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そして魔王は生まれた

作者: 竹取らぬ翁

「これより大罪人ソフィアの公開処刑を執り行う!」


 あぁ……もう私は家名すら取り上げられ、公爵令嬢と名乗ることも許されないのですね。

 そんな当たり前のことを考えながら私は歩を進めました。


 牢に投獄された時からこうなるであろうとは予想していた。一週間湯あみも出来ずにお情け程度の食事を与えられ、判決が出たと言われて連れられて来て見ればこの仕打ち。


 四方をを兵士に囲まれ、視界は無粋(ぶすい)な殿方で埋められる。清涼剤が足元の石畳と、吹き抜けるような青々とした空だけなのだから気が滅入ってしまいますわ。

 ここだけ聞けば護衛されているようにも聞こえますが、実際は全くの逆。

 土埃で汚れたドレスはよれよれで、自慢でもあった流れるような銀髪は鉛のようにくすみ、ボサボサの髪は幽鬼のようにも見える事でしょう。

 兵たちの意識は周りへの警戒ではなく、内側にいる私が逃げ出さないようにと向けられている。


 触媒も無く、魔力封じの枷で魔術を封じられ、鎖に繋がれて引かれる私は年相応の無力な女。そんな女相手に彼らは一体何を警戒しているのでしょうか。形式美とはいえ、大の大人が十六歳の女を過剰なまでに警戒する様子は滑稽に見えてしまいます。


「き、貴様! なにを笑っている!」

「あら、お気になさらないで結構よ。こんな馬鹿馬鹿しい茶番につき合わされて、辟易(へきえき)しているだけですから」


 可笑しくてついつい笑ってしまいましたが、兵士の方々はこれから死にゆく者が笑うことが理解できない様子。さらに警戒心を深めて怒りを露わにしている。それと、瞳の奥に見えるのは若干の怯え……でしょうか?

 鍛え抜かれた兵士が情けない事ですわね。


 嘲笑(ちょうしょう)の笑みを彼らに向けて、私は即席で作られた処刑台へと上がっていく。

 元公爵令嬢である私の死に場所にしては味気ない簡素な処刑台。台に立つとそこから大勢の人たちの顔が見渡せた。浮かべる表情は二通りある。


 一つは悲痛な面持の市井の民たち。

 民を守るという目的を達成できないのは心苦しい。

 どうか志半ばで倒れる未熟な私を許して欲しい。


 もう一つはニヤニヤと厭らしく嗤う王侯貴族たち。

 彼らは目障りな小娘の首が跳ねられるのを待ち望んでいる悪趣味な者たちばかりだ。ありもしない罪状を並べ立てる性悪さは救いようがないと思う。その中には私の両親も含まれるのだからよっぽどだ。


 〝貴族は民を守るべき筆頭であり、民を虐げてはならぬ。また、王族も民の営みを護り、貴族諸侯に尽力せねばならぬ〟


 建国当初の理念を忘れ、己の利益にだけ躍起になり、害悪を振りまくだけに成り下がった浅ましくも醜い貴族。それを寛容している無様な王族。まだ益になる家畜の方がマシでしょう。


 この国は腐ってしまった。

 弱者を虐げ、弱者から利益を吸い上げ、さらには骨までしゃぶるような腐敗した国。


 私には力があった。

 幼い頃より恵まれた環境に身を置き、産まれついて魔力が高かった私には素質があったのだろう。齢が十になる頃には宮廷魔術師など足元にも及ばない魔術師になっていた。

 それに伴い、公爵令嬢という肩書を抜きにしても国内で無視できない影響力を持つまでになっていた。そんな影響力のある私が利己的な者を差し置いて民に尽くそうというのだ。こうなることは必然だったのかもしれません。


