1章8話 The Fourth GENESIS.
大きな屋敷を持つ藤堂家は久々に多くの来客を迎え、にぎやかな一夜を迎えていた。
「かーっ、実家のような安心感! てか俺家ねーからここ実家だわ」
織図は藤堂家での入浴後、広い和室に敷かれた和ふとんに大の字になって寝転ぶ。
恒、遼生、レイアがせっせと押し入れから布団を出しては敷き、織図は敷かれた布団にゴロ寝し、セウルは風呂を借りているところだ。
「今日、新しい布団とシーツ干しときましたから」
「気が利くー。おまえんち普段空き家じゃねーの?」
にしちゃ、きれいだな。と織図は藤堂家の和室を眺めまわす。
「母が漬物の仕込みとか畑の世話をしますし、レイアも使ったりするみたいなので空き家ではないです」
「あーそー。掃除はそこのルンバとブラーバで? そんで実家ピカピカなんだ」
織図はロボット掃除機二台に気付いて納得する。
「漬物の仕込みや畑の世話用にテスラボットも買えば?」
「漬物って繊細なんですから。母に怒られますよ」
「そういうもんかー。まー、奥さんもいい人と結婚して幸せそうでよかったよなー」
「そういえば織図さんは独身なんですか?」
「はぁ? 結婚? それ言ったら恒と遼生も何で独身なんだよ。おっとレイアはまだ早いぞ、成人式済ませてからにしろ?」
うっかりプライベートな部分に踏み込んでカウンターを食らった恒は、返答に困る。
「俺はまだ……考えていないわけではありませんが、今はいいです」
「僕は弟とは逆に、全然考えられないですね」
「私は回答を差し控えさせてもらいますね」
レイアは最近できた彼氏情報を織図に看破されたくないらしく、遼生の後ろに隠れていた。
三兄妹の返答もそれぞれ違う。
「俺も遼生寄りかなー。死者ばっかり見てきて色恋の感情もねーしなー。こう、繁殖の本能っていうの? そういうのねー種族じゃん、俺らって。そりゃ滅びるよなー」
生物としてどうかと思うぜ、と織図は軽く笑う。
「やー、しかしこうして天井見てると昔を思い出すなー。恒はすっげー暗い顔して天井の節数えてたっけ。お前さんに神階の基礎教育施すついでに食っちゃ寝してたなあ」
「さすがに天井の節目は数えてないですよ、考え事してただけですよ」
「あの天井の傷、お前が飛翔の練習してたときについたやつじゃん。いやめっちゃ傷ついてるな、俺あの頃見えてなかったからな」
「ああ、そうかもしれませんね。最初のころは頭打ちましたからね」
「そうなんだー、なんだか楽しそうだね。初めて聞く話だよね」
遼生とレイアは知られざる思い出話を二人から聞いている。
実家には、織図が専用で使っていた湯飲みなどもまだある。
「なんかちょっと羨ましくなっちゃいますよね」
「ねー」
レイアと遼生がやきもちをやいた風のリアクションをする。
レイアと遼生も、血のつながりはないながらに義兄妹のように仲がよい。
「いや、羨ましい? 地獄みたいな日々だったよ。織図さんのおかげで何とか踏みとどまってたけど」
「なー、まあ俺は渡鬼見てたけどなー」
ガチめの児童虐待だった、と恒は思う。世が世なら通報ものだ。
「そーだぞおめー、10歳が二年ぐらいでマインドギャップ10層作ってんだから。オヤジはクソだし」
「オヤジがクソなところは同意しますね。あの人はガチのクズです。僕は全然許してませんからね」
遼生も苦虫をかみつぶしたような顔で大きく頷く。
ヴィブレ・スミスは遠未来にいるので無礼講だ。
「兄さんへの仕打ちはひどかったもんね。あ、レイアも」
「いやまあそれ言い出したらここにいる全員が何かしらの被害者の会なんだけど」
レイアも含めて、各々が陰惨な思い出が胸にこみあげてきて沈黙する。
レイアは比企が鬼だった、と訴えたいところだ。
「でもゼロが一番しんどいと思うんですよね」
恒がゼロの身の上になって彼をフォローする。しんとしたところで、織図がパンパンと手を鳴らす。
「はいはい全員かわいそう! というわけで今日は酒でも飲むかー。日本全国津々浦々、銘酒持ってきたぜー。すまんなレイア、お前まだ未成年だけど俺ら大人は飲む。お前はシャンメリーでも飲むか?」
織図は思い出して、バッグからとりだした日本酒の銘酒を並べている。
