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九曜が宿にいないことを知ると、ディーンはすぐさま身支度を始めた。
革の手袋を嵌め直し、手首に仕込んだ棒手裏剣を確かめる。大刀を抜き払い、油を染ませた布で、汚れた刃に丁寧に拭いをかけた。
日中陽気に笑っていた彼から明るさが消え、凄味の漂う闘士の様相となる。
前に一度、九曜は何も告げず姿を消したことがあった。
だがそれは意見の食い違いがあった後であり、自らの意志で出ていったのだ。
しかし、今回はそうではない。
この町に対して九曜が抱いていた違和感。異様な紫蓮花の香り。そして夢遊状態で森へ引き寄せられる人々――。
なにより寝床に残されていた、何かに断ち切られたような白い毛の一房が、いなくなった理由を如実に物語っている。
能力は持たないが、ディーンは奇妙なまでに確信していた。
――あいつは誰かに連れて行かれたに違いない。
誘拐――というより、行かざるを得ない状況にあったのだろう。
ならば、その状況を打破できるのは、自分以外にはいない。
ディーンは鍔鳴りの音高く、大刀を納めた。
九曜は、極めてずば抜けた強さを持つ妖魔である。だが、その彼でさえ魔術師に捕らえられていたことがあった。魔力の強弱だけではない、ほんの些細なところなのだ。
しかし、その些細なところで強者が負けることもあれば、子供が大人を投げ飛ばすこともある。ディーンは旅の中で、痛いほどそのことを思い知っていた。
――待ってろよ、九曜。
編み上げ靴の紐を締め、外套。鼻から下をしっかりと布で覆う。少し考え、残された白い毛を懐へ押し込んだ。
身支度を終えたディーンは、再び外に向かおうとして、足を止めた。
振り返り、部屋の中を見る。
満開の瑠璃の花。
ディーンは、右手で乱暴に扉の木枠を剥ぎ取ると、無言でそれを投げつけた。
思いもよらぬ速度で飛んだ木片が、硝子の小瓶を打ち砕く。
水を撒き散らして床へ落ちる紫蓮花を、もはや振り向きもせず、ディーンは夜の街へ出ていった。
ディーンが向かったのは、やはり[千年夜の森]であった。
あの幻が告げたことにどの程度真実が含まれているかは分からないが、紫蓮花の咲く場所であり、人々がそこへ向かわされていることから、何らかの関連はあるに違いないとディーンは感じていた。
――それにしても厄介だぜ。
幸いというべきか、来た道を戻るので森へは迷わずに着けそうだ。
問題なのは近づくにつれて強まる、この香りである。
――畜生。うざってー香りだ……!
胸中で毒づき、ディーンは闇の道をひた走る。
「俺は今後絶対、香水を振りまくような女はごめんだぜ」
よく分からない決意をしつ、ディーンは[千年夜の森]の前へと立った。
そこはウルスラ山脈の一峰ソフィア山の麓に広がる、古来より人を阻んできた森である。
かすかな星月の灯火さえ拒むその森は、名の通り、終わらない永い夜を過ごしているがごとく暗く、陰鬱であった。
催眠状態の人々は、花を採る者たちの道を行くのか、数名ずつの列となって真っ暗な森の中へ進んでいる。それはまるで、深淵の闇に吸い込まれているような光景だった。
ディーンは覆面を縛り直して、森へ入った。足を踏み入れた途端、深い闇が全身を包む。
「うっわ……!」
森に作られた細道である。いくら同じ方向へ向かうといえ、闇の中で大勢の人々を押しのけて進むのは至難の業であった。しかも人々は夢遊状態。怪我をさせるわけにもいかず、かといって油断をすると弾き飛ばされる。
「くっそぉ!」
舌打ちをして、ディーンは人の群れから離れた。
大刀を抜き、刀身に気を篭める。神呪を浮かび上がらせ、刀が青白く輝いた。
