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ウルスラ山脈の切り立った山々に囲まれた小さな谷合、レテ市。そこは目も眩む絶景の狭間のおだやかな緑の草原であったが、同時に高い標高と堅固な岩盤とが実りを妨げる、枯れきった大地だった。
しかし、人々は貧しくはなかった。統一世界の平民の基準からみて決して裕福とはいえないまでも、下層の人々でさえ口に糊することのできる貯え。それが、この街にはあった。
「花をどうぞ……!」
朝の市場で、花売り娘の声が響く。
裾に刺繍をほどこした赤い民族服に、真っ白な前掛けと頭巾。手には花籠を下げ、道行く人に笑顔で花を差し出す。
「花はいりませんか! あなたに素敵な夢を届けてくれる、夢の花。夢の花はいりませんか……!」
明るい呼び声と共に差し出される花は、大ぶりで、茎は幼児の指ほどもある。まだ花は開いておらず、蕾の先端にほのかに淡い色を含んでいた。水に浸した紙に包まれ、朝露に濡れて光るその花は、甘い香りを放っている。
紫蓮花――夢見花または催眠草などの名でも知られる、蓮に似た水生花だ。開花は主に夏だが、一年を通して咲き、豊かな芳香をもつことで有名である。
だがそれ以上に特徴的なのが、その香りにすぐれた鎮静・催眠効果があるということ。そして、レテ以外で生育が不可能な点である。
いや、このレテでも紫蓮花が咲くのは、ただ一箇所のみ。[千年夜の森]と呼ばれる市郊外の古い森にある湖でしか、この花は自生することができないのだ。
それでも古来よりその確かな催眠効果は広く知れ渡り、生花にとどまらず葉や茎に至るまで薬草や香嚢として、帝都は勿論、果ては北方ビグリッドにまで輸出され、時には花一輪が五万アルムもの値がついたこともあるという。まさに、金の花というべきレテの至宝であった。
「花をどうぞ! 幸せな夢を運ぶ、お花です。どうぞ夢の香りを嗅いでください。みたい夢がきっとみられますよ……どうぞ!」
「花はいりませんか!」
笑顔の途切れぬ花売り娘たちの一団の中で、ふと一人が、市場の人込みの中からこちらへとやってくる若い旅人の姿に目を止めた。
南方ギルモアか、ウージュラン国辺りからやってきたばかりなのだろう。山脈を越えるにはいささか寒そうな編み上げ靴に駱駝の毛の外套。右腰に提げているのは長剣か。
荷袋ひとつを背負い、颯爽と歩く物腰がいかにも若者らしく、彼女の眼を惹いた。
眼を惹いたのは彼だけではない。若者が背負う荷袋から、見慣れない一匹の仔猫がちょこんと顔を出し、周りの様子を眺めていた。
やわらかそうな長い毛。日を浴びて夢のように輝く毛は白く、なぜか不思議なほど澄んだ蒼さを感じさせる。
――まるでウルスラ山の雪みたい……。
娘は思い、その美しさにしばし花売りの声を忘れた。
その旅人は、歩みを止めることなく真っ直ぐこちらにやってくると、外套の下から白い歯をみせて笑う。
「やあ」
「……きゃっ!」
突然声をかけられ、花売り娘は悲鳴をあげた。その悲鳴に、旅人も驚く。
娘は恥ずかしさのあまり、頬に散ったそばかすまで真っ赤になって笑い出した。
旅人が困り顔になる。
「俺、なにか悪いことしたかな?」
「いいえ……いいえ、違うの。違うのよ」
花籠を抱えたまま、娘はくすくす笑い転げた。
「どこの人なんだろうと思って見ていたら、いきなりそっちから声をかけられたものだから、驚いちゃって……」
「驚いて笑うのか? 随分失礼だなあ」
怒った風でもなく、旅人が口を尖らせる。
「ご、ごめんなさい。恥ずかしいのが、なんだか急におかしくなったの」
娘は笑い涙を拭い、落ちてきたおさげを背へ払った。前掛けを整え、
「笑ってごめんなさい。わたしミーナ。レにようこそ」
「俺はディーン」
若い旅人が、革手袋をはめた手を差し出す。