乾きものも用意しているあたり、日本通ぶりに磨きがかかっている。
「おつまみにサザエのつぼ焼きとか、珍味、魚介系ありますよ。母がさっき届けてくれました」
「えっマジ、さすが奥さん。ゼロも荻号さんもユージーン夫妻もこっちに呼べばよかったかね」
「神具の調整があるといってましたし、まあ全員明日会いますし」
いいんじゃないですかね、と言いながら恒は織図に冷酒用のコップを渡す。
「ほら、お前らダッサイ顔やめろって」
「おや、獺祭がありますね」
「前振りを潰すなて」
レイアが織図と恒の軽妙なやりとりにこらえられなくなって吹き出した。
セウルが風呂を終えて合流する。
「セウルさんも何か飲みますか」
「ありがとう。でも私はアルコールはとらないことにしている、脳細胞が破壊されるからね」
酒を楽しむ織図、付き合い程度に飲む恒たちと違って、アルコールを嫌うセウルのような者もいる。
旧神たちの趣味趣向もまちまちだ。
「いえてますね。じゃあウィルキンソンか、ノンアルビールにしますか」
「明日、8時に荻号さんの家に集合なのに今から飲むのかい?」
遼生が大きな柱時計をみてたしなめる。
「は? ったらあと8時間飲めるだろうがよ」
「7時45分までなら付き合いますよ」
恒は飲む気だ。
レイアは冷蔵庫からセウルと自分の分のノンアルを持ってきたが、セウルは断って就寝するらしい。
「めいめい楽しんでくれ、私は先に休む。いつもは8時に寝るようにしているんだ」
「なんだその就寝時間、幼児かよ。レイアどこで寝んの? さすがにここはあかんか。あんま遅く戻ったら、隣の部屋の日葵が起きるよな。窓から入れ窓から」
三笠 日葵は志帆梨の子で小学三年生。
レイアとは姉妹のように、同じ屋根のもとで過ごしている。
「三笠家でお風呂に入って寝ますので、あと30分ぐらいいますね」
レイアは三笠家に戻るつもりがあるようだ。
「レイアの部屋は新築なんできれいなんですよ。俺はさすがに一成さんの家に居候するのは気まずいんで、実家帰ったときはこっち泊まるんですけど」
「そっか。この家、築何年になるんだっけ」
「わかんないです。かなり老朽化もしてますし。建て替えの時期でしょうね。もう少しお金貯めたら建て替えようと思います」
恒は二年後ぐらいの計画でいた。
「建て替え費用なんて即金で出してやるけど、お前医者だっけ。医院併設にすんのか? だったらもっと利便性のいいところに建てれよ。200億ぐらいあればいいか?」
織図が少額寄付をするような口調で全面カンパを申し出る。
「すごい! スケールのでかい冗談ですね」
神階在籍時はそれぞれ生物階での活動費用もあったわけだが、今はそれぞれで生計をたてている。
織図は放浪をしていて働いていないという話なので、迷惑をかけることもできない。
200億は冗談だろうと恒は思っていたのだが……織図は現実的な話を持ち出してきた。
「いや、2010年にビットコインをしこたま買って、ある程度換金してるから。あと、最初期のころからGAFAM株もしこたまもってんぞ」
織図が保有している株式も含めると、現時点での彼の総資産は日本円にして数十兆円はあるという。生々しい話を聞いて、三兄妹は顎が外れそうだ。
「証券会社にトレーダーとして就職したらいいんじゃないですか?」
「したら不労所得じゃなくなる、俺はもう労働は一生したくねえ。五百年ぐらい死神やってたんだぞ、もういいだろ」
「織図さん、御璽印の黒百合紋まだありますか?」
「あるぞー。ゼロが特に悪気もなく固定したんだろうな」
織図は肩をめくってみせる。
枢軸神の証である、黒百合紋と呼ばれる黄金の刺青がそこにはあった。
旧神らのうち御璽印を持っているのは、織図とユージーンのみだ。
セウルや荻号 正鵠らのいた頃の神階では、御璽印を入れる風習がなかった。
「ユージーンさんも展戦輪がまだあって、プールや温泉とか行けないみたいです」
「日本ってまだそうなんだっけ。日本以外の国では別にタトゥーぐらい普通だからな、まーちょっと金色ってのは目立つけどなー、タトゥーシールとか色々あっから」
「そうなんですね。何の話でしたっけ。とにかく、カンパはお気持ちだけで十分です。自分の家なんで、自分で当直とかこなして貯めますから」
