蜥蜴女は可哀想
私は十万人に一人発病すると言われる難病を患い、その為に捨てられ、孤児院で育った。症状は、顔を覆う鱗の皮膚と悪い魔法使いの老婆のようなしゃがれた声。人から忌み嫌われ、ばい菌扱いされた私のあだ名は蜥蜴女。
育ててくれた孤児院の人だって私を気味悪がって、化物扱いした。私が生きていられたのは単に、化物という虚像からの復讐を恐れた人間の恐怖心と、孤児を育てれば貰える国からの給付金のおかげだ。
十六歳。あれは、十六歳の春の日のことだった。その外見と声のせいで何処にも働けず、孤児院の掃除婦をしていた私はその日、髪飾りを買うために王都の城下街に向かった。どんなに容姿が醜かろうと、中身はいたって平凡な女だ。オシャレをするという経験がしてみたかった。
そこには、勿論スカーフで顔を覆い隠し、それでも見えてしまう爬虫類の鱗は俯くことで隠そうと。しゃがれた声は、風邪をひいてしまったのだと嘯こうと。何とかその異形を欺き、これならもしかして大丈夫かもしれないと、微かな自信さえ持って、視線を警戒しながら、流行遅れの鼻唄を歌いながら向かった。
それでも。
そこで起こったことは語りたくない。ただ、私を汚く罵った人は、もう私のことを覚えていなくとも、私はあの酷く歪んだ顔を、蔑む声を忘れることはないだろう。
まあ、そこはいいのだ。兎に角、私は悔しくて近くの林に逃げ込んだ。目的の髪飾りを買うことも出来ずに。
そこで、彼と出会ったのだ。
今まで出会った人は皆、私に残酷だった。
皆が私を気持ち悪がり、近寄りもせず一歩ひいたところから陰口を楽しむ。あからさまな嫌がらせは少なかったが、小さい不満は固まり肥大していき、吐き出す場所を私は持っていなかった。
私以外の他人は皆敵で。私は人間で、皆はエイリアン。いや、本当は皆が人間で、私がエイリアン?
彼らはそんな自問自答をいつも私に強要させたのだ。
だけど、彼だけは違った。
彼だけは私と一緒にいてくれて、しかもそんな君が好きだ、と言ってくれる。嘘かと思ったけど、彼は好意を訴える数多の女子を無視して私だけ特別扱いしてくれた。彼は私にとって唯一の人だった。彼だけが私の世界で、幸せで、彼だけが私の愛する人だったから。
彼と笑顔で過ごし、それでも苦しい毎日を送っていた冬の日、私に突然転機が訪れる。
私の様に珍しい病気の人が集まる病院に招待されたのだ。そこで病名さえ違えども、私と同じ苦労してきた友人とも出会え、彼がいなくても初めて楽しいと思える時を過ごした。彼らといると、悲しいのは私だけではないと励まされたし、彼らとの共感は、傷付いた心を癒し、唯一の異端だった私をその他一般の凡庸な誰かであるように錯覚させた。
私は人と違い、エイリアンであるかもしれない仲間と共にいることで人並みの幸せを手にいれたのだ。
だが、私の笑顔が増えると比例して、彼の表情は曇り、暖かい笑顔は消えていく。徐々に積りゆく不安を見ない振りして、勝手に自分に都合の良い理由を作って。
私が完全にその病院に慣れ切った時、彼も仕事が忙しくなったらしく、会える時間も少なくなり、すれ違う事が増えた。
それでもこの忌々しい病気が治れば、また上手くいくだろうと、未だ試験段階の新薬の実験に立候補して、病気に向き合ったところ案外あっさりと完治することが出来た。たった一滴の好奇心と踏み出す勇気で私の世界は180度裏返ったのだ。私の十六年の苦しみは、たった一週間で意味をなくし、新しい未来が与えられた訳である。