「――せいっ!」
掛け声と共に、ディーンは剣を振り下ろした。
まばゆい気の光が疾り、行く手を阻んで繁る草木を断つ。ディーンは剣を手に、倒れる木々を踏み越えて進んだ。
人々の流れを横目に、気の剣を揮いつつ進むディーンの前に、一筋の光が突き立つ。
「ち……っ!」
ディーンは踏みとどまり、勢いのまま後ろへ翻筋斗うった。
木々に伸びる蔦を掴み、一回転して着地する。
目前の茂みから現われたのは、先刻の妖魔であった。狐に似たすらりとした黄褐色の体に、三つに分かれた太い尻尾。そして額の一本角――。
だが、肩の傷はなかった。妖魔の肉体は、彼の剣で受けた傷など簡単に治癒できると見える。
「来ると思ったぜ……!」
大刀を平正眼に構え、ディーンは不敵に言い放った。
「てめえら、人をこんな森の中へかどわかして、どういうつもりだ?!」
狐の顔が、ぎしり、と歪んだ。飴色の眼が異様な光を帯びる。
《に、人間……人間、にく……憎い、憎い……!》
切れ切れに伝わる妖魔の意志に、ディーンは驚いた。
《に、憎い憎い、人間……憎い……!》
「おい、おまえ……」
単純な敵対心だけとは思えぬその様子に、ディーンが思わず気を緩めた、瞬間。
《に、人間憎い……憎い憎い憎い……殺す、殺すう……っ!》
ぞわり、と牙を剥いて、妖魔が彼に飛びかかった。
即座に退がり、ディーンは下から斬り上げた。
《ぎゃいんっ》
腿を切られ、妖魔が草地に落ちる。
ディーンは切っ先を妖魔へ向けたまま、追撃をためらった。
妖魔は、木の根元で丸くなり、こちらに牙を向けている。
《人間……人間、憎、憎い……憎い》
「おまえ、何をそんなに憎んでいるんだ?」
穏やかな声で話しかける。
「人間みんなじゃないんだろ? 誰を憎んでいるんだ?」
《憎い……憎い、憎い人間憎い……こわ恐い恐い……》
「恐い?」
《憎い人間恐い……痛い恐いいいぃ……》
「なんなんだ? 一体、何があったんだ?」
《人間嫌い恐い痛いいいい……嫌だ嫌だ嫌だ人間嫌だ殺すう……っ!》
叫び、傷ついた肢のまま、妖魔が再びディーンに襲いかかった。
身を反らし、ディーンは転がってそれを避ける。
妖魔が、にいっと笑った。
はっと、ディーンが立ち上がる。しかし、それも途中までだった。まるで自らの意志があるように伸びた草が蔓のごとく彼の手足にから絡まり、動きを止めたのだ。
「く……っ!」
草の檻に吊るされた彼を眺め、妖魔が舌なめずりをした。
飴色の獣の眼が、悦びに輝く。
ディーンは眼を閉じた。覚悟を決めたのではない。気を最大限に集めているのだ。
「どうやら、おまえらにもそれなりの事情があるようだが――」
みしり、と音をたて、右手に絡みついていた草の蔓が、根元から引きちぎられる。
「こっちも急ぐんでな」
言うや、右手で左手首の蔓を裂き、大刀で足の戒めを切った。間、髪を入れず、気を篭めた剣を一閃する。
《ギィヤアアアアァッ!》
妖魔が絶叫した。
青白い気の光を浴び、何かが白く宙を舞う。角だ。
《ヒイイイイィ……》
叫びながら、妖魔の体は急速に形を変えていく。角を切られ魔力を失ったことで、戦闘形態を維持できなくなったのだ。
妖魔は、狐に似た獣から、柔らかな茶色の髪と飴色の眼をもった少女へと姿を変えた。
人間ならば十四、五にみえる妖魔は、足の傷も癒えぬまま、小さくなって震えている。
《人間恐い恐い嫌い痛いいぃ……》
こちらを睨み据えたまま、同じ言葉を繰り返す。
ディーンは、唇を噛んだ。厳しい表情はそのままに、
「分かった。おまえの言いたいことは、よく……分かったよ」
哀しみすらこめて呟くと、大刀を掲げた。
そして、そのまま振り下ろした。
*
《魅狗里が……や殺られた》
