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グロ注意(身体欠損描写あり)。
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老いた魔術師が言った高地は、明らかにマテ山に劣った。
しかし、荒れ果てているがゆえに人の手がまったく入っておらず、澄んだ空気は、この世界で稀に見る清涼さであった。
《ふ……ん》
悪くはないな。
氷の牡鹿は声に出さず呟き、青白い疾風を巻いて、空間を転移した。
「――どうであった、氷の主よ」
彼が居留しているマテ山の山頂では、襤褸をまとったひからびた老人が、ざんばらな髪と髭を冷風になびかせて待っていた。
いや、待っていたのかどうか。老人の手には、なみなみと酒を満たした杯が掲げられ、胡座をかいた岩の上には空になった酒瓶が数本放置されている。
牡鹿が眉をひそめた。
《おのれ、留守居でもしていたのか……?》
「なに、眺めのよいところで酒が飲みたかっただけじゃ」
白猿翁はまた、ぐびりと酒を飲んだ。
「して、どうであった?」
《悪くはない。だが、結論はまだ先だ》
牡鹿が数段高みで腰を下ろす。白猿翁は彼の前にも杯を置き、酒を注いだ。
「まだ先、か……。ちと、答えを早められぬかのう」
《人間は、とかく気が急きすぎる》
「特に鼠らはな」
含みのある言い様に、牡鹿の虹色の瞳が細まる。
《何だ?》
「分からぬ。ただ……儂の勘よ。僧侶どもに何ぞ企む智恵があるとは思えぬが……早くここを発たねば、おぬしにただならぬ事が降りかかりそうな気がしてならぬ」
思案深げにそう述べ、老魔術師は、だが何かを振り払うように首を振った。
「や、そのような心配はおぬしには無用であったな。――さ、飲め、飲め。今は酒を飲もうぞ」
破顔一笑、まだ飲みきらぬ氷の牡鹿の杯に、どぼどぼと酒を注ぎ入れる。
《おのれ、どこまで飲む気だ?》
「そうよのう……再び月が昇るまで飲むとしようか」
中天高く昇りきった太陽を仰ぎつつ、白猿翁は屈託なく言った。
* * *
さらさらと降りしきる雨の檻で眠る九曜に、訪問客があった。流惟である。
黒髪の青年妖魔は、同じ顔の女を伴い、やや足早に彼の元へやってきた。
――バレたみたいだな。
用件を察した九曜は、起き上がった。
《何か用?》
《貴様……我らの眼をかいくぐるとは、いい度胸をしている》
《さぁて。何の話かな》
《とぼけるな!》
叩き付けるように、流惟が腕を一振りする。その手の先の空間が震え、波紋を描いて広がるや、何もないそこに、青白い獅子にまたがって疾走する少年の姿が映し出された。
――やれやれ。冱吼め、ディーンを連れ出せって言ったのに……。
九曜の口元に、微苦笑が漂う。
ふと。その彼を流惟が覗き込んだ。
《封じられながら人間に手助けをするとは、なかなか見所があるぞ……〝九曜〟》
名を呼ばれた途端、九曜を囲む戒めが、電光を発した。
《く……っ!》
《苦しいか。捕られたのを悔やむなら、己が名を軽々しく口にしたあの人間を恨むがよい》
名には力が宿る。力ある者に名を獲られたならば、存在を捕らわれたと同じだ。
九曜は、電光に取り巻かれたまま、薄く微笑んだ。
《恨む? 馬鹿言わないでよ、〝流惟〟》
《!》
刹那、電光がかき消える。
《仲間同士話し合うんなら、もうちょっと小さい声でするんだね。ここからじゃ丸聞こえ、だからね》
《貴様――》
《おや。自分より幼い妖魔に名を獲られるとは思わなかったかな? まあ、僕は当分ここで見物させてもらうけど》
光を呑む黒い瞳に、はっきりと怒りの色が宿った。
《見物、だと……?》
流惟の右手の中に、何かが集まる。
九曜がはっとしたその時、見えない何かが、彼の左腕を掴んだ。
《では――ゆっくり見物できるかどうか……己が身で確かめるがいい!! 》
奇妙な方向に捩じれたかと思うと、左腕が音を立てて、肩口から千切れ飛んだ。
《!》
血飛沫が舞う。衝撃のあまり、九曜は声も上げず、よろめいて座り込んだ。
流惟の魔力が、引き千切った腕を結界の外へ弾き飛ばす。
ゆるい波紋をひいて、物となった白い腕が床を転がり滑った。
微笑を浮かべ、流惟はそれを爪先で止める。
《くだらぬ真似はやめろ。おまえは我らに逆らえぬ。そこでじっくりと、おのれが信じた人間の末路を眺めていることだ……》
流惟の背に、影のごとく同じ顔の女が寄り添う。
血だまりを作ってうずくまる妖魔を残し、二人は姿を消した。