鱗が剥がれ落ち、変声期のように日々変わる声。そして、露わになったのは、そこそこ美人な顔と透き通る天使のような声。
その上、新薬の発明も相まって、私は一躍有名人になったのだ。病気の仲間からは勿論、全く知らない人や取材に来た記者達は一斉に私の奇跡を祝福する。少し戸惑いもしたが、私は素直にその奇跡を尊び、鏡を見るたびに頬を緩ませて。
浮かれた私はすぐさま彼と会い、その容姿、声だけに至っては寧ろ恵まれたそれを自慢し、これでまた彼と上手くいく、と期待した。
それなのに、彼が私を無感動にチラリと見て言った一言は、私を絶望に突き落とす。
「えっ? 」
「もう、君に魅力を感じないんだ。君はあの病気も治り、人から注目され普通の女の子になってしまった」
「そんな、あんなに愛していると言ってくれたのに……貴方は私のどこが好きだったの?」
「『可哀想』なところ。あの醜い鱗もしゃがれた声も、孤児であることも理解者が一人もいないことも、憐れで惨めで『可哀想』で。ただ一人世界から疎まれていた君は、誰よりも『可哀想』で魅力的だった」
彼は、私自身を愛していたのではなく、私の哀れさと弱さを愛していた。大きいショックのあと、確かにそんな理由でもなければ、私があの人に選ばれた理由はなかったと納得する。私は、珍しく醜い病気しか特徴のない『可哀想』な女だったから。私は、私の憎い醜い病気を克服して、愛しい恋人をなくした。彼が愛したのは、私の一番嫌いな醜い所だった。
私が病院から去った後、スカウトされた劇団に入り、彼が私の友人と付き合っていることを知る。彼女も私と同じくらいに『可哀想』で憐れな女だ。私が仕事だと思って会えなかった時間は、全て友人と逢引していた時間だった。
「ひさしぶりね」
「ええ、ひさしぶり。貴女は、舞台の方で随分と成功しているらしいじゃないの。辺境にある病院にまで貴女の噂は広がっているわ。どうやら、ヒエダ公爵のパーティーにも招待されたらしいじゃない? 今までと大した違いね。いろんな人にちやほやされて。でも、貴方が一番驚いているんでしょ」
「……そうね。幸運なことに、吃驚するほど全て上手くいっているわ。今までの不幸の帳尻会わせみたいに、良いことばっかり。……でも、時々寂しくなるときもあるのよ」
「ああ、あの愛しのユト様がいないから? 遠回しな嫌味なのかしら? 」
「いえ、そんなことは」
「でも、ご生憎様。ユト様は私を愛してるわ。ふふふ、残念だったわね。貴女は、富と名声を手に入れたけど唯一の恋人はなくしてしまった。愉快、愉快、貴女私より『可哀想』な人だわ!! 」
……『可哀想』な人。
あれから幾つか季節は移り変わったのに私はまだ、『可哀想』な人なのか。
先月購入した、立派な細工のついた化粧台には、あの頃には想像もつかなかった高い化粧品が立ち並び、鏡に映った女の顔は繊細なメイクの術で見事に美人に化けていたのを、今朝家を出る前に確認している。
世間的には、豪華で優美な幸せであるはずなのに、その女の顔は、ピクリとも笑わず氷のように冷たい瞳で、まるで孤独な女王そのものだった。
「そうかもね。……それにしても、貴女は性格が変わったわ」
「ええ、だってユト様が私のそばにいてくださるもの」
「貴女は、私の方が『可哀想』な人だと思っているのね。初めて知った」
