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カナン・サガ 外伝2~幻想花~  作者: 藤田 暁己
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2

 


 昼日中、毛織りの(とばり)を下ろしたディーンは、夢も見ずに熟睡した。


 アルビオン王国を縦断したのは九曜の魔力だが、その後ムーア大陸の北端となるセントゲア大陸と接する山岳地帯を抜けるのは、徒歩での旅であった。セントゲアの東、カルディアロスから来た彼は、ムーア大陸へはオーケイア海沿いに入ったので、内陸から西はまったくの未知の世界だった。

 つい先頃、山岳地帯の先鋒(せんぽう)であるシ・セル山を越え、ギルモア、ウージュラン、ミラといった小国を抜けて勢いのままウルスラ山脈にいどんだのだが、ここへきて旅の疲れが一気に噴出したのだろう。身体を拭き清め、帳を下ろした後は、腰の剣も外さずに寝台(ベッド)に倒れ込んでいた。


 辺りの闇が濃度を増した気がして、ディーンはまぶたを開けた。


――今、何時だろう……?


 時を告げる神殿の鐘は、夢うつつにも耳にしていない。ぼんやりと辺りを見渡し、帳の隙間から洩れる薄明かりに目を凝らした。

 白い相棒は、傍らの籠の中で丸くなっている。カシマールが寝台(ベッド)用にと貸してくれたものだ。

 ディーンはかすかに笑い、少しだけ帳を開けた。

 街はすでに眠りに就き、星の(またた)く夜空よりも深い闇に沈んでいる。あたたかな光を放つ街灯も何やら心細く、黒々とした高い山の稜線(りょうせん)が生き物のようにこちらに迫っていた。


――そういえば……。


 思い出して窓辺に目をやると、硝子瓶に生けた紫蓮花のつぼみの先が、わずかにほころんでいた。

 星明かりにうつる花は、目覚めたばかりの少女のように、蕾の緑をほんのり桜色に染めながら形を変えていく。甘く清らかな香りは、花が呼吸するがごとく濃さを増して、空気に浸透した。

 卵がひび割れるに似た音を立て、一枚の花弁が外へ押し出される。

 見た目より肉厚な花びらは、(きぬ)に負けぬほどつや艶やかだ。

 咲ききるのが待ちきれないディーンは、花瓶を抱えて花を覗き込んだ。蕾の中にはまだ幾層もの花弁がぎっしり()まっており、花の形を想像することすら難しい。


「うわ……」


 鼻孔(びこう)に直接強い香りが届き、ディーンは、顔を顰めて花瓶を置いた。

 一瞬、香りだけではない何かが、彼の意識を遠ざける。


「わ……何だ、これ……」


 頭を振り、ディーンは花瓶から手を離した。何もないはずの顔の周りに手を振り回して、しつこく残る香りを追い払う。

 紫蓮花はゆっくりと、まだ花弁を開こうとしている。

 (あふ)れ出る、誘惑の甘い匂い。

 だが彼は、それをもはや、よい香りだとは思わなかった。


『この街は早く出た方がいいよ』


 つい先程の相棒の言葉が脳裏に甦る。しかし、その彼もまた眠りの(わな)にはまっていた。


――寝てはいけない!


 思う傍から、瞼が重くなる。

 睡眠は動物最大の本能。食欲、性欲は押さえることが可能だが、眠ることだけは禁じられると気が狂うといわれる。


――寝ては、だめだ……ここで寝ては……。


 ディーンは懸命に頭を持ち上げ、瞼を開けた。だが、それもわずかな抵抗だった。

 あでやかに、濃密にたちこめる香りの中で、彼は再び眠りに就いた。

 その傍らで、彼らの夢を吸いとるがごとく芳香を増した蕾が、さらに花開こうとしていた。


  *  *  *


 <彼>は、天空を飛んでいた。

 まだ目覚めるはずではなかった時に起こされ、<彼>は混乱していた。その混乱が向かわせたのかどうか、<彼>は空を西へ辿り、休息できる場所を探した。


――あれは……。


 大きな大陸同士がぶつかって生まれた山脈群。その高みのひとつに、<彼>は心惹かれた。

 翼をはばたかせ、降下する。大きな一対の羽根がはためくたびに、きらきらと輝くものが尾を引いた。

氷片(ひょうへん)だ。<彼>の魔力に反応して、空気の中の水分が凍るのだ。


 そこは下界から隔絶された、鋭い山の尾根であった。太古より溶けることのない雪と氷が、斜面にまだらな模様を描いている。近辺にわずかに人の気配があったが、急激な覚醒がもたらす疲労が、<彼>に危険と判断することを拒ませた。

