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カナン・サガ 外伝2~幻想花~  作者: 藤田 暁己
8/10

8

※前話いくつか語句修正しました(話の筋に変更ありません)。

 


 その叫び声は、ひとすじの明瞭な意識となって、山頂近くの洞窟で眠っていた<彼>の元へ届いた。


――白猿翁……?


 目覚めた<彼>は、山麓から発する異様な魔力の高まりを感じとった。かつてない、激しい能力(ヴィス)同士のぶつかり合う気配であった。


――いかぬ!


《だめよ! 凘鋭(しえい)。ただの人間ではないわ。向かえば、恐ろしいものが待ち構えている》


 即座に氷雪を巻き起こし、空間移動(トランスフェーズ)に入ろうとした<彼>を、何者かが止める。


《止めるな、凊思(せいし)! 白猿翁は()()のために戦っておるのだぞ!》

《おのれが表に現われているからとて、()()を好きなようにしてよいと思うな! まだ()が目覚めもせぬうちに、この身をむざむざ危険に晒すというのか!》


 次いでまた別の声が、身のうちから響いた。


《ならば黙って見過ごせと……?》

《そうだ。今()()が駆けつけたところで、あの人間の運命を変えられはせぬ。彼は――死ぬ》

《……分かっている》


 氷の牡鹿は、おのれの中の声たちの説得に応じるように、うなだれた。

 その身体から、ふわり、と蒼い風が流れ出る。


《人間は弱く、もろい。()()とは相容(あいい)れぬ生き物だわ。別々の道を行くのが定め……それはあなたも分かっているはず》

《なれば、何故共に酒を飲んだ? 何故語り合ったのだ? 何故……彼は命を賭けて戦っている……?》

《……》

《だが、白猿翁は逃げろと言った。その意志を無視するのか?》

飛凋(ひちょう)よ。()()は、あの人間の心にこたえねばならぬ。彼の意志に反してでも――最期を見届ける》

《最期、か……》

《……そうね》


 風が、さやさやと笑い声をあげて舞い、牡鹿の中にすうっと溶けた。


《納得した訳ではないのよ、凘鋭。わたしも、彼の最期に会いたいの》

《分かった》


 牡鹿はかすかに微笑んで頷き、助走をつけるように大地をひづめでかいた。

 そして、一陣の凍気を巻き上げるや、亜空間へと飛び込んだ。


 空間を捻じ曲げた<彼>が再び現われた先は、僧院に程近い、マテ山の中腹であった。

 <彼>の目に、金髪の若い魔術師と、血みどろになって地面に倒れ伏す老人の姿が飛び込む。


――白猿翁……!