「あら、そうなの? 私はずっと貴女が憎かったわ。貴女は私と同じ境遇なのに、ユト様みたいな格好良くて、お金持ちで素敵な恋人がいる上に、醜い病気さえ治ってしまった。……いえ、貴女の病気が治る前から、ユト様と逢い引きはさせて貰っていたからそれは関係ないのかもしれないけど」
「そう。でも、今貴女は幸せなのね」
「ええ!! そう、とても幸せよ!! 貴女よりもずっとずっと幸せ。相変わらず、この蛙の眼と蛇みたいな舌を気持ち悪いと言って、冷遇はされているけど私にはユト様がいらっしゃるもの!! 」
「貴女は幸せ」
「そう。私は幸せ。ふふふ、そうね、これも言っちゃおうかしら。貴女があまりに惨めになるかもしれないけど私、実は――――― 」
「貴女は幸せになったのね。御愁傷様」
「何それ!苦しすぎて頭がおかしくなっちゃったのかしら。ああ、『可哀想』な女。あんたみたいな女には絶対になりたくないわ!!! 」
後日。一ヶ月後位だろうか。
彼女は彼と別れたらしい、と風の噂で聞いた。
「だから言ったのに」
「――――私も病気が治るのよ!! 貴方と同じように、新薬の試験者に選ばれたの。これで私も」
幸せになってしまったのね。御愁傷様、と。
人々の言う大逆転劇を現在進行形で繰り広げている私は未だに彼を、ユト様を忘れられない。今も彼のことをこそこそと調べて、情報家から聞いたり、バレないように見に行ったり。
決して姿は見られないように。
前と違って、醜くない姿。寧ろ、美人よりで天使のような透き通った声は見られないように、聞かれないように。これ以上嫌われないように隠して、影からちらちらと彼の姿を顧みる。
彼の隣には、いつも『可哀想』な女が笑って立っていた。それが、どんなに不釣り合いで滑稽で、愚かであるか彼女が知っているように、その場にいる全ての人が知っているだろう。
けれど、弱さは強さだ。『可哀想』とは、脆弱で、惰弱で、虚弱で、軟弱な、何にも侵されない『最強』の武器である。その武器は、彼女の全てを許し、魅力的に輝かせるだろう。
だって、彼女は『可哀想』な子なのだから。それくらいの幸せ恵まれたって文句言えないでしょう?
何年間か彼を観察してきて、彼は愛する人をコロコロとよく変えることを知った。彼が原因なのではない。彼と出会った女性達は、自然と自信を持ち、立派で幸せな普通の女になってしまうから。なってしまう……本当は「なれた」という言い方の方が正しいのだろうが、それは結果的に愛する人との別離を意味する。
それに気付けた人は、付き合っている最中には誰もいない。だが、別れた後に私と同じようにその事実を知る者はいた。しかし、そんな者達は、あの時の私とは違って、泣き崩れて彼にすがり付き「酷い酷い」と繰り返す。それは、あまりに『可哀想』だが、それは彼に響かないらしい。全てをきっぱり無視して、彼は彼女達の元から立ち去った。
そして、私は漸く気付く。彼は、わざと人目につくところで行動している。たまたま、私に都合良い時間で、重大な動きを果たす事が多いし、彼は誰かの視線を気にしてわざと目につくように行動しているようにも見えた。
そして、私が彼から隠れきれていない時彼は私がまるで見えていないかのように動いている。これは、わざと以外にあり得ない。思えば、彼は私が彼をずっと見ていた事に気付いていたのではないか?
