15. 4月18日:イルミナイト王都
アイリスは目覚めてからわずか2日で驚くべき回復を果たしていた。今は目覚めて2日目の朝であるが、もう傷跡も分からないくらいまで治り、痛みも完全になくなってしまった。何らかの障害が残っている様子もない。もう何をしても問題ないレベルまで回復しており、普通ではあり得ない回復の仕方にアイリスは疑問を持っていた。
それ以外にも聞きたい事が沢山ある。今なら問題なく受け答えできるだろう。
「ベテル、この回復の仕方、一体どういう事なんですか? 本当に応急処置と最低限の治療だけだったのですか?」
「本当ですわよ。アンタレスのリペアラーのお蔭ですわ」
「リペアラー? 何の事ですか?」
「治癒魔法と物理的な治療を自動で行う機器で、言わば緊急用の医療機器ですわ。私達は万が一身体に重大な損傷を受けた時のために、各々がリペアラーを持っていますの」
ベテルギウスは椅子に腰かけ、机の上の書類を整理しながら受け答えしている。アイリスには背を向けたままだ。
「リペアラーは私達各々の体質に合わせた調整がされていて、本来ならどんなに重傷でも数秒で治療が完了するのですけど、今回はアンタレス用に調整されたものをあなたに使用した訳ですから、体質が合わなくて完全には回復しませんでした。それでも治癒魔法部分は完治するまで継続されるので、これだけ高速で治療が進んだのですわ」
「そういう事ですか……。アンタレスには感謝しないといけませんね」
「本当に感謝なさい。リペアラーは再利用可能ですけど、そのためには1ヶ月近く大変な手間暇かけて魔力やエネルギーを補給しなければなりません。おいそれとは使用できない貴重品なのですから」
「分かりました。もう一ついいですか?」
「まだありますの? ……何ですか?」
ベテルギウスは呆れた声で返事しつつも質問を許可した。それでも変わらずアイリスに背を向けて書類整理を続けている。
「カノープスという人について教えて頂けますか? この前は聞きそびれたもので、気になっているんです。私がシリウスに嫌われている原因は彼女じゃないかと、リゲルが言っていたもので」
「その事ですか……。それはカノープス本人に聞いてください。今日の夕方、アークと一緒にあなたの様子を見に来るそうですわ」
「え、ここに来るんですか?」
「ええ、そうです。それまで大人しく寝てなさい、明日には問題なく動けるでしょうから。……私は開院の準備があるのでこれで」
ベテルギウスは纏めた書類を持って病室を出て行った。
聞きたい事はまだあったのだが、普段の活動を邪魔する訳にもいかない。アイリスは指示に従って横になって休むことにした。アークトゥルスとカノープスが来るまでに聞きたい事を考える時間はたくさんある。
(カノープス……多分『ステラハート』よね? ……何でシリウスに嫌われているの? それと私が嫌われることに何の繋がりが……。)
横になって窓の外の青空を見上げながら、考え事が続いている。外から聞こえる音は小鳥のさえずりのみである。診療所は閑静な住宅街の一角に建っており、あまり喧騒は聞こえない。
(もう王都に来てから1週間過ぎ……。さすがにクラッドももう来てる頃かしら? 心配させてしまうわね……。 明日はまずクラッドと連絡を取らないと。 それから……リリィにシリウスの事は……教えるべきかしら……?)
アイリスは寝返りをうって窓とは反対側に体を向け、布団を深く被って目を瞑った。
(はあ……。ここまで気になる事が出てくるなんて思わなかったわ……。)
気になる事が多過ぎて考えがまとまらず、断片的な考えが頭の中に漂うばかりである。目を瞑って考えを整理しているうちに眠くなってしまい、あまり整理がつかないまま眠りについた。
再び目を覚ましてからは、あまり考え過ぎるのも良くないと思って一旦考えるのを止め、気晴らしに病室の本を借りて読んだり、窓を開けて風を浴びたりもした。
――気晴らしが効いたか、多少は考えが纏まった頃に丁度、夕刻が近付いていた。
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「ふう……。具合はどうですか?」
診療を終えたベテルギウスが朝の倍ほどの書類やカルテを持ったまま、疲労した表情を見せて病室へ入ってきた。書類を机の上に置くと、椅子に身を投げるように座り込み、背もたれに深くもたれかかった。アイリスはベッドの上で半身を起こした状態で本を読んでいたが、本を閉じてベテルギウスに答えた。
「問題ありません。ベテルもお疲れ様でした。……本当に毎日大変なんですね。昔からずっとこんな調子だったんですか?」
「ええ、そうです。普段の仕事に加えて『ステラハート』の裏方仕事を私一人で全て請け負うのは、流石に大変ですもの」
ベテルギウスは机に頬杖をつき、気怠そうに答えた。
