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それは夢というより、封じ込められた記憶の底を漂っているようだった。
九曜はいつになく深い眠りから覚め、眼を開けた。
――あの名前……。くそ、思い出せないな。
目覚めきらぬ自分に、最初に話しかけてきた人間。
彼の名前が分かれば、他も思い出すことができるかもしれない。
《……痛ぅ》
記憶を思い出そうとする時の常で、鈍い痛みが頭を貫く。
九曜は溜め息をつき、不機嫌のままに自分を起こした相手を睨んだ。
《何の用?》
《――ようやくお目覚めね》
若い女の声だった。九曜が寝ていた籠の傍に、揺らめく黒い霧が立っている。
長い髪をなびかせた女にも見えるそれは、レテを取り巻く何かと同じ気を纏っていた。
九曜は欠伸をひとつし、目覚めたばかりのように身体を舐めた。さり、と肩の毛を一房、噛み切る。
《僕はあんまり君たちに用はないんだけど》
《わたしたちは、あなたに用があるの》
声ともつかぬ意志で、影は言った。
《わたしたちの元においでなさい》
《招待にしては、影を使って呼び出すなんて随分失礼な話だけど……》
言い差して、九曜はちらり、と寝台に倒れ込んで眠る少年を見た。
《行かないと面倒なことになる。そうでしょ?》
《そのとおりよ》
九曜は身体を一振りし、籠から飛び下りた。
《じゃあ、案内してもらおうか》
《ついて来て》
影が、空中に半身を滑り込ませる。亜空間への窓が開いているのだ。九曜は、一瞬足を止めて少年を振り向き、無言でその後に続いた。
人の目には触れぬ空間と空間の狭間――それが亜空間である。
魔力を持つ妖魔は、この亜空間を利用することで、空間の移動距離と時間を飛躍的に短くすることを可能とした。空間移動である。
すなわち空間を三次元の立方体だとすると、ある平面のA地点から隣の平面のB地点に行くための道筋を平面から平面に移動するのではなく、立方体の中を通り直接AからBに向かう――大雑把に言うとこうなる。実際は立方体の中、つまり亜空間ですら捻じ曲げて、さらにAとBの距離を縮めるわけだが、人の頭で理解できる仕組みではない。
九曜らは、およそこういった道を通って、目的の場所に辿り着いた。
着いた途端、九曜の身体に強い衝撃が走った。
《……くっ!》
白い毛並みから、青白い電光が迸る。結界だ。
虹色の瞳が、魔力に輝いた。
電光に包まれたまま猫の身体が膨れ上がり、よく似た巨大な生き物へと変化を果たした。豊かな鬣が四方へ逆立つ。
影の女がはっと息を飲み、煙となって飛散した。
獅子となった妖魔を、なおも電光が縛る。結界の狭間から白い凍気が蒸気となって吹き上がり、戒めを内側から弾け飛ばさんとした。
ふいに、獅子は攻撃を止めた。
目の前の空間から、別の存在が現われたのだ。
《そこまでだ、氷の妖魔》
その存在は、艶のある若い男の声で言った。
獅子は忌々しげに唸り、電光を纏ったまま魔力を弱めた。そして今度は、それまでとは想像もつかぬ別の形へと変わる。
細い身体にすんなりと伸びた手足。青味を帯びた白い巻き毛と雪白の肌に、大きな虹色の二重の双眸――色彩は同じながら、それは十才に満たぬ幼い少年であった。
弱まった電光を手で払いのけ、九曜は、不機嫌を隠そうともせず相手を仰いだ。
《随分なお招き、どうも》
《これはこれは――どれほどの妖魔かと思えば……》
陰に浮かびあがる朱唇が、にいっとつ吊り上がる。
《なんと幼弱な……》
九曜の虹色の瞳が、すっと細まった。
妖魔の容姿は、魔力の強さを反映する。九曜を呼んだ相手は、彼の幼い姿にどうやら格下と見定めたようだ。
その相手は、青白いとさえ呼べるぬめやかな肌に、鋭く刻まれた細い鼻梁。切れ長の瞳は深淵の闇を孕むように昏く、顔にかかる短髪も光を呑んで黒々として、唇の赤が一層冴える。
人間でいう二十代半ばに見える彼の傍らに、同じ容姿をした女が現われて寄り添った。
九曜は、ふん、と鼻を鳴らした。
《双生児か……面倒だな》
《面倒? 面倒とはどういう意味だ?》
男がわずかに首を傾ける。
《おまえたちを相手にこの街から出るのが、だよ》
《出ることは出来ない。おまえは我々の仲間になるのだ》