気になってわざとバレるような尾行をしても彼は涼しい顔で、それら一切を無視する。
確信した。彼は私に気付いている。
「ひさしぶりね、ユト」
「……やあ、ひさしぶり。最近、君の名前を聞かない日はないよ。新しいミュージカルも大成功だって? それに、色んな男に口説かれて毎日大忙しらしいじゃないか。嬉しいよ。君が人気者になって」
「ありがとう。本当に毎日忙しいわ。……今日貴方に会ったのはこのチケットを渡すため。是非、見に来て」
それだけ言って私は、彼の前から去っていく。案の定、彼は私が幸せ者であると思っているだろうし、彼の瞳はそれを、あの恋い焦がれるような熱い情熱は其処になく、その他一般の者に向ける冷たいモノであることを物語っていた。
何故、私が付きまとっていた事実を指摘しないのかは分からなかったが、それが私にとって都合の良いことであるのは確かであり、彼の気まぐれなのだろうかと判断した。
渡したチケットの日程は、丁度一週間後。何回もやったその公演は、今や御手の物だし、失敗したことも一度もない。
だか、その日。私は、取り返しのつかない失敗を犯すのだ。
誰の手でもない、私自身の手によって。
その日。当日。
その日のミュージカルは、いつも通りの時間から、いつも通りリハーサルを終えて、いつも通り共演者と笑いあって、いつも通り支援者の禿げオヤジにゴマをすって、いつも通り頬を三回叩くルーティンを行ってから幕が上がった。
役者として必須である笑いと涙と感動をとって、最後のクライマックスシーン。私は、いつもは持っていない大きな布切り鋏を衣装の長い袖に隠し持って現れた。
そのシーンは、苦渋の決断によって大切な恋人と別れる悲しいシーンだ。そのキャラクター達は共に愛し合っているが、家と身分の違いで泣く泣く別れる。それは、私と彼の別れのシーンと違って、正に理想のもの。
今、ここで。私が自分の顔を鋏でズタズタに引き裂いたらどうなるだろうか。きっと、見ている観客は驚いて、相手役のキートンはもっと驚いて慌てて止めに入るだろう。それでも、私は自分の顔を傷付けるのを止めないのだ。
狂った女だと思われるだろう。
頭がおかしくなったのか、と。
そもそもこんなことをするのには、原因か理由ご必要となる。実際は、ただ『可哀想』になって彼に愛されたいという単純な理由だけ。だけど、それだけだと先の言うとおり狂った女になってしまう。
何か、大きな原因が必要だ……
だったら、こうでもしないと人質を殺すと脅されて泣く泣くやったという原因を作ってみたらどうだろうか? それだったら、私は悲劇のヒロイン。人のため自分を犠牲に出来る心優しいヒロインになってしまうし、そんなすぐにバレそうな嘘はつかない。
そもそも、これだと純粋に『可哀想』な女にはなれないだろう。容姿がどんなに醜くてもそんな事をした女は、同情と感動が寄せられて世界から疎まれる孤独な女には、なれない。
では、自分ではなくキートンを刺す?
それは、無理だ。誰かに脅されていたとしても、人を刺すのであっては『可哀想』な女ではなく、ただ狂っている女で犯罪者であり、世界から疎まれるのではなく、憎まれてしまう。
そして何より、無理、だ。私が心優しく常に人を気遣うキートンのことを刺せるはずなかい。恋情ではないが親愛している人だ。そんな人を刺すなんて選択肢、浮かびはしても生理的に否定した。
私は、傷つけられる悲しみを、苦しみを知っている。どんな理由があったとしても、物理的にも精神的にも人を傷付けることは出来なかった。自分がされて、嫌なことは人には出来ない。
それは、蔑まれ続けて来た私のプライドであり、信条であったのだ。まあ、その事に気付いたのは、この件があったからなのだが。
取り敢えず、残る手は自分で自分を傷つけ、理由については黙秘することだった。苦しみながら、でも何かの為に痛みを無視して必死に自分を傷付ける。瞳には、はっきりとした理性を。口は、叫び声など出さぬよう、ギリギリと音をたてながら歯を噛み締めて。
その後、何を聞かれてもただ俯いて我慢して。ナニカを匂わせながら「本当にごめんなさい。舞台を台無しにしてしまって。でもこれしか方法が……。いえ、何でもありません。言わない、と約束させられているので何も言う気はないです。本当にごめんなさい私が悪いのです」と泣きながら赦しをこうのだ。全て私の責任だから、と。
その光景は、なんて『可哀想』で魅力的ではないか。
理由が分からないから、同情のしようもなく、誰を傷付けているわけでもないから憎まれることもない。
それは、ただ理解不明で。でも、善意ある人間が背景を想像するとなんとなく『可哀想』になる。
そして、それは私から人を離れさせるのだ。
彼の理想の世界から疎まれる孤独な女にはなれないが、世界から隔離された孤独な女になることは出来る。
正直、鋏で顔を引き裂くという自傷行為を恐怖に感じ、そのシーンが永遠に来なければいいと震えていた私は今、歓喜に震えている。きっと、こうすれば彼は再び私を愛してくれるだろうか。
また、あの綺麗な顔で「君を愛している」と囁かれたら。
笑いながら彼の隣にいられたら。
彼とお気に入りのジェラードを食べあいっこ出来たなら。
もし、彼とまた付き合えたのなら。
『駄目』だ。
私は、唐突にその作戦の決行を中断させた。
握っていた鋏を衣装の小物入れにすっぽり落とし。いつも通り素手で演技を続ける。
ああ、なんてことだ。
どうして神様は私にこんなに冷酷なの?
