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※前話いくつか語句修正しました(話の筋に変更ありません)。
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その叫び声は、ひとすじの明瞭な意識となって、山頂近くの洞窟で眠っていた<彼>の元へ届いた。
――白猿翁……?
目覚めた<彼>は、山麓から発する異様な魔力の高まりを感じとった。かつてない、激しい能力同士のぶつかり合う気配であった。
――いかぬ!
《だめよ! 凘鋭。ただの人間ではないわ。向かえば、恐ろしいものが待ち構えている》
即座に氷雪を巻き起こし、空間移動に入ろうとした<彼>を、何者かが止める。
《止めるな、凊思! 白猿翁は我らのために戦っておるのだぞ!》
《おのれが表に現われているからとて、我らを好きなようにしてよいと思うな! まだ彼が目覚めもせぬうちに、この身をむざむざ危険に晒すというのか!》
次いでまた別の声が、身の裡から響いた。
《ならば黙って見過ごせと……?》
《そうだ。今我らが駆けつけたところで、あの人間の運命を変えられはせぬ。彼は――死ぬ》
《……分かっている》
氷の牡鹿は、おのれの中の声たちの説得に応じるように、うなだれた。
その身体から、ふわり、と蒼い風が流れ出る。
《人間は弱く、脆い。我らとは相容れぬ生き物だわ。別々の道を行くのが定め……それはあなたも分かっているはず》
《なれば、何故共に酒を飲んだ? 何故語り合ったのだ? 何故……彼は命を賭けて戦っている……?》
《……》
《だが、白猿翁は逃げろと言った。その意志を無視するのか?》
《飛凋よ。我らは、あの人間の心に応えねばならぬ。彼の意志に反してでも――最期を見届ける》
《最期、か……》
《……そうね》
風が、さやさやと笑い声をあげて舞い、牡鹿の中にすうっと溶けた。
《納得した訳ではないのよ、凘鋭。わたしも、彼の最期に会いたいの》
《分かった》
牡鹿はかすかに微笑んで頷き、助走をつけるように大地を蹄でかいた。
そして、一陣の凍気を巻き上げるや、亜空間へと飛び込んだ。
空間を捻じ曲げた<彼>が再び現われた先は、僧院に程近い、マテ山の中腹であった。
<彼>の目に、金髪の若い魔術師と、血みどろになって地面に倒れ伏す老人の姿が飛び込む。
――白猿翁……!
吹き荒れる氷雪と魔力に、二人の人間が同時に気付いた。
「やっと現われましたね……」
「ならぬ! 氷王、来てはならぬ!!」
叫び、白猿翁がマリウスに光の玉を叩きつける。
灰緑の眼が煌き、軽く差し出された魔術師の手のひらが、白猿翁の魔力を易々と打ち砕いた。
「うぬぅ……っ」
《白猿翁!》
「おっと……いけませんね、氷の妖魔。あなたが今攻撃を仕掛けると、彼が死んでしまいますよ」
襤褸布となった老魔術師に右手だけを向けたまま、マリウス・ハーミオンは嘲笑った。
「どうします? 彼の命をとるか……あなたの自由をとるか」
《何?》
「あなたを殺すつもりはありません。実に……美しい。これほどの妖魔は、今までお目にかかったことがありませんよ」
その言葉に嘘はないらしく、金髪の魔術師は、恍惚とした眼差しを蒼白の牡鹿へ注いでいる。
「是非、戦闘形態を見てみたいものです」
《貴様のような穢れた目には、見せるに値せぬ》
マリウスの眼が、すっと細くなった。
「随分と大きな口を叩くのですね……。大事な人間が死にますよ?」
《如何にも》
マリウスが呆れた声を上げた。
「は……っ! これはまた意外な発言ですね。つまり、この白猿翁はどうでもよいと?」
《……》
「まあ……あなたを呼び出すことはできましたし、彼を生かしておく理由はもうないということですか」
笑わない笑顔で告げ、マリウスは右手の中に魔力を集中させる。
「!」
次の瞬間、放たれた光の玉が、深々と大地を抉った。
雪と岩が、もうもうたる粉塵と化して一帯に立ち篭める。
マリウスの柳眉が、ぴくり、と吊り上がった。
「妖魔め……」
深い穴の開いた大地に死骸はなかった。
光球の投擲と同時に、空間移動して白猿翁を背に攫った妖魔は、離れた斜面に再び現われていた。老人を岩陰に下ろし、
《隠れていよ。後は我らが決着をつける》
「いかぬ、氷王! おぬしは、奴の恐ろしさを分かってはおらぬ!」
《これ以上は年寄りの冷や水というものだぞ、ダーナラム》
牡鹿は冗談めかしながらも、きっぱりと告げた。
《我らが行く末に、人がこれ以上関わりを持つではない》
背を向け、立ち上がる。
曇天の彼方には、いつしか太陽が昇っていた。
仄かに洩れこぼれる光が大地の雪に反射する、真白き世界――それを背負うように佇む牡鹿の姿を仰ぎ、白猿翁の総身に得も言われぬ感覚が駆けのぼった。
