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カナン・サガ 外伝2~幻想花~  作者: 藤田 暁己
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5

グロ(死体描写)注意。

 


 妖魔との戦闘で人の列から離れてしまったディーンは、やみくもに下生えをかき分けながら森の奥へと進んだ。

 森の入り口付近では、星月の淡い光が木々の隙間から降り注いでいたものの、蔓がからみ、枝と枝が交錯する奥深くでは、闇に慣れた眼ですら辺りを窺うのは難しかった。

 ディーンは明かりの用意もしてきてはいたが、先程の妖魔とのやり取りで、火種ひだねをどこかへ失くしてしまったようだ。


――畜生……ついてねぇ。


 不甲斐(ふがい)なさをく悔やみつつ、手で目の前の蔦を避け、倒木を乗り越える。

 気の剣を遣うという方法もあるが、視界がきかぬ今、森を彷徨(さまよ)う人々を傷つけることになりかねなかった。はやる気持ちを押さえ、両手で地道(じみち)に進路を切り開く。


「わ……っと!」


 盛り上がった木の根につまずき、ディーンは前へのめる身体を左手で支えた。

 手袋越しに、ぬる…とした感触が伝わる。一瞬どきりとしたディーンは、自分の手を見て大きな嘆息を吐いた。

 妖しのたぐいではない。木のうろに住む大蛞蝓(おおなめくじ)の巣に手を突っ込んだようだ。ディーンは顔を顰め、木の幹に手をこすりつけてぬめりを取った。


「……う。最悪」


 左手から異臭が漂う。大蛞蝓が敵を威嚇する時に放つ分泌物を、多量に浴びたらしい。


――紫蓮花よりまし、か。


 などと自分を励ますが、妖魔の相棒を助けるために森で彷徨った挙げ句、手がかりもないまま大蛞蝓の臭いにまみれている状況は、どう贔屓目(ひいきめ)に見てもただの間抜けである。


「まったく……!」


 語気も荒く、ディーンは右手で枝を払った。

 ――と。風切音(かざきりおん)と共に、根元から折れた枝が闇の彼方へ吹き飛ぶ。

 驚く様子もなく、ディーンはもう一度息をついて、今度は自分の右手を眺めた。

 この腕は〝死の腕〟。かつて魔術師に捕らわれていた九曜を助けた際、重傷を負った彼の腕の代わりとして、九曜の分身を与えられた。

 結果、傷は治ったものの、物を握れば粉々になるという破壊的な力を持つ腕となってしまったのだ。


 話に聞けば、人を超えた力を手に入れるためわざと妖魔を封印から解放したり、召喚するなどして、その魔力を得ようとするものもいるという。

 だが、ディーンにとってこの腕は、厄介な代物(しろもの)でしかなかった。

 正直、早く九曜の記憶が戻って分身を取り払って欲しいとも思う。

 便利なこともあるが、普通の人間には荷が勝ちすぎる――今まではそう思っていた。

 しかし、冷静に考えてみれば、妖魔が分身を人間に与えるということは、


――ものすげぇ……こと、だよな。


 分身は、文字どおり自身の一部である。人間に置き換えるなら、腕を失った者に自分の腕を差し出すような行為である。

 そこまでの行為であることを、自分は今まで自覚していたのだろうか。


――まあ、妖魔だから多少違うかもしれねぇが……。


「随分思い切ったことをしてくれたもんだぜ、あいつは」


 掛け値なしの信頼。

 人と妖魔との間に成り立つなどとは、簡単には思わない。

 それでも――。


――あいつが俺にか賭けたんなら、俺はそれを受け取るだけだ。


 かすかに笑う。

 身のうちに、すうっと冷たく、自分ではない未知の感覚が湧き起こる。いや、それはずっと以前から彼の中に存在していたのだ。ただ、今までそれを見ようとしていなかった――自分の中の〝九曜〟を。