もし、この作戦を成功させたら私は幸せになってしまうしじゃないか。
また、彼と付き合えたのなら私は幸せでいっぱいになる。ジェラードを食べあいっこしたのなら、嬉しくて頬が緩むし、彼が隣にいて、しかも、愛を囁かれたら、私は神に感謝して自分の幸せを噛み締めるだろう。
でも、そうしたら。
私が幸せに満ちてしまえば彼は私を好きじゃなくなる。
あんなに長い時間考えたのに今更気付いてしまった。
私が彼を愛する限り、私は彼に愛されない。
私が彼から幸せを感じる限り、私は彼と共にいられない。
よくよく考えてれば、彼は攻略不可能な絶対領域だ。彼を愛せば愛すほど、幸せを感じれば感じるほど。彼は、幸せを拒否するように人なら離れていく。
いっそのこと、彼が大嫌いで彼と付き合うのが罰ゲームなのだ、という女の方が、好きでもない男と付き合わされているなんて『可哀想』と彼に愛されるだろう。
でも、結局彼の愛に触れ続けた女は彼を愛すようになり、幸せを感じ始めれば。彼は、興味をなくして捨ててしまうのだ。
圧倒的虚無感が私の中を支配して、それでも体は勝手に演技を続けた。ミュージカルのキャラクター達は無事に再開し、二度と離れないと、誓いあいながら涙を落とす。
さながら、観客席からはスタンディングオベーションで、ヒューっという口笛と啜り泣きの声が飛び交う。
終わってしまった。最後のチャンスが、無事に感動的に終わってしまった。
舞台の幕が落ちるまで、それは途切れることもなく隣のキートンは観客達の反応が嬉しいようで、興奮して笑っていた。全てが笑顔で包まれるなか、哀しいのは私だけ。
無表情なのは、彼だけ。
最後の最後。幕が目線より下に行く直前で彼と目があった気がして、彼にとっては茶番劇であるはずなのに眼がいつになく光耀いて見えたのは、きっと私の目に膜が張っているからだろう。
舞台が終わった後、私は今までで一番誉められた。あの恋人と泣く泣く別れるシーンの演技はあまりに、悲痛で憐れで『可哀想』で感動的だった、と。
私は俯きながら、目を細めて頬をあげた。それは、笑顔。
演技を学ぶ際に一番始めに習ったことだ。それを見た彼らは私が内心血涙を流しているのに気付きもせずに、恥ずかしそうに誉められたことを喜んでいると誤解する。
きっと私の本心を知る者は、いない。
私は、作戦を決行させる気でいたからミュージカルが終わった後、会う約束はしていなかった。だって、作戦を成功させたら彼から連絡をくれるだろうと思っていたから。
その溢れる自信で、私は彼との約束を取り付けなかった。もし、取り付けていたら、演技などせずにこの本心のまま彼に泣き入りもう一度、もう一度だけチャンスをくれ、と憐れに惨めに愚かにも頼み込んでいただろう。
自信が砕かれたと共に彼に会う勇気がなくなった。そしたら、私は一生彼と顔を見合わせることのなく、無気力のまま生きていく羽目になる。彼との縁はない。
やっと、誉めちぎる周囲から解放され、私専用に用意された個室で独り感傷に浸っていたら、控え目なノックと共に赤い薔薇が贈られてきた。
そういった贈り物は、別室に届ける約束なのに。
つい、避難がましい表情でそれを持ってきたスタッフを見ると、彼は申し訳なさそうに一つのメッセージカードを手渡して。どうしても、と頼まれたのだと事情を話す。
遠い意識のなか、必死に自分は悪くないと弁解するスタッフの声は確かに届いていたがそんな事、最早どうでもいい。
彼だ。
これは彼の文字だ。
差出人の名前は書いてない。