 吹き荒れる氷雪と魔力に、二人の人間が同時に気付いた。


「やっと現われましたね……」

「ならぬ! 氷王ひょうおう、来てはならぬ!!」


 叫び、白猿翁がマリウスに光の玉を叩きつける。

 灰緑の眼が煌き、軽く差し出された魔術師の手のひらが、白猿翁の魔力を易々(やすやす)と打ち砕いた。


「うぬぅ……っ」

《白猿翁!》

「おっと……いけませんね、氷の妖魔。あなたが今攻撃を仕掛けると、彼が死んでしまいますよ」


 襤褸布(ぼろぎれ)となった老魔術師に右手だけを向けたまま、マリウス・ハーミオンは嘲笑った。


「どうします? 彼の命をとるか……あなたの自由をとるか」

《何?》

「あなたを殺すつもりはありません。実に……美しい。これほどの妖魔は、今までお目にかかったことがありませんよ」


 その言葉に嘘はないらしく、金髪の魔術師は、恍惚とした眼差しを蒼白の牡鹿へ注いでいる。


「是非、戦闘形態(バトルフォーム)を見てみたいものです」

《貴様のようなけがれた目には、見せるに(あたい)せぬ》


 マリウスの眼が、すっと細くなった。


「随分と大きな口を叩くのですね……。大事な人間が死にますよ?」

如何(いか)にも》


 マリウスが呆れた声を上げた。


「は……っ! これはまた意外な発言ですね。つまり、この白猿翁はどうでもよいと?」

《……》

「まあ……あなたを呼び出すことはできましたし、彼を生かしておく理由はもうないということですか」


 笑わない笑顔で告げ、マリウスは右手の中に魔力を集中させる。


「!」


 次の瞬間、放たれた光の玉が、深々と大地をえぐった。

 雪と岩が、もうもうたる粉塵と化して一帯に立ち篭める。

 マリウスの柳眉りゅうびが、ぴくり、と吊り上がった。


「妖魔め……」


 深い穴の開いた大地に死骸はなかった。

 光球の投擲とうてきと同時に、空間移動(トランスフェーズ)して白猿翁を背に攫った妖魔は、離れた斜面に再び現われていた。老人を岩陰に下ろし、


《隠れていよ。後は我らが決着をつける》

「いかぬ、氷王! おぬしは、奴の恐ろしさを分かってはおらぬ!」

《これ以上は年寄りの冷や水というものだぞ、ダーナラム》


 牡鹿は冗談めかしながらも、きっぱりと告げた。


《我らが行くすえに、人がこれ以上関わりを持つではない》


 背を向け、立ち上がる。

 曇天の彼方には、いつしか太陽が昇っていた。

 ほのかに洩れこぼれる光が大地の雪に反射する、真白き世界――それを背負うように佇む牡鹿の姿を仰ぎ、白猿翁の総身に得も言われぬ感覚が駆けのぼった。


 まさに氷の王。

 純粋な氷を切り割って創られたような体躯たいくに、透きとおる氷樹(ひょうじゅ)を戴くがごとく、枝分かれた角が王冠となって光を放つ。息は大気を凍らせ、歩みは大地を凍てつかせる。そしてその虹色の瞳は、見る者の鼓動を止めるのだ。

 氷の妖魔は、それらすべてに闘気を篭め、一息に魔術師を目指した。


「む……っ!」


 叩き付ける吹雪に、マリウスは腕を掲げて魔力を張り巡らして踏みとどまった。だが勢いは止まず、彼の身体は少しずつ雪に埋もれていく。


「ふ……ふふふふ」


 結界をものともせず、凍気に素肌が凍りついていく中、魔術師は笑った。歓喜の笑いであった。


「素晴らしい……実に素晴らしい……!」


 灰緑の眼が、光芒(こうぼう)を放つ。


「我が下僕(しもべ)に、ふさわしい……!!」


 両掌(りょうて)に光が灯ったかと思うと、膨れ上がり、巨大な光の玉となってはしった。


《思い上がるな……人間め!! 》


 猛々(たけだけ)しく吼え、牡鹿は氷の蹄で魔力の球を破砕(はさい)した。――と。

 氷雪の中を、別の何かが迫ってくる。


《む!》


 宙に飛んでのがれた牡鹿は、表情を険しくした。

 吹き荒れる雪と氷のうずに、わずかに光るひとすじのもの――。

 それは、蜘蛛(くも)の糸ほどもない細さで、不思議な煌きを帯びている。その糸が舞うたび、氷は溶け、雪は煙となって消えていく。


《〝魔の鎖〟か……!》

「そのとおり」


 光る糸で辺り一帯の氷雪を溶かし去り、マリウスは言った。


煉獄(れんごく)の炎で鍛えたこの武器こそが、おまえを捕らえるにちょうどよい」

《たわけたことを》


 牡鹿は再び、凍気を巻いて襲いかかった。光の糸がひらめく。じゅ…っと音を立て、わずかに触れた被毛が燃えた。


《く……っ!》

「どうしました、暴れ回りなさい。逃げて抵抗してこそ捕らえるよろこびがあるというもの――」


 左手に嵌めた呪力を備えた銀の籠手(ガントレット)で、自在に魔の鎖を操りながら、マリウスが笑う。


「所詮、この鎖から逃げることは不可能なのですから」

《笑止!》


 牡鹿は、迫る戒めを足元に流し、魔術師の首を狙った。だが、弧を描いて背後から迫る魔の鎖の気配に、宙を蹴り、吹雪と共に上空へと逃げる。


――厄介な……。


 魔の鎖は、生者亡者の一切の情念をき尽くす煉獄の業火(ごうか)で鍛えられた特殊な武器で、それに捕らえられれば、人ならば魂まで燃え死んでしまうという。強力な妖魔であっても、無事ではいられぬだろう。