 息を深く吸い、ディーンは意識を集中させた。

 右腕に、ちり、と違和感が走る。違和感は冷たい熱となって、その手のこうに見慣れぬ文字を描いた。


――この腕が導く。


 右腕から立ちのぼる凍気が形となり、青白い燐光を放ちはじめる。ディーンは淡く光る腕を見つめ、呟いた。


「馬鹿だな……九曜。何もこんな人間に賭けてんじゃねぇよ。阿呆野郎が……」


 しっかりと右手を握る。紫の両瞳(りょうめ)に、輝きが戻った。


「こっちもやるしかねぇじゃねぇか……!」


 陽気に言うや、彼は勢いよく森の中を走り出した。

 これが魔力、というものなのだろうか。

 九曜の分身の宿る右腕から伝わる意志は、漠然としていたが明確で、ディーンの考えよりもむしろ本能に働きかけて、彼を導いた。

 信じるも信じないもない。ただ、ディーンは〝彼〟の言うままに草をかき分け、木々をす擦り抜けて進んだ。

 途中、蔓薊(つるあざみ)とげに外套を引っかけ、ディーンは足を止める。

 松明もない中、絡まった布地をほどく彼の意識を、猛烈な苛立(いらだ)ちが後押しした。


「うるせっ。分かってるって」


 思わず口中で毒づき、ディーンは棘から外した外套を巻き付け、再び走り出した。

 胸が高鳴る。


――近い。


 ディーンは、尽きることない暗闇の迷路に、終わりが近づいていることを知った。

 ふいに、闇がゆらぐ。

 前方から、現実の眼にもはっきりと分かる、淡い光が差していた。

 暗黒の世界にいた彼に、青白い光は少し目映まばゆい。ディーンは眉を顰め、さらに前へ進んだ。

 次第に大きく明るくなる光に照らされ、闇に沈んでいた木々が形と色を取り戻す。


「……!」


 ディーンは息を呑んだ。

 それは、光ではなかった。

 一面を埋め尽くす、鮮やかな瑠璃――。

 ディーンの前に広がるのは、紫蓮花の大群が咲き乱れる、巨大な湖であった。

 鮮烈な香りが、揺らめきとなって辺りに立ちこめている。

 幅が半公里(ミール)はあろうかという湖は、曲線を描いて瓢箪(ひょうたん)形に窪み、さらに森の奥へと続いている。


――く……っ!


 眩暈(めまい)をおぼえ、ディーンは、鼻と口を覆う布を片手で強く押さえた。

 息をすまいとするが、わずかずつでもする呼吸から妖美(ようび)な香りが肺に入り、身体へと染みる。


――く……そぉっ!


 言うことをきかない体に苛立ちつつも、ディーンは膝をついた。

〝九曜〟の意識が遠ざかる。

 ふと。


『――ディーン……』


 誰かが、彼の名を呼んだ。

 見ると、青い紫蓮花の波の上に、背を向け俯いて立つ一人の女性がいる。

 華奢な背中に、ゆるく(つや)やかな黒髪が流れてかかっている。

 ふわり、と白い(ころも)が揺れ、女がこちらを向いた。


『ディーン……』


 黒髪の狭間(はざま)から、やさしく微笑む唇が見える。


――幻だ!


 直感がディーンに告げる。それでも彼は、一時(いっとき)も眼を離すことができなかった。

 完全に向き直った女が、顔を上げようとする。


――エレン……いや、ジュリアか……?


 考え、ディーンは強く頭を横に振った。


――違う! 二人とも死んだはずだ!!


 微笑みながら、女が彼を見る。

 その瞬間、彼の眼は凍りついた。


――まさか……!!


「……母……さん……?」


 長い長い間探し続けてきた、母という面影(おもかげ)

 それが今、現実の形となって目の前にいるのだ。

 青い花々を踏みしめて立つ女は、美しい微笑を浮かべたまま、彼の名を呼んだ。


『ディーン……』

「母さん……」

『ディーン。こちらへおいでなさい』


 ほっそりとした腕を差し出す。

 これは幻だ。

 だが、頭では理解できても、金縛りのように硬直した体は、あらがうことを許さなかった。

 母の影を纏った幻が招く。


『おいでなさい……ディーン』


 白い衣が、ふうわりと退がる。

 反射的に、ディーンはそれを追いかけた。


「待……っ」


 ぴしゃり、と足が水に浸かる。

 固いものを踏んだような感覚に、ディーンは、ぼんやりと視線を足元に向けた。


――茎?


 白く長い棒のようなものは、湖面に浮かぶ花の根か茎に思える。しかし丸い形のそれは、明らかに植物のものではなかった。


――骨……だ。


 ぼんやりと思い、ディーンの背にゆっくりと、ざわざわするものが這い上がってきた。


――人が……死んでいる。


 ディーンは足を止めた。いや、止めたつもりでいた。だが、意志に反して足は勝手に前に進み、徐々に彼の身体を湖の底深くへと追いやった。


――ち……くしょう……!


