2章2話 Father and son.
「キュウリに、ピーマンでしょ……スイカは今年はいいかあ……。うちのスイカ、美味しいんだけどね」
春の陽気の中、レイアは志帆梨のイラスト入りの植え付けメモを見ながら、山の中腹にある母屋の畑に夏野菜を植え付けている。
彼女は金髪をあげて帽子の中に入れ込み、農作業スタイルだ。
広岡市のワークマンで買ってきたコーデが馴染んでいる。
幼少期から土いじりをしていた恒はいうまでもなく、彼女も農家の娘として、毎年順調に経験を積んでいる。
例年日頃のお礼にとスイカを幼稚園や保育園、ご近所さんにふるまったりしていたが、今年はあまり手がかかりそうなものは省いておいた。
収穫時期にどんな状況になっているか分からないから、手伝えないかもしれない。となると、スイカを持ち運びして志帆梨が腰を痛めてはいけない。
田を休ませるわけにはいかないので5月になれば田植えを手伝うつもりだが、地球は平和でいられるのだろうか、などと天を仰ぐ。
なにごともなければ、田は志帆梨が管理してくれるだろう。
ふと人の気配がして下を見下ろすと、皐月があぜ道を自転車で全力疾走をしていた。
「皐月先生―! ぶわっ!」
レイアは土まみれの軍手を大きく振ってしまったので、頭から土をかぶってしまった。
「レイアちゃん……!?」
その場に自転車を止めた皐月からは、レイアはよく見えていない。
だがレイアの視力では、遠目からでも皐月が狼狽しているのは見えた。
レイアは周囲に人目がないことを確認すると、畑から軽く跳躍をして数十メートルほど下の皐月のもとにふわりと降り立つ。中央神階では陽階最強をマークするレイアも、こちらの世界では人体に戻っているので瞬間移動は使えないのだ。
「先生、おはようございます。何かお困りですか?」
たしか、風岳小学校は三時間目のはずだが、抜けてどこにいくのだろうとレイアはいぶかる。
皐月は涙目になっていた。ここ最近見たことがないほど深刻な表情だ。
「幼稚園から電話があって、尚人がお友達に怪我をさせたって……腕と足を同時に骨折させてしまったらしくて……病院に謝りに行くところなの」
「それは……命に別状はないんですね?」
「ええ……でも、大変なことに」
まるでフィジカルギャップにぶつかったみたいな負傷の仕方だ、とレイアは耳を疑った。
子供同士のけんかで、相手を突き倒したってそうはならない。
尚人がフィジカルギャップを身にまとったままタックルでもしたのだろうか。それとも相手が当たってきたのだろうか。
完全なギャップなら相手を即死させてしまっただろうが、尚人のギャップはまだ完全ではなかったのだろう。
それが不幸中の幸いだ。
「お気の毒です。でも、ユージーン先生なら完全に治せますよね。すぐに来てもらっては」
第四の創世者の治療は、時間の巻き戻しに近く傷跡一つ残さない。
何故彼の力を借りないのだろう?
