(回想)テレティー
「8Zhls7r/jdqt」
女神さま(仮)が何事かささやく。
「クレディヌ様はゆっくりできましたか、と仰せです」
サミアが通訳してくれて、おれたちはそれぞれ頷いた。この美しい女神さまはクレディヌという名前なのか。
「D.D」
「あ、クレディヌ様から贈り物があるそうです」
きたッ。チート能力の授与。
「贈り物? これ以上なにをくれるっていうんです」
「ぼくもうお腹いっぱいだよ」
どこまでも呑気なふたりにクレディヌ様が歩み寄る。髪や胸を揺らしながらも足音ひとつなく風みたいに近づいてくる。人間じゃないみたいだ。やっぱり女神かな。
その女神さまはそっと目を閉じると、右手を星華の頭上に掲げた。
「なぁなぁサミア、贈り物ってチート能力?」
「いいえ、ちがいます」
こそっと問いかけたがさわやかな笑顔に否定される。
「友好の証のようなものです。私たちの国ではテレティーと呼びます。ニホンゴでは名付け、ですね。友人の名です」
うーん……つまり友好の証にあだ名をつけて呼び合う、みたいことか。なんだ、がっかり。
クレディヌ様の手のひらにやわらかな光が集まって、かすかに空気が重くなった。
「うわ、眼鏡が」
昂介が慌てて眼鏡の曇りを拭き取る。
この空気の重さは冷たさというより湿度の変化なのか?
『――水。はるかなる水平線。荒々しい大海原を駆ける蛇』
クレディヌ様の口から紡がれた言葉はなんとニホンゴだった。
「ニホンゴは神聖な言語として儀式にだけ用いられるんですよ。日常会話として扱えるのは私たち末裔だけですが」
サミアが自慢げに耳打ちしてくる。
光が集った手のひらを、緊張した面持ちの星華の額に乗せる。乱れる前髪、淡い光が額に浮かんだ。そこへ祝福を授けるように軽く唇をつける。
儀式は終わりとばかりにクレディヌ様が体を離した。
「あ……あ、終わった? はぁー、緊張した」
緊張から解放された星華が肩で息を吐く。一瞬額に浮かんだ文字はもう見えない。星華も気にしてさすっているが、特に異常はないようだ。
「ZG@F」
「あ、次に移るそうです」
次はおれだ、とクレディヌ様に目だけで猛アピールした(大声でアピールするのが恥ずかしかったんだ)。
クレディヌ様はおれと目が合い、にこりと微笑む。
が、素通りして昂介に歩み寄った。
「あ、ぼ、ぼくですか? あ、はい」
緊張して顔を赤らめつつ、眼鏡を外す昂介。
クレディヌ様は先ほどと同じように、まず手のひらを掲げた。春風のように穏やかな風が吹いて、みんなの髪が揺れた。
『――風。境界線のない天空。勇ましく千里を駆ける鷲』
手のひらを昂介の額に乗せ、文字が浮かんだところへ口づけする。
「……はぁ、息できなくて苦しかった」
おおきな息を吐き出し、眼鏡をつける昂介。
よし、次こそはおれの番だ。
「お待たせしました、オキトさん」
待ってましたとも。
クレディヌ様がおれの前に立つ。ふわりといい匂いがした。
肌は陶器みたいにツルツルだし、唇は濡れたように湿っている。目の色は湖底の深い青で、すべてが完璧だ。
『――獣。苛烈な炎で大地を熾す愚者。あなたは――……』
目蓋が持ち上がる。その奥には金色の光が宿っていた。
『あなたは――……災い』
どん、と突き上げるような衝撃がきたのはそのときだった。
「きゃあッ」
地震か、と焦る間もなくクレディヌ様がバランスを崩して倒れ込んでくる。
触れた肌のやわらかさと言ったらもう……って、そんな場合じゃない。
断続的につづく地震。これは非常事態だと自分に言い訳し、クレディヌ様のめちゃくちゃ細い腰に手をまわして床に伏せさせた。
星華と昂介はさすが日本人とあって、ほぼ条件反射で頭を低くしている。慌てふためく給仕の人たちにもジェスチャーで体を低くするよう促す。
そんな中、机にしがみついてたったひとりだけ立っている人物。
「サミア、危ないぞ」
駆け寄ろうにも足元が不安定でよろめいてしまう。
