逆さまの水平線
しばらく進むと森が拓け、渓谷に出た。
森から流れてきた源流が剥きだしの岩石を削り取るように、巨大な滝から水が流れ落ちて……、
「空に上がってるしッ」
思わず突っ込んだ。
上から下へと、はげしい落差で流れ落ちるはずの水が途中で上空に曲がっている。
なんて言うんだろうな、ベルトコンベヤーみたいにきれいに一直線になって海へと注いでいくんだ。
本体滝つぼであるところは水を抜かれた噴水みたいに乾いていた。
「やはり、水平線が真逆になっていますね」
滝つぼを覗きこんだ髭おやじが渋い声でうなる。リディアも深刻な顔で頷いた。
「海と水平線を支配するのはネロウ族。なにかあったとしか考えられません。このまま進み、彼らの城へと参ります」
この異常事態の原因はネロウ族とやらにあるらしい。
「なぁネロウ族ってなんだ?」
例によって物知りのルイに尋ねる。
「この大陸に存在する七つの種族のひとつだよ。ぼくたちはヒューマン。はるか昔、この世界を神様から任されたとき、神羅万象を≪支配≫する「賜杯」をそれぞれの種族に授けたと言われている。この桁違いの異常現象を説明するには、水を支配するネロウ族になにかあったと考えるほうが手っ取り早いってこと」
知識をひけらかしたい思いでもあるのか、ルイは懇切丁寧に説明してくれる。
ふむふむ。ヒューマン、ネロウのほかに五つの種族がいて、それぞれが支配ならぬ賜杯を保有しているってことだな。よくわかった。おまえには『よくわかる解説』という称号をやろう。
「本当になにも知らないんだね。異世界から来たって話も頷ける。あの御伽噺はなまじウソじゃなかったんだね」
ルイは目の前で起きている滝の逆転現象よりも、異世界のほうに興味をそそられているみたいだった。
「こんな伝承があるんだ。世界が終末を迎えるとき、異世界から三体の神獣が現れて審判を下す。風は乱れ、海は荒れ、大地は割れる。神獣の力によって隅々まで清められた世界には選ばれし者だけが残り、地上に蘖を伸ばす」
(異世界から現れた三体の神獣……それがおれたちのことか?)
海蛇のような姿の星華。大鷲のような姿の昂介。ハリネズミのおれ。ひとりだけ縮尺が違うだろ、と言いたいけど獣という点では合っている。
(だけど審判を下すってどういう意味だろう。クレディヌ様……いや、あの女は「神々による殺し合いによって世界は浄化される」って言っていたけど)
「ルイ、お喋りはそこまでにしろ。降りるぞ」
「あ、はい」
髭おやじに叱責されたルイはパッと真顔になる。
「殿下、失礼いたします」
あろうことか髭おやじはリディアの腰と太腿に手を伸ばし、いわゆるお姫様抱っこをした。
公衆の面前でなにしてるんだ、と非難する間もなく、髭おやじは軽く地面を蹴る。
ちょっと待てそこは崖――と叫ぶも手遅れ。ふたりの姿は崖下に消える。
まさかこんなところで唐突に心中するなんて、と思っていたらルイが体を低くした。
「よし、ぼくらも行くよ。しっかり捕まっていて」
「え、まさか」
と思う間もなく、ルイは猛ダッシュ。
そして崖の際でジャンプした。遥か下方には森と剥き出しの大地。そこへ落下していく。
いやだーまだ死にたくなーい。
『風よ』
ルイが叫んだ。途端におれの毛がぞわぞわと粟立つ。
気づくと、おれとルイは風の幕のようなものに包まれてゆっくりと降下していた。先ほど見えた剥き出しの大地の上にはリディアと髭おやじがいてこちらを見ている。
「よかった、成功した」
安堵の息を漏らすルイ。よかったじゃねぇよ。死ぬかと思ったじゃないか。
しかし、地面までもう少しというところで不意に風がやんだ。
そのまま重力?に引っ張られて急降下する。
「え、なんでだよ。風よ風よ風よ風よ」
ルイが必死で叫ぶも真っ逆さま。
「だめだ……魔力が尽きた」
諦めたように目を閉じるルイ。
ちょっと待てーぃ。
リディアたちがいる位置からどんどん外れていく。異変に気づいた髭おやじが走り出すも間に合わない。
このままじゃルイが。
――守らなきゃ。だっておれは勇者になるんだから。
おれの中が、また熱くなった。
(……なんだ?)