「そう思ったんだけど、あの人と連絡が取れないの。子どもたちが幼稚園に行っている間は、どこかに行っているみたい。電話にも出ないなんて初めてで」
「中央神階に戻っているか、気づいてないのかもしれませんね。この空間には特に異変は起こっていないようです」
第四の創世者は複数の空間を運営しながらαθάνατοからの攻撃を防ぎ続けている。
さらに荻号を封じ込めることにかなりのリソースを割いているし、No-bodyの存在も許容している。
地球における演算リソースは最小限にしていると思われる。
彼に何が起こったのかは知らないが、煩わせるべきではない。
「呼ばないほうがよさそうですね。私でよければ一度神階に戻れば怪我は治せますけど、治します? 相手の子に痛い思いをさせたくないですよね」
「お願い……」
皐月は深々とレイアに頭を下げた。
「ついでに、その場に居合わせた全員の記憶を消すつもりです。事故はなかったことになりますので、皐月先生は学校に戻ってください」
「でも……」
「ちゃんと忘れさせてあげます」
皐月は責任を感じて、尚人とともに相手のもとに直接赴いて謝りたいと感じているようだ。
子供の不始末は親の責任。相手の子の容態を心配している。治療費や慰謝料の話もしなければならない。
相手は上島医院に搬送されて処置を受けているそうだ。
レイアは情報を読み取ると、その場で皐月の記憶を消して小学校に戻らせる。
差出た真似かとも思ったが、皐月にフォローできるとも思えなかったので、何もなかったことにしておいた。
一度中央神階に戻る。
自室にこもって誰にも会わず、AIのルイスにも説明せず、IDEAを使って両親と子供の記憶を消し、遠隔で子供の怪我を治してやった。
地上に降りている間は人間とあまり変わらないので神具での治療ができないが、中央神階からは遠隔で操作することができる。
あとでユージーンに伝えておけばよいだろう。
中央神階から地上に戻ると、レイアは幼稚園に行って洗いざらい、尚人以外の記憶を消す。
レイアは視覚郭清領域を纏いながら幼稚園に侵入すると、何が起こったのか尚人を看破した。
尚人は周囲の園児や教諭らが先程の出来事を忘れていることに気づき、戸惑っているようだった。
いったいどういうことかと看てみれば、尚人には全く非がなかった。
尚人に向かって、相手が背後からタックルしてきたのだ。
尚人が彼を認識していなかったために、フィジカルギャップが自動的に反応した。
運の悪いことに、その現場を誰も見ていなかった。
相手は、尚人に突き飛ばされたと偽った。
混乱した尚人は何が起こったのか分からず「突き飛ばしたかもしれない」と認めたのだ。
何もなかったことになったが、これからありえないともいえない、不幸な事故だった。
(……私が出て行っても場違いだろうなあ。ここはお父さんの出番かな……)
レイアは尚人にフィジカルギャップの解除の方法を教える立場にはないと思ったので、そこまでお膳立てをして第四の創世者に緊急の連絡を入れ、農作業に戻った。
どのみち、彼は幼稚園の迎えのために地上にもどるはずだ。
「レイア」
第四の創世者はユージーンのインターフェイスとして地上に戻ってきた。
レイアは作業を終えて豪快に麦茶をがぶ飲みしていたところだったのを、目の前に彼が現れたので驚いて全部お茶をぶちまけてしまった。
誰が来てもそうだが、急に出現されると心臓に悪い。
幼稚園の迎えの時間までまだ少しあったので、レイアのもとに立ち寄ったのだそうだ。
私服の彼は中央神階での光に満ちた厳粛な佇まいとは違って、普通に笑顔で話しかけてくれるので、温厚で親しみやすい雰囲気だ。
「ごめん、突然来て驚かせて」
レイアがこぼしたお茶をペットボトルごと消し、ペットボトルごとコピーして新品をくれる。
さらに立派な菓子折りを買ってきてくれていたので、レイアは両方をありがたく受け取る。
「これは志帆梨さんや日葵ちゃんたちと食べて」
「あーこれ私と日葵が食べたかったやつです。何でわかったですか? って愚問ですね」
レイアは自己解決する。
