34. 4月23日:ディム・ヌーン(その2)
アイリスはプロキオンと合流すべく昼前までディム・ヌーンの街を探ってみたが、残念ながらプロキオンらしき人物は見当たらなかった。もうすぐ駅に戻る時間である。
「流石に姿形も分からないと駄目、か……。もう戻ろう……あら?」
溜息がちに呟いて駅に戻ろうとした矢先、後ろがにわかに騒然とし始めた。振り返って見たが、何も起きている様子はない。
しかし、遠くから怒号や悲鳴が入り混じった叫びが聞こえる。周囲にいた『サジタリウス』の衛士や『タウルス』の傭兵は、叫びが聞こえた方に走り出している。どうやら遠くで何か起きているらしいが、何が起きているのか容易に予想がつく。
「……暴動!?」
周囲にいた市民は既に聞こえた方角から離れるように逃げ始めている。
丁度駅に向かえば暴動が起きた方角から逃げる形になる。アイリスは駅の方へ向かい、急いでその場を去った。
「……! ここも!?」
しかし、数分もしない内に再び騒動に出くわした。今度は正面の街道で明らかに柄の悪い集団――恐らく『キャンサー』――と『サジタリウス』の衛士及び『タウルス』の傭兵達が睨み合いを繰り広げていた。直接戦闘には至っていないようだが、『キャンサー』の罵倒が響き、制止と投降を促す呼び声を聞き入れる様子は全くない。一触即発の事態なのは間違いないだろう。
(これじゃ通れないわ……。脇道を通って迂回するしかないわね)
周囲には派手な乱闘騒ぎでも期待しているのか、命知らずな野次馬が集まってきているが、当然アイリスはそんな事に興味はない。脇目も振らず迂回路となる路地に入り込んでいった。
(この感じ……。嫌ね、今回は何事もなければ良いけど……。)
アイリスは1ヶ月で2回も路地で襲われている。アイリスも正直もう路地を通るのは止めようと思っていたのだが、まさか暴動の只中を通り向ける訳にもいかないし、今回はどうしようもない。せめて何事もなく通り抜けられる事を祈っていたのだが――
(……! あれは……)
「ん!? なんだお前!」
「……!」
少し先にある曲がり角から柄の悪い男が二人、何かから逃げるように走って現れた。アイリスが彼等に気が付くと同時に彼等もアイリスに気が付き、足を止めてアイリスの前に立ち塞がった。
アイリスはもう少しで路地を抜けられるというのに嫌な予感が的中してしまった、と思いつつ身構えた――同時に、今後どんな理由があっても路地は通らない事を心に誓った。
「誰だ!? お前も『キャンサー』狩りの『タウルス』か!? くそっ!」
「え!? 『キャンサー』!? ……きゃあっ!?」
一方の派手な男が焦った様子でアイリスに迫り、突然短刀を抜いて斬りかかった。アイリスは咄嗟に飛び退いて短刀を躱し、咄嗟に距離を取って光子鋼剣を構え、男達と対峙した。
先程騒動があった方向からは喊声が聞こえてくる。恐らく実際に戦闘が始まって『キャンサー』が散り散りになったものと思われ、彼等も押されて逃げてきたのだろう。
(遂に覚悟を決める時が来たのね……。大丈夫よ、落ち着いて……。戦い方は教わってるのよ、問題ないわ……。)
「落ち着けよ、こいつ『タウルス』じゃねーよ」
アイリスが精神を集中させている間、もう一方の地味な男が続けて言った。アイリスを『タウルス』や『サジタリウス』と勘違いしているらしい。
「じゃあ『サジタリウス』か!? どっちにしろ敵だろうが!」
「だから落ち着けって。こいつ『タウルス』や『サジタリウス』の腕章つけてないだろ? どっちでもねーよ。……つーか、よく見たらかなり良い女だな」
変わらず慌てた様子の派手な男に、比較的落ち着いた地味な男が言い聞かせた――同時にその男の視線が下心を帯びた嫌らしいものへと変化し、アイリスは背筋に悪寒が走るのを感じた。
「あ、そうか……くそっ、驚かせやがって! ……で、何だって?」
「落ち着いて見てみろよ、相当良い女だぞ? 綺麗な顔してるし、スタイルも良い。胸も大きいし、かなりの美人だな」
「……確かに、よく見るとそうだな」
「……何を、言って……。」
派手な男も落ち着きを取り戻したようで、アイリスを見る視線は地味な男と同様、纏わり付くような不快なものへと変化した。