ミーナはその手を取り、彼の肩の向こうを覗いた。
「そちらの小さいお連れさんは?」
ディーンは、肩口の袋から顔を出した仔猫を振り向いて、
「こいつは、九曜」
教えると、唇に人差し指を立てていたずら悪戯っぽく彼女を見る。声を潜め、
「言葉遣いに気をつけて。小さいお連れ、なんていうと機嫌が悪くなるんだ」
「……分かったわ」
ミーナも小声で頷いた。
「はじめまして、九曜。レテの街はいかが?」
仔猫は、ふん、と鼻を鳴らすと、虹色の瞳を空へ向ける。ミーナが戸惑って、
「わたし、嫌われちゃったみたい……」
「普通だよ。こいつ人間嫌いなんだ。愛想のないヤツで悪いね」
「仲良くしたいのにつまんなーい。ね、抱っことかもダメなのかな?」
「抱っこぉ?」
ディーンが何人ともつかぬ浅黒い顔をしかめた。心なしか、仔猫も渋面になる。
「命の危険覚悟で挑戦する? たぶん、かなり嫌われると思うけど」
「えー、そんなぁ!」
残念そうな声をあげ、ミーナはちょっと遠目に仔猫を眺めた。
「本当に野生なのね。どうやってなつかせたの?」
「なついたっていうか……こいつが捕まっていたところを助けてね」
「そうなの。ウージュランの方で?」
「いや、アルビオンだ」
「まあ、あんな砂漠で!」
熱と砂に覆われた南の大国の名に、ミーナの眼が真ん丸になる。
「意外だわ。なんだかハイラ高地とか、もうちょっと北の方に棲んでいるように見えるけど……」
「うん。アルビオンには連れてこられたみたいでさ。これから素性を探すところなんだ」
「そう」
ミーナは納得したように頷いて、
「じゃあ、めでたくレテまで辿り着いたっていうことで、せっかくだから……」
花籠から、紫蓮花の蕾を一輪取り出す。
「レテ特産の眠り花、買っていかない? いい夢がみられるわよ」
ちゃっかり商売を持ち出す娘に、ディーンは苦笑した。
「出会った記念にタダでくれるっていうわけにはいかないかな?」
「だめだめ! これはわたしの仕事。森の湖まで父さんが採ってきて、それをわたしが売るの。家族四人の生活がかかってるんだから」
でも、ととっておきの笑顔を作る。
「特別におまけをつけてあげる♪」
「で、おまけつきで値段は?」
「一本五百オン」
「高い!」
ディーンは叫んだ。ちなみにウルスラ山脈の通行料が十アルム、すなわち千オン。花一輪がその半分の値段とは、暴利である。
ミーナは、ウルスラ山の氷よりも涼しい顔で言う。
「高くないわよ。花は摘みたてのまだ蕾だもの。ほら、眠り沼の露が下りているでしょう? これが本物の証よ」
水滴のしたたる紫蓮花をディーンの鼻先に突き付ける。ふわり、と得もいわれぬすがすがしい香りが漂った。
「いい香りでしょう? これが本物の眠り花。催眠草の香りよ。よそで売られている香嚢なんて、まったくのニセ物! 葉っぱや茎の残った屑に、他の薬草を調合して売っているのよ。失礼しちゃう! 最近は紫蓮香っていう香水もできたけど、庶民が手を出せる代物じゃないわ。だけど――」
ミーナはすうっと、蕾をディーンの胸元から下へと滑らせた。
「ここでは唯一、本物が手に入るわ。そして……本当にみたい夢が、観られるの」
「みたい夢?」
「そうよ。この花は、厭なことを忘れさせてよい眠りをもたらすだけじゃないの。本人の心の奥、真実その人が持っている願いや欲望を叶えてくれるの――夢の中でね」
蕾を引っ込め、ミーナはディーンを見上げた。
「どう? 買ってみる気になった?」
「……分かった。一輪もらうよ」
不承不承、だがそれほど嫌そうでもなく、ディーンは十アルム銀貨を一枚取り出した。
「ありがとうございまーす! あ……と、お釣りちょっと待って」
慌てて前掛けを探る。ディーンは、彼女の籠から緑の蕾を二本取ると、
「お釣りはいいよ。ひとつは君にあげる」
一輪を彼女の手に握らせた。