レイアの好みを知り尽くし、同居している義妹の日葵のことまで気にかける、つくづく気の利く創世者だと思う。
「尚人のことで、連絡ありがとう。しかも色々フォローまでしてくれて」
「いえ、たまたま皐月先生を見かけただけですから。相手の傷を完治させ、その場にいた全員と皐月先生の記憶は一応消しておきました。相当にショックを受けておられましたので。もし、大丈夫そうならユージーン先生のご判断で戻してあげてください」
レイアが治癒血を持っていた頃と違って、怪我人への対応は以前より煩雑になっていた。
それでも細やかかつ気配りの行き届いた仕事をするレイアに、ユージーンは感謝する。
「本当にありがとう。あとはこっちで調整しておくよ」
「尚人くんの記憶は消していません。忘れない方がいいと思いましたので。でも、お父さんからみてあまり引きずるようなら……」
「同感だ。また同じことを繰り返すから、消さない方がいい」
初めて人を傷つけたことを、ちゃんと悔いた方がいい。
人に危害を加えることは、とても重いことだ。
レイアはそう考えていて、ユージーンも同じ方針だった。
しかしレイアは尚人を弁護するのも忘れなかった。
「でもあまり、尚人くんを怒らないであげてくださいね」
何が起こっているのかわからず戸惑っているのは、尚人本人だろうから、とレイアは同情する。
レイアはまだ一般人を傷つけたことはないが、故意ではなく過失でそうなってしまったら、きっと罪悪感で苦しくてたまらない。
「こうなる前に、力の使い方を教えておかなければならなかった。それと彼を埋没しておけなかった私の責任だ」
「今、創世者の仕事が大変ですもんね。気がそれちゃうの、わかります」
「それは言い訳にならないよ」
はっきり言って、ゼロと彼に負担がかかりすぎている、とレイアは同情する。
彼はレイアたちに平穏な生活を保証してくれるのに、彼の家族のことを疎かにさせてしまっている。彼は子どもたちのことが大好きで、皐月とともに理想的な家庭を築いていたはずだ。
それなのに……。
「尚人のフィジカルギャップは常に埋没させていたんだけど、管轄域を広げすぎると個別の事象に鈍感になってしまうようだ」
それはそうだろうな、とレイアも思う。
レイアだって、仮に自身の体細胞内の分子運動を監視していろと言われても、認識することさえできないだろう。しかも彼の支配管轄は、ゼロと分担しているとはいえこの時空だけでなく、最大数億年にも渡っている。
何もかも引き受けているのに、弱音ひとつ吐かないのは本当に頭が下がる。
「私にできることがあれば、お手伝いしたいです」
「レイアには随分助けてもらっているよ。ありがとう。他の皆にもね」
「こんな大変なときですけど……尚人と小春ちゃんにとってのお父さんは先生だけなので……寄り添ってあげてくださいね。多分、親子って血が繋がっていても、通じ合うのにたゆまぬ努力をするものだと思うから」
レイアには実の親がいないが、志帆梨とよい親子関係を築いていると思っている。
それはどんなときも志帆梨が恒を愛するのと同じように自分のこともを気にかけて、愛してくれて、レイアからの愛情にもこたえてくれたと感じていたからだ。
そんな志帆梨を、レイアは尊敬する。
志帆梨が心の支えにしていた子育て四訓を、レイアはときに実感することがある。
ネイティブ・アメリカンに伝わるものだそうだ。
「乳児のときは肌を離すな。幼児のときは肌を離して手を離すな。少年のときは手を離して目を離すな。大人になったら目を離して心を離すな、って。母はことあるごとにそう、自分に言い聞かせていたようです。だから私は今でも母とは、離れていても心が繋がっています」
「そうだね。貴重な助言をありがとう。志帆梨さんに学ぶよ」
ユージーンはレイアの言葉を、知識ではなく助言として心に留めておこうと思った。
そんなやりとりを交わしていると、なんとも絶妙なタイミングで志帆梨が畑にやってきた。
店のランチ営業が終わって、レイアを手伝いに来たのだ。
「あ、お母さん! もう植え付け終わったよ! 見て! このプロ農家の美しい仕事ぶり」
