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カナン・サガ 外伝2~幻想花~  作者: 藤田 暁己
6/10

6

グロ注意(死体描写)。



 男に言われたとおり、ディーンは太さの違うフィアの枝を三本拾い、地面に積もったセダ杉の枯れ葉を集めた。

 棒手裏剣の先で幅広の枝の中央に窪みを作り、葉屑(はくず)(こけ)を詰める。岩葡萄(いわぶどう)つるを切り、一本の枝の両端に結ぶと、もう一本の枝と垂直に組み合わせ、蔓を螺旋(らせん)に絡める。簡易の火起こしの出来上がりだ。

 左右の腕に均等に力をこめ、横棒を上下に動かす。回転する縦の枝が地面に置いた板木と擦れ合い、葉屑から煙が上がる。そこに素早く息を吹きかけ、埋もれ火を起こした。

 手ごろな枝に小枝と油のついた布を巻き付け、蔓で縛って松明とする。

 あたたかい橙色の光に、ほっと闇が和む。

 ディーンは、火起こしの火を足で踏み消し、男のいるところへ戻った。


「おい、まだ生きてるか?」

「あ……はい。大丈夫です」


 小さく答え、男はディーンの方に首を回す。


「ああ、火だ……」


 心から嬉しそうに言い、男は顔をほころばせた。


「なんて美しいんだろう……。明るいですねえ、火は」

「何を当たり前なことを言ってやがるんだ」


 乱暴に言いつつ、ディーンは松明をフィアの枝へくくりつけて男の様子を見た。


――酷すぎる。


 口にこそ出さなかったが、男の状態は眼を覆うほどであった。

 食事が取れなかったばかりではない。首から下を真っ暗な湖に沈め、物言わぬむくろと夜ごと妖美な香りを放つ花に囲まれていた恐怖と心労が、彼に数十年の歳月と同じ苦悩を与えていた。

 頬はこけ、紫の唇はひびわれて、震えを止めることができない。まさに、立っていることがやっとの有り様だった。

 男はディーンを見上げ、屈託なく言った。


「やあ、あなたは随分お若いんですねえ。幻じゃなくて、本当によかった」

「眠れないなら紫蓮花の幻も関係ないだろう?」

「ありますよ。眠れなくても、幻は見るんです。あの花の香りは、眠りをもたらすだけでなく、脳に働いて眼や耳や肌に触れた感じまでも錯覚させて、幻影をみせるのです。一種の痲薬(まやく)ですね。いや、痲薬よりももっと厄介かもしれないな……」


 生きた人間に会えたことと炎の温かさに触れたことで興奮しているのか、男はしゃべり続けた。

 その間にディーンは、半裸になって湖に潜り、水の中の様子を調べた。

 湖の透明度は高く、上から注がれる松明の光が、あみのように張り巡らせる白い紫蓮花の茎と根をはっきりと映し出す。

 と、その白い網に絡みつく何かがいた。


――!!


 驚きの余り水を多量に飲んだディーンは、急いで水面に上がった。


「どうしました。大丈夫ですか?」


 息の荒いディーンを、男が心配する。


「……ああ、なんでもねえよ」


 ディーンは、深呼吸を繰り返しながら、そう言った。

 何でもないわけはない。巨大な水中の網には、無数の人間の死体がかかって漂っていたのだ。


――急がねぇと、こっちもあいつらの仲間入りだ。


 大きく息を吸い込み、ディーンはもう一度潜った。

 先程より視界がきかない。彼が泳げば泳ぐほど、湖底の泥を巻き上げてしまうのだ。

 ディーンは、先程の様子で見当をつけ、手探りで男の足を紫蓮花の根から外した。


――ごふ……っ!