 それでも<彼>は、様子を窺うために数度山を旋回する。それから、ゆっくりと地面へ舞い下りた。いや、舞い下りる、という表現が正しいのかは疑問だ。

 地面に触れる直前、<彼>の身体は別の形へと変化していた。


 大地を覆うように前へ広げた翼はひづめを持つ前肢に、鉤爪(かぎづめ)の生えた足も同じく細っそりとした後肢へと変わる。飾り羽根のあった小さな頭部は、枝分かれした二本の(つの)をもつ獣の形に姿を改めた。

 見事な牡鹿(おじか)となった<彼>は、木枝(きえだ)のごとく優美な四肢で、かつりと地面を踏みしめた。

 かすかなひび割れをたて、地温(ちおん)がさらに下がる。

 <彼>は、氷の息を吐いてもう一度辺りを窺うと、軽やかに岩場を下っていった。



 ――<彼>が、この地に住まうようになってしばらくして、面倒なことが起きた。

 近くに住む人間たちが山に上がってきて、<彼>の姿を見たのである。

 予測していたことではある。だが、人間は浅はかで臆病なうえに、中途半端な頭脳を持っていた。すなわち人間は<彼>を恐れ、影響を恐れた――何もしていないにも関わらず。

 人間は呪符を張り、下手な呪言や法術で彼に手出しをしてきたのである。


 <彼>は、警告のために山奥から出、人の前に現われてみせた。しかし、それが失敗だった。

 一蹴りごとに地を凍らせ、一息ごとに大気を凍らせる氷の角を戴いた牡鹿の姿に、一人の人間が衝撃のあまり息を止めてしまったのだ。

 人間たちは逃げ出し、やがて、ひとりの男が<彼>の元へやって来た。いわゆる〝能力者(ヴィサード)〟と呼ばれる種類の人間である。

 男は、人間では老人と呼ばれる年齢なのだろう。

 ひょろひょろに()せた身体に毛織物を巻きつけ、白い蓬髪(ほうはつ)ひげ。ねじくれた杖を手にしていた。


「氷のぬしよ! 我はそなたに願いたきがあって参上した。すみやかに聞きたまえ!」


 山頂へ向かい、両手を掲げて大声に叫ぶ。

 最初は無視していた<彼>も、それが一昼夜に及ぶに至って、ついに腰を上げた。

 カツン……と、氷片を()き散らして岩を蹴る。そして魔力を高めるや、猛烈な吹雪(ふぶき)を人間へ吹きかけた。

 人間が両手を組み、呪言を唱えはじめる。痩せた身体を金色の微光が取り巻き、凍気を遮断した。


《愚かな……人間め》


 <彼>は呟き、さらに魔力を高めた。極限の冷気に、大地にひびが入る。


「むむう……」


 渋皮(しぶかわ)のような人間の額に、脂汗が浮かんだ。凍気を防いでいた金色の光が、淡く明滅をはじめる。そしてついに。


「う……わああああっ!」


 絶叫と共に、人間の身体は、木の葉のごとく吹雪の中に吹き飛ばされ、すぐに見えなくなった。

 <彼>は、吹雪を止めた。

 だが、すぐにその場を動くことはなかった。太陽が三度昇って下り、四度目に昇った時、厚く地表を覆った雪の一画が、ごぼり、と崩れた。


「う……ごほん、ごほんっ」


 (せき)をしながら、人間が顔を覗かせる。人間は雪を払いのけ、紫に変色した唇で笑った。


「やあ、また逢えたぞ。氷の(ぬし)どの」

《意外にしぶとい人間だ。何の用だ》

「この山を僧侶たちに返してはくれまいか」

《返すも何も、この山は人間のものではない》

「確かにな」


 大きく頷くと、人間は雪から這い出て、岩場へよじ登った。


「この山もこの空も人間のものではない。だが、想う心はある」


 またも咳き込んで、


「彼らにとって神聖なこの山を他のものに踏みにじられるのは、耐えがたいことなのじゃ」

《ただの思い込みだ》

「だが、その思い込みを拠り所とするものもいる。――氷の主よ。元いた場所へ帰ってはくれぬか」