「そっか、まあそういうもんか?」
「ところでどうして経済の動きがわかるんですか?」
バイトをこなしているレイアが常々疑問に思っていたことを口にする。
荻号も、ヴィブレ・スミスも、織図も、完全に経済動向を把握して不労所得をもっていた。
「ちょっと考えりゃわかるだろうがよ、頭使え頭。頭についてんのは飾りか?」
「あとは、値動きなんて見てなくても資産家や政治家に看破やMCFをかければ一発だね」
遼生は在米の生活費用をそれで賄っているようだ。
「あーおめー遼生それは禁止カードだぞー、いつか足がつくぞー。こないだ大統領に失言させて指数暴落させたのお前だろ」
「兄さんが一切援助いらないっていうわけだよ……」
「対面せず看破やMCFをかけてどうやって足がつくんですか?」
全員インサイダーがすぎる、とコツコツ働いている勤務医の恒は頭が痛い。
「世界経済に対する影響でかすぎませんか」
「だから売買には最新の注意を払ってんだよ。それに、まあちょい罪悪感あったんで経済危機を何回か回避させたぞ」
「回避させちゃいけないんですよ!」
織図はただの無職ではなく、高等遊民だったようだ。
人間社会には関与しないことに決めていたのに、なんだかかんだで影響してしまっている。
こういうところからも正史から乖離してきた理由かもなあ、と恒は振り返る。
ゼロと交わした、「目立たず、人類史に介入せず」の約束は何だったのか。
人間界に与える影響を最小限にするために、恒は目立たずまっとうに生きている。
それはユージーンも同じようだった。
彼は世界各地で起こる紛争やクーデターに、一度も介入していない。
彼が軍神であったころは絶対に介入していただろうなと思われるここ数年のクーデターや政変、暴動なども、介入するだけの力はありながら、見て見ぬふりをしている。
戦争と紛争の歴史が人類史を作る。
犠牲も出る、それを受け入れているようだった。
そのとき、旧神たち全員が時空間の異変に気付く。
うつらうつらしていたセウルも飛び起きた。
「ユージーンだな! あいつまたやりやがった!」
織図が家の外に響くような大声で叫ぶ。
「ユージーンさんって、大事なことほど相談してくれませんよね。あー……」
恒はなんてこったと顔を覆う。
セウルは立ち上がり、目を閉じて両手を広げ空間に触れながら状況を把握する。
「今、一瞬でこの時空間は新たな創世者の支配下に置かれた。この質感は、ユージーンだろう」
「ユージーンさんはGEDコンパートメントを使って神に戻り、ゼロを降ろした。ゼロは生体構造を再構築してユージーンさんをプライマリの状態に戻し、ABNTへと転化させた。その結果、ユージーンさんの制御下に置かれた時空は極めて安定状態にある、ですね?」
セウルが把握し、遼生がすらすらと現在の状況を把握し解説する。
レイアは茫洋として天井を眺めている。
「ユージーンさん。尚人くんと小春ちゃんがいるのに……子供たちを抱っこできなくなってもいいのかよ。まだ、五歳と三歳だって。来月誕生日だって嬉しそうにしてたのに」
恒はまだ納得ができない。
「むしろ家族がいるからだろ、あいつはクソオヤジじゃないからな」
織図は誰も飲まないので、瓶ごと獺祭をあおりながらそんな言葉を吐き捨てた。
「何も失うもののない私がやればよかった」
セウルは肩を落とす。
「誰かがそう言いださないように、ユージーンがそうなったんだと思うぜ」
「そうでしょうね」
恒も同意だ。
セウルやレイアでもA.B.N.Tと同じ状態にはなれるが、ユージーンとは決定的に違うことがある。
ゼロと独立の戦力にはならない。
数百億年の叡智をたくわえ、ゼロの意思とは独立に、創世者の視点で時空を俯瞰し安定的に制御下における存在。
それが、第四の創世者であったユージーンだ。
彼はそれほどまでの能力を封じて、風岳村で小学校教師としてこの十年以上、世を忍んで生きてきた。
家族を持ち、子供たちと過ごした日々。
彼は恒から見ても幸せそうで、皐月には心を許しているように見えた。
「ユージーンさんに会いに行ってみます? こ、怖いですけど……」
レイアがいてもたってもいられないといったように、腰を浮かせる。
「いや、安易に近づくと命に係わる」
恒はレイアをとどめる。