「あ、ありがとう……」
「こちらこそ。いい夢を、ミーナ」
にっこり笑って、ディーンが立ち去る。ミーナは追いかけて、
「――ちょ、ちょっと待って」
「何?」
「こっちの方が、いい花が咲くわ」
固く締まった蕾を取り上げ、丸い大ぶりの蕾を渡す。
「眠り花はね、花色が濃ければ濃いほど香りが強いのよ。夕方から少しずつ咲きはじめて、真夜中に完全に開いて朝には散ってしまう――」
「一晩だけなのか?」
「そう。人が夢みている間だけ咲く、一夜花なの。とてもきれいで神秘的な花だけど、花を拝めたってことは良い夢がみられなかったってことだから、完全な花を目にした者はいないと言われているわ。だから……〝幻想花〟とも言われるのよ」
「幻想花……」
「そう。本当にはない幻の花。不思議でしょ?」
ミーナは言い、ディーンの頬に軽く唇を触れた。
「おまけ、よ。白いお連れさんにもしてあげたいけど、嫌われそうだから、あなただけ」
「ありがとう」
「こちらこそ。いい夢を、ディーン」
「いい夢を」
笑顔で応え、ディーンは人込みの中へ戻っていく。
ミーナは少年の背中が完全に消えてなくなるのを見届けると、大きな溜め息をひとつついた。手の中の銀貨を朝日に透かして、
「あーあ、失敗。もうちょっと、たかればよかったかなぁ……」
少しの間、鮮やかな輝きを楽しむ。
今日最初の売り上げは、銀貨一枚と紫蓮花が一輪。悪くはない。それに、花をもらうなんて久しぶりだ。
――今晩は、いい夢が観られるかもしれない。
ミーナは前掛けに銀貨をしまい、花を差すとくるりと振り向いて、再び花売りの輪へ加わった。
*
花売り娘と別れたディーンは、レテ市街中心へ向かい、宿を探した。
朝も早いが、西国への登竜門とも言われるウルスラ山を越えるのは相当つらく、彼の肉体は泥のように疲労していた。
「もうだめ。早く休みてー……」
「だから言ったでしょ。この辺りはキツいって」
耳元で、澄んだ少年の声が言う。ディーンが顔を向けると、白い仔猫がむくれ顔で睨んでいた。
「飛び越えちゃえば早かったのに……」
「バーカ。下手に魔力なんか使って、変な魔術師とか妖魔とかに出会うのはごめんだぜ。第一旅なんだから、山は歩いて越えるもんだ。それが旅の醍醐味ってヤツさ」
「ディーンはそれでもいいけどさ。だって、ハイラ高地は山脈を越えたすぐそこなんだよ? 僕の羽根だったら、ひとっ飛びだけどな」
極めて納得いかない口振りで、九曜はこぼした。
妖魔の彼は、なぜか数年前のハイラ高地にいた時からしか記憶がない。できるだけ早くその失くした記憶を取り戻したいというのが本音だ。
対して、ディーンは勝手気ままな流れ旅の身の上。二年前、十五の若さで旅に出たには理由があったようだが、九曜のように目的もなければ危機感もない。へらへらっと笑って不満を聞き流す。
「ま、飛んでるところを誰かに見られたら大変だし。それに、長くけわ険しい道程を経てこそ目的に達成する充実感ってものがあるんじゃないか」
「僕は記憶を取り戻すだけでいい」
「九曜おまえ、人生つまんなくないか?」
「人生は、記憶を取り戻してからゆっくり考えるよ」
九曜は、猫の顔に不敵な笑みを浮かべた。なにしろ妖魔は魔力を有し、場合によっては不死を得ると言われる。
余裕を見せつける発言に、今度はディーンが渋い顔になった。
「じゃ、もうちょっと人間に付き合え」
九曜が入った荷袋を持っているのをいいことに、宿場街を逸れ、一本広い大通りへ入る。
石畳を敷き詰めた通りは漆喰の白と煉瓦の黒の対比も鮮やかな家々が建ち並び、とても山間の街とは思えない。まるでリューン南部にでもいるような気分にさせられる。
ウルスラ山特産の鉄鋼の街灯には、まだ明かりが燈っていた。山合のせいか、朝なのに振り払えぬ薄い羅紗を頭に被っているごとく、ほんのりと暗い。