 足が外れ、支えのきかなくなった男の身体が沈む。男の足を抱えたまま(おぼ)れかけたディーンは、仕方なく彼から離れた。


――畜生め。


 心中で悪態を吐き、ディーンは浮上すると、息を吸い込んで再び男の救出に向かった。

 泥で滑る紫蓮花の茎を掴み、男の身体を後ろから抱えて、茎を持たせる。


「わ……わたし、溺れてしまいます」

「溺れると死ぬぞ。死にたくないんなら、そこに掴まってろ。……俺がいくら若くて体力溢れた好青年でも、自分より大きな人間を簡単には引き上げきれねぇんだよ」


 つれなく言い、ディーンは男を置き去りにして、泳ぎ去った。

 (つな)代わりに括りつけていた外套を掴み、フィアの木の枝によじ登る。


「ふう……っ」


 息を吐いて、髪をかき上げ、顔から雫を振り払った。足が重い。見ると、先程切った太股から予想以上に出血していた。


「ちょっとやりすぎたかな」


 ディーンは自嘲気味に呟き、濡れて緩んだ包帯を縛り直す。赤い雫が、湖にしたたり落ちた。

 その時、ディーンの胸に厭な感覚がよぎった。


――ヤバい……感じだぜ。


 湖面で震えながらその様子を見守っていた男が、不安な顔になる。


「あの……」

っ!」


 ディーンは、鋭くそれを遮った。口調を落として、


「あんた、本当によくやってるよ。こんなところで一人で、心細くて寒くて暗くて……俺、すごいと思う。あんたは強い人だ。だから――ごめん。そこから出るのは、もうちょっと後にさせてくれ」

「え……」


 男が、分からない表情になる。

 ディーンは笑顔のままに、大刀を掴んだ。


「先客だ。絶対――そこを動くんじゃねえぞ!!」


 怒鳴り、瞬間鬼神(きしん)の形相になって、男の背後の闇に斬りかかった。


「ひ……!」


 驚いて身をすくめた男は、振り向き――信じられないものを目にした。

 花も水も巻き上げて浮上する巨大な影。

 黒々としたそれは、針金のような毛が逆立ち、銀色の光を放つ二つの眼。その下に、真っ赤な口が洞穴のように開いている。

 頭上には、二本の鋭い角――妖魔だ。


《オオオオオ……ッ!!》


 地響きのごとく吠え声が、湖を揺さぶる。

 ディーンは飛びかかりながら気を篭め、剣を一閃(いっせん)した。


「服ぐらい――着させろってんだ、この野郎!!」


 青白い奔流は、妖魔の肩を掠め、わずかに被毛を断ち切って消える。

 妖魔が身を沈め、一気に跳躍した。

 ディーンは、湖に突き出た細い枝を片手で掴み、勢いのまま宙を舞った。こずえを裂いてフィアの樹冠に落ちる。と、そこへ妖魔が突っ込んできた。

 ばりばりと凄まじい音を立てて、フィアの大木が折れる。

 湖の中から男が叫んだ。


「だ……だいじょうぶ、ですかあっ!?」


 答えはない。

 男の蒼い顔からさらに血の気が引いた、そのとき。

 倒れた木々の合間から、一筋の青白い光が、稲妻のごとくほとばしった。


《ギャアアッ!》


 肩を切り裂かれ、空高く妖魔が跳ね飛ぶ。が、空中で踏み止まるや、すぐに体を返して再び降下した。

 倒木の隙間から身を起こしたディーンは、はっと、眼前に迫る妖魔を見た。大刀に気を篭める余裕はない。


「うおりゃあああっ!!」


 ディーンは右拳を握ると、妖魔の鼻面(はなづら)目がけて、叩き入れた。

 骨が砕ける鈍い音。

 死の腕が繰り出した渾身(こんしん)の一撃を浴び、妖魔は声もなく、風を切って吹き飛んだ。

 黒い巨体が弧を描き、湖に浸かる男を飛び越えて、水中へ落ちる。

 人間のものとも思えぬその所業(しょぎょう)を、湖の中から、驚嘆を通りこして呆然と男は眺めた。


「だいじょうぶ……みたいですね」

「ああ」


 ディーンは応え、右腕を振った。山のような巨体を吹き飛ばしても、痛みすらない。

 それよりも――。


――何をしたかったんだ?