 <彼>は、虹色の瞳で人間をしばし見つめた。


《帰りたくとも帰れぬ。我らは戻る場所を知らぬのだ》

「なに?」

《目覚めてはならぬ時に呼び覚まされ、彷徨(さまよ)いついたのがこの地よ。もはや眠りに就くわけにもいかぬ我らに、行く場所などない》

「さようであったか……」


 人間は驚いた顔で頷くと、(しも)の降りてごわごわになった髭を手でしごいた。

 <彼>が、ふ…と眼差しを緩める。


《去るがよい、人間よ。我が氷雪に耐え得たその能力(ヴィス)と度胸に免じて、命ばかりは助けてやろう。生臭い僧侶どもに、二度とこの地に近づくなと伝えよ》

「しかしだな、氷の主よ――」

《付け上がるな!!》


 <彼>は怒鳴った。虹色の双眸が炯炯(けいけい)と輝き、荒い息が辺り一帯の風を止めた。


《貴様らの道理で物事が通ると思うな!! 見よ、この世界の歪みを。これをもたらしたのは、人よ。ルシアの光に護られ、甘く勝手放題に育った貴様らに、我らを従えられると思い上がるではない!!》

「――分かった。分かり申した、氷の主よ」


 人間は手をかざして、強まった凍気を避けながら言った。


「その言葉、確かに彼らに伝えよう。だが、一言だけ言わせてくれまいか」


 白い(まゆ)と皺に埋もれた眼が、わずかに光る。


「卑小なねずみでさえ数が増えれば罠を破り、家を壊し猫を殺し、人すら食らい尽くすもの。鼠よりもしぶとい人間が、そうならぬ理由はあるまい。――なあ、氷の主よ。鼠は小さいが、貪欲でしぶとい生き物よ。殺しても殺しても、すぐに増える。ぬしが真に安住(あんじゅう)の地を求めるならば、そこにいる鼠の存在を無視するわけにはいかぬのだ。どうしても、な……」


 人間は、備わった特殊な能力で雪の下から杖をその手に取り戻した。曲がりくねった長い杖をとん、とつき、雪の上に立つ。


「人に物申すことあらば、わしを呼ぶがよい。約束しよう。儂は、ぬしの敵にはならぬ」

《何と呼ぶ?》

「×××」


 言って人間は、皺深い顔に大きな笑いを浮かべた。


「ようも名付けたものよ。この儂を見て、誰もがそう思うと見える。――では、また会おう、氷の主よ」


 もう一度笑い、人間は、斜面に深く積もった雪の上を軽やかに歩みながら去っていった。


   *  *  *


 紫蓮花の香りに誘われて眠りに就いたディーンの服を、誰かがしつこく引っかいている。

 ディーンは重い瞼をこじ開け、服を引っ張る白い仔猫を見た。


「九曜……」

《やっと起きた、ディーン》


 仔猫がほっとした声をあげた。


《僕が起きたら、熟睡してるんだもん》

「あ……ああ」


 ディーンは、まだはっきりせぬ頭を振り、深く息を吸った。さらに濃度を増した香りが、吸う息にも吐く息にも混ざり合い、素肌にまで染み込んでくる。

 ぼんやりと白い仔猫を仰ぐ。


「なんだ……起きたのか、おまえ」

《当たり前でしょう。ディーン、自分で言ってたじゃない。――ほら》


 そう言って仔猫が、眼差しを移す。その先には、星月にぼんやりと照らし出される大輪の花――紫蓮花が、まさに満開の時を迎えていた。

 茫然と花に視線を向けたディーンの口から、知らず言葉が洩れ出る。


瑠璃(るり)……?」


 あの固い緑の蕾から、こんな色が産まれ出ると誰が予想しただろうか。

 蕾を色付けていた桜色は、先端から染料を落とし込まれたように青味を帯び、淡い紫から深い瑠璃の色へと幻想的な変化をと遂げていた。

 先の尖った卵形の花弁は硝子(ガラス)細工(ざいく)となって光を孕み、幾層にも重なり合って繊細な揺らめきを放っている。内側にびっしりと生えた雄蕊(おしべ)の金粉を浴び、それはまさに瑠璃玉さながらの美しさであった。