 国の意志に従っていれば得られたであろう称号と名声。

 言われた通りの傀儡となり、王太子殿下の婚約者のままであったならば得られたであろう地位や財産。


 しかし、私はそれらを拒絶した。

 婚約破棄を言い渡してきたのは殿下からだったが、私はそれを避けようとは思わなかった。


 近い将来それは意味を成さない物に成り下がるであろうと私は確信していたからだ。

 富みは独占するだけでは意味が無い。分かち合わねば真の財産は得られない。

 このまま圧制政治を続ければ遠くない将来、虐げられてきた者たちの手によって必ず破綻させられる。もしかしたら私の死がその切っ掛けになってしまうかも知れない。


 私は殿下を諌めようと苦言も呈しましたし、陛下に何度も直奏じきそうもしましたが、それが聞き届けられることはありませんでした。


 その結果が罪人としての極刑なのだから笑えない。よほど私が疎ましかったと見える。陛下達からすれば小娘が幅を利かせるなんてさぞ面白くなかった事だろう。

 自らの無能を棚上げにし、決して認めようとしないなんて陛下は王としての器では無かったという事だ。


 その当人である愚王は一際目立つ場所に王妃と豪奢な椅子に座り、その傍には元婚約者であるレオパルド王太子殿下と、この茶番劇の発端となった女が鎮座(ちんざ)していた。


 グラート子爵の令嬢レベッカ・グラート。


 天使のような顔を持ちながら、性根の芯まで腐りきっている稀代の毒婦にして悪女。

 婚約者であった私が何度窘めようとも殿下との関係を改めず、それどころか数々の有権者の子息を虜にし続けてきた尻軽。

 殿下……いや、あのバカもバカだ。直情的なマヌケだとは思っていたが、まさかあんな女に転がされる程マヌケだとは思っていなかった。


『私は真の愛に目覚めた。もう貴様の好きなようにはさせない。私は王族である前に一人の人間なのだ。婚約は今をもって破棄とする』


 (かつ)て言われたセリフを思い出して呆れてしまう。一人の人間である前に、王族なのだからその責務を果たせと言いたくなる。

 今まで充実した教育を受けられたのも、贅沢な暮らしができるのも、マヌケが王族であったからだ。王族だからこそ、それに見合うだけの責務を背負っている。

 国民を導く責任と、国民を守る義務。政略結婚だってその一つだ。

 それを疎かにし、位の高い者が身勝手に振る舞えば国は荒れ、民草は路頭に迷う。恋愛に(うつつ)を抜かす阿呆が、何を偉そうに(さえず)っているのか。


 しかもこんな手段で私を排除しようなどとは……呆れてものも言えません。あんなのが王太子だなんて、この国の未来は暗い。


「罪人ソフィア。レオパルド王太子殿下の温情だ。最後に言い残す事があれば語る事を許す。謹んで感謝するように」

「――ッ!」


 温情だと?

 感謝だと?

 ふざけるなっ!


 胸の内から溢れそうになる熱をどうにか抑制する。

 視線を向ければ冷めた目でこちらを見るマヌケと、怯えたふりをしてマヌケの腕を取る毒婦が目にはいった。そして毒婦の口元が勝ち誇ったように歪んでいるのを私は見た。


 私を侮辱し、恥辱の中で絶望させたいのだろう。今のセリフもあの毒婦が優しい聖女面して言わせたに違いない。なんと醜悪な!


 ともすれば絶対に屈したりするものか。

 絶対に泣いてなんてやるものか。

 お前たちが望む惨めな姿など私は決して見せない。

 私は自分が勝ち気な性格だと自覚している。男を立てることを美徳とする王国では、私はさぞ滑稽に映ったことでしょう。

 しかし、私は私のやるべき事をしたのだ。恥じるような事はしていない。見苦しく命乞いなんてする訳が無い。


 私はここで死ぬのだろう。

 それでも最後まで誇りを穢すようなマネは絶対にしない。


 牢に入れられた時に涙は出し尽くした。声が枯れるまで泣き尽くし、無実を必死に訴えた。

 報われないと分かっていてもそうせずにはいられなかった。殺さないでと懇願(こんがん)しそうになったことも一度や二度ではない。地べたに頭を擦り付け、恥を捨て去ってでも命乞いをしようかと何度も考えた。