 香りを吸わないように息を止めるが、五分ともたない。まして、辺りはすでに満開の紫蓮花に囲まれている。ディーンは歯噛(はが)みをした。


「花……なんかに、負けて……たまるかよ!!」


 朦朧(もうろう)とした頭で、腰の大刀を引き抜く。

 そして、そのまま横ざまに自分の太股(ふともも)を切り裂いた。


ぅ……」


 一瞬、脳裏から(かすみ)が晴れる。しかしその痛みも、わずかな知覚(ちかく)となって、すぐに消えた。

 女は哀れむように彼を見つめ、さらに奥へいざなう。

 そのとき。

 青白い奔流(ほんりゅう)が闇を切り裂き、女の幻を一刀両断にした。


『!!』


 女は驚愕に眼を見開くと、音もなく仰向けに倒れた。

 瞬間、女の姿は無数の花びらとなって、千々(ちぢ)に闇夜に消え失せる。


「――花ごときが人間()らおうなんざ、百万年はえぇんだよ」


 低く毒づき、ディーンは気を帯びた大刀から、花びらを払った。

 外套の裾を引き裂き、太股の傷を縛る。

 あの、痛みで幻覚が消えた一瞬。それこそが機会だった。

 その一瞬に彼は大蛞蝓(おおなめくじ)の臭いのついた手袋を外し、覆面に押し込めることで、幻覚のみなもとである紫蓮花の香りを断ち切ったのだ。

 鼻と口一杯に広がる独特の苦味と酸味に、ディーンの渋面(じゅうめん)が最高潮になる。


「まったく、最悪だ……最悪の臭いだぜ……!」


 それが大蛞蝓なのか紫蓮花なのかはっきりしないが、ディーンはひたすら「最悪」を繰り返しながら、岸辺に上がる。

 右腕がぽう…と光を放ち、正気を取り戻した彼に、九曜の分身が意識を投げかけてきた。


「分かってるよ。俺だって急いでるんだ」


 ぼやいてディーンは大刀を納め、湖岸を取り囲む木に登る。

 水の中ではなく、湖の周囲に生えるセダ杉やフィアの大木を通って、先へ進もうという魂胆(こんたん)である。幼少を山麓で過ごしたディーンにとって、樹間を渡るのはさして難しい作業ではなかった。

 セダ杉は材として使われる太い木だが、下枝がまばらで掴まるところは少なく、樹皮もは剥がれやすく、滑りやすい。ディーンはわずかな下枝(したえだ)を足場に、枝々にから絡む蔓を巧みに使い、紫蓮花の咲き乱れる湖を渡っていった。


――意外と慣れるもんだ。


 薄らいできた大蛞蝓の臭いに、我ながら順応の高さを感心しつつ、横目で青い光を放つ湖を垣間(かいま)見た。

 いくら綺麗な花でも、ここまで咲くと見事というより恐さを感じる。


――それにしても……。


 一夜花(ひとよばな)とはいえ、湖を埋め尽くして咲くというのは尋常ではない。やはり何者かの力が、この花たちに影響を及ぼしているのだろうか。

 そして、あの人骨。


――ますます気味が悪いぜ、この森は。


 木の枝から枝へ振り子のように移動していたディーンは、ふと青い花の中に何かを見た。


――!


 つるりと、枝から手が離れる。

 ディーンは咄嗟(とっさ)に掴み直し、勢いのまま次の木へ渡った。フィアの枝のまたに立ち、湖に眼を凝らす。


「まさか……」


 いや厭な予感がする。だが、こういうときの予感は、得てして当たるのが彼のつねだった。


「待てよ……おい」


 呟いて、さらに湖の奥へと進む。湖を埋め尽くしていたはずの紫蓮花が少しずつ途切れがちになり、そのうちはっきりとそれと分かるほどの、ひとつひとつの点となる。

 まばらになった紫蓮花の代わりに現われたもの――。それは最初、黒い影でしかなかった。

 やがて、闇の中でもディーンに見えるほどの(おう)(とつ)が明らかになる。

 ごつごつした球面に突き出した三つの出っ張り。鼻と耳だ。


――人の頭……。


 骸骨(がいこつ)などではない、まだ人の形を保った頭部であった。気がつくと、それは辺り一面に点在し、紫蓮花の数を凌ぐほどとなっていた。

 もはや、事故で沈んだといえる数ではない。

 気味の悪さと得体の知れない恐怖に、指先まで粟立(あわだ)つ。

 さらに進んだディーンは、ついに、もっとも見たくなかった光景に出くわした。

 ディーンはぎり、と奥歯を噛み締めた。

 広い湖の対岸にある少し開けた窪地(くぼち)で、木々の向こうから溢れ出てきた人々が、何のためらいもなく湖へ入っていく。止まることのない行列は入水してからも同様で、人々は次から次へと深みへおもむき、あるいは草や石に足をとられて転び、溺れていった。


