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再び眠りから覚めた九曜は、当時の様子を思い出し、怒りに震えた。
もはや彼を捕らえた魔術師は死に、魔の鎖からも開放されている。
だが――あの屈辱、あの痛みだけは消しようもなかった。
――人間め……!!
忘れていた過去がもたらした記憶に、九曜は、人への怒りが湧き上がるのを止められないでいた。
そこへ、かすかな水音を立て、黒い妖魔が現われた。流惟である。
珍しく双子の女を連れていない彼は、すでに乾いた血溜まりを、ちら、と眺めた。
《どうだ、気分は?》
《聞くまでもないと思うけど》
投げやりな答えを鼻で笑う。
《では、もっとよい気分にさせてやろう》
右手を掲げ、軽く指を鳴らした。背後の暗闇がさざめき、波紋を広げたそこには、黒髪の女妖魔の攻撃に逃げ惑う少年の姿が映し出される。
魔力をもたぬ人間への余裕なのか、流霞は、基本形態のまま少年を樹上へと追いつめていく。
にこやかに流惟が話しかける。
《どうだ。君が執着する人間の姿は? 卑小な生き物のくせに、君を取り戻そうと我らに歯向かおうなど、愚かに過ぎる。見ろ、優れたものを根こそぎ奪い取ろうとするあの姿を……あさましいの一言に尽きる。そうは思わないか?》
《べつに執着してるわけじゃないけど……そうだね。馬鹿だとは思う。僕を助けに来ようなんて、並みの人間の神経じゃ有り得ないからね》
《助けに、来ていると……?》
繰り返し、流惟の顔に奇妙な表情が宿った。そして、笑い出す。
《有り得るはずもない! 能力も持たぬ人間が、妖魔を助けに来るだと?》
《正確には、僕を探しに来ているだけだけど……成功するかどうかは、別としてね》
《馬鹿馬鹿しい……! 一体何のために、人が……命を賭けて妖魔のために、一体何をするというのだ!》
九曜は、片腕となった自分の右手に視線を落とした。
――白猿翁……。
自らの腕の中で死んでいった魔術師の身体の感触は、つい先程のことであるように、鮮明に残っている。
本来、完全な復活まで彼の意識は眠ったまま、分身たちに護られるはずであった。しかし、戦闘と分身たちの感情とに引きずられ、中途半端なまま彼は目覚めてしまった。
形すら定まらぬ彼が、なだれ込んでくる白猿翁の記憶を頼りに造形されたのが、この肉体である。彼は目覚めた直後、魔の鎖に捕らわれて再び眠りへと就くわけだが、それはもう、封印を解いてくれる存在を待つためだけの浅いまどろみにすぎなかった。
病で亡くした娘を想う、白猿翁の心――それが、九曜としての彼を作り上げてしまったのだ。このとき決定的に他の妖魔と違う何かが、彼に吹き込まれたのかもしれない。
黙り込んだままの九曜に、流惟は奇妙な眼差しを向けた。
《何だ。名を教え、分身を与えた人間の最期に興味はないのか?》
つまらなそうに映像に眼を移し、
《まあ、分身を持ってはいても、この有り様だ。わざわざ流霞に行かせるまでもなかったかな》
言う間にも、攻撃を避けようと木陰へ隠れたディーンが、流霞の魔力に吹き飛ばされる。
あっけなく宙に舞い、暗い湖へ沈む人間の姿に、流惟は肩を竦めた。
《終わりだ。哀れだな、卑小な生き物というものは……》
《――それはどうかな》
ようやく九曜が口を開いた。心なしか、口元にはうっすらと笑みを刷いている。
《あいつの取り柄はしぶといところでね。まだ終わったとは、言えないよ》
《なに?》
《確かに分身は与えた。だけどディーンが完全に使いこなせているか、と言われれば、それは疑問だね》
《何が言いたい》
九曜は、今度こそはっきりと分かる笑みを浮かべた。
《別に。ただ、これだけは言っておこうと思って》
《何だ?》
《僕の名前は……ディーンがつけてくれたものなんだよ》
流惟の表情が、険しさを帯びた。
《貴様、一体何者だ!? 》
《答えようがないな。僕も今、それを探しているところでね》
流惟の顔から、余裕が消えた。背後を振り返り、湖上に浮かぶ女へ叫ぶ。
《流霞! あの人間の死体を捜して、八つ裂きにしろ!! 》
*
真っ黒な湖へゆっくり沈みながら、ディーンはぼんやりと考えていた。
さっきまで、穴という穴から水が入ってあんなに苦しかったのに、今はかえって安らかだ。
――なんか……穏やかだなぁ。すごく……静かで、気持ちいいや……。
暗く青い水の中は静謐で、鼻と口から流れ出す泡が、冗談みたいに綺麗だった。
――俺……死ぬのかな……。
ことり、と鞘の先が、何かに触れる。
――地面だ。水の底に着いたのか……。
声に出さず呟き、ディーンは立ち上がった。彼方へ眼を向けると、水面の向こうに小高い島がある。
――……何だ。俺、川の中にいたのか。
いつのまにか彼は、ちょうど腰まで浸かる川の真ん中にいた。
川の流れはゆるやかで、歩いても向こう岸へ辿り着けそうだった。
ディーンは迷わず、川を横切ろうと足を踏み出した。
重い。
見た目以上に川の抵抗は激しく、清らかな水が糊のように足に粘りついた。
――なんだよ、これ……。
先へ進めず苛立つ彼の耳に、何かが届いた。
目の隅を、ひとすじの風がよぎる。
――鳥……?