 でも、そんなのは私の矜持が許さない。

 そんな事をすれば私のやってきたことを否定する事になる。民を無下にし、唾を吐き捨てるようなものだ。

 例え悪役令嬢の汚名を被せられようと、罪人として裁かれようとも、それだけは絶対にしてはならない。


 こぼれそうになる涙を無理やり押し込め、私は毅然とした態度を取り続ける。


「時間の無駄ね。いまさら哀れな愚者に何を語ろうとも意味を成さないでしょう。いずれ、その報いを受けるのは貴方方なのですから」


 笑いたければ笑えばいい。

 そんなお前たちこそ私が嗤ってやる。


「早くその女を処刑しろ!」


 自尊心だけ無駄に高いマヌケが声を張り上げた。兵士がその命令を受けて私を乱暴に引っ立てる。

 これから私の首を妖しい光を宿した巨大なギロチンが切断するのだ。今ここに至っては痛みなど大した問題ではない。


 断頭台に金具で固定され、いよいよ私の命もここまでのようだ。

 なれば最後は笑って逝きましょう。

 せめて民を安心させ、愚か者共を怯えさせる笑みを浮かべましょう。


 大丈夫。

 きっといつの日かこの圧政を破壊する者が現れる。

 きっと民を救ってくれる者が現れてくれる。


 だからお願い。

 王国に住まう民よ。

 どうかその時まで早まった真似はしないで。



「やれ!」



 兵士がギロチンの刃を支えていた縄を切ろうとした――――まさにその瞬間。



「――――~~~~~~~~~~ぁーー」



 どこからともなく声が聞こえてきた。


 この公開処刑は王により命じられた勅命だ。その最中に奇声を上げるだなんて不敬な真似は誰もしない。そんな事をすればその者もただでは済まない。


「~~ぁーーーーーーああああああああああああああああ!!!」


 しかし奇声は確かに聞こえてくる。

 発声源を辿れば奇声は段々と近づいてきているようだ。


「う、上だ!」


 騒然とする会場で誰かが言った。その声に従って吹き抜ける青空を見上げれば、白乳色の白夜月を背に何かが降ってくる。


「ああああああああああああ――ぐふっ……!」


 潰れたカエルのような呻き声を最後に辺りは静まり返る。

 空から降ってきたソレは、呻き声を残して深々と断頭台――私の目の前に突き刺さった。

 それはもうガッツリと。首から上が見事なまでに突き刺さっていた。これから首を切り落とされる私からすれば、なんとも気分の悪い格好だ。


「………………………ぐぅ~~~とりゃああっ!!」


 首を引き抜いたソレは人間だった。

 この国にはいない短く切りそろえられた黒い髪に吸い込まれそうな黒い瞳。見たこともない衣服を身に着けているが、よく観察すれば仕立てが良く、非常に質のいい物だとわかる。

 まだ若く、私と同じくらいの男の子。

 そんな彼は顔を手で押さえながら私の前を転げまわっている。


「いってぇーーー! クソッ、もっと丁寧に送れねえのかあの駄女神! 異世界に来て早々に死ぬかと思ったわ!」


 悪態をまき散らして「鼻血とか出てねえよな」「陥没してねえよな」と、しきりに顔を確認している。

 遥か上空から顔面で着地すればそれどころではないと思うのですが……。


 いえ、そもそも異世界?

 彼は誰で、いったい何を言っているのでしょうか。


「あのアバズレ、いつか絶対に後悔……ん?」


 不意に彼と視線が合う。

 それから彼は周囲を見渡した。


「あ~……なるほど、ね。随分と野蛮なことしてるじゃねえか」


 それだけで状況を理解したのだろう。心底不愉快そうにかんばせを歪ませる。


「貴方は……誰、ですか?」

「俺は――」


 思わずそう尋ねましたが、マヌケの怒号によってその声は掻き消されてしまう。


「何を呆けている! 早くその賊を取り押さえろ! 殺しても構わん!」


 近くにいた兵士たちは命を受け、彼に槍の矛先を向ける。


「国王陛下の御前だ、大人しくしろ!」

「平和主義の日本人に物騒な物向けんな野蛮人」


 彼は気にした様子もなく槍の一つを掴み、兵士ごと横薙ぎに払う。払われた兵士は周りを巻き込んで台の上から落下していった。


 いったいどんな膂力(りょりょく)をしているのでしょう。鎧を身に纏った兵士は簡単に振り回せるような重さではないと思うのですが……。


 その後も襲い来る兵士の刃を魔術も使わず涼しい顔でヒラリヒラリと軽やかにかわし、死刑台から叩き落とす。それを繰り返すうち、いつの間にか断頭台の上には私と彼の二人だけが残っていた。


