8. 4月7日:エル・シーダ
翌日、アイリスはクラッドの家を訪れていた。
自分に何ができることはないか一晩中考えたアイリスだったが、何も考えが浮かばないまま朝を迎えた。結局リゲルの言った通り、普段と変わらない日常である。
「アイリス、今度仕事はいつだ?」
「しばらくないわ。今日も来る前に支部に寄ってみたけど、何も入ってなかったし……クラッドの方はどう?」
「実はこの前の殺人事件以来、急に護衛の依頼が増えてな、明日から早速仕事だ。しばらく一緒に仕事できなくなるかもしれない」
「そうなの? ……でもそうよね。あれ、今日の新聞に載ってたけど相当ひどい事件だったみたいだし、みんな警戒するわよね」
「そうだな、最近治安が良くなったと思ったらこれだよ。困ったもんだ」
「……もしかして今日は邪魔だった? 準備もあるだろうし」
「いや、そんな事はないぞ」
「いえ、邪魔しちゃ悪いから今日は帰るわ」
「気にしなくていいと言うのに。分かった、気を付けて帰れよ」
準備の邪魔をしないよう、アイリスはクラッドの家を出た。普段帰るのは日没前であるが、今日はまだ昼過ぎである。
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(家に帰るにはまだ早いし、一休みしていこうかしら……あら?)
一息つこうと立ち寄った喫茶店に見たことのある人物がいた。艶のある黒髪が特徴的な女性――リリィだ。一人で一服しながら手帳の内容を確認している。
すぐにリリィもアイリスに気が付いたようだ。
「あら、あなたは一昨日の……また会いましたね」
「そうですね。あなたは確かリリィさんでしたね」
「リリィで構いませんよ。宜しければ御一緒にどうです?」
「ええ、喜んで」
お互いに話し相手がいなかったので、アイリスはリリィの厚意に甘えて同席することにした。
「まだお名前を伺っていませんでしたね。あなたは?」
「私はアイリスです。『リブラ』の一員として働いています」
「アイリスさんですね。『リブラ』の方でしたか」
「私の方こそアイリスで構いませんよ」
「ふふっ、そうですか。ではそうしましょう」
リリィは笑みを浮かべて答えた。その何気ない仕草も上品である。
「事件の方はどうなりました? 解決しそうですか?」
「いえ、以前犯人に繋がる手掛かりは得られていないようですね。私も結局、有力な情報は得られませんでした」
「あ……そういえば、『サジタリウス』の所属でしたね。聞き込みしてましたけど、情報収集は『スコーピオ』の担当ではありませんでしたか?」
「仰る通りです。実は、私はこの事件の担当ではありません。個人的に調査しているだけです」
「そうなんですか?」
「ええ。この事件に類似した殺人事件が数ヶ月からイルミナイト連合国内各地で発生しているのをご存知ですか?」
「はい、聞いた事だけならあります。詳細は分かりませんが……。」
「これらの事件は全て同一犯によるものと考えられているのですが、私はこの人物を追っているのです。エル・シーダでよく似た殺人事件が発生したと聞いて、この人物の犯行に違いないと思って調査していました。結局、何も手掛かりは得られませんでしたが……」
「何か事情がありそうですね。気になる事があるんですか?」
リリィはアイリスの質問を聞いて一瞬暗い顔をした。しかしすぐに元の凛とした表情に戻って答えた。
「……半年前、この人物に両親が殺害されました。私も危うく殺されるところでした」
「あ……。その、ごめんなさい」
「いえ、お気になさらず」
アイリスは迂闊な事を聞いてしまったと思い、すぐに謝った。
リリィはもう割り切っているのか、特に気にしていないようだ。
「私は初め、両親の仇討ちをするつもりで犯人を追っていました。しかし同様の事件が発生してその凄惨さを聞くに連れ、仇討ちよりもとにかくこれ以上犠牲者を出したくないという思いの方が強くなってきました。今はその一心で犯人を追っています」
「…………。」
「けれど現実はこの通り、ずっと犯人を追っていますが、いまだ捕らえることができず犠牲者は増えるばかり……全く無力なものです」
リリィは溜息交じりに語った。語り口調からは犯人を捕らえられない事に対する悔しさ、そして自責の念が感じられる。
アイリスはただ黙って聞くのみであったが、とにかく励ましの言葉を伝えようとした。
「その……何と言ったら良いのか分かりませんが……必ず報われる時は来ると思います。だから、気を落とさないでくださいね」
「ふふ、お気遣いありがとうございます。大丈夫です、私も諦めたりはしませんから。例え結果が出なくとも、何もしないより良いですしね」
「何もしないより良い、ですか」
「そういう事です。さあ、暗い話はここまでにして、折角の機会ですからもっと楽しい話をしましょう」
「ええ」
その後、アイリスとリリィは心ゆくまで会話を楽しんだ。
話によると、リリィは元々王都の貴族街の出身らしく、両親は王城で働いていた騎士と侍女だったようだ。上品な佇まいも納得である。リリィも半年前までは王城の騎士として働いていたのだが、両親が殺害されたのを機に『サジタリウス』に所属した、との事である。
アイリスも自分の身上を話した。6年前以前の記憶を失っていることも話したが、リリィも失踪事件で記憶の失っている人を多く見てきたようで、あまり驚いた様子はなかった。それでも、それらの人々とは事情が異なることに疑問はあるようだが。
二人が打ち解けて会話を続けていると、結構な時間が経ってしまっていた。
「だいぶ時間が経ってしまいましたね。そろそろ帰りませんと」
日が少し傾いた頃、アイリスとリリィは店を出た。
「リリィ、今日はありがとう。楽しかったわ」
「私もです。貴女とは良い友人同士になれそうですね」
「ふふ、そうね。リリィはこれからどうするの?」
「私は残念ながら、明日には王都に帰らなければなりません。もし王都を訪れることがあれば、ぜひ私の下を訪れてください」
「ええ、ありがとう。それじゃ、また会いましょう」
「はい、それでは失礼します」
アイリスとリリィは別れの挨拶をして、それぞれの目的地へ向けて歩き出した。
「ああ、そうでした。最後に1つよろしいですか?」
その時、リリィが振り返ってアイリスに声を掛けた。
「ええ、どうしたの?」
「万が一という事もありますし、一応、例の事件に関わる犯人の特徴を伝えておきます」
「犯人の特徴? 犯人を見た事があるのね?」
「ええ、私も実際殺されそうになりましたから。……犯人は恐らく女性です。蒼い髪と、それと対照的な紅い瞳の人物でした。加えて、刀身の透き通った不思議な剣を所持していました」
「蒼い髪に紅い瞳、透き通った刀身の剣……?」
「ええ、そのような人物を見かけた際には十分にお気を付け下さい。……それでは、失礼します」
リリィはそれだけ告げると、アイリスに背を向けて去って行った。
(蒼い髪に紅い瞳、透き通った刀身の剣……。何だろう、知らないはずなのに、どこかで見たような気がする……。)
アイリスは何か引っかかるものを感じ、思い出そうとして考えながら帰路に着いた。結局思い出すことはなかった。