1. 大陸暦1948年3月19日:エル・シーダ
(う、ん……?)
春の日の早朝、アイリスは眠りから目を覚ました。
(ああ、もう朝、ね……)
僅かに目を開けると、カーテンを閉め切った部屋は橙色の薄明りに満ちているのを感じる。
アイリスは眠い目を擦りながら起き上がり、カーテンを開け放った。その瞬間、明るい陽光が部屋を照らし、アイリスは眩しさに目を細めた。窓の外には青空と白壁の街並みが広がっている。
アイリスが住んでいるこの都市はサーフェイス大陸を二分する国家のひとつ、イルミナイト連合国の港湾都市エル・シーダである。
(眩しい……)
陽光を浴びて眠気が覚めたアイリスは壁に据え付けた鏡に向かって髪を梳かし始めた。腰まで伸ばした紅い長髪は梳くのに手間がかかる。梳き終えたら服を着替え、お気に入りの胸飾りも身に着けて身支度を整えた。その後、朝食も済ませて仕事の準備をし、家を出てギルドの支部へ向かった。
アイリスは商業ギルド『リブラ』の一員として働いている。働き始めて6年目、仕事にもだいぶ慣れており単独で仕事を任される事も多い。
『リブラ』支部に到着すると、今日の分の仕事を確認して受注した。今日の仕事はエル・シーダ西方にある農村地帯での農作物取引価格調整である。四半期終りのこの時期は大体この仕事で忙しいが、今日でアイリスの担当分は全て終わりである。
アイリスは支部を出て西方行きの馬車停留所に向かった。
(少し遅くなったわね。クラッドも来てる頃だろうし、少し急ごうかしら)
アイリスが足早に停留所に向かう途中ふと目線を上げると、遠く正面に存在する黒く巨大な柱状の構築物――放雷針が陽光に照らされて鈍く輝いていた。
放雷針はサーフェイス大陸全域に存在し、常に電気を放出する性質を持っている謎の構築物である。人々はこの電気を生活に活用してきたため、放雷針が中心となって各都市・国家は発展していった。イルミナイト連合国だけでなく大陸を二分するもう一方の対立国家・ノクタニア帝国も同様であり、その他小国のサンクティア国、海嶺国、サルバシオン自治区等も例外ではない。
「……いい天気ね」
アイリスは小声で呟くと視線を戻して歩き続けた。
しばらく歩いて停留所に到着すると一人だけ利用客がいて長椅子に腰かけていた。それは長剣を背負った男性であり、アイリスはその男性に近寄った。その男性もアイリスに気が付いたようだ。
「お、来たかアイリス」
「ええ、おはようクラッド」
その男性――クラッドの隣にアイリスは腰を下ろした。
クラッドは傭兵ギルド『タウルス』に所属する青年であり、彼が6年前に『リブラ』の隊商護衛任務をしていた際にアイリスと出会った。
出会った当初、アイリスは何故か以前の記憶を全て失っていた。かろうじで名前は思い出せたのだが、それ以外は思い出せず知り合いも全くいなかったため、彼女から何かと頼りにされていた。
クラッドも記憶が戻るまでは、と思って付き合っていたが一向に記憶が戻る気配は無く、長年付き合ううちにお互い想い合うようになり、今では恋人同士の間柄である。記憶は今でも戻っていない。
アイリスが『リブラ』の一員として仕事を始めてからはずっと護衛の仕事を引き受けている。万一の護身用に剣術を教えたこともあるのだが、ほとんど実戦経験がないので不安もある。
「確か今日で調整も終わりだったな?」
「ええ、これが終わったらしばらくの間仕事はないわ」
アイリスは資料に目を通しながら答えた。
「久しぶりにゆっくりできるな」
「ふふ、そうね。ここ最近、仕事以外で一緒に過ごす時間は取れなかったものね」
「そうだな。最近は『キャンサー』もめっきり減ったお蔭で俺も最近は忙しくないし、しばらくは二人でゆっくりするか」
「楽しみね」
適当に会話をしているうちに馬車が到着した。馬車には騎手以外は誰も乗っていなかった。特に何もない農村地帯への馬車である、珍しい事ではない。二人が馬車に乗りこむと、馬車はすぐに農村に向けて動き出した。
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農村はそれほど離れていないので数時間で到着した。停留所から少し歩いたところに、今回の仕事先である農場管理事務所はある。何度も行ったことのある場所なので今更思う事はない。
「じゃあクラッド、少し待ってて。すぐに終わるから」