「……」


 ディーンは、恐怖と怒りで言葉を失った。

 催眠状態にある人々を、自ら入水(じゅすい)させるよう操るだけではない。

 溺れていく人々の嬉々とした表情。

 それは先程のディーンと同じように、願ってもかな叶わぬ夢を果たされ、至福の時を味わっている――そんな表情だった。


――許せねぇ……。


 彼らは、心の底に秘めた夢を叶えたと信じながら死んでいくのだ。

 叶えたと思ったものが幻ならば、それでもよい。しかし、それは決して命と引き換えにしてまで得るものではないはずだ。未来の可能性を握り潰すような、そんな虚しいことが許されていいはずがない。


「畜生……」


 ディーンは呻くと、フィアの幹を殴りつけた。


「畜生、畜生……!」


 これほど自分の無力を呪ったことはない。目の前で死んでいく人たちを見ても、どうすることも出来ないのだ。

 口惜(くや)しさをぶつけるように、ディーンは何度も拳を打ち付ける。

 と、ふいに。


「――あの……すいません……」


 足元の方から、遠慮がちな小さな声が聞こえた。

 ディーンは木を殴る手を止め、湖面を覗き込んだ。

 暗くてよく見えない。


「誰だ?」

「あの、そこには、本当に本当の人がいらっしゃるんでしょうか?」

「ああ、いるぜ。あんたは?」

「わたくし、ミラ国にざいを置く者ですが、数日前この森に迷い込み、湖にはまり込んで動けなくなったのです。どうか、ここから出してもらえませんか……?」


 震える声は、どうやら若い男のものらしい。幻とも思えぬその内容に、


「ちょっと待ってろ」


 言い、ディーンは身軽く、湖の方に伸びた枝に移った。できるだけ先端近くに行き、両膝を引っ掛けて反対向きにぶら下がる。


「わっ!!」


 いきなり半白骨化した人間の頭に出くわし、ディーンは縮みあがった。慌てて枝に戻り、


「おい、あんたどこだよ?」

「ここ、です……」

「ここっつったってよー」


 ぶつくさ言いながら、隣の枝に飛び移った。


「おい、まだ生きてるんならしゃべれ。探しようがないだろう」

「あ……はい。でも、もう疲れて……」

「今までそこにいたんだろうが。もうちょっと頑張れ」


 乱暴に励まし、ディーンは別の枝からぶら下がる。

 青ざめた男の顔が、水面から突き出していた。


「――よお」

「わっ!」


 死人と見えた男が、驚きの声を上げた。


「自分で呼んでおいて驚くんじゃねーよ」


 ディーンは、逆さまのまま顔を顰め、反動をつけて体勢を起こすと、枝に座って男を見下ろす。

 二十代後半のように見える男は、こけた(ほお)に、わずかに微笑みを浮かべた。


「だって……まさか、本当に本当の人間が来てくれるなんて……」


 言い差して、涙ぐむ。


「夢にも思いませんでしたから……」

「夢なら、ここには腐るほどあるだろうがよ」


 ディーンの皮肉に、男は生真面目に頷いた。


「ええ。でも、わたしには通じません。わたしは眠ることが出来ないのです」

「へ……?」

「そういう病気なんです。眠ったとしても一、二時間ホラが限度で、それ以上は薬を飲んでも眠ることはできません。体質、なんだそうです。身体がそういう仕組みになっていると、帝都の偉い医者に言われました。だから、無理に寝ようとするとかえって体調を崩しますし、寝なくても全く問題はないのです」

「じゃあ、なんでここに来たんだ。紫蓮花を探しに来たんだろ?」


 男がふ、と(うつむ)く。


「紫蓮花を探しに来たのは、わたしではありません……弟です」

「弟?」

「はい。なんとかわたしの不眠を治そうと……」

「だって、あんた自身は何の問題もないんだろう?」

「ええ。でも弟は、わたしのことを諦めが早すぎると言って、いろいろな薬を探してきてくれるのです。それが高じて、とうとう弟は薬師(くすし)になりましたよ」


 男はわずかに微笑む。


「やさしい子でしてね、ロイスは。親や親戚が眠れないわたしを片輪(かたわ)扱いして、すげなくされるのを見ていられなかったんでしょう。レテに本物の催眠草ヒュプニアがあるから取ってきてあげると旅出ったきり、帰ってこなくなりました」