「迷惑を掛けている私が言うのも何ですが……さすがに少し休まれてはどうですか? このままではベテルに倒れられてしまっても困るでしょうし、休息を取っても誰も文句は言わないと思いますが」
「これでも休む暇があれば必ず休息を取っているんですのよ? それでも疲労が取り切れないのですわ。それに今は私達より『エクソダス』の方が優勢ですし、あまり休んでもいられません」
「でしたら、私がお手伝いしましょうか? 明日から動いても良いのでしょう?」
「簡単に言ってますけど、やる事はそう簡単では……」
ベテルギウスが呆れたように手を振って話を続けようとしたところ、病室のドアをノックする音がした。
「ベテル、いるかしら?」
「アークですか、いますわよ。どうぞ」
アークトゥルスが到着したようだ――という事は、カノープスも来たはずである。アイリスは息を呑んだ。
ドアを開けて入ってきたのは紫色の長髪を三つ編みに纏めた女性――アークトゥルスだ。エル・シーダ以来の再会である――それに続けてもう一人の女性が病室に入ってきた。
「――!!」
声も出ないほどの衝撃だった。その女性はアイリスと同じ容姿をしていた。似ているとか、瓜二つなどというレベルではない。完全に、全く同じなのだ。
腰まで伸ばした紅い長髪に同じく赤い瞳。身長や体格に至るまで完全に同じだ。さすがに服装は違うが、それが無ければ同一人物と間違えておかしくない。
「カノープス、体の方はもう大丈夫ですか?」
「ええ、もう大丈夫。明日から活動できそうよ」
ベテルギウスがその女性――カノープスに話しかけた。カノープスが発した声、これもまたアイリスと全く同じ声、同じ調子だった。アイリスは奇妙は感覚に襲われた。まるで、自分が誰かを会話している様子を同時に別視点から見ているかのようだ。
――返事をすると同時にカノープスがアイリスを一瞥した。驚愕して固まった様子のアイリスを見て、カノープスは口元に笑みを浮かべた。
「……アイリスはもう大丈夫のようね。ベテル、今後の予定について話があるのだけど、いいかしら?」
アークトゥルスはアイリスの様子を一目見て安心したような表情を浮かべ、ベテルギウスに話しかけた。
「ええ、別室で話しましょう。……カノープス、アイリスを頼みますわ」
「分かったわ」
ベテルギウスは重々しく体を起こし、アークトゥルスと共に病室を出て行った。カノープスはアイリスの方を見て再び笑みを浮かべた。
「ふふ、驚いているようね」
「あ……。あなたが、カノープス?」
「そう、私がカノープス。あなたにとっては初めまして、よね」
自分で自分に話しかけているような感覚だ。カノープスはベテルが座っていた椅子に腰かけ、足を組んでアイリスの方を向いた。
「カノープス、あなた、なんで私と同じ姿をして……。あなたは誰なの?」
聞きたい事を整理していたアイリスだが、あまりの衝撃に落ち着いている余裕などなく、ただ湧き上がる疑問を言葉にした。今は聞きたい事を聞くなどという事はできそうにない。
「私もあなたと同じ、アイリスよ。今はカノープスだけどね」
「……それはどういう意味? ……まさか私の偽物だとでも言うの?」
「正解とも外れとも言えるわね。私とあなた、どちらも本物のアイリスだし、どちらも偽物のアイリスとも言えるわ」
「どういうことなの? 全然訳が分からないわ」
全く要領を得ない回答にアイリスは困惑して頭を横に振った。ただでさえカノープスに困惑しているのに、これではますます混乱するばかりである。
「……人間というのは大きく分けて2つの要素――『肉体』と『精神』から成るというのは知ってる?」
「……? 何の話……?」
カノープスが唐突に別の話を始めた。
「人間は生まれ持った肉体と、それに宿った精神――いわゆる意識や記憶、心や人格といったものね――この2つから成っていて、どちらが欠けても駄目なの。肉体が喪失、または死亡すれば精神も消滅するし、精神を喪失すれば肉体はただ生きているだけの植物状態になってしまうわ」
「…………。」
「この2つは通常、分離することはないわ。……でも、記憶水晶を使えばそれを分離することができるの。記憶水晶に人間の精神を丸ごと、全て吸収してしまう訳ね。そしてその記憶水晶を核にして新たな肉体を与えると、かつての記憶と新たな肉体を持った人間の完成。逆でも同じよ。……もう私が誰だか、分かったでしょう?」
「……まさか、あなたは……。」
黙って聞いていたアイリスだったが、話の内容に動揺を隠せなかった。カノープスの言っている事が本当ならば、考えられる答えは一つしかない。
「あなたはアイリスのオリジナルの『肉体』を持った人間、私はアイリスのオリジナルの『精神』を持った人間、という事よ。私のこの体は精神が最も馴染みやすい肉体――あなたの肉体の模造品。多少、強化はされてるけどね――だから私とあなたは同じ姿をしているのよ」
考えていた通りの答えである。アイリスはただ動揺と困惑の表情を浮かべるのみであった。