男は昂然と言い放った。
《我に従え》
《――いやだね》
《いや、だと?》
男の顔に、奇妙な表情が宿る。
《人間に使われていたおまえには、願ってもない話だぞ。我に仕えよ。我々があの少年を殺して自由を与えてやる》
《断る》
九曜は鼻で笑った。
《僕は自由だ。一緒にいることも勿論、自由意志。分身を与えたのは人間の願いだが……それも、くれと言われたわけじゃない。彼を助ける、という願いを聞き届けるためには、僕の分身を与える必要があっただけのことだ》
淡々とした答えに、妖魔の男女が驚く。
《なに?》
《彼は、僕を助けるために〝魔の鎖〟をちぎり、腕を灼かれた。それを修復するには相応の魔力と時間が必要だ。君たちには……》
分からないかもしれないけどね、と九曜は付け足す。
《魔の鎖だと……ふざけるな!》』
男が怒鳴った。
《魔の鎖は、煉獄の炎から創り出された死の武器。我ら妖魔でさえ触れれば危ういものを、それを生身の人間が破って妖魔を助けただと……?!》
《まあ、僕も馬鹿だとは思うけど……事実そうなんだから仕方ない》
青白い男の面が、醜悪に歪んだ。
《見下げ果てた妖魔よ……! 人の言葉を喋り人と共に生きることを選んだだけでなく、偽りまで口にするようになったとみえる》
人と違い、魔力を備えている妖魔の意思伝達は、言葉ではなく思考のやりとりである。従って、嘘はつけない。意識を相手に送る以上、嘘をつくことに意味がないのだ。
だが人間は違う。実際に思っていることと発する言葉に隔たりがある。それが、妖魔が忌み嫌うことのひとつであった。
九曜は、ディーンと会話する際、必要がない限り〝言葉〟で会話する。それは思考で会話することに慣れていない人間を気遣ってのことだったが、人間を嫌悪する妖魔には自尊心を捨てているように映るのだろう。
《嘘か本当か見極めもつかないやつに、僕の選択をどうこう言われるのは心外だね。……じゃ、僕は帰らせてもらうよ》
気軽に告げて、九曜は背を向ける。
瞬間、目の前に突如、雨が降りはじめた。いやそれは、雨の形を纏った力の雫だった。
《く……っ!》
九曜は腕をかざして、後ろへ退った。男が笑う。
《ここから出られぬと言ったはず――》
《……だから、厄介だって言ったんだよ》
九曜はこぼした。その間にも不思議な煌めきを放つ雨は、ゆっくりと彼に迫り、周囲を丸く囲む。
《おまえごときの妖魔に、この檻は破れまい》
《……》
《ゆっくりとそこで見物しながら、頭を冷やすがよい。人を信じる愚かなおのれに歯噛みをしながらな……!》
哄笑と共に、男女の妖魔は煙となって消えた。
九曜は溜め息をついて、雨の檻の中に座りこむ。
確かに、どうやら自分はかなりディーンに毒されているようだ。
《まったく、早く出た方がいいっていうのに……》
胸元の金の首飾りをちゃり…ん、と指で弾く。
――しばらく、あいつらの出方をみるとするか。
もう一度息をついて、九曜は眼を閉じた。
* * *
尾根の中腹に建てられた、白い石の寺院。設立は古く、千五百年の歴史を誇る。
人間の世界に広く流布する光明神教――中でも厳しい修行をして神に近づこうとする彼ら僧侶は、世俗を離れ、戒律と神の言葉に身を置いて生きていた。
過酷な山の気候に住まい剃髪し、黄色い僧衣一枚に身を包んで日々村へ下りて受ける人々の喜捨で養いをする彼らに事件が起こったのは、二ヶ月ほど前のことだった。
あるとき、青白い光が山頂のほど近くに下りたったのが、そもそもの発端だった。僧侶たちは、それを最初吉事の証と喜んだのだが、次第に雲行きがおかしくなってきた。
冷えるのである。
このマテ山はハイラ高地の中でも霊峰と呼ばれ、標高は最大であり、山冠の雪は溶けることはない。それでも夏は巡り、寺院の周辺は短くとも緑がも萌えるのだ。そして、それは僧侶たちが大地から恵みを受けられる唯一の時でもある。
それが、日を追うごとに冬に舞い戻ったように冷え込み、雪がちらつくのだ。
僧侶たちは訝しみ、神への祈祷を再三行なったが、状況は改善されなかった。
そうしたあるとき。一人の僧侶が信じ難いものを目にした。
一頭の牡鹿が、尾根を渡っていくのを見たというのである。