「ああ、また後で」
アイリスは事務所に向かっていった。クラッドはその間事務所の外で待つのみである。外には休憩所が設けられているので、大抵はそこで座って待っている。数十分で済む仕事であるが、クラッドにとっては暇な時間である。
クラッドは椅子に座ってくつろぎながら舗装されていない街道周囲の農場を見渡した。今は綿花の苗木が一面に植えられており、農場を新緑で染め上げている。
(相変わらずすごい光景だな、ここの農場は。放雷針もない光景も見慣れないし)
放雷針があると放出される電気の影響で植物が育ちにくいため、農村は放雷針のない所にできる事が多い。そのため農村では電気が利用できずに発展が遅れる事も多く、都市から送電線を張って電気を供給するようにしているが、まだ普及していないところも多い。幸いここは供給が行き届いている。
(……早く終わらないかな)
ぼんやりと待つこと数十分、仕事を終えたアイリスが出てきた。
「お待たせ。今終わったわ」
「……ああ、終わったか。 じゃあ早く帰るか」
「ええ。久しぶりに明るいうちに帰れそうね」
「そうだな」
クラッドは腰を上げ、二人は馬車の停留所に向けて歩き出した。
歩きながらアイリスがクラッドに話しかけた。
「そういえば農場の管理人さんから聞いた話なんだけど」
「ん? 何だ?」
「農場の従業員が一人、昨日から行方不明らしいわ。クラッドも前に似たような話をしてたわよね?」
「行方不明? ……ああ、仕事で王都に行った時の話か。2日~3日ほど失踪して、突然戻ってくる人が相次いでいる、ってやつだな。俺もリムから聞いただけの話なんだが」
「そう、それね。それと同じことが起きてると思うんだけど……」
アイリスは口元に手を当て、考えながら話を続けた。
「確か戻ってきた人達は、その間の記憶がないって話だったわね?」
「ああ、そう聞いた。本当かどうか分からないけどな。……やっぱり気になるか?」
アイリスも事情が違えど、記憶を失っているのは共通している。不安を感じずにはいられないのだろう。
「ええ……。一体何なのかしらね」
話しているうちに停留所に到着した。相変わらず利用客は少なく、一人が椅子に座ったまま居眠りしているのみだ。
二人は他の椅子に腰を下ろして帰りの馬車を待った。待っている間、二人は話の続きをしていた。
「しかし、最近の失踪は何なんだろうかね? 『スコーピオ』が調査中みたいだが、まだ何も分かっていないらしいし」
クラッドは腕を組んで考えるも、情報が少な過ぎる現状では何一つ分からない。
アイリスは眼前に広がる畑を見つめたまま、この件について考えているようである。
「誘拐か何かだとは思うけど、それだと攫った後で何もせず解放する意味がないし、なんで記憶がないのかも分からないわ。それに記憶がないのはその時の事だけみたいだし、私とは事情が違うわよね? ……本当、何なのかしら」
「『スコーピオ』でも現状が分かってないんだ、俺達で分かる訳ないさ。俺達はとにかく気を付けるしかないな」
「……怖いわね」
「はは、まあ大丈夫だ。ただの誘拐犯程度なら問題なく蹴散らせるさ」
クラッドはアイリスの不安に笑って答えるのみであった。……話しているうちに馬車が到着したようだ。
二人は馬車に乗り込もうとしたが、もう一人の利用客が居眠りから覚めていない。アイリスは起こそうとして話しかけた。
「あの、もう馬車が出ますよ?」
「……ん? ああ……ん!? お前何でここに!?」
「え!?」
その利用客は目を覚ますとアイリスに気付いて驚いたように目を見開き、突然声を上げた。アイリスはそれに驚いて少し後ずさった。
「あ……違う? ……すまん、寝ぼけていた」
「そ、そうですか……。」
当人が言うには寝ぼけていたらしい。アイリスはそれ以上気にせず馬車に乗り込んだ。
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馬車が出発してしばらくすると、アイリスとクラッドは小声で会話を始めた。
「アイリス、明日からどうする?」
「そうね……。久しぶりにどこか遊びに行こうかしら?」
「どうせ長く休めるんだろ? 少しゆっくりして疲れを取ってからの方が楽しめるんじゃないか?」
「まあ……それもそうね。じゃ、またクラッドの家に遊びに行くわ」
「そのまま泊まる気か」
