮らす恒たちとは真反対の方向性をいっている。
セウルの生きざまに尊敬の念を懐きながら、恒はほんの少しだけその影響を懸念していた。
「久しぶりに、皆とも会いたいですね」
「そうだなあ」
二人がしみじみとそんな事を言っていたところで、恒のポケットの中でモバイルが鳴っていた。
モバイルも最近ではカードサイズとなり、財布の中のカード入れにおさまっている。
取り出してみると、宛先が存在しないのに鳴っている。
いかにも不自然だった。
「あれ、普通の着信じゃない」
着信の画面がノイズになっている。
なにとはなしに、INVISIBLEかもしれない、と恒は直感が働いた。
その様子を見ていたユージーンも察知したようである。
突然、一体何の用だろうと恒は訝しむ。
指先に力が入るのを感じながら、オンラインにした。
「もしもし、藤堂です」
『わたしだ。あなたがたに報せなければならないことがある、神々が消えてしまった』
INVISIBLEからの連絡だった。
とはいえいつも通信は一方通行で、今のところ恒以外の誰かに彼からのコールがあったことはない。
INVISIBLE曰く、恒には「繋がりやすい」のだそうだ。
「消えた? それはどういうことです」
話をまとめるとこうだった。
今日、セウルが貧困地域のアフリカ人女性を一人救ったために、歴史を変えてしまったのだ。
そのアフリカ人は、のちのSOMA(全遺伝子疾患治療薬)開発者の母親であり、ウイルスによる感染症を患い命を落とす運命だった。
正史では母の命を奪った病を治すために子が医学者の道を目指しやがてSOMAを開発する、という筋書きになっていた。
しかしセウルが彼女を救ったために、子のSOMA開発への動機はなくなってしまった。
したがってSOMAは開発されず、SOMAによる長寿化が発端となった技術発展は行われず、少しずつ、しかし大きく歴史の歯車は狂っていったのだという。
結果的に神々は誕生しなくなり、人類は小進化を重ねながらも人類のままであり続けた。
だが、本当にセウルが引き金となったのかは分からない。
セウルでなくても誰かが歴史の歯車をたがえたかもしれないし、とにかく神々が生じる未来にはこの時空は繋がっていない、というのだ。
「ということは、あなたの存在も……」
INVISIBLEが、消える――?
久しくなかった感覚。
断崖から突き落とされるような絶望が恒の全身を冷たく浸してゆく。
何か。
何か手は打てないのか。
いとも簡単に、ボタンの掛け違いのようなことで、あのINVISIBLEが消滅してしまうということが信じられなかった。
そしてあの頃と比べて、力を手放した今の恒は悲しいまでに無力だった。
『わたしも誕生しなかったということになる。セウルに報せようとしたが、できなかった。また、過去へ戻ろうとしたがそれも……』
できなかった、というのだろう。
確かに、INVISIBLEの存在自体が消えかけているというのなら、影響力も小さくなってしまうのかもしれない。
「あなたが、介入できなくなっている? それはいつから」
『いつというのは主観的だが、以前にはなかった現象だ』
恒は唖然としてしまった。
INVISIBLEは過去と未来を支配する全能の存在だと思っていたし、かつては実質そうであった。
しかしどうやら、恒たちが現在に残ったことによって、事情が変わってきているようなのだ。
単純に言ってしまえば、歴史が狂いはじめている。
『そればかりではない、何かが動きはじめている。わたしの知る世界とは異なる未来で』
それにしてもINVISIBLEが歴史に介入できなくなっているとは、予想だにできないことだった。
INVISIBLEとて、彼の時代の定義にてらせば、もとは人間なのだ。
因果が狂えば……つまり彼という存在が生じなければ、最初から存在できはしない。
また、現空間の維持にかなりの部分でINVISIBLEが貢献している現状で、彼の支えなくして現時空はどうなってしまうのだろうか。
誰も気付かなかった。
これほどまでに、恒の住む過去という世界は未来へとつながる危ういバランスの中にあって、少しずつ歴史を改変し未来を塗り替えながら、綱渡りの毎日を送っていたのだと。
そして十年前のINVISIBLEの未来視によると、このような事態は起こっていなかった。
いとも簡単に未来は覆されるものだったのだろうか。
『わたしも所詮、不完全な一人の人間にすぎなかった、ということなのだろう』
結局、人間は大いなる自然の力にうち勝つことはできなかった。
そう、彼は認めたのだ。
恒は彼の敗北宣言ともいえる言葉の裏に、彼がこの時空に連絡を試みるまでに数々の対処策を試した、その結果の言葉なのだろうと推測した。