しかもその牡鹿は澄み切った氷のように色がなく、通り過ぎた大地はみな凍りついたという。僧侶たちは戦慄した。魔性が現われたと――。
彼らはすみやかに退魔の儀式に取りかかった。
マテ山は、光明神ルシアが太陽を天へ掲げる杖としたといわれる聖山。妖魔に棲まわれるなどということは、あってはならぬ大事である。
だが、儀式は失敗した。
氷雪と共に現われた妖魔に、僧正の一人が心の臓を止められたのである。
僧侶たちは妖魔が自分たちの手におえぬ事を悟り、救援を求めた。それは大僧正の知り合いにあたる、術師であった。
優れた能力を持ち、それを生業とするのが術師である。彼は〝白い魔術師〟との異名を持ち、人々から親しまれていたものの、神に仕える僧侶が異端である魔術師を頼むのは憚られることであり、恥じるべきことであった。
しかし彼は一人山頂に登り、吹雪の荒れる五日間を耐え、無事帰還した。
「――いかがであった? 魔性はこの地を去ったか?」
勢い込んで尋ねる大僧正に、老魔術師は、ひび割れた手で長い髭を撫でた。
「いいや」
僧侶たちから、無念の呻きがあがる。
「彼の妖魔は、そなたらに去るように申してきた」
「話したのか?!」
「さよう」
老魔術師は淡々と頷いて、
「どうやら彼の妖魔は、封印を解かれて彷徨いついたと見える」
「しかし、この御山にいられては――」
僧侶たちから、口々に不安や怒りの声が上がる。それを黙って聞いていた大僧正は、重々しく口にした。
「仕方ない。こうなっては、如何なる謗りを受けようと正神殿へ事情を話し、聖母の御力にすがる他はあるまい」
僧正の一人が苦渋に満ちた表情で、
「だが聖母は、[大災厄]以降、祈りのため[象牙の塔]を降りられぬという噂――」
「この現状を御報せすれば、必ずや御力を御貸し下さるはず。マテ山が妖魔に侵されることを神がお許しになろうはずがない」
「しかし――」
「お待ち下され、方々よ」
深刻な話し合いを、老魔術師の声が断ち切った。
大僧正は苦々しげに彼を睨んだ。
「退魔の業に失敗したおのれに、もはや用はない。去れ」
「ほっほう」
魔術師は、梟のような笑い声をあげた。
「退魔とな。儂はそんな約束はしてはおらぬぞ」
「何!」
「この氷雪の原因であろう魔性を追い払ってくれと言われたのみぞ」
「だから、それこそが退魔の業であろう!」
忌々しげに、大僧正が唾棄する。
「神から離れ、外法の道を選んだそなたなれば、魔を封じ込める異端の業を持ち得るだろうと思うたのだが……誤算であった」
吐き捨てるように付け足す。
「所詮、異端は異端。外道じゃ」
魔術師の眼に、鋭い光が宿る。だが、怒る代わりに、彼は微笑んだ。
「言うたものよ。そもそも聖なる結界の張られた僧院の周辺に妖魔が降り立ったこと自体、おかしなことであろうに」
「なに……」
「先達の施した結界に甘え、それが緩んだことにも気付かぬ……あまつさえ妖魔を封じる呪法ですら満足に行なえぬのでは、霊峰マテ山の名が地に落ちたるとはこのことよ」
「貴様、われらを愚弄するか!」
「ルヴァインよ。おぬしが最後断食を行なったのはいつぞ?」
大僧正の本名を気軽に呼び、老魔術師は尋ねた。
「答えられるまい。断食と言いつつ酒を飲み、肉すら口にする。それのどこが苦行と言うのだ。立派な衣服に頭巾、丸々とした腹に神への奉仕がた貯まりきっておるわ。のう……大僧正よ」
深い皺に埋もれた眼が、すっと細まる。
「儂は、そなたらを崇める人々のためにそなたらを助けると誓ったのだ。そなたらの益のために罪もない妖魔を封じろというなら、最初から断っておる」
「罪もない妖魔だと? 世迷いごとを!」
「修行を行なわぬ僧侶とどちらが罪深いのかね……?」
答えを期待するでもなく言い、老魔術師は大僧正に歩み寄った。
襤褸切れを纏った真っ白な蓬髪の老人は、黄金の僧衣と僧帽を着た大僧正よりも光り輝いて見える。
「今少し、儂に時間をくれまいか」
「むう……」
「一月でよい。一月を過ぎて、彼の妖魔がまだこの地に留まるようであれば、その時は如何様にもするがよい」
「望みは……なんだ」
老魔術師は、ふ…と笑い、
「金銀宝石は、そなたらの太った腹にでも押し込んでいろ。儂は、美味い酒が飲めればそれでよい」