まさに氷の王。
純粋な氷を切り割って創られたような体躯に、透きとおる氷樹を戴くがごとく、枝分かれた角が王冠となって光を放つ。息は大気を凍らせ、歩みは大地を凍てつかせる。そしてその虹色の瞳は、見る者の鼓動を止めるのだ。
氷の妖魔は、それらすべてに闘気を篭め、一息に魔術師を目指した。
「む……っ!」
叩き付ける吹雪に、マリウスは腕を掲げて魔力を張り巡らして踏みとどまった。だが勢いは止まず、彼の身体は少しずつ雪に埋もれていく。
「ふ……ふふふふ」
結界をものともせず、凍気に素肌が凍りついていく中、魔術師は笑った。歓喜の笑いであった。
「素晴らしい……実に素晴らしい……!」
灰緑の眼が、光芒を放つ。
「我が下僕に、ふさわしい……!!」
両掌に光が灯ったかと思うと、膨れ上がり、巨大な光の玉となって奔った。
《思い上がるな……人間め!! 》
猛々しく吼え、牡鹿は氷の蹄で魔力の球を破砕した。――と。
氷雪の中を、別の何かが迫ってくる。
《む!》
宙に飛んで逃れた牡鹿は、表情を険しくした。
吹き荒れる雪と氷の渦に、わずかに光るひとすじのもの――。
それは、蜘蛛の糸ほどもない細さで、不思議な煌きを帯びている。その糸が舞うたび、氷は溶け、雪は煙となって消えていく。
《〝魔の鎖〟か……!》
「そのとおり」
光る糸で辺り一帯の氷雪を溶かし去り、マリウスは言った。
「煉獄の炎で鍛えたこの武器こそが、おまえを捕らえるにちょうどよい」
《たわけたことを》
牡鹿は再び、凍気を巻いて襲いかかった。光の糸が閃く。じゅ…っと音を立て、わずかに触れた被毛が燃えた。
《く……っ!》
「どうしました、暴れ回りなさい。逃げて抵抗してこそ捕らえる悦びがあるというもの――」
左手に嵌めた呪力を備えた銀の籠手で、自在に魔の鎖を操りながら、マリウスが笑う。
「所詮、この鎖から逃げることは不可能なのですから」
《笑止!》
牡鹿は、迫る戒めを足元に流し、魔術師の首を狙った。だが、弧を描いて背後から迫る魔の鎖の気配に、宙を蹴り、吹雪と共に上空へと逃げる。
――厄介な……。
魔の鎖は、生者亡者の一切の情念を灼き尽くす煉獄の業火で鍛えられた特殊な武器で、それに捕らえられれば、人ならば魂まで燃え死んでしまうという。強力な妖魔であっても、無事ではいられぬだろう。
そして<彼>が目覚めぬ今、魔力は完全ではなく、魔の鎖を凍り付かせることは不可能であった。
――奴を殺さねば……。
人の穢れを浴びるのを嫌う<彼>は、躊躇した。しかし、攻撃力の高い他の分身は、まだ多くが眠りに就いたままであった。
――仕方もあるまい。
と、そこへ何処からか飛来した魔力の矢が、マリウスの右腕を打った。
「何者っ……!」
魔の鎖を取り落としこそしなかったものの、掠めた魔力が、彼の腕を灼いていた。
「おのれに……氷王は捕らえさせぬ……」
「老いぼれが……」
忌々しげにマリウスは吐き捨て、白猿翁に向き直った。
牡鹿がはっとなった瞬間。かすかに紡がれた呪言から湧き起こった魔力が、無数の光の砲弾となって、老魔術師に降り注いだ。
《白猿翁!》
もはや逃げる間とてない。痩せさらばえた魔術師の身体は、見る間に光の弾丸に打ち抜かれ、大地に転がった。
真っ白な雪原が、一際鮮やかな赤に染まる。
《白猿翁!!》
牡鹿は叫び、マリウスに飛びかかった。魔の鎖が頬を掠める。だが、怒りに満ちた凍気はそれすら受け付けなかった。
「なにい……っ!」
驚愕の顔を見せる金髪の魔術師の胸を、氷の蹄が深々と蹴り破る。
死の悲鳴はなかった。血反吐を撒き散らし、マリウスの身体は、岩の裂け目へ吹き飛んだ。
氷の牡鹿は魔術師の死を見届けることなく、地面に横たわる白猿翁の元へ急いだ。
《ダーナラム!》
無惨な姿となった老魔術師の身体はすでに冷たく、途切れがちな脈と呼吸が、残されたわずかな命を紡いでいる。
白猿翁は、もはや見えぬ目を懸命に見開いて、牡鹿を探した。
「氷王よ……無事か……?」
《ああ、無事だ》
「人に見つかるでないぞ……時が満ちるまで……ゆるりと……待つのじゃ……」
《ああ》
「必ずや……帰れる時が来よう……我が家へ、な……」
《……》
「あぁ……我が家……我が家……いい言葉だ」
微笑みすら浮かべ、白猿翁は繰り返した。
「氷王よ……我が家へ、帰ろうぞ……なあ……?」
それが最後の言葉であった。
《白猿翁――》
ゆっくりと息を止めていく彼を抱きかかるように、牡鹿は前肢を折り、地面に跪いた。その体が、不思議な光に満ちてゆく。
澄んだ安らぎさえ感じる青い光に包まれながら、ダーナラム・スッタ・サーリヤは、おのれを見つめるひとつの影に気がついた。
――だ…れじゃ……?