 そして<彼>が目覚めぬ今、魔力は完全ではなく、魔の鎖を凍り付かせることは不可能であった。


――奴を殺さねば……。


 人のけがれを浴びるのを嫌う<彼>は、躊躇(ちゅうちょ)した。しかし、攻撃力の高い他の分身は、まだ多くが眠りに就いたままであった。


――仕方もあるまい。


 と、そこへ何処からか飛来した魔力の矢が、マリウスの右腕を打った。


「何者っ……!」


 魔の鎖を取り落としこそしなかったものの、掠めた魔力が、彼の腕を灼いていた。


「おのれに……氷王は捕らえさせぬ……」

「老いぼれが……」


 忌々しげにマリウスは吐き捨て、白猿翁に向き直った。

 牡鹿がはっとなった瞬間。かすかに紡がれた呪言から湧き起こった魔力が、無数の光の砲弾となって、老魔術師に降り注いだ。


《白猿翁!》


 もはや逃げる間とてない。痩せさらばえた魔術師の身体は、見る間に光の弾丸に打ち抜かれ、大地に転がった。

 真っ白な雪原が、一際鮮やかな赤に染まる。


《白猿翁!!》


 牡鹿は叫び、マリウスに飛びかかった。魔の鎖が頬を(かす)める。だが、怒りに満ちた凍気はそれすら受け付けなかった。


「なにい……っ!」


 驚愕の顔を見せる金髪の魔術師の胸を、氷の蹄が深々と蹴り破る。

 死の悲鳴はなかった。血反吐(ちへど)を撒き散らし、マリウスの身体は、岩の裂け目へ吹き飛んだ。

 氷の牡鹿は魔術師の死を見届けることなく、地面に横たわる白猿翁の元へ急いだ。


《ダーナラム!》


 無惨(むざん)な姿となった老魔術師の身体はすでに冷たく、途切れがちな脈と呼吸が、残されたわずかな命を紡いでいる。

 白猿翁は、もはや見えぬ目を懸命に見開いて、牡鹿を探した。


「氷王よ……無事か……?」

《ああ、無事だ》

「人に見つかるでないぞ……時が満ちるまで……ゆるりと……待つのじゃ……」

《ああ》

「必ずや……帰れる時が来よう……我がへ、な……」

《……》

「あぁ……我が家……我が家……いい言葉だ」


 微笑みすら浮かべ、白猿翁は繰り返した。


「氷王よ……我が家へ、帰ろうぞ……なあ……?」


 それが最後の言葉であった。


《白猿翁――》


 ゆっくりと息を止めていく彼を抱きかかるように、牡鹿は前肢を折り、地面にひざまずいた。その体が、不思議な光に満ちてゆく。

 澄んだ安らぎさえ感じる青い光に包まれながら、ダーナラム・スッタ・サーリヤは、おのれを見つめるひとつの影に気がついた。


――だ…れじゃ……?


 雪白(せっぱく)の肌に愛らしい大きな瞳。ふわふわと顔を縁どる、短い巻き毛。


――エローラ……!


 それは、夢にまで見た、愛しい我が娘の姿であった。

 娘の姿を纏った()()は、やさしく微笑むと、彼の額にそっと唇を触れる。


――今……今、そこへ行くぞ……。


 白猿翁は、瞼を閉ざした。そして今度こそ、二度とその眼は開かれることはなかった。

 冷たい氷の口付けが、彼の心臓の動きを奪い、その鼓動を完全に止める。

 娘の面影を映した()()は、微笑したまま、いとおしむように亡骸を抱えた。

 ふうっと息を吹きかける。瞬間、老魔術師の肉体は氷と化し、硝子(ガラス)が割れるに似た音をたて、粉々に砕け散った。

 命を宿した氷片がきらきらと舞い、空に溶けてかえる。虹色の瞳が、瞬きもせずそれを見送った。

 ふと。

 何かが空を切って、まっすぐにはしった。

 はっと向き直ったその首に、煉獄の炎を宿した糸が絡み付く。煙を上げ、()()は叫んだ。


《あああああああぁっ!!》


 声ともつかぬ咆哮(ほうこう)に、魔の鎖を放った魔術師が微笑した。


「こんなところで基本形態(ベースフォーム)に戻ろうなどとは……随分と見くびられたものですね……!」


 胸を蹴り割られ、凍りつきながらも、恐ろしい執念深さで岩の裂け目から這い上がったマリウスは、凄まじい形相でせせら笑った。


「ゆっくりと……この戒めの中で後悔するがいい……!!」


 魔の鎖を締め上げる。

 少女の姿をした()()はもがき、山全体が地鳴りを起こすほどの絶叫を上げた。


《――-――!!!》

「くあ……っ!」


 体勢を崩しながらも、マリウスは左手で魔の鎖を必死に繋ぎ止めていた。

 その鎖の中で、()()一陣(いちじん)の風に変わり、天へと飛んだ。


「馬鹿め! いかに形態変化(メタモルフォーゼ)しても、この戒めから逃れられるものか!!」


 魔術師の言う通り、風となって空の高みへ飛んだ()()を追い、魔の鎖もまた無限の長さとなって縛り続ける。風は転瞬、大鷲となって急降下すると、そのまま大地を突き破った。


「なにいっ……?!」


 眼を瞠る魔術師の目の前で、再び()()は、巨大な土蛇(おろち)の姿で地面から現われた。


「貴様……一体何者……っ!!」


 のたうち回る土蛇は、さらに魚とも蜥蜴(とかげ)ともつかぬ鱗虫りんちゅうとなって暴れ狂う。噛み切ろうにも触れられぬ戒めに、()()はまたも牡鹿に戻った。

 自在に変化する魔性を、魔術師は息を詰めて見ていたが、


「そろそろ――終わりにさせて頂きましょう。これほどの妖魔……是非とも我が手に入れてくれる!!」


 印を組むと、捕縛の呪言を唱えはじめた。魔の鎖が一層輝きを強め、牡鹿の動きを縛る。


《………!!》


 声にならぬ悲鳴を上げ、徐々に絞めあげられる戒めの中で、牡鹿は再び鱗虫となり風となり蛇となってもがき続け、ついに一頭の荘厳な獅子へと変化した。


「!!」


 それは、魔術師の呪言が一瞬途絶えるほどの見事な獅子であった。

 殺意に満ちた百獣の王の怒号(どごう)(とどろ)く。

 だが、そこまでであった。

 魔術師マリウス・ハーミオンが唱えた呪言が、完了を迎えたのだ。紡ぎ出されたいにしえの言葉が魔の鎖の中に彼の身体を繋ぎ止め、その意識を完全に封じ込める。

 虹色の瞳から、光が消えた。




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