「まあとりあえず寝て、明日にしよう」
「で、でも」
「この人数で押しかけても、大家が起きるだろ。近所迷惑だ」
織図が常識的なコメントを述べて、ひとまず全員が冷静を取り戻す。
ただ、呑気に宴会をしている場合ではない。
*
待ち合わせ時間に指定していた翌朝8時。
織図は荻号の家のインターホンを連打しながら叫ぶ。
「たのもー! 朝駆けじゃー!」
「インターホンを連打するな。るっさい!」
大家に迷惑といっていた織図だが、近所迷惑への配慮は忘れてしまったようだ。
「ユージーン先生はどこですか? この近くにいますよね?」
遼生が織図の隣から顔を出して尋ねる。
「一回、家に帰ったぞ?」
「は?」
恒と遼生が同じような顔で目を丸くする。
「は?」
「家?」
「さ、皐月先生を殺す気ですか!」
恒は居てもたってもいられず、吉川家に最速で飛翔をかけようとする。
だが……
「おはようございます」
落ち着いた声がして全員が振り返ると、昨日までと同じ姿のユージーンがそこにいる。
尚人と小春を連れて荻号の家を訪ねてきた。
「今日、打ち合わせ8時からですよね。子供たちのごはんを食べさせて連れてきました、すみません。邪魔かと思いますが、皐月さんが寝落ちしてて預け先がなく」
「皐月先生は本当に寝落ちなんですよね? 殺してないんですよね!?」
「どうしてそんな物騒な話に?」
「……よかった……」
恒は口から魂が出るかと思った。
「あ、これ皐月さんから愛媛のおみやげのみかんだそうです。昨日、みなさんにって」
「え、何でお前そんな普通なの? 子連れでみかん持って徒歩でくる絶対不及者って新しすぎね?」
織図が混乱しているので、荻号がそれを見て面白そうににやにやしている。
「一回話整理しよ。GEDコンパートメントを使って絶対不及者になったんだよな? 失敗してねーよな、その凄まじいアトモスフィア量だもんな?」
「もう一段階上ですね。現時空を掌握し、全分岐異界の情報を監視・保護しています」
片腕で抱えた小春に思うさま頬をひっぱられながら、ユージーンは答える。
ひえー危ない! と見かねたレイアは、小春を受け取って抱っこする。
「やっぱ創世者やん。だったらそうはならんやろ!」
織図は混乱のあまりエセ関西弁が出てきた。
「つまりこの時空を支配する第四の創世者に戻ってるってことですよね? いやそうはならんやろ!」
恒も戸惑いのあまり織図の口調がうつってしまう。
ユージーンの姿を一目見るだけでも、命がけで対面するものだと覚悟をしてきた。
それに禁視を見ようものなら、即死は免れ得ない。
彼の瞳はまだ、涼しげな空色をしていたけれども。
「ああ、君にはわかるんだね。尚人、あっちにトノサマバッタがいたよ、つかまえておいで」
「どこどこ?」
ユージーンは尚人をひっぺがして、適当なことを言って広い空き地に遊びに行かせた。
「実は外見も全く変わってしまっていて、禁視も全開しています」
どのように繕って彼が人間に擬態しているのか、恒にはまったく分からない。
周囲に発生するはずの空間の歪みも皆無、彼の体内には暴力的なまでのアトモスフィアが秘められていることはわかるにせよ、恒の知るA.B.N.Tのそれではないのだ。
彼の存在そのものが、凪の状態だ。
「実存の位相をずらして光学系や認知系を攪乱してるから、あなたがたが以前の私と同じ状態だと認識しています。アトモスフィアを放散する位相もずらしているので、私の近くにいても人体に悪影響はありません」
レイアは信じられず、ユージーンの手に触れに行く。
レイアに差し出されたそれは、温かい人間の手をしていた。
「つっよ! そこまでできる!?」
織図が思わず感想を駄々洩れにする。
「つよいって、誰のこと?」
尚人が織図の言葉を聞いて手ぶらで戻ってきたので、恒は尚人の前にしゃがんでそっと言って聞かせた。
「きみのお父さん。世界一強くて、かっこよくて、優しい人なんだよ」
「えーゲンキレンジャーのほうが強いー。お父さんクソザコだもん」
「言い過ぎでしょ」
恒は生意気な尚人の態度に、さすがにぴきっとくる。
しかし、恒自身もクソガキな時代はあったかと思うと、強く言えない。
しかも普通のクソガキではなく、悪童とまで呼ばれ村で忌み嫌われていたような状態だ。
