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カナン・サガ 外伝2~幻想花~  作者: 藤田 暁己
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7

グロ注意(身体欠損描写あり)。



 老いた魔術師が言った高地は、明らかにマテ山に劣った。

 しかし、荒れ果てているがゆえに人の手がまったく入っておらず、澄んだ空気は、この世界でまれに見る清涼さであった。


《ふ……ん》


 悪くはないな。

 氷の牡鹿は声に出さず呟き、青白い疾風を巻いて、空間を転移した。


「――どうであった、氷のぬしよ」


 彼が居留しているマテ山の山頂では、襤褸(ぼろ)をまとったひからびた老人が、ざんばらな髪とひげを冷風になびかせて待っていた。

 いや、待っていたのかどうか。老人の手には、なみなみと酒を満たした杯が掲げられ、胡座(あぐら)をかいた岩の上には空になった酒瓶が数本放置されている。

 牡鹿が眉をひそめた。


《おのれ、留守居(るすい)でもしていたのか……?》

「なに、眺めのよいところで酒が飲みたかっただけじゃ」


 白猿翁はまた、ぐびりと酒を飲んだ。


「して、どうであった?」

《悪くはない。だが、結論はまだ先だ》


 牡鹿が数段高みで腰を下ろす。白猿翁は彼の前にも杯を置き、酒を注いだ。


「まだ先、か……。ちと、答えを早められぬかのう」

《人間は、とかく気がきすぎる》

「特にねずみらはな」


 含みのある言い様に、牡鹿の虹色の瞳が細まる。


《何だ?》

「分からぬ。ただ……儂の勘よ。僧侶どもに何ぞ企む智恵があるとは思えぬが……早くここを発たねば、おぬしにただならぬ事が降りかかりそうな気がしてならぬ」


 思案深げにそう述べ、老魔術師は、だが何かを振り払うように首を振った。


「や、そのような心配はおぬしには無用であったな。――さ、飲め、飲め。今は酒を飲もうぞ」


 破顔一笑、まだ飲みきらぬ氷の牡鹿の杯に、どぼどぼと酒を注ぎ入れる。


《おのれ、どこまで飲む気だ?》

「そうよのう……再び月が昇るまで飲むとしようか」


 中天高く昇りきった太陽を仰ぎつつ、白猿翁は屈託なく言った。


   *  *  *


 さらさらと降りしきる雨の檻で眠る九曜に、訪問客があった。流惟である。

 黒髪の青年妖魔は、同じ顔の女を伴い、やや足早に彼の元へやってきた。


――バレたみたいだな。


 用件を察した九曜は、起き上がった。


《何か用?》

《貴様……我らの眼をかいくぐるとは、いい度胸をしている》

《さぁて。何の話かな》

《とぼけるな!》


 叩き付けるように、流惟ルイが腕を一振りする。その手の先の空間が震え、波紋を描いて広がるや、何もないそこに、青白い獅子にまたがって疾走する少年の姿が映し出された。


――やれやれ。冱吼(ごこう)め、ディーンを連れ出せって言ったのに……。


 九曜の口元に、微苦笑が漂う。

 ふと。その彼を流惟が覗き込んだ。


《封じられながら人間に手助けをするとは、なかなか見所(みどころ)があるぞ……〝九曜〟》


 名を呼ばれた途端、九曜を囲む戒めが、電光を発した。


《く……っ!》

《苦しいか。捕られたのを悔やむなら、おのが名を軽々しく口にしたあの人間を恨むがよい》


 名には力が宿る。力ある者に名を獲られたならば、存在を捕らわれたと同じだ。

 九曜は、電光に取り巻かれたまま、薄く微笑んだ。


《恨む? 馬鹿言わないでよ、〝流惟〟》

《!》


 刹那、電光がかき消える。


《仲間同士話し合うんなら、もうちょっと小さい声でするんだね。ここからじゃ丸聞こえ、だからね》

《貴様――》

《おや。自分より幼い妖魔に名を獲られるとは思わなかったかな? まあ、僕は当分ここで見物させてもらうけど》


 光を呑む黒い瞳に、はっきりと怒りの色が宿った。


《見物、だと……?》


 流惟の右手の中に、何かが集まる。

 九曜がはっとしたその時、見えない何かが、彼の左腕を掴んだ。


《では――ゆっくり見物できるかどうか……己が身で確かめるがいい!! 》


 奇妙な方向にじれたかと思うと、左腕が音を立てて、肩口から千切ちぎれ飛んだ。


《!》


 血飛沫が舞う。衝撃のあまり、九曜は声も上げず、よろめいて座り込んだ。

 流惟の魔力が、引き千切った腕を結界の外へ弾き飛ばす。

 ゆるい波紋をひいて、物となった白い腕が床を転がり滑った。

 微笑を浮かべ、流惟はそれを爪先で止める。


《くだらぬ真似はやめろ。おまえは我らに逆らえぬ。そこでじっくりと、おのれが信じた人間の末路(まつろ)を眺めていることだ……》


 流惟の背に、影のごとく同じ顔の女が寄り添う。

 血だまりを作ってうずくまる妖魔を残し、二人は姿を消した。


《やれやれ……面倒なことをしてくれる》


 彼らの気配が完全に遠退いたことを確認し、九曜は呟いた。

 引きちぎられた左肩からは、すでに出血はない。だが他の妖魔の魔力を浴び、気分はあまりよくなかった。

 九曜は顔を顰め、血のついた指先を、ぺろりと舐めた。


《……あーあ、もったいない。結構手間(てま)がかかるんだけどなぁ》


 降り止まぬ雨の檻の向こうに転がる、細くしなやかな腕。

 つい先程までおのれの肩に付いていたものとは思えぬ眼差しで、九曜はそれを眺めた。


《まあ、あいつをここから抜け出させてくれたんだから、いっか……》


 彼らの耳には届かぬ、低い囁き。


《頼んだよ――飛凋(ひちょう)