青白い疾風は、大きな一羽の鷲の姿となって、対岸の木に止まった。
《……来てはならぬ、人の子よ!》
突如、頭の中に声が鳴り響いた。耳元で割れ鐘を叩いたような声ならぬ意志に、ディーンは思わず頭を抱える。
《戻るのだ!》
鷲から発せられる意志が、なおも怒鳴る。その呼びかけは、谺となって幾重にも響き、激痛のあまり、ディーンは川に膝をついた。
――頭が……割れそうだ……!
《戻れ!! 》
有無を言わせぬ絶対の意志が、彼の脳を粉々にした。ディーンは叫んだ。
「!!」
だが、叫んだと思ったのは、幻であった。
鼻と口から多量に流れ込んでくる生臭い水に咳き込み、吐き出す。
――苦しい……!
現実に戻ったディーンは、空気を求め、あらん限りの力をこめて浮上した。
それは、突き落とされてからわずかの間であったのだろう。湖面に浮かび上がってきた少年に、空中の女妖魔の顔色が変わる。
《懲りないのね……!》
苛立たしげに、魔力を放つ。
懸命に肺に空気を取り入れていた少年は、慌ててまた湖へ潜った。的を失い、魔力は水面を抉って四散する。
《逃げ足だけは早いこと》
流霞は舌打ちした。
《――殺せ。流霞、八つ裂きにしろ!》
《分かったわ》
脳裏に響く双生児の声に頷き、漆黒の妖魔は魔力を高めた。長い黒髪が夜空に溶け、双眸が深い闇を宿す。
爪が伸び、腕を固い鱗が覆いはじめる。
――と、形態変化を続ける流霞を、一条の閃光が襲った。
《何者!》
牙を剥いた異形の姿で、女が誰何する。
「あんたに散々いたぶられた人間さまだよ、妖怪女」
皮肉な口を叩いて樹上に現われたのは、ディーンだった。さすがに顔色は蒼いが、それを打ち消すほどの戦闘的な微笑を浮かべ、再び大刀に気を篭める。
「妖魔を殺るには形態変化に集中しているときを狙えって、教えてくれたやつがいたもんでね」
《貴様……》
「悪いが、あんたと遊んでると相棒を助けるどころじゃなくなっちまいそうなんでな。さっさと終わらせてもらうぜ!」
白く輝く気の剣を振りかざし、流霞に飛びかかった。
《ああああああ……っ!! 》
流霞が獣の声で吠える。
物理的な衝撃となって襲いかかる音と風に、ディーンは吹き飛ばされた。宙に舞う寸前でフィアの幹にしがみつき、足を踏ん張る。
「何だよ、ありゃあ……」
独りごちる彼の目の前で、女妖魔は完全に元の形を失っていた。
鉤爪のある細い四肢。鱗に覆われた体躯は長く渦を巻いて、鋸のごとく一列の背鰭が並ぶ。丸い口吻には三列の牙が生え揃い、頭頂には四本の角が伸びる。
「あちゃ~。形態変化しちまったか」
《覚悟をしろ、人間め……!》
巨大な水竜となった流霞は、咆哮を轟かせ、体を鞭のようにしならせて少年に襲いかかった。
「わっ!」
情けない声をあげ、ディーンが樹間に逃げる。ただ逃げているだけではない。木々の中を右往左往しながら、彼は棒手裏剣を取り出すと、気を篭めて投げつけた。
虫でも払うように、易々と流霞がそれを弾き飛ばす。
《人間め!》
フィアの木に立つディーン目がけ、水竜の頭が突進する。
だが垂直に飛び上がったディーンは、木に絡んだ蔦に掴まると、弾みをつけて妖魔の長い身体に飛び移った。
《なにっ!》
ディーンは、落とそうともがく流霞の背中に腹這いになり、滑る鱗に必死でしがみつく。死の右手で背鰭を捕まえ、
「戦闘形態は確かにすごいが――的が大きくなったのは、誤算だったよな!」
その背に思い切り、気を篭めた大刀を突き立てた。
《ギャアアアアッ!》
神の呪法を描いた鋼の痛みに、流霞が悶え、暴れ回る。捩じれ、波打たせて荒れ狂う長い体躯から振り落とされぬよう、ディーンは懸命に大刀を握り締めた。
しかし。
恐ろしいほどの圧力が辺りを包んだかと思うと、引き抜いた大刀ごと、ディーンは跳ね飛ばされた。
「うわあ……っ!」
また湖に落ちるもの――そう思っていた彼が倒れ込んだ先は、硬い石の床であった。
黒々としたそこは、何故か一面に浅い水が満たされ、まだ湖の中にいるようにも、見知らぬ宮殿にいるようにも思えた。
