5. 4月2日:サン・ダーティ
4月2日、アイリスとリゲルはサン・ダーティ行きの馬車に乗り込んでいた。2人の他にも数人の利用客がいる。
アイリスは読みかけの小説を読んでおり、リゲルは眠そうに欠伸をしている。
「リゲル、あなたちゃんと寝たの?」
「寝たさ。ただ、昨日原稿提出して寝ようかと思った矢先、あれが現れてな。その対処に追われていた。おかげで少ししか寝られなかった」
「あれ? ああ……汚染者ね」
さすがに会話の内容がはっきり聞こえる距離に人がいては、汚染者の名は出せないらしい。今はこの話はできなそうだ。
「仕方ないわね。今のうちに少し仮眠したら?」
「元よりそのつもりだ。おやすみ」
そう言うと、リゲルは席にもたれかかって目を瞑った。
アイリスは到着まで話しかけない事にして、小説の続きを読み始めた。
************************************************
工業都市サン・ダーティに到着したアイリスは取引のある工場事務所へと向かって歩いていた。
リゲルも取材場所の方向が同じなので一緒に歩いている。
「サン・ダーティもこの数年で随分様変わりしたわね。こんなに沢山、工場が立ち並ぶなんて」
「王都と鉄道が繋がったのが大きいな。大量輸送がしやすくなって生産を絞る必要がなくなったからな」
サン・ダーティは強力な電気を発する放雷針があったためにそれを利用する工場が多く建設された工業都市である。最近は王都との鉄道が開通した影響で急激な発展を遂げ、数多の工場が増設された。街中の至る所に白い煙を吐く煙突が立ち並び、機械の稼働音がどこにいても耳に入ってくる。レンガを中心とした赤茶けた街並みには薄く靄がかかっており、空は晴天でも煙で常に白んでいて放雷針の姿を霞ませている。
「私はこっちね。じゃあリゲル、また後で」
「ああ。今日はこの街に泊まるんだろう? 夜にまた寄る」
「わかったわ」
大通りの交差点に着いたアイリスは一言告げると、工場が多く立ち並ぶ方へ向かった。
一方、リゲルは反対の居住区の方へ向かった。
(さて、あいつは今夜来るって言ってたか。さっさと取材を済ませるか)
リゲルは頭を掻き毟りながら歩き続けた。
************************************************
その夜、人々が寝静まった頃にリゲルは宿屋のロビーで待ち合わせをしていた。無表情のまま、備え付けのソファに座っている。
(……遅い)
しかし待ち合わせた人物の到着が遅く、リゲルは内心苛ついていた。これの為に別の宿にいるアイリスとの話も早く切り上げたのに、これでは意味がない。
そして日付が変わるかと言う頃、外からこちらに向かう靴音がかすかに聞こえてきた。ようやくその人物がやってきたようだ。玄関までやってきた靴音の主は、扉を開けて中に入ってきた。靴音の主は動き易そうな軽装の少女である。
「お、いたいた! いやー久しぶりだな、元気にやってるか!?」
「遅いぞアンタレス。どれだけ待ったと思ってるんだ?」
「いやー悪ぃ悪ぃ! 行きの馬車で居眠りしてたら乗り過ごしちまってな」
「下らない理由だな、だったら連絡ぐらい入れろ。それとうるさい、時間も考えろ」
「まあ細かい事気にすんなって」
やってきた少女――アンタレスは大声で喋りながらリゲルに近付くと、向かいのソファに豪快に腰を下ろしてもたれかかった。赤黒い髪が乱れて背中とソファの間に挟まったり、肩にかかったりしているが、本人は全く気にしていない。
「お前は相変わらずだな……。まあいい、さっさと話を済ませるか。『スコーピオ』に頼んでおいた経済調査の報告書、持ってきてるだろ?」
「おう、それな。……あいよ」
アンタレスは持参した鞄から分厚い封筒を取り出すと、それをリゲルに手渡した。リゲルはすぐに封を切り、内容の確認をしている。
「……問題無さそうだな。さすが『スコーピオ』だ、これだけ詳細に調査してくれるとはな」
「すげーだろ? 大変なんだぜ、これだけの量調査するのって」
「どうせお前はこの件に参加してないんだろ?」
「まあな。 だってこの手の調査、面倒くせーじゃん」
「威張っていう事か」
確認を終えたリゲルは封筒に書類を戻し、脇に置いた。そしてアンタレスに向き直って話を続けた。
「さて、本題だ。……汚染者の傾向調査、結果はどうだ?」
終始適当な態度で明るい表情だったアンタレスも、真剣な表情になって答えた。
「……あんたとベテルの言う通りだったぜ。最近は王都以外の都市で汚染者が全く増加していない。むしろ俺達が活動した分だけ減ってる。逆に王都だけは異常に増えてる」
「やはりそうか。奴ら、まずは一番人の出入りが多い王都を集中して汚染するつもりだ。人口が多くて効果的だし、王都を訪れた人間を汚染者にして各都市に広めることもできる。周辺都市にいたのは王都帰りの汚染者だろう」
「なるほどねえ……。じゃあどうすりゃいいんだ?」
「王都を集中して汚染するという事は、汚染の発端が王都に絞られるという事だ。今度から王都を集中的に調査すれば汚染の発端を突き止められるかもしれん。もちろん奴らもこういう作戦を取る以上、簡単に尻尾を掴ませないよう対策を取っていると思うがな」
「なるほど、汚染源さえ押さえちまえば汚染者も増えないって訳か。……ああ、それでベテルも『近々、王都にみんなを集める』とか言ってたのか」
「そういう事だ。私も今の仕事が終わったら王都に向かうつもりだ。それとベテルも分かってるだろうが、絶対にシリウスだけは呼ぶなよ。王都で面倒を起こされては敵わん」
「呼ぶ訳ねーだろ。で、もう一つ問題なんだが、王都で増え過ぎた汚染者はどうすんだ? さすがに回収しきれねーし、第一王都を調査するにしてもそいつらの妨害が半端ねーだろ」
「それはベテルの方に聞いてくれ。少なくとも私には打開策がない。恐らくベテルも頭を抱えてると思うがな」
「マジかよ……大丈夫なのか?」
「大丈夫じゃなくてもやるしかない。まあ、ベテルなら何らかの手を打ってくれるだろう」
「それに期待するしかねーか。……ところで」
アンタレスの表情から真剣さが消え、元の明るい表情に戻った。
「今、この街にアイリスが来てんだろ? 久々に会ってみてーんだけど、この宿に泊まってんのか?」
「残念だったな、別の宿だ。それにもう寝てるだろう」
「なんだ、つまんねーの」
素っ気ないリゲルの返答にアンタレスは不満気な顔をした。
「さて、私も寝るか。それじゃあアンタレス、気を付けて帰れよ」
「俺は子供か! つーか、もう帰りの馬車ねーんだけど。一緒に泊まっていいか?」
「金あるのか?」
「…………。」
「転送装置でも使って帰れ。じゃあな」
リゲルは席を立って自分の部屋へ向かった。取り残されたアンタレスはしばらく呆けた後、転送装置を取り出した。
「……これ帰るのに使うとベテルに怒られるんだよなぁ……。この前、アークも怒られてたし……。」
小声で呟きながらアンタレスは転送装置を操作し終えると、アンタレスは光の粒子となって消失した。
誰もいなくなった宿のロビーには、ただ夜の静寂だけが残った。