 ぴくり、と動くはずのない指先が震える。と、思うと。

 腕だったものが、かすかに()()()()()()()。息を吸い、吐くゆるやかな動きが繰り返されるうちに、腕はゆっくりとその形を変えてゆく。

 うずくまる一羽の鳥

 見事な大鷲は、眠りから覚めたように羽根を広げると、すぐに飛び立ち、闇に消えた。


   *


《く……っ!》


 紫蓮花の湖の上を飛行していた獅子が、突然、足を崩した。


「どうしたっ?」


 必死に掴まりながら、ディーンが叫ぶ。冱吼と名乗った獅子は体勢を直して、


《どうやらの身に、何か起こったらしい……》

「何?」

《何かは分からぬ。だが、相当の打撃だ》


 言いつつ、獅子は空を翔ける。だが伝わってくる意思は弱々しく、彼自身にもかなりの痛手であることが窺い知れた。


「大丈夫なのか?」

《我を気にしてどうする。を助けねば……我もまた、助からぬのだ》

「そうだな……」


 ディーンは頷いた。

 そのとき。

 前方の闇が膨れ上がった、と思うと。

 色のない真っ黒な光線がひとすじ、獅子を貫いた。


《……!》


 声ならぬ悲鳴を発し、獅子が()()る。ディーンは振り落とされ、落ちながら叫んだ。


「冱吼!!」


 その叫びに、獅子は一片の微笑みを見せ、そして消えた。

 暗黒の空に、青白い毛が舞い、はらはらと湖に吸い込まれていく。

 それを横目に見たディーンは、右手を伸ばして、湖畔の小枝を掴んだ。


「くそっ!」


 細い(こずえ)が人間を支えきらず、しなる。

 ディーンは、湖に突き出た花か人か分からぬ影を踏み台に、強引に木に飛び移った。


《――意外にしぶといのね》


 聞き慣れぬ女の声。

 フィアの木に掴まったディーンは、空を仰ぎ、絶句した。

 黒々とした闇夜に、同じくぬばたまの色を纏った女が、浮かんでいる。


「妖魔……!」


 驚愕するディーンを見下ろし、流霞は冷ややかに告げた。


《おまえの幸運もここまでよ。あの妖魔の助けは、もうないわ》

「てめえが九曜を攫ったのか……何が目的だ!」

《人の疑問に答える気はない》


 言い捨て、流霞は右腕を掲げた。

 途端、闇がひとすじのむちとなってディーンを襲う。


「く……っ!」


 弾き飛ばされたディーンは、木々の梢にしがみついてしのいだ。だが、形態変化(メタモルフォーゼ)すらしない余裕の妖魔の攻撃は、彼に反撃する隙をまったく与えなかった。

 ディーンは、息もつかずに魔力に穿うがたれた樹冠を縫い、フィアの大木の影に飛び込んだ。顔に巻いていた覆面をとり、荒い呼吸を整える。


――まったく……こんな奴は初めてだぜ。


 革の腕輪に仕込んだ棒手裏剣を抜こうとして、指先が小刻みに揺れていることに気が付いた。


――……へっ。震えてやがる。