 殴る直前に感じた、あの意識。もっと違う、本当はこんなものではないというもどかしさ。

 受け取りきれぬ、ディーンへの苛立ち。

 それらが混然(こんぜん)となって、ディーンに呼びかけてきた。ディーンは束の間想いに囚われたが、湖の方からの控えめな呼びかけに、我に返った。


「あの……わたしの方がだんだん大丈夫じゃなくなってきたんですけど……」

「悪い。すぐに行く」


 とるものもとりあえず身につけ、ディーンはフィアの枝に戻った。外套を裂いてさらに長い紐に結び、先に人ひとり入るくらいの輪を作る。湖へ放り投げ、


「掴まれ」

「は…はい」

「両手で掴んだら、体に通して脇で挟んで持つんだ」

「はい」


 素直に従い、輪を通した男の身体を、樹上からディーンは少しずつ引き寄せる。

 最初おっかなびっくりだった男も、頭上に年下の少年を見、ようやく表情を緩めた。


「わあ……着いた。着きましたね」

「まだ陸にあがってねえだろ。安心するのは――」


 言いかけ、ディーンは言葉を切った。男も気付いて、ゆっくりと後ろを振り返る。

 暗い鏡のごとく湖面に、ごぼごぼと波打つ泡――。


「早いみたいだぜ!」


 言って、ディーンは身体を伸ばして、男の襟首を掴んだ。

 そのまま死の右手で、男を樹上に引きずり上げる。

 同時に、再び湖から躍り出た真っ黒な影が、二人に襲いかかった。


「ひいいいっ!」


 少女のような悲鳴をあげ、男が枝にしがみつく。

 ディーンは、咄嗟にフィアの小枝を折ると、襲いかかる妖魔の左目に突き刺した。


《ギャアアアアッ!!》

「うわあっ!」


 痛みに暴れまわる妖魔に引きずられ、ディーンは宙に弾き飛ばされた。


《ウオ……オオオ……ォッ!!》


 激しく顔を打ち振るう妖魔の左目から、枝が抜け落ちる。しかし、それはさらに出血を招き、辺りの水面を生臭く、どす黒く染めかえた。


《オオ……オ……》


 眼を押さえ、妖魔が呻く。地響きのようなその呻きが、次第に言葉になってきた。


《人間め……人間め!! 約定(やくじょう)を破り、森を荒らし湖を荒らした――憎い人間め!!》


 枝にしがみついていた男は、はっと息を飲んだ。

 白く光る妖魔の無事な眼が、残されていた、もう一人の人間の姿を見つけたからである。


《人間め……!!》


 呪詛(じゅそ)を叩きつけるように、妖魔がその真っ赤な口を向けてきた。


「ひ……!」


 男は思わず顔を伏せた。――と。

 妖魔の背の向こうに、何かが光った。刹那(せつな)

 目も眩む光が、地から天へと駆け走った。

 攻撃を止めた妖魔が、信じられぬという顔で、後ろを振り返る。

 その顔が、ずるり、と上下にずれた。


《お……お、の……れ……》

「愚痴はあの世で言ってろよ」


 水面で、紫蓮花の茎に掴まったまま、ディーンは毒づいた。

 気の剣で断ち切られた妖魔が、左右に崩れ、半分に割れた角ごと湖に沈む。

 ズウゥン…と水面が揺れ、波が油を流したごとく照り映えて、弾けた。そのうち波はさざめきとなり、欠片(かけら)を揺れ集め、鈍い光を孕んだ鏡へと戻る。

 ディーンは立ち泳ぎで男の元へ引き返した。


「生きてるか?」

「は、はい」


 男がわたわたと手を振る。

 ディーンは木の幹から()いのぼり、男の横で枝をまたいで座った。


「やっと、まともに顔を合わせたな」

「はい」

「俺はディーンだ」

「スヴェンといいます」


 そう名乗った男は、よほど冷え切っていたのか、恐怖が消え去らないのか、松明の脇で小さくなったまま震えている。

 ディーンは、男に濡れた服を脱ぐように言うと、自分もびしょねれになった襯衣(シャツ)洋袴(ズボン)を脱いで、肌着だけになった。

 濡れた衣服をフィアの梢に広げて乾くのを待つ間、二人はしばらく日常の世間話にきょうじる。旅先で起こった面白い話や人づてに聞いた噂、失敗談など、それは実に他愛(たあい)のないものであった。