「剣構えてるし、やる気みたいだけど、どうせ『タウルス』でも『サジタリウス』でもなければ素人だろ。俺達もやられっぱなしで鬱憤溜まってるし、憂さ晴らしでもさせてもらおうか?」
「いいな、それ。折角だしな。じゃあ、大人しくしてもらおうか」
「う……近寄らないで!」
憂さ晴らし。男達はそう言ったが、男達の下卑た視線からそれがただの憂さ晴らしでない事は容易に判断できる。
アイリスは強い嫌悪感から思わず後ずさりながらも、構えは解かずに抵抗の意思を示した。
「へへっ、大人しくしてれば悪いようにはしねぇよ……っても、まあそれは無理だわな」
「仕方ない、少しだけ……痛い目にあってもらおうか!」
「……!」
地味な男が短刀を構え、アイリスに斬りかかった。アイリスは脇に軽く飛び退いて難なく躱し、短刀は空を切った。
続けて派手な男も同様に斬りかかってきたが、剣で振り下ろされた短刀を弾いて防いだ。弾かれた短剣は男の手から離れて宙を舞い、地面へ落ちて金属音を響かせた。
その隙に地味な男はアイリスの背後に回り込んで、アイリスの背中目掛けて腕を伸ばして突きを放った。しかしアイリスは振り向き様にこれを躱し、すれ違うと同時に剣で男を斬った。男は突きを放った勢いのままに地面に倒れ込んだ。
アイリスは実戦経験がほとんどないにも関わらず軽快に、そして落ち着いて適切な対処をする事ができた。頭ではなく体で動きを覚えていたような不思議な感覚であり、アイリスもそれを感じていた。
「なに!? くそっ、なんだこいつ、どこが素人だよ!? 強いじゃねーか畜生!」
派手な男は難なく地味な男を倒したアイリスを見て結局慌て、短刀を拾うのも忘れ――同時に地味な男をあっさり見捨て――元来た道を逃げ去った。
「……助かった……? ……はぁ、良かった……。」
アイリスは男が逃げ去ったのを確認して安堵し、溜息を吐いて光子鋼剣を収めた。一気に緊張が解れ、思わず倒れ込んでしまいそうな程に全身から力が抜けるのをはっきり感じた。
しかし安堵したのも束の間、直後に背後から何かを引きずるような物音がした。アイリスはその物音に悪寒を感じ、距離を取りつつ振り返った。
「……! あ……!」
振り返った先の光景を目にしてアイリスは血の気が引いた。一気に顔面蒼白と化すのを自分で感じる程である。
先程倒した地味な男が息も絶え絶えな状態で体を引きずり、這ってアイリスに迫っていた――地面を紅く染め上げながら。
「てめ、え……ただで……済む、と……思……。」
男は恨みのこもった虚ろな視線でアイリスを見上げ、血が流れる口から怨嗟の声を発すると力なく頭を垂れた。それ以降、二度と動くことはなかった。
「あ、あ……。私、何て……事を……。」
アイリスは自分がしてしまった事に怯え、頭を抱えてひどく狼狽した。その時、返り血で服が汚れている事にようやく気が付いた。
初めて、人を殺してしまった。半ば無意識に動いた体で何気なく放った斬撃が、命を奪った。とは言え、今回は正当防衛かつ相手が『キャンサー』である。きちんと説明すれば罪に問われることはまずない。しかし、アイリスは罪に問われる事を恐れて怯えているのではなかった。
アイリスもごく最近、この男と同様に身体を斬られて死に瀕した事がある。『ステラハート』のお蔭で奇跡的に助かったのだが、身体を斬られる苦痛や迫り来る死の恐怖――絶対に、二度と味わいたくない感覚を嫌と言う程噛み締めた事がある。なのに今度は自分がその感覚を与えてしまった。これがどれ程の恐怖か、苦痛かを理解しているのに。
殺害してしまった事よりも、かつて自分が受けた恐怖や苦痛を今度を自分が与えてしまった事が、何よりもアイリスの心を抉り、傷つけた。
(……くっ……!)
アイリスは思わず目の前の現実から目を逸らし、その場から去ろうとして背を向けた。しかし直前でアイリスは踏み留まり、逃げ出したい気持ちを抑えて振り返った。
(……駄目!)
アイリスは恐怖・後悔・自責の念に駆られて体を震わせ涙目になりながらも、目の前の光景を見据えた。
(覚悟は決めたのよ、いずれこういう事になるのは分かってたじゃない…! これからもこういう事はあるんだから、逃げては駄目……! この現実を受け止めないと……!)