 ディーンは、薄く笑って、棒手裏剣を口にくわえた。

 窮地(きゅうち)など、今この場が初めてではない。

 生涯剣を我が手に取ろうと思った時から――いや、この世に生を受けた瞬間から、いつ何処で死んでもいいように覚悟をしてきた。

 恐いのは死ではない。死を恐れる心だ。

 ディーンが一気に湖に向かって躍り出ようとした、そのとき。


「!」


 目の前に、すうっと黒い影が降りてきた。


《懲りない人間ね》


 妖魔の女が冷酷に微笑んだ。

 瞬間。

 真っ黒な光が目の前で炸裂(さくれつ)したかと思うと、大木ごとディーンの身体が吹き飛ばされた。

 人形のように軽々と弧をえがき、彼は、暗黒の水面(みなも)へ飛沫を上げて落ちていった。


   *  *  *


 <彼>がその事実を知ったのは、正確には、もっと後になってからであった。

 <彼>はのちに、死に(ひん)した白猿翁の記憶を読み取ることで、すべてを知ったのである。


 発端は、二度目に<彼>がマテ山を離れている間に起こった出来事であった。

 それは、僧院の下にあたる山麓の小さな村に、一匹の妖魔が現われたことに始まる。

 強大な<彼>の魔力に惹かれたものか、一つ目一つ角の魔物は村の田畑を荒らし、人々に危害を加えた。本来ならばすぐに僧院の助けを求めるのが村常であったが、このたびは違っていた。

 通りかかった魔術師が不思議な術を用いて妖魔を退治し、村を救ったのである。


 その話を村人から伝え聞き、勇躍(ゆうやく)したのは僧侶たちであった。


「もはや、あの年寄りは使い物にならぬ」

「うむ。しかし、魔術師が承知するか?」

「ふ……。魔術師とて所詮人の子よ。積むべきものを目の前にすれば、いなとは言うまい」

「だが、あれほどに強力な妖魔ぞ?」

「心配することはない。ましてや……」


 ひっそり笑いを交わす。


「魔術師の一人や二人死んだとて、どうということはない」

「ふ……ふふふふ」

「ははははは」

「それにしても――あの年寄りは、邪魔よのう……」

「このまま生かして、他言でもされたら如何(いかが)する?」

「それもまた、妖魔に……いや、魔術師にでも任せようよ」

「あやつが始末できるなら、相手はどちらでもよい」

下郎(げろう)は下郎同士、仲良くあの世へってもらわねば……な」

「ふふふ……まったく、そのとおり」

「ははははははは……」


――愚か者どもめが……。


 意識を飛ばして僧院の様子を窺っていた白猿翁は、座したまま苦く呟いた。

 かつて法術師であった彼の眼から見れば、今の僧院は荒廃の限りを尽くし、邪気すら招きかねぬ様相であった。神に仕える僧侶の気も輝きを失せ、それゆえ入り込んだ余所者(よそもの)の意識に気付くことすら出来ない。

 蓬髪(ほうはつ)を風になびかせ、彼は意識を村へ向けた。


――!