「何を手間取っている。それでも誇りある王国の兵か! 奴らを包囲して絶対に逃がすな! 騎士も奴らを包囲しろ!」


 それなりの高さがある死刑台だが、落ちたぐらいで鍛え抜かれた兵が動けなくなる訳ではない。体勢を立て直してまた直ぐに上がって来るだろう。人波を掻き分けて新たな兵がやって来るのも見える。


「何をしているのですか! 今の内に早く逃げなさい!」

「あん?」

「あん? ではありません! このままでは殺されますよ?!」

「なんだ、心配してくれるのか? お前の方こそ今にも殺されそうに見えるけどな」

「それはッ――!」


 それは……その通りだ。

 今の私は誰かを心配できる立場にはいない。これから断罪される者が何を言っているのだろう。


「まあいいさ。なぁアンタ、どうせこのまま死ぬなら俺と取引しないか?」

「取引……ですか?」

「そう取引だ」


 彼は無邪気そうな笑みを浮かべて首肯する。

 だが、この場に置いて唐突に取引を持ち掛けて来た彼を訝しげに見る。冷静ではない状況で商談や提案を持ちかけて来るのは詐欺師の常套手段だ。


「お前をここから連れ出してやる。だからその拾った命を俺に寄越せ」

「なッ!?」


 あまりにもな内容に絶句する。

 ここで死ぬか、隷属(れいぞく)するかの二択をさも当然のように言い切られる。


 彼の黒曜石を思わせる瞳は僅かでも逸らされない。真っ直ぐに私を見詰めている。

 嘘や冗談を言っているようには見えない。彼は命を救う代わりに、本気で私を奴隷にしようとしている。


 命が助かる。

 絶望的な現状に置いて、それは真意を疑う私ですら飛びつきたくなる甘言だ。

 考えただけで諦めていた生への渇望が鎌首をもたげる魅力を放っていた。


 そう、それはまるで悪魔の囁きのように――。


「……なぜ、私なのですか? 別に私のような罪人ではなくとも、都合の良い奴隷なら簡単に手に入るでしょう」

「やっぱり奴隷なんてものがこの世界にはまだあるんだな」

「なにを白々しい! 貴方がたった今隷属を求めたじゃありませんか!」

「はあ? 俺がいつ奴隷なんて欲しいなんて言ったよ。俺が求めてるの信用の置ける――……ん~なんだ? 仲間? 協力者? いやなんか違う気がするな……」


 つい感情的になって声を荒げてしまったが、彼は気分を害した様子も無く真剣に悩み始める。

 その姿を見て、私と彼の意識の差異に気がついた。どうやら彼は本当に私を奴隷にしようとは考えていないようだ。

 少なくとも不当な辱めをする心算はないのかもしれません。


 もっとも、今の私は孤児の方がまだ清潔にしていると思われる格好をしているのですから、こんな私に不埒なことを行おうなどと、そんな特殊性癖を持つ人は少ないでしょうが。


「とにかくだ! 俺は奴隷なんていらない。求めてねえよ」

「……わかりました。一先ずそれで納得しましょう……ですが、それでは貴方の目的は何なのですか?」


 だがしかし、そうだといても、私は簡単に(なび)く訳にはいかない。彼の目的が不明瞭な段階で容易に頷くことは出来ない。

 例えここで「やっぱりお前は面倒だ」と切られたとしても、私には民を守るという信念があるのだ。それを曲げることは出来ない。


「はあー、敵さんが包囲を始める中で悠長だなぁ」

「これは大切な事です。答えてください」

「なに、別に変なことじゃないさ。ただこの世界に別の世界の者が混じってるらしくてな。俺はその紛れ者をころ……息の根を止めて天に還さなきゃいけないんだ」


 今、殺すと言いかけましたよね? 言い直しましたけど、結局のところ意味は変わっていませんよね、それ。


「そのためにこの世界の情勢や常識なんかが不足している。少しは聞いたんだが、時間が足りなくてな。情報元も怪しくて信用できねえ――でだ、今のお前なら借りをつくれるし、自分が殺されそうだって状況で俺の身を案じるあたり、お前は恩を仇で返す様な恩知らずじゃなさそうだ。それなら信用できる。