「ふふ、もちろん」
楽しそうに会話を続ける二人だったが、話の途切れた時に突然、向かいに座っていたもう一人の乗客に話しかけられた。先程寝ぼけていた、あの乗客である。
「……なあ、その赤髪のあんた」
「え? 何ですか?」
乗客はアイリスより少し若いくらいの少女だった。短く切り揃えた銀髪と白い肌を持った少女で、腕と足を組んだまま落ち着いた表情でアイリスを見据えている。
「あんた、もしかして……アイリスか?」
「え!? 私を知っているの?」
「そうか……。やはりそうなのか……。」
少女は低く落ち着いた声でアイリスに話しかけた。とても少女とは思えない冷静な口調であり、何か納得した様子で相槌を打っている。
「君は? アイリスを知っているのか?」
何故アイリスを知っているのか不思議に思ったクラッドは少女に問いかけた。
「……私はリゲル。報道ギルド『ジェミニ』の記者だ。」
「『ジェミニ』か。で、何でその記者がアイリスを知っているんだ?」
リゲルは一瞬黙り込んだ後、落ち着いて答えた。
「『リブラ』に知人がいてな、そいつから聞いたことがある。アイリスという赤髪の女性が『リブラ』で働いてる、ってな。特徴に一致したからもしかして、と思っただけだ」
「なるほど、そういうことか……。アイリス、お前意外と有名なんだな」
「……そんな有名になる程の事をした覚えはないのだけど」
アイリスにはどうにもピンと来ていないようである。
「俺はクラッド。『タウルス』の傭兵だ、よろしく。リゲルって言ったか? 今は仕事中か?」
「いや、私も今日は終わりだ。ここ数日の取材結果をエル・シーダの支部に報告に行くところだ」
「そうなのか。『ジェミニ』の記者は毎日忙しそうなイメージがあるんだが」
「いや、その通りだ。たまたま今日で終わりだが、ここ4日間取材続きだったからな……流石に疲れた」
リゲルは目を瞑って溜息がちに答えた。
「……ねえリゲル、この近辺の取材をしていたの?」
アイリスがふと顔を上げて質問した。
「ん、そうだが?」
「最近起きてる失踪について何か知らない? この近辺でも一人失踪したみたいだし、少し気になっているの」
報道ギルドに所属している者なら社会情勢にも精通しているだろうし、何か知っているかもしれない。そう思っての行動だった。
「ああ、それか。確かに『ジェミニ』でも話題になってるな。……一応、取材中にそんな話はあったが気にも留めなかった。結構前から起きている事件だし、目新しい情報じゃないからな。事件の真相に迫るような情報もない」
「そう……。はあ、結局『スコーピオ』の調査結果待ち、という事ね」
「そういう事だ。ま、情報が入れば私でなくても『ジェミニ』の誰かが報道するさ」
結局、有力な情報は得られなかったが、調査ギルド『スコーピオ』なら近々情報が入るだろう。アイリスはそれを待つ事にした。今は考えていても仕方がない。
話を切り上げて取留めのない雑談を続けているうちにエル・シーダに到着した。
「さて、今日の仕事代はいつも通り『リブラ』に請求しておけばいいな?」
「ええ。クラッド、今日もありがとう。後で家に行くわ」
「ああ、分かった。待ってるぞ」
クラッドは軽く言葉を交わして馬車から下りると『タウルス』支部に向かって足早に去って行った。
クラッドを見送ると、アイリスとリゲルは馬車から下りてギルド支部へ向けて歩き始めた。
「『ジェミニ』の支部は『リブラ』と反対方向だな。それじゃまたな、アイリス」
「ええ、機会があったらまた会いましょう」
「ああ」
それだけ言うと、リゲルは『ジェミニ』支部へ向けて歩き出した。
リゲルを見送ったアイリスも今日の報告をするべく、『リブラ』支部へ向けて歩き出した。
(いや本当、驚いたな……。あいつがアイリスか……。エル・シーダにいたのか、まさか出会うとは思わなかった)
リゲルは伏し目がちになって考え事をしながら歩き続けている。
(アイリス……。汚染者にもなっていないようだし、『私達』の仲間に引き入れておきたいな……。アンタレスとカノープスも喜ぶだろうしな。ついでにクラッドと言ったか、あいつも『タウルス』のようだし丁度良い、仲間にしておこうか……。)
「……とりあえず、暫くは二人の様子を見るか」
誰にも聞こえないように呟いた後、考えるのを切り上げて『ジェミニ』支部へ向けて歩き続けた。