「すげー……」

《起きたかいがあった?》

「うん、充分すぎるかも」

「――では、そろそろ発とうか」


 ややきつい物の言い方と声の調子に、ディーンは、はっと寝台(ベッド)の横を見た。

 朝借りた簡素な部屋に、珍しい髪色をした美貌の少年が、外套を(まと)って立っていた。


「どうした。何を驚いているんだ?」

「レイファス……おまえ、エファイオスに帰ったんじゃ――」


 銀色の短い髪を揺らし、背の高い少年は微笑んだ。


「突然に押しかけて申し訳ないが、急用ができてな。おまえの力を借りたい」

「どうやってここに来たんだ? また妖魔でも追いかけてきたのか?」

「おまえはどうして、そう短絡的なんだ」


 レイは端正な顔を顰め、壁際に放置されていた彼の荷物を取り上げた。


「神殿の結界の外から九曜に呼びかけたのだ。法力(ほうりき)は目覚めたばかりだが、それぐらいは可能だ」


 彼へ荷物を投げ渡して、


「行くぞ。状況は道々(みちみち)説明する」

「あ……ああ」


 ディーンは半信半疑のていで頷くと、外套を羽織り、荷物を背負った。すかさず九曜が荷袋の中に入り込む。

 銀髪の少年は早くも旅装を整え、入り口で彼を待っていた。


「それにしても、随分急だな」

「好きで急ぐのではない。おまえ、この先に森があるのを知っているか?」

「ああ。紫蓮花が採れる湖があるっていう……」

「そうだ。その森には、どうやら昔から妖魔が棲んでいるらしいのだ」


 早足で歩みつつ、レイはディーンに説明する。

 他に人影はない。石畳を行く二人の足音が街に反響し、耳に障った。


「彼らは古くからレテの人々と共存を守ってきたのだが、最近どうも騒ぎはじめたらしい。――おまえ、街で人がいなくなるという話を聞いてはいないか?」

「あ……」


 ディーンは、[金羊亭]の亭主カシマールが、若い者が減っているということと旅行者がよくいなくなると言っていたことを思い出す。

 そのことを口にすると、レイは「やはりそうか」と頷いた。


「何らかの理由で眠っていた妖魔が目覚めたか……事情は分からぬが、調べねばならん」

「こんな夜中に?」

「残念だがエファイオスでは今、昼だ」


 レイは冷静に教え、


「それに――妖魔は夜に活動的になる。調べるなら今だ」

「わざわざ、ねえ……」

「危険なのは百も承知だ。だが、おまえと九曜なら必ず奴らに勝てる」


 レイは足を止めぬまま、彼に微笑みかけた。


「また仕事になってしまったが――会えてよかった」


 ふいに、ディーンが足を止めた。

 不審そうにレイが振り向く。


「どうした。行くぞ」

「――どこへだ?」

「だから言っただろう。この先の森に――」

「森に行って、どうするんだ?」


 立ち止まって言い合う二人に、荷袋から白い仔猫が飛び降りてきた。


《どうしたのさ?》

「ああ、九曜。ディーンが――」

「ディーンが、じゃねぇよ」


 極めて荒々(あらあら)しく、ディーンはふたりの会話を断ち切った。乱暴に荷物を地面へ投げ捨て、切りつけるように問う。


「何者だ、てめえら」


 レイが困惑した様子で首を振った。


「何を言っているんだ、ディーン。私はただ、妖魔退治を頼むためにここへ来ただけだ」

「妖魔退治?」


 顔を顰め、ディーンは唾棄するように繰り返す。


「てめえがどこの誰だか知らねぇが、はっきり言っておく。あいつは、てめえより数倍きれいだし、そんな腐った眼はしちゃいねえ。第一、怪我をした妖魔を助けるほどのお人好(ひとよ)しが、定かじゃない妖魔退治をするためにこんな真夜中にやってくるだって? そんな話、誰が信じるんだよ」


 外套に隠れた、銀髪の少年の顔がわずかに歪む。

 ディーンはそろり、と右手を大刀に掛けた。


「それにな――あのひねくれもんが、会えてよかった、なんざ口が裂けても言わねぇよ」


 言い終わるや否や、ディーンは抜き打ちに、レイの身体を斬り上げた。


「ぎゃああああっ!!」


 血飛沫(ちしぶき)をあげて、少年が地面に倒れる。それを見つめるディーンの眼差しは、冷静そのものだった。

 驚く妖魔の仔猫に、はがねのごとく濃紫の瞳が向けられる。仔猫が一歩下がった。


「何をおびえてるんだ、九曜」

《どうかしてるよ、ディーン》

「どうした、九曜。おまえは最強の妖魔のはずだろう? なら、この俺の剣もかわせるはずだよな!!」


 ディーンは瞬く間に九曜に詰め寄ると、横薙(よこな)ぎに剣を払った。

 ふわり、と白い仔猫が空に逃げる。

 それへ返す刀で斬り下ろす。青白い閃光が駆け走った。


《ぎゃあぁっ!!》


 肩を斬られ、仔猫が地に落ちる。ディーンは、仄かな光を帯びる大刀を左手に提げたまま、っとそれを見守った。

 彼の持つ刀は、元々ヤマトのつるぎと呼ばれる、東国で広く使われるたぐいの片刃の剣であった。それは神呪を描き入れ、さらに体内の気を集めることにより、魔性を殺すことのできる剣へと進化をと遂げていた。