ディーンは外套の頭巾を外し、足を止めた。
「なにか匂わないか?」
「食べ物?」
いつもの彼の言動を思い起こし、九曜が聞き返す。
「違うって。なんか花のような……もっと強烈なヤツだよ」
「ああ……」
九曜は頷いた。横の煉瓦塀を髭面で差し、
「それって、これのこと?」
「え……」
示された方向を見、ディーンは一瞬分からない顔になり、そして気付いた。
「これって――香水なのか?」
塀と思っていたのは、巨大な建物の壁であった。そこから強烈に沁みてくる香り――それこそがレテの新しい特産品〝紫蓮香〟なのだ。
早朝、今まさに咲き散らんとする紫蓮花を集め、煮出し、芳香の粋を結集したその香りは、一嗅ぎで人の意識を奪うとさえ言われる。
「ディーン、気付くの遅い」
「だって街中にいい匂いがするんだぜ? 普通分かんないって」
「分かるよ。そこに看板出てるし」
九曜に指摘され、ディーンは壁に刻まれた金の額板を仰いだ。宝石のような立体的な菱形の中に、紫蓮花らしき蓮に似た花の絵が図案化され、その下に〝香水工場〟と統一文字で書かれている。
「こんなに臭いのに、なんで気付かないかな」
紫蓮花の蕾と共に荷袋に入る仔猫が、不機嫌につぶやいた。ディーンは意外な顔で、
「そうか?」
「臭いよ。最悪!」
「ちょっとキツいけど、俺はいい香りだと思うけどな。なんかこう……得も言われぬ清々しさっていうか、甘いけどくどくないというか……昔どこかで嗅いだような懐かしさのある香りなんだよなあ」
「――いいこと言うねえ、お兄さん」
見知らぬ声が、相槌を打った。
驚いてディーンが振り向くと、いつの間に現われたのか、果物や野菜の入った籠を抱えた三十半ばの小柄な男が立っていた。九曜は、と見ると、すでに荷袋の奥へ隠れている。
「あ、あんた……」
「いい香りだろう、この紫蓮香」
男は、長い顎をつるりとひと撫でして言った。
「うん、すごくいい匂いだ」
「そうだろう、うちの名品だからな。他じゃ滅多に手に入らねえ」
自慢そうに言う口上が花売り娘のミーナとそっくりで、ディーンは失笑する。
男は荷袋に差した蕾に目を止め、
「お、早速買ってるね、お兄さん。お目が高い」
「花売り娘がかわいくて、つい、ね」
あはは、と男は笑って、
「そうだろう、レテの娘は皆かわいいからなあ。若い者は最近よく出て行くが、あの子たちは残って頑張ってくれている。いい子だよ」
だから連れて行くのはなしだよ、と笑顔でディーンに釘を差す。
「レテはウルスラ山国の中でも裕福な方だろう。なのに、なんで若者が出て行くんだ?」
「さあね。俺のようにレテから出たことのない者には分からないが、この街は旅人の出入りが多いからね。若い者だと特に、知らない世界に興味を抱く奴も少なくない。俺に言わせれば、レテが一番。催眠草(
ヒュプニア)なんてなくたって、心安らかに眠れるよ」
陽気な男につられ、ディーンも破顔した。
「そういえば、この花はいろいろと呼び方があるみたいだけど、何か違いがあるのか?」
「いんにゃ。昔まだ生花一辺倒だった頃、花売りたちが競うのに、その家や村ごとで呼び方を変えて売りにしただけのことさ。はい、俺がところの眠り花は統一世界一だ。やれこっちは催眠草だ、こっちの方が強力だぞ。なんだこっちは夢見花だ……ってなもんだよ。なあに、同じ湖から採った花だ。みんな一緒さ」
「なあんだ、そうか。あやうく騙されるところだったよ」
男はまた、あははと豪快に笑い、重い荷物を抱え直した。ディーンは気付いて、
「悪い。長い立ち話になったな」
「なあに、いいさ。ところで、これからどこへ行くんだい?」
「宿を探そうと思ってね」
それを聞いた途端、男の目が鼠のように輝いた。
「じゃあ、俺のところへ来いよ。[金羊亭]っていうんだ。すぐ近くだよ」
「ありがたいけど……」
言い差して、ディーンは荷袋から仔猫を引っ張り出した。