雪白の肌に愛らしい大きな瞳。ふわふわと顔を縁どる、短い巻き毛。
――エローラ……!
それは、夢にまで見た、愛しい我が娘の姿であった。
娘の姿を纏ったそれは、やさしく微笑むと、彼の額にそっと唇を触れる。
――今……今、そこへ行くぞ……。
白猿翁は、瞼を閉ざした。そして今度こそ、二度とその眼は開かれることはなかった。
冷たい氷の口付けが、彼の心臓の動きを奪い、その鼓動を完全に止める。
娘の面影を映したそれは、微笑したまま、いとおしむように亡骸を抱えた。
ふうっと息を吹きかける。瞬間、老魔術師の肉体は氷と化し、硝子が割れるに似た音をたて、粉々に砕け散った。
命を宿した氷片がきらきらと舞い、空に溶けて還る。虹色の瞳が、瞬きもせずそれを見送った。
ふと。
何かが空を切って、まっすぐに疾った。
はっと向き直ったその首に、煉獄の炎を宿した糸が絡み付く。煙を上げ、それは叫んだ。
《あああああああぁっ!!》
声ともつかぬ咆哮に、魔の鎖を放った魔術師が微笑した。
「こんなところで基本形態に戻ろうなどとは……随分と見くびられたものですね……!」
胸を蹴り割られ、凍りつきながらも、恐ろしい執念深さで岩の裂け目から這い上がったマリウスは、凄まじい形相でせせら笑った。
「ゆっくりと……この戒めの中で後悔するがいい……!!」
魔の鎖を締め上げる。
少女の姿をしたそれはもがき、山全体が地鳴りを起こすほどの絶叫を上げた。
《――-――!!!》
「くあ……っ!」
体勢を崩しながらも、マリウスは左手で魔の鎖を必死に繋ぎ止めていた。
その鎖の中で、それは一陣の風に変わり、天へと飛んだ。
「馬鹿め! いかに形態変化しても、この戒めから逃れられるものか!!」
魔術師の言う通り、風となって空の高みへ飛んだそれを追い、魔の鎖もまた無限の長さとなって縛り続ける。風は転瞬、大鷲となって急降下すると、そのまま大地を突き破った。
「なにいっ……?!」
眼を瞠る魔術師の目の前で、再びそれは、巨大な土蛇の姿で地面から現われた。
「貴様……一体何者……っ!!」
のたうち回る土蛇は、さらに魚とも蜥蜴ともつかぬ鱗虫となって暴れ狂う。噛み切ろうにも触れられぬ戒めに、それはまたも牡鹿に戻った。
自在に変化する魔性を、魔術師は息を詰めて見ていたが、
「そろそろ――終わりにさせて頂きましょう。これほどの妖魔……是非とも我が手に入れてくれる!!」
印を組むと、捕縛の呪言を唱えはじめた。魔の鎖が一層輝きを強め、牡鹿の動きを縛る。
《………!!》
声にならぬ悲鳴を上げ、徐々に絞めあげられる戒めの中で、牡鹿は再び鱗虫となり風となり蛇となってもがき続け、ついに一頭の荘厳な獅子へと変化した。
「!!」
それは、魔術師の呪言が一瞬途絶えるほどの見事な獅子であった。
殺意に満ちた百獣の王の怒号が轟く。
だが、そこまでであった。
魔術師マリウス・ハーミオンが唱えた呪言が、完了を迎えたのだ。紡ぎ出された古の言葉が魔の鎖の中に彼の身体を繋ぎ止め、その意識を完全に封じ込める。
虹色の瞳から、光が消えた。