頭を振って起き上がったディーンは、顔を上げた先に思いもよらぬものを発見した。
「九曜……?」
《久しぶり、ディーン》
明るく声をかける妖魔の少年は、どこからか降り注ぐ雨の中に座っている。
魔力で捕らえられているのだろうと考えたディーンは、別の事実に気がついた。
「九曜、おまえ……腕が……」
左の肩口から下のない妖魔の少年は、気軽に肩をすくめてみせる。
《ああ、これ? 平気だよ。気分爽快って感じではないけどね》
「だけどおまえ、片腕ないんだぞ? 平気なわけねぇだろうが!」
《大丈夫だって。それより――そっちのほうが平気じゃないかもよ?》
九曜の視線に導かれ、ディーンはゆっくりと背後を振り返った。
蒼白な顔をした黒い妖魔の男女が、寄り添い、彼らを睨み据えていた。
「俺……ヤバい?」
《多分ね》
九曜は簡潔に肯定した。
流惟が、怒りもあらわに魔力を高めはじめる。ぴしゃり、と足元の水がさざなみを立てた。
《貴様……人間の分際で、よくも我が妹を傷つけ、居城を荒らしてくれたな……!》
流惟の牙が伸び、爪が鋭さを増す。白い肌が波打って鱗を纏い、異形へと変化していく。
妖魔の変化が進むにつれ、足元の波紋は波となり、大きなうねりと化して宮殿全体を揺らした。
そしてついに、流霞と同じ水竜となった妖魔が、怒号を発して牙を剥く。
「なあ、九曜」
《なにさ》
「俺、四本角の妖魔って初めて見るんだよな。三本は今までもいたけど、四本って――」
妖魔は、角の数が多いほど魔力が強いと言われる。九曜はにっこり笑って教えた。
《おめでとう、ディーン。四本角は、妖魔の中でも二桁を切る割合しかいないんだよ。なかなか出会えないから、たっぷり堪能してきてね》
ディーンの笑顔がひきつる。
「は……はは。力強い励ましだぜ」
刀身を一振り。今までの汚れを振り払い、ディーンは大刀に気を篭めた。
「そんじゃあ、張り切って行ってくるぜ!」
陽気に言い残し、襲いかかる水竜の口へ突進する。
「うりゃあっ!」
ここが何処なのか不明だが、幸い、湖にいる時よりも紫蓮花の香りは希薄で、香りに惑わされる心配はない。
不利な状況の続くディーンにとって、この一事だけでも救いであった。
破邪の呪を浮かび上がらせる大刀が、青白い軌跡を描きながら、巨大な水竜へ縦横無尽の斬撃を浴びせる。だが、確かに蛇体に届いているはずの刃は、闇を斬るように手ごたえがなく、鱗を掠めるばかりだった。
横へ薙いだ一刀を、流惟の牙が止める。
「ちっ!」
動きを封じられたディーンは、側方から迫る鋭い尾に、大刀を手放し、身を翻して避けた。
翻筋斗うち、離れて立った彼に、大刀を吐き捨てた流惟が長い体躯をしならせて飛びかかる。
そこへ、
《ディーン! 冽牙を喚んで!》
檻の中から九曜が声を投げた。武器を取り戻せずに飛び回るディーンが叫び返す。
「何だって?!」
《冽牙だよ。僕の分身。その右腕にあげたの、まさか忘れてないよね?》
「忘れちゃいねぇけど、それが何なんだよ?」
《何でもいいから、喚び出して。そうしないと、二人とも永遠にここから出られないよ》
「そんなこと言ったって、どうやって喚び出すんだよ」
《あのね、僕はディーンに冽牙をあげたの。今はディーンの持ち物なんだから、自分で考えてよね》
「知るか! 分身なんか、今まで持ったことも食ったこともねえっつーの!」
《命令すればいいんだよ》
「命令?」
《いちいち聞かないで! 来いと命令するの。命を授けるんだよ、早く!》
「……ったくよぉ」
ディーンは流惟に駆け寄ると、死の右腕を鼻面に叩きつけ、後ろに跳ね飛んで距離を取った。
「身勝手なんだから、妖魔ってやつは……!」
愚痴りながらも、右手を握り、意識を集中させる。
ちり…と例の違和感が熱となって走り、見慣れぬ文字が手の甲に輝いた。
青白い光。
ディーンは半眼となると、おもむろに右腕を額の上方に掲げた。
「授命――」
ふいに、辺りの暗さが増した。冷たい風が流れ、頭上にあるはずもない雲が立ち篭める。
雲間には稲妻が閃き、暗黒の夜空に七つの星が現われる。