錆色の髪をした男が、押し殺した声音で呟いた。
同様に気付いた男女は、同じ瞳を見合わせて頷いた。女が壇を降りて、歩み寄る。
歩むたび黒々とした床面が、かすかにさざめいて波紋を作った。
《落ち着いて、呂馗》
《落ち着け、だと?》
激情にかられた獣の眼で、呂馗と呼ばれた男が振り向く。
《よくもそんなことが言えるな、流霞。おのれより下位の妖魔の命は、軽いとみえる》
《言葉を慎みなさい》
あくまで穏やかに、女は言った。呂馗はうなだれて、
《……すまぬ》
《謝ることはない》
闇色の髪の男が、壇上から呼びかけた。
《仲間を失って怒りを覚えるのは当然だ。それは我々も同じこと》
音もなく壇上から滑り降りて、女の元へ歩む。
《なあ……流霞》
《そのとおりよ、流惟》
女は男の体に腕を回し、
《だけど、怒りに任せるだけではだめ。よく考えないと……》
《流霞の言う通りだ、呂馗》
青白い顔に映える朱唇が、笑みを象った。
《先程は失敗したが……今度は、奴のもっと深いところに働きかけるのだ》
いつのまにか、彼の左手には美しく咲いた紫蓮花が一輪、握られていた。
心を揺さぶる芳香。
《人の心は弱いもの……。いくら妖魔の分身を持とうが、気の剣を遣おうが、心を攻められて弱みを見せぬ人間はいない。すぐに他の人間と一緒に……花の餌食となろうよ》
艶やかな花弁に、唇を触れる。
呂馗は頷いた。
《では……行く》
《頼むぞ》
一滴の揺らめきを残し、呂馗の姿が消える。
流威は、腕の中の女に囁いた。
《ただ少し……あの分身が厄介な――》
《彼に手出しはできないわ》
《どうしている?》
《眠っているわ》
その答えに、流威はわずかに驚きを示した。
《意外だな。余裕なのか……それとも……?》
《分からないわ。彼には、未知の部分が多すぎる》
片時も離れることのない女の苛立ちを感じ、流威はその髪に指を絡めた。
性質も能力も鏡像のように同じくする双生児の妖魔は、相似が近ければ近いほど結びつきが強く、魔力だけでなく感情までも共有し、増幅するという。
《焦るな。ゆっくりと、時間をかけて彼を手に入れればいい。所詮我々の手から逃れられようはずがない》
《ええ……そうね》
《そうだ。ゆっくりと――》
時間はたっぷりとある。
同じ顔をした男女の妖魔は、顔を寄せ、ひそやかな笑いを交わした。
* * *
<彼>の前を去ってから十日後に、その人間はまた現われた。
<彼>は、ひとつ尾根を越えた頂上の高みから、襤褸一枚を纏ってやってくる人間の姿を認めると、大地を一蹴りして宙へ飛び降りた。
広角を捕らえる眼と大きな一対の翼で、白猿翁の元へ舞い下り、再び牡鹿の姿に変わる。
老いた魔術師は、驚きを隠そうともせず、皺に埋もれた小さな眼を真ん丸にした。
「ほ……ほう。氷の大鷲とな。これは驚いた」
《何の用だ。去れ、と申したはず。我はまだ呼んではおらぬぞ》
「いささか話しおうてみたいと存じてな。ほれ……ここに酒もござる」
屈託なく言い、白猿翁は、腰に麻紐でぶら下げた瓶子を叩いてみせた。
<彼>は岩に座り、ふ…と微笑んだ。
《話し合うも何も、おのれは僧侶どもに無用と言われておるではないか》
「ほ……」
《ようやくに約定を取り付けたところで、僧侶どもはおのれとの約定を守る気はないときている。それなのに、まだ我らと話し合うか?》
「ほ、ほう」
嬉しげに、楽しそうに白猿翁は笑った。ぼうぼうの髭を撫で、
「知っておったか。いや、知っておられたとは……」
《久しく眠りに就いていた我ら、人の世界を学び直す必要がある》
「さようか……。さては、あの時の〝風〟でござるな。あれはやはり、ぬしであったか」
《そうだ》
牡鹿は頷いた。