虚空から現れたそれは、炎だった。おれたちを包むように火の粉を散らす。風が起きて、おれたちの体を優しく支えて地面へと下ろすとかき消した。
「ルイ、大丈夫か?」
地面に降り立つなり座り込んでしまったルイの顔を覗きこむ。ルイは信じられないと言わんばかりに目を見開いていた。
「いまの、炎の魔法……? だって炎の賜杯は毀れたはずなのに」
てっきりいまの炎はルイが熾したと思っていたのに、そうではないらしい。
だとすれば。
「……ふ、くくくくくく」
ルイの口元が不自然に吊り上がる。おれの毛がゾゾッとそばだった。
なんかやばい。
そう思って後ずさりしたところへ、ルイの手が伸びてきておれを掴む。あまりにも力を入れるからおれの針が突き抜けて手袋が血でにじんでいるのに、ルイはまったく気づいていない。
「あの方のお言葉は正しかった。失われた炎の賜杯がもたらされたとき、終末戦争がはじまる――」
血走った目をおれに近づけてくる。
(なんか怖い。めっちゃ怖いですッ)
そこへ足音が近づいてくる。
「ルイ、ケガはないですか?」
リディアと髭おやじだ。
ルイはおれを押さえつけるのをやめたと思ったら、剥ぎ取ったフードの中にさっと押し込めた。
ちょっと待てこのヤロウ、さっきまでとキャラが違うじゃねぇか。
「ご心配おかけしてすいません。なんとか持ち直しました」
布地の隙間からかろうじて様子が見える。 にへら、と笑うがどうにも嘘っぽい。
「彼は?」
「ここですよ。落下中パニックになって暴れたので少し静かにしてもらいました」
と血に濡れた手袋を証拠のように見せる。
いやいやいや、それ自分だろ。自分で刺しただろ。
文句を言ってやりたかったが、なぜか声がでない。
いや違う。声帯を震わせて喋っているのに、声が音にならないのだ。だからリディアたちに届かない。
「このマントは風除けの魔法の糸で織ってあるんだ。きみの声は風にかき消されているってわけ」
歩き出した道すがらルイが声をかけてくる。
こーのーやーろー。
「おっと、暴れないほうがいいよ。ここはもうネロウ族のテリトリーだ。炎属性のきみがのこのこ出ていったら敵意を示したことになるかもしれない。そうしたらぼくたちは全滅だ」
全滅ってことはリディアも危ないのだ。
そんな危険を冒してまで喧嘩を売るのは控えたい。
「大丈夫さ。このクエストが終わったら、ぼくがあるべき場所へ連れて行ってあげるから」
なんだよコイツ。なにを知っているんだ。
胡散臭くてたまらなかったが、ここで逃げ出したところで行くあてなんかない。
じっと機会をうかがうことにした。
本来であれば川であるはずの窪みをしばらく進むと、海――があるはずのクレーターみたいな場所に出た。魚たちは海とともに移っても岩肌にしがみついている珊瑚や海藻なんかは残されたまま灰色になって朽ちていた。
リディアはしばらくいったところの岩場で立ち止まった。
周りを確認するようにしばらく視線をめぐらせたあと、どこへともなく叫ぶ。
「わたしはリディア・ベル・シュタイン。シュタイン王国の第三王女にして、ノルム・ベガ混沌区の領主です。ネロウ族の長。あなたと話がしたくて参りました。どうか道を開いてください」
リディアの凛とした声が響き渡る。
しかし上空で魚が跳ねまわるだけでなんの反応もなかった。
「やむをえません。ここは強制的に」
言い差した髭おやじ。しかしハッと息を呑んだのがわかった。
足元が沈む。砂地から現れたのは巨大な渦で、まるでアリジゴクのように周りの砂を取り込みはじめた。砂地に足をとられたリディアたちは動けない。
『風よ』
髭おやじが風を起こすが砂が軽く舞い上がるだけで抗いようがない。
「きゃあっ」
リディアがひときわ深く沈んだ。砂を飲んだのか息苦しそうにあえぐ。
――助けないと。
体が熱くなる。おれは無我夢中で飛び出していた。
「あ、待て。戻れ、このヤロウ」
素のルイが怒声を浴びせるが当然無視だ。
沈み込むリディア。助けを求める手にしがみついた。
――あんたってさ、ほんと莫迦だよね。嫌いじゃないけど。
体と意識がずぶりと沈む中、星華の笑い声が聞こえたような気がした。