告げるや、ねじくれた杖をつき、彼らに背を向けた。
ふと、足を止める。
身体では感じぬ冷風が、間近を吹き抜けたように思ったからである。
僧侶たちを横目に窺うが、気付いた様子はない。
――生臭坊主が……。
彼は頭を振り、溜め息をつきつつ僧院を下った。
老魔術師の傍らを通り過ぎたのは、一陣の青白く輝く風であった。風は透き通る流れとなって山頂を目指し、岩の窪んだ一画へ降り立った。
岩の窪みには、氷の角を頂く牡鹿が座っていた。
光が溶け、風が<彼>の身体に戻る。
《御苦労だった……凊思》
<彼女>の見聞きした情報を受け、<彼>は呟いた。
* * *
二度の眠りを破ったのは、やはり彼女であった。
肘枕をついて上体だけ起こし、九曜は彼女を見上げた。
《何の用? 今度は影じゃないみたいだけど》
男とは異なり艶のない黒々とした髪を背に流した女は、ふうわりと彼のいる雨の檻へ近づく。足元にさざなみが立ち、蛇のように長い影が尾を引いて彼女を追った。
《あなた……何者?》
《どういう意味さ?》
九曜は起き上がって、胡座をかいた。
女は、ゆっくりとその周りを巡りながら、
《彼の力を浴びて角を見せない妖魔は初めてだわ》
《……》
《なのに基本形態がこれ? 信じられないわね》
基本形態は戦闘形態の対極――もっとも脆弱であり、妖魔の本質の姿である。
つまり九曜でいうと、本質は十歳足らずの少年なのだ。だが、それはすべてではなく、象徴でしかない。十歳足らずの少年が象徴するところ――すなわち魔力が未発達であり、成熟していないということだ。
対して女は大人の女性であり、完全に成熟しきった妖魔であるといえる。
ちなみに、妖魔に性別はない。魔力の性質が、攻または動にあるか守または静にあるかで、人間でいう男女の差が容姿として現われるだけであった。
女の魔性の言葉に、九曜は声もなく笑った。
《僕は何も隠している訳じゃないけどね》
《あなた――本当に魔の鎖につな繋がれていたの?》
《僕が〝嘘〟をついていると?》
虹色の双眸が、凝、と女を見る。
女は眼を逸らした。
《いいえ……いいえ。そんなことはないわ。だけど――》
言い澱み、女は彼を見た。
《あなたは、妖魔らしくない》
《それを言うなら君たちの方だ》
少年は老成した笑みで、檻の中から女を覗き込んだ。
《この町全体に呪をかけて、人間たちに何をしようとしているんだ?》
《報復よ》
《それがおかしいというのさ》
少年は、すかさず切り返した。
《相容れぬと言いながら、人間たちに求めてどうするんだ? 気に食わなければねちねちとやらず、さっさと皆殺しにしてしまえばいい。何故手の込んだことをする?》
《あなたには分からないわ》
《そうだね》
あっさりと九曜は言い、再び寝転んだ。
《僕は見物させてもらうよ。君たちに同調する気はないからね》
《皆殺しにすると言えば手伝うの?》
《いいや。悪いけど、何の益にもならない殺生はしないよう言われているんでね》
《それは、あの人間に……?》
《そう。意外と口うるさいやつでね》
深い色の双眸が、探るように九曜を眺めた。
《本当に……妖魔らしくないのね、あなた》
答えずに、九曜は肩をすくめる。
《手伝ってもらえなくて残念だわ。もう少し、そこにいることね》
感情もなく言い、女は出ていった。
《――報復、ねえ……》
寝転んだまま、九曜は呟いた。
何処ともつかぬ高みから降り注ぐ魔力の雨は、尽きることなく、何処とも知れぬ足元の闇の中へ吸い込まれて消えていく。
《うまく気付いてくれればいいけど……》
共に旅をしてきた少年の姿が瞼をよぎる。
能力者でないゆえかどうか、あの黒髪の少年は、時折想像もつかぬことをしでかしてくれた。だがここにいる以上、手助けは限られる。
――ディーンのことだから何とかするとは思うけど……まったく、あいつといると碌なことがない。
胸中でぼやく。ふと改めて、辺りに取り残されたように漂う甘い香りに気がついた。
――紫蓮花か……。
《少し感謝しなくちゃいけないかな……》
自嘲しつつ、呟く。
この花のおかげで、思い出したのだ。
まだ目覚めぬ自分が見ていたものを。
そして――あの人間の名を。
《白猿翁……》
懐かしいその名を、九曜はようやく口にした。