「……」

「寝ない分だけ寿命が縮むのではないかと、あれだけわたしを心配していたのに……わたしが弟を殺してしまった……――」


 点々と人の浮かぶ湖を見る男の眼が、かすかな光を帯びた。


「まだ分かんねぇだろう」

「分かります。弟は一月前にこの街に着き、宿からいなくなりました。もうきっと――」

「待て、こら!」


 ふいに男がびっくりするほどの大声で、ディーンは遮った。


「あんた、ほんと諦めの早い野郎だな。死体見るまで死んだなんて言えねぇだろ?」

「ですが状況からみると……」

「あーうるせー」


 ディーンは苛々(いらいら)と耳の穴をほじった。


「あんた職業何?」

「学者です。眠れない時は本を読むに限りますから」

「やっぱりな。これだから、物事を道理でしか見ないやつらは面倒なんだ。あんたの弟もこれじゃ苦労するぜ」


 ふうっと耳垢(みみあか)を吹き、その指を男に突きつける。


「いいか、世の中には理屈じゃ片付かないことが山ほどある。今だって、花が人を呼び寄せて喰らおうかってところなんだぜ。一月行方知れずで生きているやつがいて、何の不思議があるんだ?」


 乱暴なディーンの理屈に、男がかすかに苦笑した。


「あんた、弟に生きていて欲しくないのか?」

「も……もちろん、生きていて欲しいですとも!」

「だったら決まりだ。あんたの弟は生きてる。さっさとここから出て、探しに行こうぜ」

「……はい」


 男は、涙声で頷いた。

 ディーンは再び枝からぶら下がると、男の様子を見た。湖面は暗く、詳細な様子を確かめるのは困難だ。


「足は動くか?」

「いいえ。泥と紫蓮花の根でからんで思うようには……」

「見えないな」


 呟き、ディーンは顔をしかめて男を睨んだ。


「あんた……それ、何の臭いだ?」

「あ、まだ分かりますか?」


 男はやつれた顔に微笑を浮かべ、


「ニオイネズミの臭腺(しゅうせん)から抽出した、特別な香油を塗っているのです。弟の手紙に紫蓮花の香りのことが書いてありましたから、万が一にと思って……」


 ニオイネズミは大蛞蝓と同じで、敵に出くわすと得も言われぬ臭気を肛門近くの分泌腺から出して逃れる。世界三大悪臭のひとつに挙げられる、殺人的な臭いである。

 卵が腐ったような臭いは目にも染み、それは覆面の大蛞蝓の臭いと合わせて、ディーンの嗅覚に致命的な損傷を与えた。吐き気をこら堪えながら、


「あんたよく耐えられるな」

「もう慣れました」

「――俺は無理」


 ディーンは両手で口に蓋をし、木の上に登った。男が叫ぶ。


「あ、待って下さい。置いていかないで!」


 ディーンは咳き込み、何度か息を吸い込んでから言った。


「どのみち、あんたをそこから出すには灯りが必要だ。火打ち石をなくしたんだ。なんか調達するから、ちょっと待ってろ」

「あ、火打ち石ならわたしが……」


 男は言いかけたが、首から下を水につ浸かっていることを思い出し、途中で口を閉ざした。


「底は泥と言ってたけど、沈むような感じか?」

「いいえ。泥の下は固い岩のようです。おそらくウルスラ山脈の岩盤の一部と――」

「分かった分かった、講釈はいいから。じゃあ、もうちょっとそこに居られそうなんだな?」

「ええ。ただ、ゆっくり奥へ流されているようです」

「奥へ?」

「はい。わたしは最初、そこの張り出した木の下辺りにいたんです」


 (あご)で、ディーンがいるフィアの木の向こうを示す。


「分かった。急ごう」

「あの……差し出がましいようですが、もしも小刀をお持ちなら、セダ杉の落ち葉とフィアの枯れ枝で簡単な火起こしが作れますが……」


 ディーンは少し考え、両手を打ち鳴らした。


「そうか、忘れてたぜ。頭いいな、あんた」

「学者ですから」


 男は力なく笑う。


「あの……もうひとついいですか?」

「なんだよ」

「あなたは……どうしてここへ?」


 ディーンは少し黙って、


「あんたと似たようなもんさ。友達を探しに、ね――」


 フィアの枝を掴み、弾みをつけて下の枝に移る。


「とりあえず、あんたの救出が先だ。溺れないように待ってろよ」


 男を振り向いて、


「負けんなよ」

「はい」


 男は頷いた。




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