《<彼女>のもたらしたものは、単なる目で見、耳で聞いた情報ではない。真実だ。僧侶らの心は欲が渦巻いている。おのれが命を賭けて助けるほどのものではない》
「命?」
《そうだ。このまま我らに関わると、おのれは命を落とす……そう遠くないうちにな》
「ほ、ほう」
白猿翁はまた笑い、
「当て所もなく暮らしてきた我が人生。そろそろ終わりを迎えたところで、惜しくはなかろうて」
本気とも嘘ともとれる口振りで言うと、杖をつきつつ、牡鹿の斜め向かいの岩に腰を下ろす。
「ところで、鹿に鷲に風……おぬしの本当の姿はどれじゃ?」
《<彼>は、まだ眠っている。わずかに我らと意識は繋がっているが、完全に目覚めるのはまだ先だ》
老魔術師は杖の柄に両手を乗せて、蒼白の妖魔を見上げた。
「なるほど……では、すべてはそのものが目覚めるまでのかりそめの姿か?」
《かりそめではない。我らもまた<彼>であるからだ》
禅問答のような答え。だが、飄然と世の裏表を生きる白猿翁にとっては、明解な答えだったようだ。大きく頷いて、
「なるほどのう……。しかし、何故儂にそのことを打ち明ける? そなたの氏素性に関わる話じゃ。他聞憚られることであろうに」
牡鹿の大きな虹色の瞳が、すうっと細まった。
《<彼女>がもたらした真実の中に、おまえの真実も含まれていた》
「……」
《おまえは嘘をついていなかった。よく分かった》
牡鹿は、わずかに微笑んで、
《白猿翁よ。ひとつ聞きたい》
「なんじゃ」
《何故、神の法を捨てた?》
老人が黙り込む。
《我が氷雪を阻んだ呪法は、光の波動。生半可な魔術師や神官ができる業ではなかった』
「――のう、氷の主よ……氷王よ」
老人は自嘲ともつかぬ笑みを湛え、呼びかけた。
「なまじ能力など持つと、特別な人間だと思い上がることも多い。神に選ばれた者だとな……。だが、いくら法術を学んだところで所詮人間は人間よ。神にはなれぬ」
《それは当然のことだ》
「それを当然と思えぬのが、人の哀しさよ」
白猿翁は、懐から縁の欠けた大きな杯を取り出すと、酒を注いで牡鹿の前に置いた。
これもまた欠けた小さな杯に酒を酌んで、一口、口に含む。
「あるところに一人の若い法術師がおった。彼はずば抜けた法術を持ち、聖騎士もかくやと言われていたさ。ところがある日、彼は恋に落ちた。天の神でさえ止められぬという燃え盛るような恋であった……」
説話を語るがごとく、老魔術師は話し始めた。
「そのうち娘が産まれ、彼は家族を持つようになった。なあ……氷王よ。この世でこれ以上はないという幸せを、彼は手にしたのだよ。だが、それも束の間であった。原因不明の高熱で、娘が床に臥したのだ。赤死熱よ。死の病よ。今でこそ……――」
老人は、何かを堪えるように言いよどみ、
「今でこそキナの葉が特効薬であると知られるが、その時は何もなくてなあ……。帝都の医師たちが、茫然とたちすくんでおるのさ。体を真っ赤にして高熱に侵されて苦しむ娘に、為すすべがないのだ。神官は祈祷し、彼も法術を惜しみなく使ったよ。だがよ……法術は、所詮病を治す力などないのさ。病に蝕まれ、生命の火を燃え尽きんとする病人に、いくら法力を注いだところで砂漠に水を撒くようなもの。彼は無力にさいなまれた……。
そんな時、彼はある噂を耳にした。西国のある部族が赤死熱の治療に成功したとな。彼は狂喜した……だが、それこそが絶望の始まりであったのだ」
あくまでも静かに、白猿翁は続ける。
「帝都は、彼にその治療を許さなかった。その部族は今なおルシアの教えを阻み、生け贄を捧げて呪術を行なっていたのだよ。法術師が呪術に頼るのは許されん、というわけさ」
深い皺に埋もれる双眸の奥に、ちろり、と光が燃えた。
