28. 4月22日:イルミナイト王都(その5)
アイリスは『ヴァルゴ』本部で薬を受け取った後、『リブラ』本部で自分の仕事の確認をしていた。幸い、急ぎで行うような仕事はない。もうしばらくは自由に活動できそうである。
確認を終えて本部前の通りに出ると、既に日は沈みかけて夕焼けは夜空へ変わりかけていた。
「……だいぶ遅くなってしまったわね。早く戻らないと」
『ヴァルゴ』本部が混んでいた上にで手続きがよく分からず、時間を食ってしまったのが響いたようである。アイリスは薬を詰めて膨らんだ手提げ袋を肩に掛け、ベテルギウスの診療所を目指した。
「……ただ今戻りました。……ベテル?」
歩く事数十分、診療所に到着したアイリスは妙な雰囲気を感じた。明かりがついておらず、人の気配がない。明かりをつけて診察室や待合室、寝室など色んな場所を探したが誰もいない。最後に会議をしている応接室を覗いてみたが、やはり誰もいない。
(どうしたのかしら……? あら? これは……。)
手提げ袋をテーブルの上に置こうとしたところ、書置きが2枚置いてあることに気が付いた。アイリスは手提げ袋を置いてその内の1枚を手に取り、内容に目を通した。
―アイリスへ―
緊急事態です 『エクソダス』に襲撃されました
私達は撤退します
至急、ディム・ヌーンへ向かって下さい
プロキオン達と合流させます
その後はプロキオンの指示に従ってください
ベテルギウス
「……! これって……!」
アイリスは目を見開いて驚いた。知らぬ間に『エクソダス』の襲撃があったとは、思いもよらない事態である。
アイリスは咄嗟にもう片方の書置きも手に取って目を通した。
―リリィへ―
緊急事態です 『エクソダス』に襲撃されました
私達は撤退します
しばらく接触できませんが、貴族街捜索は続けてください
後日、何とか接触します
ベテルギウス
「こっちはリリィ宛てね……。一体何が……。『ステラハート』の皆は大丈夫かしら……。」
アイリスは口元に手を当て、心配そうな表情を見せて考えた。
(……とにかく、指示は残してくれたみたいだし、心配だけど動かないと)
アイリスは急ぎ出立の準備を始めた。脳内では準備をしながら書置きの内容を反復している。
(ディム・ヌーンは確か南ね。……プロキオンと言うのはこの前言っていた、7人目の『ステラハート』? プロキオン達ってことは、他に誰か一緒にいる……?)
指示によるとディム・ヌーンに向かえとある。王都南方にある、イルミナイト連合国2番手の大都市である。そこでプロキオン達と合流する、という手筈のようだ。そこから先は状況次第、と言った所だろう。
準備を終えたアイリスはリリィ宛ての書置きを戻し、応接室を出ようとした。
(…………。)
出ようとしたその時、ふとある考えが浮かび、持っていくつもりだった自分宛ての書置きも一緒に戻した。
リリィ宛ての書置きだけではアイリスがどうなったか、リリィに伝わらない。だが自分宛ての書置きも一緒に見ればアイリスの行方がリリィに伝わり、余計な心配をさせなくて済む。そう思ったのだった。
アイリスは診療所を出る前に地図で王都南門の位置を確認した。そこからディム・ヌーン行きの列車が出ている。
(今は6時だから……今からでもディム・ヌーン行きの列車に間に合うわ)
アイリスは地図を畳んで小物袋にしまい、診療所を出て南門に向けて足早に歩き出した。
途中で多くの人とすれ違ったが、その度にアイリスは不安を感じずにいられなかった。
(『エクソダス』……会った事ないからどんな姿をしているか分からないわ……。もし、襲われたら……。)
『エクソダス』の実力は聞かされている。『ステラハート』ですら苦戦するような相手である、もしカノープスと間違われて襲われようものなら到底敵わないであろう。
アイリスは心中で出会わないよう祈りつつ、南門を目指して歩を進めた。
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アイリスが診療所を去って数十分後、リリィが診療所を訪れた。ネビュラから『ステラハート』の排除が終わった旨の連絡を受けたので、アイリスの説得に訪れたのである。
(……明かりがついていない……? 誰もいないのでしょうか?)