だけど、その見馴れた文字には覚えがあった。いや、忘れられなかった。
「これをくれたのは、もしかしてレチネール伯爵? 」
「えっ、……始めにそう言いましたが」
君に会いたい。思い出の場所で待っているよ
向かうのは、城下町から少し離れた林の奥にある小さい湖。私達は、そこで出会い、結ばれて、逢い引き場所はいつもそこだった。
舞台後の挨拶周りなんて、支援者へのおべっかなんて忘れて。着替えた淡い色のワンピースと舞台用の派手なメイクというミスマッチさえもなかったように、私はその場所へ向かった。
そこへ向かう理由なんて、彼が私をそこに呼んだ理由なんて分からないけど。目の前に人参をぶら下げられた馬のように、自分の欲のまま。
「思ったより早かったね。そんなに息を切らすほど急がなくても、僕は構わなかったのに」
「ユト」
「うん。気持ちは伝わったよ。君は僕を忘れられないんだね。もう、三年も経っているのに君はまだ僕を愛している」
「ユト」
「僕は、気付いたよ。君が舞台で何をしようとしたのか。……君がどうやって舞台を、滅茶苦茶にして『可哀想』になろうとしていたのか」
「ユト」
「結局、君は出来なかったね。舞台は大成功。君のミュージカルは酷くつまらない茶番だった」
「私は」
「だけど、君はとても魅力だった。私はもう一度君に恋をしてしまったんだ」
「ユト?」
「返事は入らない。君が僕を愛し僕が君を愛してるんだ。結果なんてもう。決まっているよね」
私は、まともに話せないまま舞台さながらの熱い包容を交わし、三年ぶりにキスをした。
それは、あの頃と違って、甘くて苦い味だった。
その後、私達は無事に愛し合い、遂に結婚する事となった。あまりに幸せで怖くなる。このままずっと、幸せになり続けたら、また彼から愛されなくなるのではないか。
彼は、今までの事が嘘のように私よりもうんと『可哀想』な女を見向きもせずに、ただ私だけを愛した。だから、怖くて。怖くて。この幸せがなくなるのが怖くて。何度も『可哀想』になろうとしたが、それを実行するのも怖くて。私は、幸せに怯える毎日を、過ごす。
「ねえ、もう耐えられないの。赦して」
「どうしたの、急に。結婚式前夜に、マリッジブルーかい?」
「私は貴方の理想になれない。『可哀想』になんてなれないわ」
「……なんだ、そんなこと」
「そんな事じゃない、重要なことだわ。私は今幸せ。世界で一番幸せだわ。だけど、貴方はそんな私を愛さなくなる。そんなの苦しくて耐えられないの」
胸を抱えて泣きながら言ったそれは、二人の間に静寂をもたらす。静かになった空気を見ないように俯くと、左頬に熱いものが触れた。
彼の手だ。彼の手は、一般男性よりも背が高いからか、私のものより一回り以上に大きく、すっぽりと私の左頬を覆う。驚いて顔を上げて見ると私は時間が止まったように身動き出来なくなった。
彼は恍惚として、私を宝物を見るようにキラキラとした瞳で見つめている。まるで、私が愛しくて愛しくて堪らないように。
「やっぱり僕は君を世界一愛している。人をこんなに愛しいと思ったのは初めてだ。君が愛しい。きっと死ぬまで愛している」
「な、なんで?おかしいわ、貴方は『可哀想』な人が好きなはずでしょう?」
「おかしくなんかないさ。至極当たり前な結果だよ。君は僕が出会った中で一番『可哀想』で魅力的な人間さ」
「嘘よ。私は今誰よりも幸せだわ。貴方に愛していると言って貰えて私はとても幸せなのよ」
「くくくっ。幸せな人はそんな顔をしないよ?」