本業農家でもある志帆梨は、サロペットとつばの大きなハットを着こなして首にタオルを巻いている。
「あら、助かるわ! もう終わってしまったのね。ありがとう。おや、ユージーン先生もご一緒でしたか」
「母さん、先生からお菓子いただいたんだよ!」
「こんな立派な菓子折り、どうしましょう。何かありましたか?」
志帆梨は二人の間に何があったのかと気を回している。
ユージーンと志帆梨は長い付き合いになるので、何かよそよそしい空気を察知したようだ。
「レイア何かした? ご迷惑はかけてない? ほんとに?」
「ないってば」
「むしろこちらがご迷惑をかけたんです」
「はあ……」
志帆梨がきょとんとしているので、ユージーンは二人に挨拶をして、子どもたちの迎えの時間なのでといってその場を去った。
本当の親子ではないのに、理想の親子関係だな、そんなことを思いながら。
◆
レイアと志帆梨と別れて、幼稚園の降園時間になり、ユージーンは尚人と小春を迎えに行く。
下足場で小春とともに父の迎えを待つ尚人は周囲の喧騒のなか、ぼんやりと元気がなく、うつむいていた。
レイアのおかげでこの場の人間たちは記憶を失ったが、尚人だけは覚えているのだ。
そんなこととはつゆ知らず、幼稚園の担任がユージーンの姿を見つけて駆け寄ってくる。
担任は尚人の目を気にしながら、こそこそとユージーンに打ち明ける。
「尚人くん、今日落ち込んでて。お弁当も残しちゃったんです。熱とかはないみたいなんですけど。どうしたのって聞いても答えてくれなくて。何かおうちでありましたか?」
いつも快活な尚人が落ち込んでいる様子を不思議がっている。
尚人の担任は皐月の教え子で、ユージーンのこともよく知っている。
「いえ、くわしく家で聞いてみますね」
「明日は元気に来てくれるといいんですが……」
「山下先生も、いつもご指導ありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそいつもお世話になってて。尚人くん、小春ちゃん、バイバイ!」
「ばいばーい!」
小春はぶんぶんと手を振り、尚人はぺこりと会釈をする。
自宅までの道のりは、川沿いを徒歩で20分ほど。
何も知らない小春が尚人にじゃれつく中、尚人は無言で震えながら歩いていた。
その様子を見守りながら、ユージーンは二人の子どもたちのペースで歩く。
「お父さん」
今日は外遊びではしゃぎすぎて足が痛くなったという小春がおんぶをねだり、ユージーンの背で寝てしまったので、尚人はその時を見計らったかのように勇気を出して切り出した。
「なに?」
「俺って、おかしい子なの?」
「どうしてそう思うの」
話を聞いてみれば、尚人は薄々自身が異質であることに気づいていたようだった。
何をやっても、他の子よりできすぎてしまう。
多少の天才ではおさまりがつかないほどの、規格外の結果を出してしまう。
幼稚園の教諭には賞賛されるも、それをやっかんだり、気持ち悪がったりする子供も少なからずいた。
「色々言われることもあったけど、俺は普通だと思ってた。お父さんが外国人なのも気にしてなかった。でも、今日、初めて何かおかしいのかもしれないと思ったんだ」
友人を骨折させてしまったことを、尚人はまだ鮮明に覚えている。
「今日、よしのり君とたたかいごっこをしてたんだ。気がついたら、触ってもないのによしのり君を怪我させてた。でもそれは夢で、よしのり君は平気だったけど、本当だったような気がするんだ」
そう語る尚人の目には涙が滲んでいた。
旧神階では、アカデミーに入学する年齢は5歳だ。
そろそろ教育の適齢期ではあるが、地上で暮らすぶんには教えるにはまだ早いと思っていた。
しかしこれはもう、自身の能力を尚人に自覚させるに潮時だとユージーンは受け止める。
3歳の小春はまだ猶予がありそうだが、尚人はすでに悩み、疑問を持ってしまっている。
今日の出来事を何もなかったことにできるが、能力が消えるわけではないので、疑問はくすぶり続けるに違いない。