「信じがたいわね……。私達は元々は一人の人間だったなんて……。あ、じゃあ私の記憶がない原因って」
「あなたから私――アイリスの精神が分かれたからよ。あなたが失ったと思っている記憶は、全て私が持ってるわ。記憶喪失とかではなくて、あなたには初めから記憶がないのよ。……でもそうなると、気になるのは」
カノープスは言いかけてアイリスを見つめた。アイリスも答えを聞いて疑問が湧いたようだ。以前として困惑した表情のまま、アイリスは言葉を発した。
「言いたい事は分かるわ。肉体から精神を失ったら、植物状態になってしまうんでしょう? ……じゃあ、『私』は誰なの?」
「それが私にも分からないのよ。本来ならあなたは精神を欠いた肉体だけの存在、決して動き出すことはないのに、今は精神を持ってここにいる。空になったはずの私の――アイリスの肉体に宿った精神、『あなた』は一体誰なのかしらね?」
カノープスは掌を上に向けて首を振った。アイリスより事情を知っているカノープスでも分からないとなると、アイリスに分かる訳がない。
「……何も思い当たる節がないわね。ただ、私がアイリスだという事は自分で思い出したわ。これはどういうこと?」
「精神が肉体から離れる時、肉体側に記憶の複製が残る場合もあると聞いた事があるわ。それじゃないかしら? それを読み取ったから、あなたは自分をアイリスと思った、という感じでね」
「それも気持ち悪いわね、まるで自分が偽物みたいで。……はあ、考えていても分からないし、別の事を聞きたいのだけど、いいかしら?」
尽きない疑問にアイリスは溜息をついて首を振った。多少は落着きを取り戻してきたところで、分からない事は後回しにして本来聞きたかったことを聞く事にした。
「ええ、どうぞ。何かしら?」
「私がシリウスに襲われた原因は恐らくあなただとリゲルが言っていたわ。 それはどういう事か分かる?」
「シリウス……ね」
カノープスは呆れたような困ったような、複雑な表情を浮かべた。
「私はシリウスに嫌われて――と言うより、憎まれているの。初めて会った時からそうだったわ」
「憎まれている……? どうして?」
「それが、何の心当たりもないのよ。恐らく、私があなたの体を持っていた頃に何かしてしまったのだろうけど、そもそもその時にはシリウスに会った覚えがないのよね」
「会ったこともないのに憎まれてるの? ……本当、分からない事ばかりね」
カノープスは肩をすくめて溜息がちに回答した。その様子からはシリウスに対する呆れた思いが感じられる。アイリスも疑問が尽きない。
「理由は分からないけど、とにかくシリウスは『アイリス』を憎んでるわ。だから私だけでなく、あなたも憎まれてるのよ。どちらも『アイリス』だから」
「それで私が襲われたのね……。じゃああなたも襲われたことが?」
「いいえ、シリウスはあれでも私達『ステラハート』内で争うような事態は避けてるわ。だからいくら憎まれようと私は襲われないの。……ただ、『ステラハート』でないあなたは別。シリウスはこれからもきっと、あなたを襲おうとするでしょうね」
「そんな……。そんな理由で襲われては堪らないわ」
シリウスに襲われる理由が鬱憤を晴らすためのただの八つ当たりとあっては、堪ったものではない。アイリスにとっては迷惑極まりない話である。
「大丈夫よ、アークを通してもう襲わないように言ってあるから。……でも注意して。シリウスも勝手に動く事が多いから絶対安全とは言い切れないわ」
「十分よ。ありがとう、カノープス」
「お礼ならアークたちに、ね。他に何かある?」
カノープスは笑みを浮かべて答えた。アイリスには他に聞きたい事もあったが、あまり多くを聞いても整理がつかない。今はカノープスとシリウスの事だけ分かれば十分だった。
「一番気になっていたのはあなたやシリウスの事だし、他の事はまた今度気になったら聞くわ。あまり聞き過ぎても整理できないし」
「そう、分かったわ。明日には動けるんでしょう? 私も明日から行動するつもりだし、今日はもう休みましょう」
「そうね、後はゆっくりする事にするわ」
そう言うとアイリスは読みかけていた本の続きを読み始めた。アイリスにとって、気持ちを整理したり落ち着けたりするには読書が一番有効である。
カノープスは本の内容が気になったのか、机の上にあった読み終えた本を手に取って開いた。……どうやら医学関係の雑学が書かれているようだ。内容を見たカノープスは顔をしかめ、本を元に戻した。そして椅子に深くもたれかかって頬杖を突き、アイリスに話しかけた。
「……文字ばっかり。よくこんなの読む気になるわね?」
「そう? どれも結構面白かったわよ? 一回読んでみたら?」
「読む気も起きないわ。……あなた、とても『私』とは思えないわね。こんなの読む気になるなんて」
「……何でかしらね」
アイリスは本を読み続けながら答えた。カノープスは欠伸をしてうつむき、目を瞑って眠ることにした。