彼は、私の頬を撫でながら、言う。そういえば。
そういえば、私は今どんな顔をしているだろう。
「君は、今とても苦しそうに、まともに息が出来なそうな悲痛な顔をしているよ。この世の誰がそんな人を指差して、あいつは幸せだ、と言うだろうか」
「私は、『可哀想』?」
「そう。君は『可哀想』。美しく、聡明で、誰よりも成功者で、富も名声も得て、男も選り取りみどりなのに僕みたいなおかしい趣味な男に執着して。ストーカーみたいな行動をしては、男の好みに会わせようと自ら不幸になろうとする。とても憐れで『可哀想』で、きっと誰にも理解されないそれを抱える君は孤独だ」
「でも、私は結局幸せなまま」
「君がそう、思っているのならそれでいい。そもそも僕は幸せを嫌ってなんかいないよ? 『可哀想』の反対は幸せじゃないからね。……君は、僕と違って至って常識のある誠実な人間だ。だから、君はどんなに苦しくても自ら『可哀想』になる決定的一打を打つことが出来ない。分かるだろうか、あの時の僕の感動を、感激を。あの舞台で為す統べなく凶器(狂気)を落とした君は確かに僕の運命の人だ。ここまで『可哀想』で、僕の胸を打つ君に出会えた僕は、きっとあの瞬間のために生きてきたと確かに思ったんだよ」
「まさか、貴方がそんな・・・・」
「そう。もし君が実際にあの、刃物を振り上げていたら僕は君をここまで愛してはいなかった。それでは、憐れだけど愚かな人に成り下がってしまう。僕が好きなのは、愚かな人間じゃない。賢明な判断と聡明な考えを根に持つ君が、堕ち切れずに悲しんでいるのが『可哀想』で魅力的なんだよ」
「だから、貴方は別れる間際恋人が泣いて縋っても冷めた顔をしていたのね」
「ああ、そうだ。もう好きじゃないと言った本人に縋ったってどうしようもない。そんなことも分からない愚かな人には、少し残った親愛の情さえ消え失せるね」
「酷い人」
「でも、そのおかげで僕らは今結ばれている」
「ああ、人生は面白い!不覚、……不覚にも僕も君と出会えて、君と愛し合えて世界一幸せ者なんだ。 幸せ者なんて自分の口から出るなんて夢にも思わなかったのに。この責任はとってもらわないと」
「……そう、じゃあその責任、私がしっかりととってあげる」
日頃、彼の私への愛を聞いているからか。情熱的な告白は、あまり照れずに聞くことが出来て。しかも、彼の私を愛する理由をなんとなくでも理解出来た私は、彼の言う常識的な聡明な人間とは違って、彼と同じ穴の狢なのだろう。
だか、余計なことを言って、失望させたくないからなにも言わずに誤解させたままでいた。
「嬉しいわ。貴方に世界一愛していると言って貰えて。普通なら結婚して一緒に幸せになりましょうと言うべきなのだろうけど。私は貴方に言うわ。貴方の『可哀想』な私を一生見守って。愛して」
「ああ、神に。そして、この世で一番大切な君に誓うよ。君をずっと愛してる」
相思相愛なのでお互いに嫉妬もします。主人公の嫉妬の仕方はなんとなく想像できますが、彼の嫉妬の仕方はどんなものなのでしょうか。冷たくなる? 甘える? 気付かない振りをする?
自分的には、甘えるが一番おいしくて好きです(*^-^*)普段、フェミニストで取り澄ましている彼が主人公の足元で、不安そうに、まるで捨てられた子犬のように悲しい目をして甘えてくる。考えただけで涎がたれそう( *´艸`)……はっ!! すみません。いつの間にか私の萌えを語っていました。ごめんなさい。ひかないで。