「わかった。帰ってから詳しく聞かせて」
親子三人は帰宅して、尚人はおやつを食べる。
あまり食がすすまないらしく、おやつもいつもより少なく取り分けた。
ユージーンは背中の小春を催眠にかけたままベッドに寝かせ、数時間は起きないようにしておく。ワンオペなので、小春を一人で家に置いておくにはこうするしかない。
尚人は、友人にケガをさせた経緯を父に詳しく話しはじめた。
幼稚園では頻繁にたたかいごっこをしていたこと。
尚人は「よしのり君」をよく負かしていたということ。
普通に戦っては勝てないと思ったからか、尚人の逃げ足が速かったからか、「よしのり君」に後ろから奇襲をかけられたということ。その後は、あまり覚えていない。
「そうだったのか……」
レイアの報告と看破であらかた事情を知ってはいたが、尚人は随分恐ろしい思いをしたようだ。
幼稚園の年長ぐらいになると、ホモ・サピエンスの男の子たちはその他の哺乳類と同様に、遊びやじゃれあいを通して競争や闘争することを覚える。
じゃれあいの中で相手に対する思いやりや、力加減を学んでゆく。
それは健全な発育なのだが、尚人はほぼ人類であるとはいえ、異能を持つ半神と人間がじゃれあうと怪我では済まない。
ユージーンは、皐月が帰る前に尚人と話をつけなければならないと思った。
「尚人、おやつを食べたら外に出て遊ぼう」
「何するの?」
尚人は首をかしげながら父について庭に出る。
自宅前の庭で互いに少し距離をとって、親子は向かい合う。
「約束をしていただろう」
たたかいごっこをしたい盛りの尚人に、ユージーンは結局一度も付き合ったことがなかった。
でも、既に怪我人が出てしまっては四の五の言っていられない。
「幼稚園から帰ったらたたかいごっこをしようって」
「今日はやりたくないよ。さっきみたいになったら」
尚人は急に怖くなってきた。
尚人が父に望んでいたのは、戦いというよりじゃれあいに近い。
大好きな父にケガをさせてしまったら……。
そう思うと、途端に気が進まなくなった。
人に近づくのすら怖くなった。
ユージーンは心を閉ざした尚人に問いかける。
「尚人にその気がなくても、誰かがいきなりくるんじゃないの?」
人間の子供は急におどかしたり、当たってくるのだ。
ユージーンがこの村に着任した頃、背後から恒や子どもたちに襲われてフィジカルギャップが反応しそうになったことを忘れていない。あのときは本当に、誰か殺してしまうかと思った。
「やっぱりやる。ちゃんと特訓したい」
尚人はこれからのことを考えて、恐怖に打ち勝ち、真面目に「たたたかいごっこ」に取り組むことにしたようだ。
「どんなルールでたたかう? 尚人が決めていい」
「武器はなし」
「わかった。攻撃は相手の体に当たってもいい? まねっこだけ?」
幼稚園でのたたかいごっこは、パンチとキック、タックルもありだった。
相手の体に当てない「まねっこ」では刺激が足りないので、ややエスカレートしていた。
「まねっこじゃないやつ」
「打撃、投げ技、固め技、寝技、急所攻撃ありでいいの?」
尚人が聞いたこともない、物騒な言葉が父の口から出てくる。
「きゅうしょってどこ?」
「当たると命にかかわる部分だ」
「きゅうしょはなし」
「では急所はなしにしよう。どっちかが降参するかケガをするまでやる? それとも時間を決めてたたかう?」
「時間を決める」
「それは数秒? 数分? 数時間? 数日? 数年?」
尚人は冷や汗をかきはじめた。
何年なんて単位はありえないのに、その選択肢が父から出てくることに驚いたのだ。
しかも父は冗談をいっている様子はない。
父のことを怖いなんて思ったこともなかったのに、今日は雰囲気が違うのだ。
たたかいごっこをするのにこんなにルールを作らなければならないなんて、尚人は想像だにできなかった。
「5分でいい」
「なるほど。私は避けたり、受け身をとってもいい?」
「いいよ」
「勝負はどうやって決める?」
「たくさん攻撃が当たったら負け」
「わかった。では当たった回数を覚えておくね。どの範囲まで逃げていいことにする?」