 血をしたた滴らせる仔猫が、起きあがり、彼を睨んだ。

 ゆっくりとその体が膨らみ、輝く白い被毛が、くすんだ枯れ色へと色味を帯びていく。

 丸い口吻(こうふん)が伸び、虹色の眼は艶やかな飴色あめいろへと変わって楕円(だえん)に伸びる。ふさり、と長い尾が三つに分かれた。

 最後にひたいに一本の角が伸びるのを認め、ディーンの口元に微笑が漂う。

 怒りをこめた、戦闘的な微笑みだった。


「やっぱりかよ……このニセモノ野郎!」


 再び気を篭め、剣を放つ。妖魔が牙を剥いた。

 ――と。


魅狗里(ミクリ)!》


 何もない上空から、別の叫び声が聞こえ、緑色の閃光が彼らの間を分断した。

 三つ尾の妖魔が、宙へ飛ぶ。


「!」


 ディーンは舌打ちした。暗い夜空には、二つの角を戴いた大きな山犬が浮かんでいたのだ。

 怪我をした仲間を背に攫い、妖魔が風を巻き上げる。


「く……っ」


 突風に、一瞬ディーンは顔を覆う。彼が眼を開けたときにはもう、妖魔の姿はなく、地面にはただ一枚の青い花弁が、断ち切られて落ちているばかりであった。


「畜生……」


 毒づき、ディーンは大刀を見た。かすかな血痕。妖魔を斬ったことだけは、幻ではなかったらしい。

 大刀を納めて辺りを見回した彼は、そこがすでにレテの街中などではなく、草に覆われた見慣れぬ土地であることに気づいた。

 薄闇に動くものを認め、ディーンは再び大刀に手をかける。


「な……」


 闇に慣れてきた目が捉えたものは、信じがたい光景だった。

 ぼんやりと闇に浮かび上がるもの――それは夢遊病者のように彷徨(さまよ)い歩く、大勢の人の姿だった。

大刀を抜く手を止め、ディーンは一人の寝間着姿の男へ走り寄った。


「おい、おいあんた! しっかりしろ!」


 虚ろな目をした男は、肩を掴まれてもなお前へ進もうと手足を動かす。


「おい!」


 ディーンは、頭が反り返るほど男の身体を揺すりたてた。だが反応はなく、男は彼の手をすりぬけて再び歩みはじめる。


「くそっ」


 ディーンはあきらめずに、行進をする人々に声を掛けてまわった。しかし、一人として気がつく様子はない。

 途方(とほう)に暮れたディーンは、人形のような表情で歩む人の中に、見たことのある顔を見つけた。


「ミーナ!」


 早朝彼に紫蓮花の蕾を売った、花売り娘だ。会った時とは別人のように表情のないその顔に、ディーンは蒼褪めた。


「ミーナ、しっかりしろ。起きるんだっ!」


 叫び、頬を叩く。それでもやはり、娘の反応はない。

 ごうをに煮やしたディーンは、強引にミーナの腕を取ると、人々の列から引き離した。――が。


「うわあっ!!」


 弾き飛ばされたのは、ディーンであった。思いもよらぬ怪力で一回り以上体格の違う少年を突きとばした娘は、何事もなかったように行列に戻る。

 草の斜面を転げ落ちたディーンは、振り返って人々を見た。彼らは続々と街から現われ、尽きることのない流れは、まっすぐに闇の一段と濃くなるその場所――いにしえより続く森へと吸い込まれていく。


――[千年夜(せんねんや)の森]……!!


 彼の背筋を冷たいものが駆けのぼった。

 そのとき、あることに思い至る。ディーンは起き上がると、人々の群れに逆らい、レテ市街へ走り出した。


――まさか……!


 起きてからそんなに時間は経ってないはずだ。しかし、それすらも錯覚かもしれない。

 思いもよらず距離のある道を、ディーンは息もつかずに走りきり、[金羊亭]へ飛び込んだ。

 宿の鍵は開いており、慌ただしい彼の様子にも、一階の亭主が起きてくる気配はない。

 ディーンは足音も荒く二階へ上がり、借りていた部屋の戸を開けた。


「……」


 ディーンは、無言で唇を噛みしめた。

 持って出たはずの荷物は壁際に残されたままで、小瓶に差さった青紫の花は大輪に咲き誇り、まだ甘く芳醇な香りを放っている。

 だが、肝心(かんじん)な相棒の姿は、どこにもなかった。

 借りていた寝台(ベッド)代わりの籠の中には、彼の存在を示すように、一房の白く長い毛が残されているだけであった。




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