「だってお父さん、たたかいごっこもしてくれないし、ぜったいよわいもん」
「本当に強い人は、誰かを傷つける戦い方はしないし、穏やかに見えるものだよ……わかんないか」
恒の言葉は尚人には届かない。
その意味を知るまでには、まだまだ時間がかかりそうだ。
「まあ、確かにゲンキレッドが宇宙一強いかもだけどな、お前のお父さんは二番目ぐらいにきてる」
荻号が子供の夢を壊さないように余計なことを言った。
尚人も小春もてんで信じていないようだ。
「いやー、いいな! 絶対不及者の正規版ってこうなのか、っぱ正規版のもんだよ」
織図は織図で、ほっとしたようにユージーンの背中をばんばんとやる。
それでも、存在する位相がずれているために、織図の手がなくなることはない。
安定制御というのはこれほどまでに心強い。
「ユージーン、私の不手際でそんな身にさせてすまない。家族もいたのに」
「セウルさんのせいではないですよ。それにほら、安心してください。SOMAもできました。これでこの分岐異界が正史に戻る準備が整ったはずです」
ユージーンはすでにその手のうちに原薬のSOMAを合成して現界させていた。
SOMAの創出の事実がこの時空で確定したことになる。
「これをもとに、治験承認に向けてパイプラインを動かしましょうか」
遼生は万能薬を受け取れば、すぐに米国の研究室に戻り諸手続きを開始する予定だ。
「私の手を離れたらSOMAは崩壊するよ。今、αθάνατοからSOMAを覆すため無限に近い回数の攻撃を受けている。だから遼生君の身の安全のためにも、SOMAはもう少し未来の人の手に託すね」
「わ、わかりました、お任せします」
ユージーンにはゼロと連携して未来を読み切り、最善の選択肢が見えているのだろう。
「で、ゼロの姿がみえねーがどこにいる?」
織図が思い出したように尋ねる。
「不可視状態に戻りました」
「共存在で分割して残らねーんだ?」
「この時空の統治は当面ユージーンに任せるって言って消えたぞ。過剰戦力はよくない」
荻号はGED細胞様コンパートメントに侵されてユージーンの肉体が滅び、変化してゆく一部始終を目撃していた。
「なにはともあれ。皐月先生も、ユージーン先生の姿が変わらなくてほっとしたでしょうね」
「一応、可視領域内にいるからね」
「吉川さんは、ユージーンが最低限見えてればいいらしいぜ」
「見えてなくても、筆談ができて参観日などの学校行事に出て子供の成長を見てればいいそうです」
「夫に求める条件ゆるすぎんだろ」
そのぐらいの胆力がないと、ユージーンの妻は務まらないのだろう。
「昨夜、今生の別れを言って出てきたのにね。でも寝落ちしてたから会ってないんだ」
「その感動の対面の様子、横からウォッチしてもいいですか」
「だめだよ」
恒はその光景を思い浮かべて苦笑する。
「それに思い出した、勤務先に辞表を出してなかった。明日は勤務日だから校長先生に届けるよ」
「有給か休職願いでいいんじゃねーか?」
荻号は教壇にも立てるのではないかと踏んでいる。
退職と聞いて、恒はトラウマを思い出す。
「最終授業でりんごの木のプリントを配ってからじゃないと。そして今度は日葵を泣かすと」
「またその話か」
もう14年前、ユージーンは自決する決意をした直後に、恒のクラスで「りんごの木」を題材にした最終授業を行った。
折に触れてその話になるので、本当に勘弁してほしいと思うユージーンである。
「あれは俺にトラウマを刻みましたからね。追跡転移かけたら首無し死体が転がってるし」
「悪かったよ。まさか10歳児が追跡転移かけてくると思わないよ」
恒はまだあの出来事を忘れていない。
暇を持て余した尚人が、恒の服の裾を引っ張る。
「ねえ。たたかいごっこやろー。じゃあ俺から、ゲンキビーム!」
「小春もおいかけっこするー」
「二人とも元気いっぱいですね。では俺たちが少し遊んであげてから家に入りますね」
「助かるよ。ありがとう」
恒、遼生、レイアが尚人と小春とともに空き地に残った。
荻号、織図、ユージーンが完全に遼生の視界から消えてから、遼生は声を落として深刻そうに告げる。
「これはまずいことになったんじゃないかな」