 瞬間、何かが彼の意識を、鋭く弾き飛ばした。

 思わず足を崩した白猿翁は、蒼褪めた。かつて一度出会ったことのあるその気は、(まれ)に見る凶悪さを秘めていた。


――奴か……。ならば、氷王ひょうおうとて破るは難しいやも知れぬ。


 白猿翁は再び足を組み直すと、眼を閉じ、深い瞑想状態へと入っていった。

 三日後。

 彼の元へ、その男が現われた。


「久しぶりですね……白猿翁」


 芝居がかった上品な物言いだが、軽侮(けいぶ)の響きは隠そうともしない。

 白猿翁は、うっすらとまぶたを開けた。


「マリウス・ハーミオンか……」

「これはこれは……かの白猿翁が我が名を覚えていて下さっていたとは恐縮」


 役者のように整った顔立ち。黄金の輝きを放つ長い巻き毛に色白の肌、やさしい物腰。

 常人が見たら、どこぞの貴族かと思うような容貌だが、けしてそうではない。

 彼の立派な外見が見せかけに過ぎぬことを、白猿翁は身を持って知っていた。


 彼はかつてセントゲア中部の小国で、この魔術師と一戦を交えたことがあった。マリウスは、自らの持つ能力(ヴィス)を最大限に奉仕しようという白猿翁の対局――私利私欲のためなら、如何いかなることをも惜しまぬ魔術師であった。

 感情のない灰緑の瞳が、襤褸(ぼろ)を纏った老人をちらりと眺める。


「まだ夢のようなことを言っているのですか? 能力(ヴィス)は他人を救うために授けられたなどと――」

「……」

「相変わらず変わっている……。これだけの能力(ヴィス)を持ちながら、あなたがこのような生活を送っていることが、わたしには不思議でならないのですよ」


 金の巻き毛を右の指先にからめ、本気ともつかぬ表情で老魔術師を覗き込む。


「僧侶たちを助けてはどうです? 金も名誉も手に入る。よい功徳(くどく)になるでしょうに」

「……功徳なぞどうでもよい。儂は、罪なき者を助けるのみ」

「妖魔を見逃(みのが)し、人々に危機感を与えることがですか?」


 白猿翁は、ようやく若い魔術師に顔を向けた。


「妖魔がこの地に降り立ったは、ひとえに僧院の精神が失われたからじゃ。それに優れた妖魔は、人に害を与えることの愚かさを承知しているもの。妖魅や下等な妖魔なら別じゃが……弱肉強食と言うなれば、人よりも優れた相手に敬意を払うは当然じゃ」

「それがさら更なる災いを呼び寄せるかもしれぬとしても?」

「災いとな? 村に現われた妖魔のことならば、案じずともよいであろう。おぬしは……生け捕った妖魔を使ったかたりが得意であったからのう」

「……」

「大事な使役(しえき)を殺してまで、果たす目的は何ぞ?」

「あなたならば――お分かりかと思いますが……?」


 白猿翁は、再び瞼を閉ざした。


「去れ。おぬしに彼は捕らえられぬ」

「そうですか……?」


 ふ…と、周囲の空気が動いた。


「あなたは妖魔から名を受けているはず。その名を頂ければ、面倒な事は避けられるのですがね……」


 大気の流れは急速に激しさを増して暴風となり、空には嵐を告げる暗雲が立ち込めはじめる。

 白猿翁は、かつ、と眼を見開くや、天地が震えるほどのえ声で叫んだ。


「――逃げよ、氷王(ひょうおう)……!!」




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