 話の最中、辛い境遇も忘れ、小さな笑い声さえ立てていたスヴェンが、ふいに黙り込んだ。


「どうした?」

「わたしたちがこんな目に合っているのは、自業自得というやつかもしれない、と思って……」

「自業自得?」

「ええ。さっき妖魔が言っていたでしょう。人間が約定を破って森を荒らした、と――」

「荒らすも何も、あいつらが腹を立てる道理があるのかよ」

「あるんです」


 重々しく頷き、スヴェンは言葉を紡いだ。


「この森は――世界統一以前から存在し、人の侵入を阻んできました。そのため、魔界より彷徨(さまよ)い出てきた妖魔の格好の棲家(すみか)となったのです。人は恐れ、おののきました。そこで一人の魔術師が妖魔と話し合い、約定を取り付けたのです。すなわち、妖魔が森に棲むことを認める代わりに、人を襲うことなかれと――。そのあかしとして人に預けられたのが、あの夢を授ける花、紫蓮花だったのです」


 驚くディーンの前で、スヴェンは、弟が行方不明となって以後、レテ市と紫蓮花について調べているうちに見つけた話だと前置きして語った。

 長い長い間、まれにみる人と妖魔の約定は破られることなく、統一世界(カナン)の中に組み込まれてもなお、人は紫蓮花を大切に護り育ててきた。そして妖魔もまた、人の世に影響を及ぼすことはなかったという。

 だが、世の中は移ろいやすいもの。目に見えぬ信頼やきずなが輝きを失い、もっと分かりやすく万人(ばんにん)の目を楽しませるもの――金銭かねが、世の中で大きな光を放つようになったのだ。


 この村は貧しい。その貧しさの中で、財源と言えるものは紫蓮花しかなかった。それを増やしてもっと利益を得たい、という考えは、欲深いというより当然とも言える人のさがだったのかもしれない。

 五年前、レテ市長は、これ以上はないという決定的なさくを取った。屈強の魔術師を雇って、長年森に棲み暮らしていた妖魔を退治しようとしたのだ。


「それは成功し、人々は自由に森から紫蓮花を運び出せるようになったと聞いたのですが……この現状を見る限り、何が真実かは一目瞭然ですね。我々は、彼らの罪を償っているのです」

「俺は他人の罪を償うなんざ、ごめんだぜ」

「他人? 妖魔の目から見れば、人は皆同じです。そうでしょう? 我々が妖魔、と呼ぶとき、個々の妖魔を指し示すことなどありません。彼らが人間、と言えば、それはすなわち我々すべてを指すのです」

「……」


 ディーンは黙った。彼の言葉の正当性を認めたのではなく、いかに妖魔と人とがかけ離れているかを感じたからである。

 個人としての妖魔を相棒と呼ぶ彼に、スヴェンの言葉は重い。

 九曜にとっても、自分はただの〝人間〟に過ぎないのだろうか。

 考えに沈むディーンに、スヴェンは、自分の話が深刻すぎたと感じたのか、申し訳なさそうに眉を下げた。


「すみません、こんなときに暗い話題なんか持ち出したりして……」

「構わねぇよ。聞けてよかった」

「ところで、あなたは随分お若いように見えますが、剣士なんですか?」

「残念ながら、ただの流れ者さ。あんたと違って、これしか取り柄はないんだけどな」


 ディーンは、腰から外して枝に掛けていた大刀を軽く小突(こづ)いた。

 どうやら服もだいぶ乾いたらしい。

 ディーンは、服と一緒にからからになった泥をはたいて落とし、再び服を着、剣を纏った。

 地色(じいろ)の分からぬほど日に焼け尽くした肌に、無数の傷が白い筋となって浮かんでいる。特に右手の甲から肘にかけて走る一条の傷は生々しく、一筋縄ではいかない彼の過去をうかがわせた。

 スヴェンは、何も言わずその姿を見つめ、自分も服を着た。

 ディーンは革手袋をはめて、


「街まで送っていってやりたいのは山々だが――悪いが、ここでお別れだ。しなきゃいけない用があるんでね」

「気にしないで下さい」


 スヴェンが、やっと自然に浮かべられるようになった笑顔を見せた。


「わたし、本当に幸運でした。あんなところで生きていても仕方ないと何度も思いましたけど……でも、おかげであなたに救われることができました。ありがとう。どんなに感謝しても、言い尽くせないぐらいです」