《やれやれ……面倒なことをしてくれる》
彼らの気配が完全に遠退いたことを確認し、九曜は呟いた。
引きちぎられた左肩からは、すでに出血はない。だが他の妖魔の魔力を浴び、気分はあまりよくなかった。
九曜は顔を顰め、血のついた指先を、ぺろりと舐めた。
《……あーあ、もったいない。結構手間がかかるんだけどなぁ》
降り止まぬ雨の檻の向こうに転がる、細くしなやかな腕。
つい先程までおのれの肩に付いていたものとは思えぬ眼差しで、九曜はそれを眺めた。
《まあ、あいつをここから抜け出させてくれたんだから、いっか……》
彼らの耳には届かぬ、低い囁き。
《頼んだよ――飛凋 》
ぴくり、と動くはずのない指先が震える。と、思うと。
腕だったものが、かすかに呼吸をはじめた。息を吸い、吐くゆるやかな動きが繰り返されるうちに、腕はゆっくりとその形を変えてゆく。
うずくまる一羽の鳥
見事な大鷲は、眠りから覚めたように羽根を広げると、すぐに飛び立ち、闇に消えた。
*
《く……っ!》
紫蓮花の湖の上を飛行していた獅子が、突然、足を崩した。
「どうしたっ?」
必死に掴まりながら、ディーンが叫ぶ。冱吼と名乗った獅子は体勢を直して、
《どうやら彼の身に、何か起こったらしい……》
「何?」
《何かは分からぬ。だが、相当の打撃だ》
言いつつ、獅子は空を翔ける。だが伝わってくる意思は弱々しく、彼自身にもかなりの痛手であることが窺い知れた。
「大丈夫なのか?」
《我を気にしてどうする。彼を助けねば……我もまた、助からぬのだ》
「そうだな……」
ディーンは頷いた。
そのとき。
前方の闇が膨れ上がった、と思うと。
色のない真っ黒な光線がひとすじ、獅子を貫いた。
《……!》
声ならぬ悲鳴を発し、獅子が仰け反る。ディーンは振り落とされ、落ちながら叫んだ。
「冱吼!!」
その叫びに、獅子は一片の微笑みを見せ、そして消えた。
暗黒の空に、青白い毛が舞い、はらはらと湖に吸い込まれていく。
それを横目に見たディーンは、右手を伸ばして、湖畔の小枝を掴んだ。
「くそっ!」
細い梢が人間を支えきらず、しなる。
ディーンは、湖に突き出た花か人か分からぬ影を踏み台に、強引に木に飛び移った。
《――意外にしぶといのね》
聞き慣れぬ女の声。
フィアの木に掴まったディーンは、空を仰ぎ、絶句した。
黒々とした闇夜に、同じくぬばたまの色を纏った女が、浮かんでいる。
「妖魔……!」
驚愕するディーンを見下ろし、流霞は冷ややかに告げた。
《おまえの幸運もここまでよ。あの妖魔の助けは、もうないわ》
「てめえが九曜を攫ったのか……何が目的だ!」
《人の疑問に答える気はない》
言い捨て、流霞は右腕を掲げた。
途端、闇がひとすじの鞭となってディーンを襲う。
「く……っ!」
弾き飛ばされたディーンは、木々の梢にしがみついてしのいだ。だが、形態変化すらしない余裕の妖魔の攻撃は、彼に反撃する隙をまったく与えなかった。
ディーンは、息もつかずに魔力に穿たれた樹冠を縫い、フィアの大木の影に飛び込んだ。顔に巻いていた覆面をとり、荒い呼吸を整える。
――まったく……こんな奴は初めてだぜ。
革の腕輪に仕込んだ棒手裏剣を抜こうとして、指先が小刻みに揺れていることに気が付いた。
――……へっ。震えてやがる。
ディーンは、薄く笑って、棒手裏剣を口にくわえた。
窮地など、今この場が初めてではない。
生涯剣を我が手に取ろうと思った時から――いや、この世に生を受けた瞬間から、いつ何処で死んでもいいように覚悟をしてきた。
恐いのは死ではない。死を恐れる心だ。
ディーンが一気に湖に向かって躍り出ようとした、そのとき。
「!」
目の前に、すうっと黒い影が降りてきた。
《懲りない人間ね》
妖魔の女が冷酷に微笑んだ。
瞬間。
真っ黒な光が目の前で炸裂したかと思うと、大木ごとディーンの身体が吹き飛ばされた。
人形のように軽々と弧を描き、彼は、暗黒の水面へ飛沫を上げて落ちていった。
* * *
<彼>がその事実を知ったのは、正確には、もっと後になってからであった。
<彼>はのちに、死に瀕した白猿翁の記憶を読み取ることで、すべてを知ったのである。
発端は、二度目に<彼>がマテ山を離れている間に起こった出来事であった。
それは、僧院の下にあたる山麓の小さな村に、一匹の妖魔が現われたことに始まる。