診療所の外観から明かりがついていないのが分かる。玄関には臨時休業の札が出ており、中から人の気配を感じない。
(…………。)
リリィは玄関の扉を開けてみた。鍵は掛かっておらず、扉は容易に開いた。不用心ですね、と内心思いつつもリリィは中に入った。
「アイリス? いらっしゃいますか?」
玄関ホールから名を呼んでみたが、返答はない。
(……いませんか)
リリィは応接室に向かった。明かりをつけて中に入ったが、やはり誰もいない。
(一体どこに……これは?)
部屋を見回すと、テーブルの上に2枚の書置きがある事に気が付いた。リリィは2枚の書置きを手に取り、内容を確認した。
―リリィへ―
緊急事態です 『エクソダス』に襲撃されました
私達は撤退します
しばらく接触できませんが、貴族街捜索は続けてください
後日、何とか接触します
ベテルギウス
―アイリスへ―
緊急事態です 『エクソダス』に襲撃されました
私達は撤退します
あなたはディム・ヌーンへ向かって下さい
プロキオン達と合流させます
その後はプロキオンの指示に従ってください
ベテルギウス
「これは……。アイリスはディム・ヌーンへ? ……どうして?」
自分宛ての書置きは概ね納得できる内容なので特に気になる点はない。しかしもう一方、アイリス宛ての書置きは気になる所である。
リリィにはなぜアイリスをディム・ヌーンに向かわせる必要があるのか分からなかった。『エクソダス』は『ステラハート』以外を襲撃しない事は彼女達も分かっているはずである。彼女を王都から離れさせる意味がない。プロキオンに護衛させるとしても、やはり前述の理由で意味がない。
(……気になりますが、仕方ありませんね。アイリスの行き先は分かりましたし、説得は次の機会にしましょう)
リリィは書置きを戻して応接室を後にし、診療所を出た。
「説得は終わりましたか?」
「……! いたのですか、ネビュラさん?」
診療所を出てすぐ、玄関前でネビュラが夜闇の中佇んでいた。どうやらリリィが出てくるのを待っていたようだ。
「ええ、あなたにお渡ししておきたいものがありまして」
「そうですか。……残念ですが、説得はまた次の機会ですね。アイリスは王都を離れてディム・ヌーンへ向かう、という書置きがありました。もう向かった後でしょう」
「ディム・ヌーンですか。まあ、行き先が分かっているなら安心ですね」
ネビュラはリリィと言葉を交わしながら外套の内側から数枚の資料を取り出した。
「それは?」
「少々遅くなりましたが、『ステラハート』の1人、カノープスに関する情報です。まだ会ったことがないという事なので用意しました」
ネビュラはリリィに資料を手渡した。リリィは近くの街灯の下まで移動し、資料に目を通した。そこにはカノープスと思われる女性の写真と情報が詳細に記されていた。
リリィは資料に目を通した瞬間、はっと息を呑んだ。写真に写るカノープスの姿、それはリリィの友人アイリスそのものだったのである。
「これは……アイリス!? どういう事ですか!?」
「突然どうしました? 一体何がですか?」
「カノープスのこの姿、アイリスと瓜二つ……いえ、そのものです!」
「アイリスと瓜二つ? 他人の空似ではないのですか?」
「違います、双子でもここまで似ません。間違いなくアイリス本人です」
「……という事は、あなたが言っていた友人アイリスと言うのはカノープスの事だった、と言う事ですか?」
「分かりません。彼女は私の前ではずっとアイリスで通していました。ベテルギウスやリゲルもアイリスと呼んでいたのですが……。」
「ふむ、そうですね……。」
ネビュラは口元に手を当て、視線をリリィから外してどういう事なのか考えた。一応、今までに『エクソダス』が集めた情報からどういう事なのか、説明はできる。
「恐らく、カノープスの本名がアイリス、という事ではないでしょうか? 何らかの理由で使い分けているのでしょう。他の『ステラハート』もそれを分かっているからアイリスと呼んでいた、と言う事では?」
「本名?」
「ええ、彼女達の名前は『ステラハート』として活動する為の仮名だと言う事は――私達もそうですが――分かっています。それとは別に本名があるようなので、おかしい話ではありません」
「そうですか……。もしその通りだとしたら、彼女はなぜ私にカノープスと名乗らず、アイリスと名乗ったのでしょうか? 彼女が『ステラハート』なら、彼女もシリウスの事も知っている? ……という事は、シリウスに襲われたというのも作り話? どうしてそんな事を……。」