「よせよ。あとで街の酒場ででもゆっくり話そうぜ」


 勿論あんたの奢りでな、と照れくさそうに、ディーンは冗談ごかす。

 スヴェンは頷き、おぼつかない足取りでフィアの木を下りた。

 ディーンは、もう一つ松明を作って樹上から手渡し、


「気をつけて行けよ」

「はい」


 年上の男はあくまでも素直に答え、暗い森に向かって歩み出した。ふと振り返り、


「本当に――ありがとうございました」


 深々と頭を下げて、


「あの湖に浸かっている間、わたしはもう金輪際(こんりんざい)夢をみるのはイヤだと思っていました。でも……」


 きっぱりとディーンを見上げる。


「観てもいい夢もあるんですね。ほんの短い間でしたけど、本当にあなたにはいい夢を見させてもらいました。本当に……本当に、弟が生きて、目の前にいるような夢を――」

「スヴェン……」

「あなたと出会えてよかった。心からそう思います」


 スヴェンの笑い顔に、ひとすじ涙が伝い落ちる。


「あなたの友達は無事であるように、心から願っています」

「……ありがとう、スヴェン」


 男は、もう一度深々と頭を下げ、暗黒の森の中へ去っていった。

 闇への呑み込まれる小さな赤い光を、ディーンはしばらくの間、身じろぎもせず見つめていた。

 そのときである。

 微風が流れた、と感じた瞬間。

 闇も水も花も木も大きく吸い寄せられたかと思うと、湖の中央に巨大な水柱(みずばしら)が突き立った。


《薄汚い……人間め……!》


 風がわめくがごとく声は、先程の妖魔のもののように思える。

 吹き荒れる突風の中、ディーンは目を凝らした。


――なんだ……あれは……!


 吹き上げるうずの柱の頂きに、切り裂かれ、二つに分かたれたままの妖魔が立っている。

 揃わぬ口で、妖魔が吠える。


《人間めえぇっ!! 》

「――ちっ」


 踊りかかる妖魔を避け、ディーンは地面に飛んだ。

 水流ごと、妖魔は木々を押し潰し、宙へ跳ね返る。


「なに……?!」


 さながら、水で創られた一匹の大蛇であった。

 妖魔だけならともかく、飛沫(ひまつ)をあげて迫る水流は攻撃をする場所もなく、ディーンは逃げる他なかった。地面をひた走り、湖から遠ざかろうとするが、人間の足ではとてものがれられるものではない。なぶるように背後へ右へ左へと、水流が天から突き刺さる。

 ついに。


「うわあっ!」


 目前に水柱が降り、ディーンはって弾け飛んだ。

 勢いよく、セダ杉の大木に激突する。一瞬目の前が暗くなったディーンは、弾みで懐から落ちた白いものに気が付いた。部屋に残されていた、九曜の毛の一房だ。

 迫り来る妖魔を素肌に感じながら、ディーンはかすかに笑う。


「悪い……九曜。俺、もうだめかもしんねぇ……」


 呟いた、そのとき。

 肌に感じられぬ微風に攫われたように、白い毛の一房が、ふわり、と舞い上がる。

 瞬間、それは青白い閃光となって形を失い、辺り一帯を包み込んだ。


「!」


 光は、ただの光ではなかった。

 この世に存在しうる最低の冷気が、物理的な衝撃をもって、その場に降り注いでいるのであった。

 小さなささめきを立て、青白い光が届いたところから、水柱がみるみる凍りついていく。それは、頂上の妖魔とてのがれられはしなかった。


《オオオオ……ォォォ……》


 急速に氷像(ひょうぞう)と化していく妖魔が、声ならぬ悲鳴をあげる。だが、それもわずかの間であった。

 凄絶な凍気は、水柱ともども妖魔を完全に氷そのものと変え、それはさらに命までもてつかせた。

 キィ…ンという音と共に、何かが収縮していく。そして極限まで達した瞬間、爆音を発して氷像が弾け飛んだ。

 驚きの余り身動みじろきひとつ出来ないディーンの目前で、かつて妖魔だったものの残骸が、輝く氷の粒となって舞い落ち、消えてゆく。

 その向こうに、彼がいた。


「九曜……?!」


 豊かなたてがみ、強靭な(そう)()。想像上の生き物である獅子に酷似したその姿は、ディーンが相棒と呼ぶ妖魔のもうひとつの姿であった。だが――。


――違う。


 ディーンの中の何かが、それを否定した。拳を握り締める。


「おまえは、誰だ?」


 その問いに、凍りついた倒木の上に立つ獅子が、わずかに虹色の眼を細めた。


《我が名は、冱吼(ごこう)