その星々が、一際強い輝きを放った。
「冽牙招来!!」
次の瞬間、様々なことが同時として起こった。
頭上の七つの星が一斉に落ち、ディーンの右腕に吸い込まれる。
雷鳴が轟き、稲光が彼を照らす。
その右の手の中に、凔々たる一振りの剱が現われる。
身動ぎもせぬ彼に、水竜の流惟が飛びかかる。
転瞬、眼を開けたディーンは、考えるよりも早く、手にした蒼白の剱を突き出した。
《ギャアアアアアアッ……!! 》
獣の絶叫が上がる。
蒼白の剱は流惟の牙を砕き、口腔深く突き刺さっていた。それだけではない。流惟の身体は、刺されたところから急速に凍りはじめていた。
我に返ったディーンは、剣を引き抜いた。信じられぬ面持ちで、剣と凍り付く妖魔とをまじまじと眺める。
「驚いたな……」
《なんで驚くのさ。僕を何だと思ってたの?》
雨の檻の中から、平然と九曜が言い返す。
「いや、ただの小生意気なガキのような気がしてた」
《馬鹿言わないでよ。……あ、触わっちゃだめ!》
剱を左手に持ち替えようとした少年を、慌てて制止する。
《いくら冽牙の持ち主といっても、右腕以外は生身なんだから、他で触わるとあいつみたくなっちゃうよ?》
妖魔の少年に言われ、ディーンは流惟を振り向いた。
頭部を氷に変えた妖魔は、のたうち、今にも動きを止めようとしていた。
「ひでえな……」
《ほんと》
他人事のように、九曜が同意する。
ふいに、氷で覆われた水竜の眼に、光が宿った。
《人……人間……め……!》
唸りともつかぬ呪詛の言葉を吐き、流惟が攻撃を再開した。しかし、すでに遅かった。
《流惟!!》
傷ついた身体を潜めていた流霞の目の前で、冽牙を振りかざしたディーンの一刀が、巨大な身体を縦にすっぱりと斬り割った。
《あああああああっ!!》
切り口から凍りついていく流惟が、断末魔の叫びを上げる。極限まで氷と化した身体は、次の瞬間、轟音を発して砕け散った。
流霞が叫ぶ。
《流惟……っ!!》
だが、もはや答える声はなかった。
流霞は膝をつき、床に散らばった、流惟の名残すら止めぬ氷片に指を触れた。
キ…ンと光を弾き、破片が砕ける。
《よくも……よくも……》
漆黒の瞳に怒りを漲らせる女に、ディーンが一歩踏み出した。そのとき。
《――ちょっと待って、ディーン》
九曜だった。
《悪いけど、ここから先は僕に任せてもらえるかな》
「ああ。いいけど、お前……」
そこから出られるのか、とディーンが魔力の檻に目を向けた、瞬間。
九曜が指を触れるや否や、雨の檻は見る間に氷の粒となって、音を立てて床に落ちる。
「出られ……るんだ?」
《ディーンがあいつを倒してくれたおかげでね。さて……と》
何事もなかったように九曜は言い、軽く口笛を吹いた。
すると暗い空間を引き裂いて、一羽の大きな青白い鳥が舞い込んでくる。それはディーンが溺れかけたときに見た、幻の大鷲とどこか似ていた。
《お帰り、飛凋》
呼びかけ、九曜はそこにはない左手を差し伸べるようにした。
刹那、鷲は光を発して形を失い、細く伸びる別の姿に変わっていく。
再びそこに現われたのは、腕ではなかった。青銀に輝く鱗を纏った、動物の前肢であった。
九曜は、鰐の肢に似たそれを、右の掌でそっと撫で上げた。
淡い光を帯び、鰐の肢が、ほっそりとした白い少年の腕へと変貌を遂げる。
《これでよし、と》
「何だ、今の……?」
眼をぱちぱちさせるディーンに、九曜が教える。
《さすがに損傷が大きくてね。再生力が一番優れている冰鱗を部分的に呼び出したんだよ》
「は???」
《分からなくていいよ。今は説明している暇はない』
言い捨て、膨大な魔力を秘めた妖魔は、同族の女へ向き直った。
流霞の顔が蒼褪めている。ディーンは、妖魔も恐怖を感じるのかと思ったが、九曜の考えは違うようだった。
《さて、流霞。そろそろ終わりにしようか。君の魔力はもう尽きかけている》
頭上を見上げて、
《それとも、僕が終わらせたほうがいいのかな?》
《気付いて……いたのね》
――いったい何の話だ?
