22
隆士は実家に電話を掛ける。
就職活動をあきらめ、大学院に進学することを伝えるためだ。
電話には母が応対した。
「あんた、今まで大学院行くなんて言ってなかったやん」
「まあ、そうなんやけど。 やっぱ理学部って大学院行く人多いし、修士くらいいっとかんと大したことできひんからさ。 だいたい治療しながら就職活動って、厳しいって」
「自分でそう決めたんやったら、お母さんもあかんとは言わへんけど。 あんた、もうちょっとがんばったらどないやの」
「入学したときも、あれだけ教員免許取りやって言ったってんのに、結局すぐに諦めてもうてからに。 そんなんで大学院行って、ほんまに大したことできるんかい」
「あれはだって、確実に4年で卒業するためには教職の単位を取り続けたらあぶないと思ったからで。それのおかげとは言わんけど、一応4年で卒業できそうなところまでは来た訳やし。 だいたい治療だって結構副作用あるねんで。そっちの方の大変さ、全然理解してくれてないやん」
「だからあかんとは言ってへんやん。 けど今までの隆士見てきても、もうちょっとがんばってくれたらなあと思ったこと、お母さん、何回もあるんやで。 だから大学院行くんやったら今度こそちゃんとがんばりや!」
そう言われて、素直にがんばると言えない隆士がそこにはあった。
なぜなら隆士自身、これまでの人生の中で、
俺、このときだけは胸を張ってがんばったって言える。
と思えることが1つとしてなかったから。
この、自身がないことは言葉にできない性格は、就職後に隆士を追い詰めていくことになる。
それからおよそ1カ月後、今度は母から電話が掛かってきた。
「あんた、大学院行くんやったら、奈良にある大学院に行ったら。 あそこは企業と連携してるみたいやからいいとこに就職しやすいらしいで」
話を聞いてみると、近所に住む広永さんのところの息子がその大学院に行って、いいとこに就職したとのこと。
隆士はこのとき、今いる大学の大学院にそのまま進学しようとしていた。
しかし所詮は地方国立大学、ネームバリューを得るために旧帝大系などの大学院に進学するのが本校のトレンドであった。
もちろんそっちの方が就職にも有利だということは隆士も重々承知であった。
しかし、隆士には大学院入試に受かる自信も、新たな環境でやっていく自信もなかった。
「いや、違う大学院に進学して人って、結構新しい環境になじめずにうまくいかん人多いみたいやで」
隆士は適当なことを言ってはぐらかし、奈良の大学院には進学しない旨を伝えた。
そして結局、推薦入試にて今いる大学の大学院に入学したのである。
さて、肝炎の治療についてだが、結果としては治らなかった。
月に1回行うウイルス量チェックにてウイルスが未検出になることは最後までなかった。
本来なら一年弱行う治療であったが、9カ月目の時点でこれ以上やっても無意味という判断が下され、中断となった。
唯一の成果としては、60kg近くあった体重が49kgまで減ったことであろう。
隆士はこれをインターフェロンダイエットと名付けた。
父が全然でてきませんね。