 豊かに響く声は、ディーンが知っている妖魔のものではなかった。

 静かな、威厳に満ちた意志――。


「なに……?」

《我は、おまえが九曜と呼ぶ者の分身――。<彼>の意志に従い、おまえを助けにきた》


 ディーンは、混乱する思考を落ち着かせようと、頭に手を当てた。


「――ちょ、ちょっと待て。おまえは、九曜じゃないんだよな?」

《正確には、()の一部だ》

「俺は、あんたを知っているよな?」


 答えず、獅子は少しだけ頬を緩めた。


「テーベで最初に会ったのは、あんたか?」

《そうだ》

「じゃあ、その後で見た獅子の格好は、誰なんだ?」

()は、その状況に応じた分身を呼び出す。我を呼ぶのは、攻撃と守りがもっとも調和の取りえる形だからに過ぎぬ》

「つまり……あいつは、いろんな武器を使い分けてるってことか?」

《詳しくは異なるが、そう理解してもらっても構わぬ』

「便利なような不便なような……」


 呟いて、ディーンは、はっと自分の右腕を見た。


「じゃあ、こいつのことも……?」

《それもまた我と同じく、分身の一部だ》

「あんたからこいつに、元に戻るよう言ってくれないか?」


 獅子は薄く笑って、


《それは出来ぬ。それが望んだところで、戻れるものではない。()が命じぬ限り、離れはせぬ》

「与えられるんなら、戻せそうなもんだけどな」

《それは()の意識が、我らを完全に把握できておらぬからだ。さて――》


 声をかけ、獅子は鬣を一振りした。自然に発せられる凍気を浴び、辺りの水蒸気が氷の粒となって、きらきらと舞う。


《無駄口を叩いている暇はない。人間ひとよ、おまえはここで戻るのだ》

「なぜだ?」

()の命令だ。おまえを守れ、と》


 ディーンは、しばらく無言で腕組みをした。


「――あいつは無事なのか?」

《生きている』

「生きている、のと無事なのは違うだろう」

《身体に損傷はない》

「損傷がないなら、なんで本人じゃなくてあんたが代わりにここにいるんだよ」

《……》


 ディーンは立ち上がると、無造作に身体のほこり埃を払った。


「案内してくれ。あいつの居場所を知ってるんだろう?」

《何?》

「分身なんだから分かるんだろうがよ?」


 答えのない獅子に、さらに問い重ねる。


「分身がこんなところにいるのに、本人がいない。そのうえ俺に帰れときたら、危ねえことに巻き込まれて身動きが取れない以外、どう考えようがあるんだ?」


 笑いもせずに気軽に告げる。


「だったら、行くしかねえじゃねぇか」

《命令に反する》

「じゃあ、分身のあんたに助けられるのか?」


 その問いに、再び獅子は答えに詰まった。ディーンは腰帯に大刀を差し直して、


「俺を守れって命令なら、守れよ。俺は九曜を助けに行く」

《無謀だ》

「知ってるよ。だけど、やらなきゃ何もはじまらない。俺は今までもそうやってきた。関係ねぇよ」

《何故助けたい? 恩でも売るつもりか》

「友達に恩売って、どうすんだよ。まあ、向こうがどう思うか分かんねぇけど……俺はあいつの友人で、名付け親で、旅の相棒だぜ? 助けに行くのに理由なんかいんのかよ」


 濃紫の瞳が、迷いもなく獅子を見据(みす)える。


「で、どうする。案内するのか?」

《――人間の酔狂(すいきょう)さには呆れる》


 獅子は、氷の息をひとつつくと、ディーンの前で腹這(はらば)いとなった。


『乗れ。おまえの足では夜が明ける》


 ディーンはこだわりもなく青白い巨体に這いのぼった。鬣を掴んで、


「乗り物にしちまって悪ぃな」

《今さら気にするがらか?》

「それを言うなって。――なあ」


 アルビオンを縦断する際、獅子に乗って旅をした少年は、上から妖魔の顔を覗き込んで尋ねた。


「前から気になってたんだけど……なんで俺、乗っても凍らないんだ?」

《……》


 獅子は答えず、不機嫌そうに鬣をふるって、立ち上がる。


「なあ、なんで? なんでだよ」

《……その答えは、()に訊くがよかろう》


 言うや、猛然と獅子は、闇夜の森を走り出した。




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