「彼は必死に説得したよ。彼らが使っているのは薬草で、呪術ではないとな……。しかし、帝都は耳を貸そうとはしなかった。そして、そうこうするうちに、娘はとうとう病と戦いきってしまった。死んだのだよ。まだ……九つにもならぬところだった」
《……》
「後を追うように妻も亡くなり、悲嘆に暮れた彼は帝都を出た。出ざるを得なかったのだ。もう、法術師として生きていく意味などなかったのだよ。そして、彼は死のうとした。
のう……氷王よ。人とは不思議なものよ。死にたい死にたいと思いつめたところで、喉が渇けば水を求め、腹が減れば物も食うのさ。あたたかい寝床があれば、ありがたいと思う。そんな生活を続けるうちに、彼は悟ったのだよ。自分の生きる道はここにある、とね」
ゆっくりと、白猿翁が氷の妖魔を見た。
「法力で人を救うことは出来ぬ。人を救うことが出来るのは、魔でも神でもなく……人そのものなのだ。理や形ではない。食べて寝て起きて歩き笑い生きる、平穏な人々の生活の中にこそ神の真理が宿るのだよ。礼拝や教典など、牛の糞ほどの価値もない。人が人たるように生きる手助けをするために我が能力はあるのだと……彼はようやく悟ったのだ」
《そして今、妖魔に肩入れを?》
老人はふ、と笑って、
「法術師ダーナラム・スッタ・サーリヤは死んでしまった。ここにおるのは白い髪の猿じじいじゃ」
《時止めを使えば若くいられよう》
「形ばかり若くしてどうする? 儂は己がことに賭ける能力があるならば、もっと別のことに使いたいのじゃ」
《どう使う?》
「目下の課題はそなたの居場所じゃ、氷王」
《我ら?》
「おうよ。あの腐れ坊主どもに白旗を上げてやるのは口惜しかろうが、関わり合ってこちらも腐るのはごめんじゃ」
岩の上から身を乗り出し、
「ここより南へ五公里ほど下ったところへ、ほどよい高地がある。少々低いが……もっと荒れて、何より人がおらぬ。このマテ山と同じ大地の気脈の通じる山ぞ。どうぞ、そっちに居を移してみる気はないか?」
牡鹿はわずかに顔を顰めた。
《ここ数日姿が見えぬと思うていたら……そのようなことを探りにいっておったか》
「いかにも。して、どうじゃ?」
《さて……考えてみようか》
白猿翁は、両手を打ち合わせた。
「ほ……考えてみてくれるか」
《喜ぶな。白猿翁》
老人は、器用に岩の上に飛び乗ると、痩せた体で小躍りした。
「そなたが考えてみると言い申しただけで、よいのじゃ。そなたらは嘘をつかぬ。そのそなたが考えてみると言うたは、すなわち考えてみるということ。愚かな儂の言葉に耳を傾けてくれるだけで、儂はもう万万歳じゃ」
《陽気な……》
「何とでも言え」
呆れたような牡鹿の視線をものともせず、白猿翁は右手に杖、左手に杯を持ったまま、白い髪と髭をなびかせて奇妙な舞いを踊り続けている。
その傍らで、氷の牡鹿は静かに酒を飲んだ。
いつしか、空には大きな月が現われていた。
研ぎ澄まされた氷のごとく、透き通る満月であった。
その月に導かれるように、酒を飲み終わった牡鹿は、腰を上げた。
「もう行くのか、氷王よ」
《我らがいつまでもここにいれば、おまえは凍り死ぬゆえな》
「ほ……」
意識して放出されたわけではない魔力の凍気は、それでも白猿翁の襤褸の切れ端を固く凍め、霜を下ろしていた。
キン…と氷の欠片を弾き、牡鹿は岩を登り、崖に立つ。
《よい酒であった、白猿翁よ》
「よい酒であったな、氷の主よ」
屈託なく言い、白猿翁は杯を掲げた。
牡鹿はかすかに微笑み、こう告げた。
《今度来た時は、我を呼べ。凘鋭、と――》
「凘鋭……」
《そうだ。それが我が名だ、ダーナラム》
氷の牡鹿はそう言うと、氷雪を巻き起こして彼方へ消えた。
その消えた彼方へ、白猿翁は呟いた。
「また会おうぞ、氷の王よ」