あっちもこっちも恐怖症
ふ、と目が覚めた。
やわらかな感触に包まれた、悪くない寝覚めだ。
「ここ、どこだ」
起き上がって周りを見回す。とても広い洞窟のようなところだった。上空からさらさらと砂が降ってくる。おれたちはあそこから落ちてきたのか。
(あれ、リディアは?)
きょろきょろと視線を巡らせると、少し先に太腿が見えた。
おや? あそこに太腿ということはおれの足元は胴体……いや、まさか。
試しにジャンプしてみると、着地したとき足元がぐにょん、と大きく揺れた。
ぎゃーやっぱり胸だったぎゃー。
「ん……」
運の悪いことにリディアが意識を取り戻した。
誤解されないために胸を踏み台にしてジャンプし、顔の横に降り立つ。
「ちがうんだリディア、これは事故で」
おれの姿を目にしたリディアがカッと目を見開く。
「いやーッ、トゲトゲッッ」
そうだった、リディアは先端恐怖しょ……と思い出す前に容赦なく張り飛ばされる。
背中の針のお陰で転がっても痛くはないけど、砂に埋まって自力で起き上がれない。
起こして―、リディア起こしてくれ―。
手足をじたばたさせてアピールしたけどリディアは近づこうともしない。
「……うるさいわね。あたしの隠れ家になんの用?」
ぬかるんだ地面をぺたりぺたりと踏み鳴らして、だれかが近づいてくる。
少女だ。海藻のような黒髪に白い網膜。頬や首、手足を覆う鱗の存在感が異様だ。
リディアが息を呑んだのがわかった。
「エレイン。あなたと話がしたかったのです」
慌てて起き上がり、エレインと呼んだ少女と向き合うリディア。
もしかして彼女がネロウ族の長なのだろうか。
「ノルム・ベガで異変が起きているのです。水平線が乱れ、空に海が浮遊している。すぐに水の賜杯を確認してください。もしかしたら」
「水の賜杯を逆さまにしたのはあたしよ」
こともなげに、エレインが告げた。
リディアは言葉を失う。
「賜杯を逆さまにしたことで境界線が逆になった。だから水は上空にしか存在できなくなったのね。それがどうかしたの?」
当惑しつつ、リディアは言葉を選ぶように問いかけた。
「なぜ、そんなことを? あなたはネロウ族の次期頭首ではないですか。賜杯と海の平穏を守るのが役目のはず」
「……仕方なかったのよ」
気まずそうにくちごもるエレイン。その肩にするすると蟹がよじ登ってきた。
「姫様はお父上と喧嘩なさったのですカニ」
なんと、蟹が喋った。しかも語尾にカニだって。ぷぷー。
「姫様は海を守るネロウ族でありながら泳げないカニ」
「ちょっと」
エレインが怒ったように怒鳴ると蟹はすばやく体を伝い降りておれたちの元に逃げてきた。
「そのことで大喧嘩して賜杯を持ち去り、逆さまにしたのですカニ」
「そんな個人的な事情で……」
リディアは先ほどとは違う意味で言葉を失った。
「だって、だって仕方ないじゃない。あたし水恐怖症なんだからッ」
……ええーッ。
「数ヶ月前よ。お父様は成魚したあたしを海底洞窟に閉じ込めたのよ」
エレインは唇をぶるぶると震わせて自分の体を掻き抱いた。
「いま思い出しても鮫肌が立つわ。空気のない洞窟内で水中にあるわずかな酸素をあえぐように吸ったのよ。何度死の淵を漂ったことか」
「ですから姫様たちは水陸どちらでも生きられるカニ」
「あたしはずっと地上の空気を吸って生活していたの。水の中なんか恐怖でしかないわ。だから仕返しに賜杯を盗んできて逆さまにしてやったのよッ」
つまり、こういうことか。
水に慣れさせようとスパルタ教育を施したところ、逆にトラウマになった挙句、反抗して水平線を逆さまにした……。うん、なんとも身勝手だ。
「エレイン。あなたの身勝手のせいでどれほどの被害がでていると思うのですか?」
リディアもおれと同じ気持ちだったらしく、いくぶん口調がきつくなった。
「うるさい。ネロウ族の問題に口を出さないで」
「もはやあなたたちだけの問題ではありません。地上では――」
「だったらあなたもそのトゲトゲに触ってみなさいよッ」
エレインがおれのほうを示した。
あきらかにリディアの顔色が変わる。エレインはふふん、と鼻を鳴らした。
「さっきトゲトゲは嫌だって叫んでいたじゃない? もしあなたがそのトゲトゲをぎゅっと抱きしめなければ世界が滅ぶと言われたら、あなたは触れる? 素手でぎゅっと抱ける?」
いやいやいや、そんなシチュエーションありえないだろう。
「わたしが、トゲトゲを」
リディアはごく真剣な眼差しで考え込む。
「もし触れたら、賜杯を元に戻すわ。触ってみなさいよ。さぁ」
うつむくリディア。
逡巡するように揺れる瞳から、自分の恐怖心と世界の危機を秤にかけて、ものすごーく真剣に悩んでいるのがわかる。
あまりにも沈黙が長いので「なんか、ごめんな」と謝りたくなってしまった。
そもそもおれがハリネズミに変異しているのが悪いんだし。
「――わかり、ました」
リディアは覚悟を決めたように近づいてくる。
砂に埋もれて動けないおれは「無理するな」と目線で訴えたが、例によって微妙に視線があわない。
「みていてください、これくらい……」
と自分を鼓舞したあと、膝をついて手を伸ばしたがすぐに引っ込めてしまった。
エレインが嘲笑う。
「ほら、震えているわよ」
「うぅ……」
涙目になっているじゃないか。
「リディア、おい、目をつぶるんだ。で、まっすぐ指を伸ばせ。大丈夫だ、前のほうはやわらかいから痛くないぞ」
「うぅー」
きつく目を閉じ、そろりそろりと指を伸ばしてくるリディア。よしいいぞ。
おれは体勢を変え、お腹の辺りのやわらかいところで受け止めようと準備した。
「わたしがやらなきゃわたしがやらなきゃわたしが」
おれの気持ちに応え、リディアも数ミリずつだが確実に指を伸ばしてくる。
「よしいいぞ。来い、リディア。おれが全身で受け止めてやる」
あと少し、というところで手を広げた。
そのとき。
ひょいっ、と体が浮いた。だれかに持ち上げられたのだ。
「エレイ――」
指先でおれの口をふさいだエレインは、おれがいたところにウニを置く。
「痛いッッ」
リディアが悲鳴を上げて尻餅をついた。
「あははは、残念ね。あなたが触ったのはウニよ。そして周りを見てごらんなさい」
目を開けたリディアは絶叫した。
なんとリディアの周りには無数のウニがばら撒かれていたのだ。
「いやーッ、あっちもこっちもトゲトゲ―ッッ」
先端恐怖症のリディアにとっては地獄だろう。
すっかり腰が抜けて立ち上がることもできない。