「こいつがいるんでね。一緒に泊めさせてくれるところでないと」
「そいつは、咬むかい?」
「いいや」
「食事は?」
「人と一緒だ」
つまり自分とで二人前、とディーンが指を立てて見せる。
男は、細長い顔いっぱいに笑いを浮かべた。
「じゃあ、大丈夫。俺んとこへ来な」
「いいのか?」
「平気だよ。店の外に〝猫います。嫌なら他へどうぞ〟って貼り紙でもしておくさ」
「助かるよ。俺はディーン。こいつは九曜だ」
「カシマールだ」
男は、荷物を持った両手で大げさに握手すると、ディーンの背中に手を回してうながした。
どうやらレテの人間は皆、かなり商売上手らしい。
かすかな苦い笑いと共に、ディーンは彼に従った。
*
カシマールの店は、まさにすぐそこ、大通りの細道を入った一画にあった。
その宿は、両脇を大きな料理屋に挟まれ、三角屋根も肩をすくめてとんがっている。
狭い建物の額から突き出すように、[金羊亭]の看板が揺れていた。真鍮ででもできているのか元は金色だったと見える看板は、角を巻いた羊が紫蓮花らしき花を枕に眠っており、いかにもレテらしい。
「ここだ。さ、上がりな」
カシマールが先に立って、店内を案内する。
「ここが食堂。すぐ奥に厨房があって、その隣が風呂と洗面所。部屋は二階だよ」
言いながら、店の亭主らしく手際よく買ってきた荷物を収めていく。
「あまりの狭さに驚いたかい?」
「いや」
「宿は小さい方がいいぜ。なにせうちは良心的だ。一人一泊五十アルム。もちろん朝食と夕食は出すぜ。他じゃ八十が相場ってんだから、うちはお泊り得ってやつだよ」
本当はアルビオンではこれ以上の規模で半額で泊まれるところもあったが、ディーンは口に出さなかった。この調子では、他ではもっと高くつくかもしれない。
ディーンは、重い荷袋を床へ置いた。すぐに九曜が出てきて、室内を嗅ぎまわる。
「とりあえず一泊頼むよ」
「ご利用ありがとうございます!」
カシマールは商売人の顔になって、
「とりあえず、今はまだ客はあんたたちだけだ。好きな部屋を選んだらいい」
「そいつは気楽だ」
「そうさ。長泊まりだった客がいなくなってね。ちょうど空いたんだよ」
「いなくなった?」
ディーンは、外套を脱ぎかけた手を止めた。
「よくあることさ。荷物が残ってるから大丈夫だと思ってたら、夜中になっても朝になっても帰って来やしない。ああ、またやられたって感じだよ」
「踏み倒しか?」
「まあ、半額は前払いでもらうし、こっちも残った荷物を叩き売って元は取るがね。だけど、あんまり気分のいいもんじゃない」
亭主は肩をすくめ、悪びれない笑顔でディーンに手のひらを差し出した。
「そういうわけで、前払い。二人で五十アルムだ」
つくづく、レテの人間はちゃっかりしている。
ディーンは銀貨三枚と青銅貨四枚を、カシマールの手に握らせた。
「毎度ありがとうございます!」
商売気に満ち充ちた亭主の声を背中に、ディーンは九曜と共に二階へ上がった。
二階は四室が並び、廊下の突き当たりにさらに一室があった。ディーンは、一番奥の部屋を開け、一通り覗いてみてから、隣の部屋に決めた。やはり窓から見えるのは、建物の壁より通りの方がよい。
塗料のは剥げかけた木製の窓枠には少々年季の入った硝子がはめ込まれ、朝の陽射しを柔らかく部屋に差し招く。二階にあるせいか、街並みの景色の向こうにうっすらとウルスラ山の青い影が並んで見え、空と大地を切り分けていた。
ディーンは外套と荷袋を部屋の隅へ投げると、固い寝台に寝転がる。
「はあ、疲れたぁ。俺、もう年かも」
「何言ってんの。僕は平気だよ」
ディーンは恨めしそうに、長命な仔猫を睨んだ。
「妖魔と一緒にするんじゃねえよ」
ふふん、と鼻で笑い、九曜が窓枠に飛び乗った。