「うちの庭の中まで」
吉川家の庭は、田舎ならではの事情でかなり広く運動スペースもある。
動き回るにしても、かくれんぼをするにしても、決して窮屈ではない。
「では、質問はこれで最後だ。私は攻撃や反撃をしてもいい?」
「……だめ」
尚人の生存本能が、危険を察知したようだ。
幼稚園の子どもたちからの攻撃は恐れるに足りなかった。
当たっても痛くなかったから。
でも、父からの攻撃は全く想像がつかないのに、一撃でも食らってはいけない気がする。
「わかった。これはごっこ遊びだからね。条件がフェアでなくても気にしないよ。では尚人の決めた条件でたたかいごっこをはじめよう」
ユージーンはスマートウォッチのアラームをかけて、おもむろにたたかいごっこを開始した。
父は当ててくれとばかりに両手を背後に組んで、構えもしない。
尚人は隙ありとばかりに無防備なユージーンにパンチをあてようと拳を振り回すが、全く当たらず、攻撃はすべて父の体の裏に抜けている。
確かに当たっているように見えるのに、当たった感触がないのだ。
キックをしても空振りになる。
「なんで?」
ユージーンは敵として接しているので、尚人の直球の問いに答えない。
表情を消した父を見て、尚人はますます怖くなってきた。
彼はいつもの父だが、もう一秒でも対峙するのが怖い。
尚人は距離をとって当てて逃げる作戦に切り替えたが、攻撃をしようにも近づけない。
まさに手も足も出なくなってきている。
尚人の顔面が蒼白になってきたとき、父の腕時計のアラームが鳴った。
「5分だ。おわりだよ」
尚人には、たった5分のアラームが待ち遠しくすらあった。
尚人は息が上がってへとへとだった。5分の間、逃げたり走り続けることすらできなかった。
途中何度かキックに失敗してバランスを崩し、こけてひざを擦りむいたり、よろけて地面に拳をぶつけたりした。
これではほぼ自滅だ。
なんてカッコ悪い戦いをしてしまった。
「尚人の攻撃を一発も食らわなかったし、私も手を出していないから、引き分けでいいかな」
尚人が主導権をとってルールを決めていたから、ユージーンの負けか、引き分けしかありえなかった。不公平極まりない条件でこの結果は惨敗だと尚人は感じた。
「ほら。ルールを決めておいてよかっただろう?」
「……うん」
本当にそうだ、と尚人は思った。
多分、父に攻撃が全く当たらないまま、そのうち自分が怪我をする羽目になる。
「尚人の幼稚園では、たたかいごっこが流行っているんだってね。お互いにケガをせず安全に、そして何より楽しく遊ぶために、よく話し合ってルールを決めるんだよ。奇襲はなし、と決めてしまえばいいんだけど」
「よくわかったよ……ねえ」
「ん? もう一回やりたい?」
尚人は千切れんばかりに首を横に振った。
とんでもない。
「もうやらない。前、恒さんとおごーさんが言ってたこと、ほんとだったの? お父さん、世界一強いって。あれ、嘘だと思ってた。でも今日はほんとな気がする」
「強いわけではないよ。でも少し、大事なことを話しておこうか」
尚人の呼吸が落ち着かないので、ユージーンは冷蔵庫から麦茶を持ってきて二人は自宅の庭のテラスのガーデンテーブルに座った。
「私は16年前にこの村に来て、同じ頃に愛媛からやってきたお母さんと一緒に小学校か中学校の先生をしている。でもその前は、私は先生ではなかったんだ」
「知らなかった。何をしていたの?」
小学校の先生でない父を、尚人は知らなかった。
そして教師であり村の子どもたちに慕われていた両親を、尚人は誇らしく思っていた。
幼稚園の教諭たちも両親のことをよく知っていたし、天体や物理学の好きな聡明で温厚な夫婦だと思われていた。
「外国で人々の戦いや争いを終わらせる仕事をしていた。普通の人とは違う力を使ってね」
「戦いを終わらせる……? 人とは違う力で?」
尚人はあれほど切望していた父とのたたかいごっこを、もう懲り懲りだと思い込まされてしまったことに気づく。
反撃をしてこないと頭では理解しているのに、みるみる戦意を削がれていったのだ。