強大な<彼>の魔力に惹かれたものか、一つ目一つ角の魔物は村の田畑を荒らし、人々に危害を加えた。本来ならばすぐに僧院の助けを求めるのが村常であったが、このたびは違っていた。
通りかかった魔術師が不思議な術を用いて妖魔を退治し、村を救ったのである。
その話を村人から伝え聞き、勇躍したのは僧侶たちであった。
「もはや、あの年寄りは使い物にならぬ」
「うむ。しかし、魔術師が承知するか?」
「ふ……。魔術師とて所詮人の子よ。積むべきものを目の前にすれば、否とは言うまい」
「だが、あれほどに強力な妖魔ぞ?」
「心配することはない。ましてや……」
ひっそり笑いを交わす。
「魔術師の一人や二人死んだとて、どうということはない」
「ふ……ふふふふ」
「ははははは」
「それにしても――あの年寄りは、邪魔よのう……」
「このまま生かして、他言でもされたら如何する?」
「それもまた、妖魔に……いや、魔術師にでも任せようよ」
「あやつが始末できるなら、相手はどちらでもよい」
「下郎は下郎同士、仲良くあの世へ逝ってもらわねば……な」
「ふふふ……まったく、そのとおり」
「ははははははは……」
――愚か者どもめが……。
意識を飛ばして僧院の様子を窺っていた白猿翁は、座したまま苦く呟いた。
かつて法術師であった彼の眼から見れば、今の僧院は荒廃の限りを尽くし、邪気すら招きかねぬ様相であった。神に仕える僧侶の気も輝きを失せ、それゆえ入り込んだ余所者の意識に気付くことすら出来ない。
蓬髪を風になびかせ、彼は意識を村へ向けた。
――!
瞬間、何かが彼の意識を、鋭く弾き飛ばした。
思わず足を崩した白猿翁は、蒼褪めた。かつて一度出会ったことのあるその気は、稀に見る凶悪さを秘めていた。
――奴か……。ならば、氷王とて破るは難しいやも知れぬ。
白猿翁は再び足を組み直すと、眼を閉じ、深い瞑想状態へと入っていった。
三日後。
彼の元へ、その男が現われた。
「久しぶりですね……白猿翁」
芝居がかった上品な物言いだが、軽侮の響きは隠そうともしない。
白猿翁は、うっすらと瞼を開けた。
「マリウス・ハーミオンか……」
「これはこれは……かの白猿翁が我が名を覚えていて下さっていたとは恐縮」
役者のように整った顔立ち。黄金の輝きを放つ長い巻き毛に色白の肌、やさしい物腰。
常人が見たら、どこぞの貴族かと思うような容貌だが、けしてそうではない。
彼の立派な外見が見せかけに過ぎぬことを、白猿翁は身を持って知っていた。
彼はかつてセントゲア中部の小国で、この魔術師と一戦を交えたことがあった。マリウスは、自らの持つ能力を最大限に奉仕しようという白猿翁の対局――私利私欲のためなら、如何なることをも惜しまぬ魔術師であった。
感情のない灰緑の瞳が、襤褸を纏った老人をちらりと眺める。
「まだ夢のようなことを言っているのですか? 能力は他人を救うために授けられたなどと――」
「……」
「相変わらず変わっている……。これだけの能力を持ちながら、あなたがこのような生活を送っていることが、わたしには不思議でならないのですよ」
金の巻き毛を右の指先にからめ、本気ともつかぬ表情で老魔術師を覗き込む。
「僧侶たちを助けてはどうです? 金も名誉も手に入る。よい功徳になるでしょうに」
「……功徳なぞどうでもよい。儂は、罪なき者を助けるのみ」
「妖魔を見逃し、人々に危機感を与えることがですか?」
白猿翁は、ようやく若い魔術師に顔を向けた。
「妖魔がこの地に降り立ったは、ひとえに僧院の精神が失われたからじゃ。それに優れた妖魔は、人に害を与えることの愚かさを承知しているもの。妖魅や下等な妖魔なら別じゃが……弱肉強食と言うなれば、人よりも優れた相手に敬意を払うは当然じゃ」
「それがさら更なる災いを呼び寄せるかもしれぬとしても?」
「災いとな? 村に現われた妖魔のことならば、案じずともよいであろう。おぬしは……生け捕った妖魔を使った騙りが得意であったからのう」
「……」
「大事な使役を殺してまで、果たす目的は何ぞ?」
「あなたならば――お分かりかと思いますが……?」
白猿翁は、再び瞼を閉ざした。
「去れ。おぬしに彼は捕らえられぬ」
「そうですか……?」
ふ…と、周囲の空気が動いた。
「あなたは妖魔から名を受けているはず。その名を頂ければ、面倒な事は避けられるのですがね……」
大気の流れは急速に激しさを増して暴風となり、空には嵐を告げる暗雲が立ち込めはじめる。
白猿翁は、喝、と眼を見開くや、天地が震えるほどの吼え声で叫んだ。
「――逃げよ、氷王……!!」