寝台脇の低い机に置かれた小さな硝子瓶が、ことんと揺れ、緑の光をきらめ煌かせる。ディーンは何気なく、小瓶を手に取った。
かすかに残る甘い匂い。
――紫蓮花だ。
気付いてディーンは、水筒と買ってきたばかりの花の蕾を荷物から出すと、小瓶に生けた。寸法もぴったり、長く太い紫蓮花の切り花が一本見事におさまる。
「へえ。ここに旅行に来る客は、みんなこの花を買うんだなぁ」
「この街が何で商売してると思ってるの。当然でしょ」
「そっか。ま、花売りのこ娘かわいかったもんな」
仔猫の眼が冷ややかになった。
「僕を見て抱っこなんて言うこ娘、かわいいとは思わないけど」
「おまえ厳しすぎるぞ。いいじゃないか、言うくらい。まあ……ちょっとわざとらしいかな、とは俺も思ったけど、女の子はそれくらい甘えてもかわいいもんだって」
「僕は妖魔だよ。鈍すぎだね」
「おまえがどれほどの妖魔か一目で分かるやつなんか、そういないと思うぜ?」
彼の恐さを知っているディーンは、苦笑した。
妖魔には、攻撃のための特別な姿というものが存在する。戦闘形態と呼ばれるそれは、角を持ち、魔力を最大限に行使できた。
九曜はその一段階下、中間形態の仔猫の姿で、ちょっと肩をすくめた。
「まあ、ね。だけど、多少なりとも気付くもんだよ」
「そうか?」
黒髪の少年が首を傾げた。能力者でもない人間が妖魔に気付く、という概念が分からないのだろう。九曜はもう一度肩をすくめ、それ以上の言及を避けた。
能力、というのは限られた人間が持つ特殊な力で、強ければ妖魔の魔力にも匹敵する。だが、それ以外に動物には本能が存在し、生きるための〝勘〟が働いた。
妖魔は、生物の精気を吸って糧とする。従って妖魔が人と出会うとなれば、相手が能力者でないのなら餌食として終わり、相手が能力者であれば殺されるか、術で縛られ下僕として使役されるかのどちらかである。
つまり、人と妖魔は絶対的な敵対関係にあるのだ。その敵を見分けるのに、能力はあまり重要ではない。本能の問題なのだ。
事実、今までの旅で猫の九曜を見て宿泊を断ってきたり、道を避けられたりすることが多々あった。ディーンは九曜の仔猫の姿が見慣れぬからだろうと思っているらしいが、そうではない。皆、無意識に敵から遠ざかろうとしているのだ。
無論、妖気を消すことは可能である。だが九曜は、そこまでして人間社会に順応する気など、さらさらなかった。だから、取りたてて妖魔であることを隠してはいない。
しかし今回、花売り娘は彼を見て異国の生き物と信じ、宿の亭主は気軽に宿泊に応じた。
今までなかったことである。
――鈍感すぎる。この空気のせいか……。
街に充満する紫蓮花の香りのごとく、重くから絡みつく気配がレテ全体を覆っている。妖魔や妖魅とも違う、その気配を彼はどこかで知っていた。
思い出そうとする九曜の頭に、鈍痛が走る。
――くそっ。こんなところで記憶がないなんて……。
「九曜? どうした」
難しい顔で黙り込んだ相棒を心配したのか、寝台からディーンが覗き込む。
九曜は彼を振り向いた。朝日を弾いて、胸元の首飾りが金色の光を放つ。
「ううん。何でもないよ。ただ、この街は早く出たほうがいいかもね」
「あんまり長居する気はないけど……」
ディーンは、瓶に差した紫蓮花の蕾を眺め、へらりと笑う。
「今晩くらいはいいだろう? せっかく買ったこいつが咲くところも見たいし」
「咲く前に寝ちゃうんじゃない?」
「馬鹿。だから今から寝るんじゃないか」
「そのまま翌朝までぐっすりだったりして……」
あまり的外れともいえない九曜の冗談に、ディーンはふくれっ面になった。起き上がって、
「ほら、つまんないこと言ってないで行くぞ」
「どこ?」
「一階。パンが焼けたみたいだから、寝る前に腹ごなししておかないと」
やはり彼の鼻は、香水よりも食べ物の方が効くらしい。
九曜は笑って、窓から飛び降りた。