尚人は父の仕事の一端を見た思いだ。
「何年ぐらいその仕事やってたの? 写真とか動画とか残ってない?」
「80年ぐらいかな。証拠は何一つ残ってないよ」
「え、お父さんって何歳?」
「実は197歳なんだ」
尚人は悲鳴をあげそうになっていた。
そういえば父も母も、誕生日に何歳になったと年齢を言わなかった。
言わなかったのではなく、言えなかったんだと尚人は思い返す。
「お父さんがそんなにお年よりだったなんて。お母さんもなの? ほんとは200歳ぐらい?」
「お母さんは普通の人だ。何歳かはお母さんに直接聞きなさい」
「お父さん、もしかしてヒーローだったの? ウルトラマンの中には何万歳とかいるんだよ」
「さすがにウルトラマンさんにはかなわないな」
ヒーローの話題になったので、尚人の目が爛々と輝いている。
彼はヒーローが実在すると信じている。
そして彼の知るヒーローはスーパーパワーを持った人間だったり宇宙人だったりする。
ヒーローといえば、その設定もまちまちだ。
荻号はコールドスリープ期間を含めて一万歳を超えているが、幼稚園で言いふらしてはいけないので情報は割愛した。
「そうだったのかー!」
もし父がヒーローなのなら、その子供である自らにも不思議な力があるのだろうと自然に納得するに至ったようだ。
それは、父が過去に軍神であり、現在は創世者だと説明されるより、よほど尚人の世界観に寄り添っていた。
「じゃあ、皆にはないしょにしないといけないね。悪の組織にバレないように」
尚人はこそこそと耳打ちする。
ヒーローとは正体を秘密にしておくものなのだ。
尚人は日曜日朝のヒーローものを履修しているので話が早いとユージーンは思う。
「お父さんはどんなスーパーパワーを持っているの? 変身したりする? 大きくなる? ロボ持ってる? ヒーロースーツは何色?」
「それは内緒にしておくものじゃないの?」
「そうだった」
尚人のヒーローに対する想像力は、子供向けヒーローの範疇を出ていないらしい。
「じゃあ、俺にもすごいパワーがある?」
「一つはあるみたいだね。そこに立って両手を広げてごらん」
「うん!」
そうはいっても、人に危害を加えないために必要な修練以外は、当面教えないつもりだ。
ユージーンは彼の子どもたちに本格的な教育を施すつもりはなかった。
彼らには恒やレイアと違って切迫した事情もなければ、遺伝的な優位性もない。
それなのに若いうちから修行を始めてしまうと、地上の人々にとって危険な存在となる。
どれだけ修行を積んだとしても中央神階に招集する基準にも達しないし、現代にはもう神はいない。
滅びた種族への憧憬に引きずられて人生を潰えるより、地上で人々と豊かに共生するほうが幸せというものだ。
そんな父の思いを知りもせず、尚人は再び屹立したままぴんと両手を広げてみる。
「その手の先のあたりに、見えないバリアがある」
「見えないし、ないよ」
尚人は何かを掴むように手をのばしてみるが、何もつかめない。
「普段はないけど、危なくなったときにバリアができる。今から私が尚人に当てないようにボールを投げてみるよ。耳を塞いで目は開く」
ユージーンは尚人の膝から30センチほど横の空間を狙うようにソフトボールを投げつける。
球速200kmほど出したので、ボールは尚人のフィジカルギャップによって粉砕された。
耳を塞いでいた尚人だが、ボールの破裂音に驚いて目を丸くしている。
「爆発した……! よしのり君を怪我させたの、これに当たったから?」
「そうだ。このバリアは、尚人に勢いよくぶつかってくるものを全部こんなふうにするんだ。物だろうと、人だろうとね。最悪の場合、人を殺してしまう」
「こんなになるの? たいへんだ……!」
尚人はショックを受けていた。背後から襲われたから何が起こったか分からなかった。
でも、今は何が起こったかはっきりと分かる。このダメージが、よしのり君に跳ね返ったのだ。
「どうすればバリアが出なくなる? もしかして、恒おにいちゃんが言ってた、人を殺すかもしれないギャップってこれ?」
尚人は荻号の家で、恒と父が話していた話の内容を思い出す。