また、彼はそれを試している間にエネルギーを消耗しただろう。
これはささやかな予告などではない、彼からの最終警告なのだ。
「あなたはあとどのくらい、この世界を維持できそうですか」
恒は、様々な可能性に思いを巡らせつつ、思考を冷静に保ちながら穏やかに問いかける。
『繕い続ければ、数年はもつだろう。だが……神々が誕生しなければ、わたしもやがて消えることになる。わたしが消えたあとのことは、どうなるかわからない。いなくても、何も問題はないのかもしれない。今、世界の安定を脅かす、時空に影響力のある存在はいない。いない筈だ……わたし以外には。だが、それも……定かではない』
彼の知りうる未来での話だ、とINVISIBLEは付け加えた。
INVISIBLEという観測者のいない、正史とは異なる歴史へと分岐してゆくことを受け入れるか。
あるいは正史の流れを取り戻すか。
どちらに進むべきなのか、INVISIBLEは答えを出さなかった。
そして、INVISIBLEの知らない未来で、何かがこの時空の過去に干渉しようとしている、だがその正体が分からない、とINVISIBLEはいうのだ。
「人間ではなく、神々でもなく、未来に生じた新たな文明がこの時空に干渉をしようと?」
何が悲しくていつもこの時代が狙われるのか。
恒にとっては不満だが、それは未来の環境が荒廃し資源が枯渇しきっており、歴史を巨視的に見ればこの時代が一番適度に地上が開発されその何がしかの種族の居住に適しているということなのだろう。
もしくは何らかの時空の歪みが生じていて、それ以前の歴史に戻れないためかもしれない。
理由は分からないが、理由を考えているのも馬鹿らしい。
『それは分からない、いまわたしが見通せる未来は非常に揺らいでいるから。だが一つの可能性として、それもあるだろう』
INVISIBLEの言葉はひどく曖昧だった。
彼は不安定な時空として過去から未来へ繋がる時空連続体が見えているのだろう。
積極的に歴史に干渉ができなくなった以上、観測者として傍観するしかないのだろうか。
そして観測者を失った現空間はどうなってしまうというのか。
一体何が分岐点となったのだろう、と恒は考える。
本当にセウルがSOMA開発者の未来を潰してしまったことなのか。もしもそうだというのなら、
「俺たちにできることは」
「私達が、SOMAを造るしかない」
ユージーンが恒の言葉を補うように呟いた。
恒もそれしかないと考える。
人でもない、神でもない、解階の住民でもない。
何か得体の知れぬ種族がこの時代を来訪、あるいは襲来するかもしれないという危機を目前に、恙なく穏便な正史に戻そうとするならば選択肢はそれほど多くはなかった。
「そのSOMA開発者が造るものと全く同じSOMAを、俺たちが造れるのでしょうか。そしてそれが、歴史を修正するでしょうか」
恒の覚えていた限り、彼の開発したSOMAには重大なエラーがあったはずだ。
そのエラーが人類長寿命化を引き起こし、副次的に様々な派生テクノロジーが発展した。
仮想世界EVEの原型であるアガルタが構築されたのもそうだ。
また、そこから得られた優れた人工知能が数々の技術開発に貢献したということもあった。
一つの技術が生じれば、その派生技術も数多く生まれるものだ。
その重要なキースイッチを、SOMAが担っていた。
SOMAに仕組むエラーまで、果たして再現できるものなのか。
開発者にしか生じさせられない、恐らくは開発者も知らなかったエラーを人為的に引き起こすことが。
そんなことが可能なのか。
「やるしかない」
ユージーンの決意は固い。
彼にはこの時代に残ってしまったという責任感があり、SOMAを開発するだけの知識と能力は備わっていた。
彼には劣るだろうが、恒にも多少のことは分かる。
また、大学に戻れば研究に取り組むことのできる環境もある。
「恒くん。さっきINVISIBLEが言った事が本当なら、未来からやってきた私達も消えてしまう。そうやって時空は過去をまるごと修正して、INVISIBLEの影響を排除してしまうのかもしれない」
「そうならないように、しなくてはいけませんね」
自然界の大きな自浄作用に、飲み込まれてしまうのだろうか。
考えている余地はなかった。
正史に戻さなければ、未来の神々だけではなく、恒たちも消えてしまうのだ。
それだけで済めばまだしも……。
突如として、彼らの日常は暗転した。
あの日、収束したかに見えた波動関数はいつの間にか発散したのだ。
そして青年 藤堂 恒は再び歩きはじめた。
暗澹とした、しかしどこかへ繋がる、誰も知らない未来へと。