尚人と小春と鬼ごっこをしていた恒とレイアは脚をとめて振り返る。
「どういう意味?」
「はっきりいってユージーンさんは無敵だ、絶対不及者と名を冠す通り、何をやっても誰も勝てない。彼を消滅させることは、ゼロにしかできない」
「そりゃそうでしょ」
「でもそれはユージーンさん自身の話で、僕たちは脆弱だ。てか尚人君のいうところの、クソザコだ」
「そりゃそうでしょ」
恒はさきほどと同じ角度で頷く。
「もし僕が邪悪なる思考機械の立場なら、弱点見つけたりと思うよね」
「弱点……? 完璧だって言ってたのに?」
レイアはごくりと唾をのむ。
「完璧じゃない人たちが周りにいる。皐月さんと、尚人くんと、小春ちゃん。三笠家の人々、ユージーンさんの教え子や、教職員、その家族、皐月さんの愛媛の家族……。果たして第四の創世者は、守りたいもの全員を、なおかつ彼の強大なエネルギーで傷つけることなく、救えるものかな?」
「あっ」
レイアは青くなる。
三笠(旧姓:藤堂)志帆梨の一人娘、三笠 日葵も、彼の教え子だ。
「わっ、私も大切な人を守ります」
「レイアにだって防ぐのは無理だよ、GEDコンパートメントを使って神に戻ったとしても、微々たる違いでしかない。時空間歪曲神具を使える荻号さんとて戦力の数に入らない、ゼロとユージーンさんの防御に頼るしかないんだ」
「……」
三者三様に、無力感を押し付けられる。遼生はさらに思考を繰り出す。
「思考機械にとっては、守るべきものはたくさんで、分散していればいるほどいい」
「思い出したよ兄さん。思考機械はそういうことをするんだ」
まさに、Blind Watchmakerからの攻撃はそのようなものだった。
無敵化したキーパーソンを直接狙わない。
周囲を殺戮して精神的に追い詰め、孤立させていくやり方だ。
「完全無欠の創世者に、人間の家族だよ? あの立ち位置にある存在は、守るべきものがいてはいけないんだよ」
思考機械との果てなき戦いのなかで、ゼロの感情は消えているといった。
ゼロにも使命感や感情の芽生えらしきものは感じるが、ユージーンは紛れもなく心を持っている。
慈愛に満ちて、優しい創世者だ、と恒は思う。
だからこそ、彼は弱みを持つ。
「ユージーンさん、そこまで織り込んでるのかな」
「彼は万全の状態だ、HEIDPAを使わなくてもいい。彼のなすことをゼロも観測している。僕が思いつく程度のことは当然織り込んでるとは思うけど。誰も彼の全力をみることはできないからな」
「ユージーンさんが全力を出すときには、世界が終わってしまうということよね」
レイアが困ったように俯く。
「その通り。全てを無にした後、時空を整えて全員を元通りに復活させる。本当のところ、僕たち全員を殺して歴史を止めてしまっていたほうが、彼にとっては楽だ。それでも彼は僕たちを生かしている……何を思し召しなのかな?」
遼生は、抜けるように青い空を眺めた。
「時空を動かすということは歴史を紡ぐことだ。彼はこの危機的な状態でも、何か秘策をもって歴史を動かそうとしているんだろうね。彼はSOMAが攻撃を受けているといっていたように、僕たちが知覚できないだけで凄まじい攻撃に晒されているんじゃないかな」
レイアが遼生の話を聞いて、ぎゅっと肩をすぼませる。
その緊張は、空き地を駆けまわっていた尚人や小春にも伝わっているらしい。
二人は口をつぐんで、三人を見ていた。
「それも含めて、αθάνατοからの浸食はもう、始まっているのかもしれない」
恒はあの壮絶な戦いを経て人化を望んだために、アトモスフィアを生み出すことも殆どできず、脆弱になっている。
ユージーンが打った初手は、先手だったのか後手だったのか。
始まっていたのは戦いごっこではない。
すでに、ユージーンは戦闘のさなかにある。
【お知らせ】
TOKYO INVERSE -東京反転世界-
https://ncode.syosetu.com/n0736ha/
を新しく連載していますので、よろしければご覧ください。
異世界薬局のファルマ・ド・メディシス
INVISIBLEの藤堂 恒などが出てきます。
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