誰かに頼ってばかりだった自分を変えるべく、アイリスは戦う覚悟を決めていた。しかし、それは命と血のやりとりに身を投じるという事であり、かつて自分が受けたような恐怖や苦痛、そして死を今度は自分が他者に与えるという事である。目の前に広がる光景――アイリス自身が生み出した血と死の光景は、それを強烈に物語っていた。
その強烈さは一度決めた覚悟を揺らがせるには十分であり、アイリスは今すぐにでも覚悟を捨てて逃げ出したい気分であった。アイリスは覚悟と逃避の葛藤に苛まれたが、覚悟を固めるべく必死に耐えて目の前の光景を脳裏に焼き付けた――これから先の戦いのために、そして二度と覚悟が揺らがぬように。
「何だこれは!? お前がやったのか!?」
「……はっ!?」
しかし覚悟が固まり切らないうちに妨害が入ってしまった。またしても別の『キャンサー』構成員数人が逃げてきたようである。アイリスは集中のあまり、彼等が近くまで来ていた事に気付かなかった。
構成員達は返り血を浴びたアイリスと傍らに倒れた『キャンサー』構成員の遺体を見て、すぐに状況を察したようである。
「くそっ! 『タウルス』だか『サジタリウス』だか知らねえが、やられっぱなしでたまるか!」
「女1人くらい何だ! 返り討ちにしてやる!」
「……くっ!」
構成員達は興奮した様子で、有無を言わさずアイリスに襲い掛かった。もはや覚悟を決めている余裕などない。とにかく今はやらなければ殺られる。揺らいだ覚悟のまま、アイリスは再び光子鋼剣を構えて迎撃姿勢を取った。
「おりぁっ!」
「……!」
構成員の一人が短刀を振るった。アイリスはひらりと躱し、続けて襲ってきた二人目の短刀も後ろに軽く飛んで回避した。さらに続けて三人目、四人目と次々に襲い掛かってきたが、いずれも難なく攻撃を受け止めた。
今度は先程より数が多い。数えている余裕などないが、4~5人程度いるように思える。それでも難なく攻撃を回避し、反撃の隙を窺う事は出来た。心は落ち着かずに狼狽していても、身体は戦い慣れているかのように自然に動いてくれている。
「ああ、くそっ! ちょこまか避けやがって!」
(剣が……振るえない……!)
回避は全く問題ない一方で、反撃の隙は十分あるのにアイリスは剣を振るう事ができず、ただ焦燥と狼狽による冷汗が流れ続けるのみである。
恐怖を、苦痛を、死を与える確固たる覚悟が、今のアイリスにはない。それが手枷のように絡みつき、剣を振るうのを妨げていた。
「ううっ……。ああああああっ!」
アイリスは半ば自棄的に、無理をして剣を振るった。しかし碌に狙いも定めずに振るったためにあっさり躱されてしまい、アイリスは振るった勢いで体勢を崩した。
「!? あっ……!」
「今だ……ん!?」
「アイリス!」
構成員の一人が体勢を崩した隙にアイリスを狙って短刀を振るった――しかし、同時に何かに驚いた表情を見せた。
殺られる。アイリスは体勢を崩しながら一瞬でそう理解し、恐怖に青ざめた。その時、後ろから名を呼ぶ声が聞こえた気がした――聞いた事のある声で。
「え……あっ!」
その声を認識した瞬間、背後から何者かに腕を掴まれて後方に強く引っ張られた。アイリスは地面に尻餅をつく形で倒れ、アイリスを狙った短刀は空を切った。
そしてその何者かは男性のようであり、アイリスの前に躍り出ると躊躇いなく握っていた長剣を振るい、構成員を一息に薙ぎ倒した。続けざまに近くにいた構成員にも長剣を振るって斬り倒し、さらの別の構成員には思い切り蹴りを入れて吹き飛ばした。
突然現れて一息に二人を斬り伏せた人物に残りの構成員三人はたじろぎ――うち一人は蹴られて悶絶しながら――後ずさった。
アイリスはその男性の後ろ姿には見覚えがあった――忘れるはずがない。
「大丈夫かアイリス!?」
「え……クラッド?」
アイリスは思わぬ再会にそれ以上言葉が出なかった。
クラッドはアイリスを一瞥して無事を確認し、安心して僅かに微笑むとすぐに険しい表情になり、残りの構成員の前に立ち塞がった。
「増援か!? 畜生、ここも駄目か!」
「待てっ! ……って今はそれどころじゃないな」
残った構成員はクラッドの前から逃げ出し、元来た道を走り去った。クラッドは追撃しようとしたが留まり、長剣を収めてアイリスに近寄った。
「クラッド、どうしてここに……。」
「話は後だ、とにかくここは危険だ。一旦離れよう、ついて来てくれ」
「え、ええ……。」
クラッドはアイリスの手を取って立ち上がらせ、駅から離れるように街の中心方面へ向けて走り出した。状況が飲み込めなかったが、とりあえずアイリスも後に続いた。
少し走って暴動の現場から離れた頃、移動しながらアイリスはクラッドに話しかけた。
「クラッド、どうしてディム・ヌーンに?」
「こっちも色々あってな。アイリス、今プロキオンと合流を狙ってるんだろ?」
「え、どうしてそれを!?」
「実は今、訳あってプロキオンと一緒に行動していてな、色々聞いてるよ。リムも一緒だ。今から合流する」
「プロキオンと? ……あ」
アイリスは王都の『タウルス』本部で見た不可解な仕事依頼を思い出した。
クラッドとリムが名指しされた謎の依頼。その時は特に気にも止めなかったが、今になって思い出した。依頼人の名前――プロキオン。
「気になる事は多いだろうけど、詳しい話は合流して落ち着いてからしよう。……アイリス」
クラッドはアイリスの方を見て笑った。
「無事で良かった……本当に」
「……ええ」
アイリスは微笑み返した。気になる事も解決せねばならない問題も多々あるが、今はただクラッドに会えた事が嬉しかった。