リリィの脳裏に様々な疑問が浮かび上がった。アイリスとカノープスが同一人物だったとしたら、意図が分からない行動が多々ある。
「謎は尽きないとは思いますが、本人に聞いてみなければ分からないでしょう。……彼女は確かディム・ヌーンに向かったと仰ってましたね」
「ええ、そうです。……ああ、それでディム・ヌーンに向かわせた訳ですか」
「何の話ですか?」
「アイリス――いえ、カノープスなのでしょうね――彼女はそこでプロキオンと合流すると書置きにありました」
「プロキオン!? ……私達にとっては、そちらの方が重要な情報ですね。詳しくお話し頂けますか?」
『ステラハート』の動向は『エクソダス』にとって貴重な情報である。ネビュラはプロキオンの名に妙に過剰に反応しつつ、興味深そうに問いただした。
「言った通りの事だけです。彼女はディム・ヌーンでプロキオンと合流する、と言う情報以外はありませんでした」
「そうですか……。しかし彼女達はこの情報が我々に流れている事を知らないはず、これは貴重な情報ですね」
ネビュラは口元に笑みを浮かべて答えた。
「早速戻って作戦を立てるとしましょう。……最後に何かありますか?」
「……お願いが1つあります」
「どうぞ。何でしょうか?」
ネビュラは転送装置を取り出しながら回答を待った。リリィは思いつめた表情でうつむき、そのまま口を開いた。
「もしアイリス――いえ、カノープスを追うのでしたら、殺害せずに捕らえてください。……なぜこんな事をしたのか――なぜ私を騙したのか、彼女に話を聞きたいのです」
「分かりました、善処致しましょう。しかし彼女も『ステラハート』ですから、捕らえられない可能性は十分にあります。止むなく殺害せざるを得ない事になるかもしれません。その点はご了承願います」
「……分かりました」
リリィは変わらず思いつめた表情のまま返事をした。
「では、私はこれで。失礼します」
ネビュラは転送装置を起動し、その場から消失した。リリィはしばらく立ち尽した後、自宅に向けてゆっくりと歩き出した。
(……どうしてこんな事を、アイリス……いえ、カノープス……!)
リリィはアイリスと思っていた女性、カノープスに騙されていた事に悲しみとわずかな怒りを感じながら、夜道を歩き続けた――アイリスとカノープスは同じ容姿を持つ別人、と言う事に気付かぬままに。
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診療所を出て2時間ほど歩いた頃、アイリスは無事に王都南門・ディム・ヌーン行き列車の駅に辿り着いた。幸い、『エクソダス』と遭遇する事はなかった。
(よかった……無事着いたわね)
アイリスは一安心して胸を撫で下ろした。しかし、次の列車が出るまで時間がない。急ぎ駅に入って切符を購入し、列車に乗り込んだ。もう遅い列車であるためか、乗客は少なめである。
(列車に乗るのも久しぶりね……。前に乗ったのは確か……)
空いた席に座り、前に列車に乗ったのがいつだったか思い出そうとしていると、丁度列車の発車時刻となった。エンジンの駆動音と車輪が軋む音が響き、ゆっくりと列車は進みだした。王都城壁のトンネルをくぐり抜け、窓の外には平原と月夜の空が広がった。
(ああそうだわ、3年前ね。クラッドと一緒にレイ・ディオンに遊びに行ったとき以来だわ。……クラッド……。)
窓の外を眺めながらアイリスは物思いに耽っていたが、ふと悲しげな表情を見せた。そのまま外の風景から目を逸らし、そのまま目を瞑って座席に寄りかかった。
(私、1人じゃ何もできなかった……。今もただ言われるがままに逃げるだけ……。)
アイリスはたとえ自分1人でも、たとえ微力であろうと力になれると思っていた。しかし、それは甘い考えだった。
シリウスに襲われて死の淵を彷徨い、『ステラハート』に助けられ、今は言われるがままに逃げるのみである。自分1人でできた事など、何1つない。自分が如何に無力か、如何に自分が他者に支えられて生きていたか、王都に来て痛烈に思い知った。
(クラッドと離れてもう2週間近く、か……。)
今までにも仕事で2週間くらい会えない日はあったし、珍しくもない。しかし自分の無力さを思い知った今回、会えない事が悲しかった。意識しなくとも、心の奥底では早く会いたいという気持ちが募っていた。
(…………。)
疲労と心労が溜まっていたアイリスは気付かぬうちに眠りに落ちていた。