「平気です。私がダーを鎮めます」
『ダー』ってなんだー?(ダジャレを言っている場合ではない)
サミアが腰から細い杖を取り出した。その先端を床にこすりつけ、なにやら文字のようなものを三つ描く。
『鎮まれ』
文字から光があふれた。
突風が吹きすさび、あちこちで食器が割れる。
天井にぶら下がった巨大なシャンデリアがガシャン、と叩きつけられすべてが闇に染まった。
と同時に、揺れがおさまる。
暗闇の中でともった光は、サミアの杖から発されるものだった。
「オキトさん、大丈夫ですか?」
「おれは平気だ。それより」
「――クレディヌ様ッ」
だれかの悲鳴のような声が聞こえ、おれもサミアもクレディヌ様のところへ走った。星華の腕の中でぐったりとしている。サミアが進み出て脈や呼吸を確認した。
「大丈夫、気を失っているだけです。突然のことで驚かれたのでしょう」
ほっと胸をなで下ろしたサミアは給仕さんたちに視線を向けた。
「お部屋へお連れしなさい」
「は、はいっ」
運ばれていくクレディヌ様を見送ったサミアは、おれたちを気遣うように笑いかけてくれた。
「驚かれたでしょう。ここ数年、ダーが不安定で、先ほどのように時折激しく大地を揺さぶるのです」
「地震じゃなくて、ダーとかいうものの仕業なの?」
「はい。ダーはこの大地を支える巨大な蛇だと言われております。大地の穢れはダーの汚れ。ゆえにダーは暴れるのです」
地震の原因であるマントルのもぐり込みのことをダーと言っているのだろうか。
「ゆえに私たちはこの地を浄化しなければいけないのです。さもなければ、いずれ大地は汚れきり、ダーの怒りに触れて大陸は沈むでしょう」
異世界もいろいろ大変なんだな、と現実的に考えてしまう。
たとえばおれが神チート能力でダーを倒せれば一件落着……なら楽なのに。
(どれ)
ためしに、ふんっと気合いを入れてみた――けど、鼻息しか出なくて、それらしい力は感じられなかった。
「……ねぇオキト、なんか寒くない?」
両肩をさすりながら星華が尋ねてくる。
「いや、べつに」
時間を経ればものすごい力が湧いてくると言われたけど、いま感じるのは。
熱の引きはじめのような気だるさと、軽いのどの渇き。それくらいだ。
「冷房なんかないのに、うぅー、寒っ」
「この世界は夜に冷え込みますからね、どうぞこちらをお使いください」
ぶるぶると震える星華にサミアが薄い布を手渡す。
「星華のやつ、これくらいで寒がるなんてらしくないよな昂介――って、どうした?」
振り返った先で昂介は肩を押さえている。
「あ、ううん。急に背中が痛くなって……かゆいような、痛いような、変な感じなんだけど」
「見てやろうか」
背後にまわり、少しだけシャツをたくしあげて背中を確認する。
「特に、腫れや出血みたいなものはないみたいだけど」
他の奴に見られないよう素早くシャツを戻してやる。そこへサミアが近づいてきた。
「転移の負荷がいまになって影響したのかもしれませんね。ですがいずれ気にならなくなります。心配であれば痛み止めをご用意しましょうか?」
昂介はしずかに首を振る。
「皆さまきょうはお疲れでしょう。部屋に案内させます。ゆっくりとお休みください」
サミアに合図され、給仕のひとりが案内してくれる。
「オキトくんはなにもないの?」
並んで廊下を歩きながら昂介がおれを気遣ってくれる。
「おれは……ちょっとのどが渇くくらいかな」
「オキトは健康だけが取り柄だからね」
布を羽織ってもまだ寒そうな星華が八つ当たりしてくる。
「うるせぇな」
言い返したものの、一抹の不安がよぎった。
星華の寒さ。昂介の痛み。おれの喉の渇き。
これって、神になる変化の兆しなのかな。
とある扉の前で立ち止まった案内役が鍵を取り出して解錠し、木戸を開いてくれた。
「こちらです、どうぞおくつろぎください」
……あれ。いつの間にこっちの言葉がわかるようになったんだろう。