あのときは織図にはぐらかされたが、恒はユージーンにフィジカルギャップのことを忠告していたのだ。
「そう。正確には物理層というものだ」
「誰も傷つけたくないよ。血も見たくない」
「物理層を消すには、相手を傷つけないために自分が傷ついてもかまわないと思うほかにない」
「当たったら痛くても?」
「痛くても我慢する。それはつまり、人を信じて許すことなんだ」
ユージーンはもう一度、今度は違うソフトボールを、尚人が取れる速度で正面から投げた。
尚人はフィジカルギャップを解除し、ボールをうまくキャッチすることができた。
「とれた。ギャップを消せたんだ」
「よくできたね。大切な人たちを傷つけないという決意をもつことが必要だよ」
「うん……みんなに優しくする」
「この物理層は、人を傷つけることも守ることもできるんだ。守りたい範囲を決めて、守りたい人をその中に入れてあげればいい。それはどんな盾にもまさる、強固な守りになるんだよ。その方法はまた、少しずつ教えていくよ」
「……大変なんだね。ヒーローって」
「私はヒーローではないけどね」
「そういうことにしとく」
「そうだ、尚人の力のことはまだ小春には言わないようにね。もう少し大きくなったら教えるから」
「わかった」
ユージーンは尚人に自覚を促したあと、対人でフィジカルギャプを発動させないよう暗示をかけておいた。
「もしかしてお父さんは今、戦うお仕事をしているの? だから先生のお仕事を休んでいたり、時々いなくなったりするんだよね」
尚人は自信ありげに小鼻をふくらませていた。なかなか鋭いことを言う。
尚人は脳裏にどんな父親像を思い描いているのだろうか。
現在、父は神々を率いてまさに宇宙間で交戦中なのだが、尚人を巻き込まないために教えない。
第四の創世者という存在は正義も悪もなく、感情も廃して、無慈悲な生存競争を続けている。
それは決して尚人の憧れるかっこいいヒーローではなく、冷徹な空間管理者の姿でしかない。
「そうだね、今は戦うお仕事をしているよ」
「お父さん! お仕事気をつけてね。怪我とかしたら、お母さんも悲しむよ」
「わかった。約束する」
尚人は父と約束をすると、満たされた気分で自宅に戻り、やや長過ぎるお昼寝から目覚めない小春を起こしに行く。
「小春、起きておやつ食べよう」
「あれ、もうおうちかえってたの? なんで起こしてくれなかったの?」
小春は目をこすりながら、先程食べそこねていた皐月の手作りのチョコチップクッキーにありついた。
小春は小春でマインドギャップを既に一層備えているので、それによって引き起こされるトラブルを回避しなければならない。そう思いながら子どもたちに声をかける。
「ふたりとも、今日のごはんは何がいい?」
「ハヤシ!」「カレー!」
「おや、割れたね。ではジャンケンで決めて」
小春が勝ったので全員でカレーを作る。小春も尚人も野菜のカットや皮むきのお手伝いをする。
じっくりことこと煮込んでカレーにルーを割り入れたところで、皐月が帰ってきた。
仕事帰りの母を三人で出迎える。
「おかえり、皐月さん。お仕事お疲れ様」
「お母さん、今日遅かったね」
「ごめんね、職員会議が長引いてて。あら、今日はカレーね!」
「二人で手伝ったんだよ」
皐月は自転車で全力疾走したぶん汗をかいてメイクがよれているようだったが、レイアのおかげで何も覚えていなかった。尚人にも、母には言わないようにと釘を差しておいた。
家族全員で食卓につくと、尚人のカレーにはいつものように肉ではなく人参が山盛りになっていた。
尚人が自分で、これ見よがしに入れたのだ。
「なおくん、今日はなんだかいつもと違う? 嫌いな人参もたくさん食べるの?」
皐月は尚人が好き嫌いなくカレーを食べているのを見て驚く。
「俺、大きくなったらヒーローになるんだから! 何でも食べるの」
「そう。なら、いつも通りね」
皐月は気付かなかったが、今日の尚人はいつもとは一味違うはずだ。
率先して食器を片付けて、テーブルを拭くなどのお手伝いを張り切り始めた。