不審に思い、ディーンは九曜にならって上空を仰いだ。
「あ……」
そこに在ったのは、まさに空だった。
仄かに裾野を青に変えはじめた深い藍色の暁闇の天蓋。その下に、彼らは立っていた。
妖魔と戦いを繰り広げたはずの深い森は、大きく拓け、星と月が明るく辺りを照らしている。
足元には、大地。ひび割れ枯れた岩盤は、辺りの森よりも数段低いところに位置していた。
――湖……なのか?!
あれほど黒々と水を湛えていた広大な湖は、一部が干上がって湖底を覗かせ、残りは小さな池となって点々と散っている。
妖しいまでに咲き誇っていた紫蓮花も、ひっそりと身を寄せ合って最後の命を咲かせ、芳香も風に乗ってわずかに薫るだけであった。
ただひとつ、湖に散らばる無数の人骨だけは、幻となって消えはしなかった。
《君の人間に対する恨み――それを晴らしたいと思う気持ちは、僕には分かる》
九曜は、静かに語りかけた。
《だけど無関係な人間を惑わせ、死に導くのは復讐じゃない。ただの人殺しだ》
《わたしにどうしろと……?》
流霞は、ぎり、と唇を噛み締めた。
《人間は約定を破り、森の木々を倒して道を作ると、咲いている花を根こそぎ採っていったわ。止めるように警告すると、今度は魔術師を連れて我々を襲った。みんな殺されたわ。魅狗里も呂馗も……》
《それに、流惟も――だね》
付け加えた九曜に、流霞は淋しげな微笑みを作った。
《そうよ。わたし以外は、みんな死んだわ。だからわたしは町全体に呪いをかけた。滅びるように、と……》
《人間も馬鹿ばかりじゃない。大半はそうだけど、いつか自分のしていることの愚かさに気付くさ。それを――》
《わたしは待てなかった。わたしの時間が、それを許さなかったのよ》
流霞は、瘧が落ちたように、穏やかな表情となる。
《魔術師に襲われた時わたしも傷を負ったの。もう……長くはないわ》
そう言う彼女の横腹に、血の滴る大きな傷が現われる。流霞は、抱えるように両手で傷を押さえ、
《もう充分だわ、九曜。わたしの復讐はこれで終わり。夢は……終わるのよ》
《流霞……》
《わたしも愚かね。獅子に変わったあなたを見たときに、気付くべきだった。あなたが何者なのか――。だけど……どこかで終わりを望んでいたのかも知れないわね》
決然と微笑する。
《終わらせて、九曜……あなたの手で。あなたに手にかけられるのなら、これほど光栄なことはないわ》
《――分かったよ、流霞》
九曜は囁き、元に戻った左手を彼女の前に掲げた。
虹色の瞳が哀しげに細められた――と。
深く、澄んだ青の光が流霞を包んだかと思うと、女妖魔の形をした氷の像は、まるで役目を終えたかのように、音もなく崩れ落ちた。
飛び散った無数の氷片が、きらきらと大気へ溶けて還る。
息を詰めてディーンが見守る中、流霞が消えた後には、思いもかけぬものが現われた。
大きな花弁を広げた、一輪の瑠璃の花。
今は枯れた大地にすっくと伸びた紫蓮花は、かすかに震え、はかない命を散らしていた。
夜露を含んでいたのか、紫の花弁から、ひとすじの水滴が流れて落ちる。
流霞の涙にも思えるそれを、九曜はただ、黙って見つめた。
その背中は、何故か、泣いているようにディーンには思えた。