 殺されそうなところを見ると、他に行く宛もないんだろ? 俺もこんな状況だ。どうせこのままだと死ぬんなら、俺のものになってもう少しだけ長生きしてみろよ。案外どうにかなるかもしれないぜ?」


 この人は感覚で生きているように見えましたが、意外と考えているようですわね。

 独自の価値観を有しているようですが、瞬時の状況判断に現状把握能力。頭が悪いわけでもなさそうです。


「もちろんそれもずっとじゃない。俺が目的を達成したら自由にしたらいいし、そのための手伝いもする。悪くない条件だろ?」

「つまり協力者が欲しい、という理解でよろしいのですわね?」

「協力者……う~ん、まあーそうだな。そんな感じだ」


 彼の目的が民を害するのではないのなら、私に残された選択は決まっています。

 まだ彼が言っている事が真実だとは限りませんが、もしもの時は私が彼を止めればいい。


「で、返答は?」

「わざわざ言わせますの? 野暮な殿方ですわね」


 答えは決まっている。私だってこんな所で死にたいわけではない。

 私の言に、彼は破顔する。


「交渉成立。これからよろしくな」

「私、こうみえても元公爵令嬢ですの。民には人気がありましてよ? きっと役に立てると思いますが、私は高いですからね」

「いや、人望がある奴が公開処刑とかにはならないだろ」


 彼は呆れたように苦笑する。

 確かにその通りですが……でも、


「この世界は絶対王権制――といえばお分かりになるかしら?」

「あー……なるほどな。王が暗愚ってところか」


 ご明察。やはり頭の回転は悪くないようですわね。


「そこまでだ!」


 彼との交渉がまとまると同時に兵士達の包囲も完了したようだ。死刑台を隙間なく埋める兵士。中には高位騎士もいる。その後方には魔術師部隊が控え、触媒である杖を掲げていた。


「処刑台ごと奴等を燃やせ!」


 魔術師長の号令で魔術師たちが杖を掲げて詠唱を始めた。詠唱によって空中に術式が描かれ、杖に埋め込まれた魔石が魔術師の魔力に反応して鈍い輝きを放ち始める。

 このままでは二人揃って火ダルマだ!


「早くこの枷を解いて! いえ、それよりも私に何か触媒を!」


 駄目、それでも間に合わない!

 私は未だに魔封じの枷に繋がれ、断頭台に括りつけられている。例え触媒となる物があったとしても魔術は発動できない。よしんば枷が解かれたとしても、相殺できるだけの魔術を紡ぐだけの時間がもう無い。


「放てーー!」


 完成した魔方陣からいくつもの炎弾が撃ち込まれる。

 十数個の炎弾は重なり合い、私達を炭化するべくまるで炎の壁のようになってこちらに向かってくる。


「そんな――」


 せっかく希望が抱けたというのにこれで終わってしまうのか。

 神様は意地悪だ。きっと私の心を弄んで楽しんでいるに違いない。それ程までに私は疎ましい存在だと言うのだろうか。

 ただ民に幸せになって欲しいと、そんな持てる者の義務を果たそうと、それだけなのに……。


「さて、これで使えなかったらマジで殺すぞあの駄女神」


 熱気が肌を焼き、迫り来る死を目前とする私の耳に何の気負いもない声音が響いた。


「なんだとッッ!?」


 瞬間、熱風が四散して驚愕の気配が辺りを支配する。


「おお、さすがは腐っても神だな。ちゃんと発現するじゃねえか」


 いま、彼はなにをした(・・・・・)


「ひ、怯むな! 続けて放てーー!」


 再度同じ魔術を撃ち込まれるが、それも先程と同様に私達に届く前に四散してしまう。


「無駄だよ。お前らの魔術なんか俺には届かねえよ」


 彼からは確かに魔力が漏れている。彼が何かをしているのは間違いない。

 それならば視認できないだけの風の魔術?

 違う。これは同じ威力の魔術で相殺しているのではない。あえて言うのならば打ち消している(・・・・・・・)ように見える。


 これは魔術などではない。魔術を打ち消すだなんて私でも出来ない。

 これは魔術なんて生易しい物ではない。術式も触媒も無く身一つで魔術は扱えない。

 これはそう、魔術よりももっと深い何か。私でも理解できない魔導の深淵……ッ!



 ――――ま、ほう?



「あれ? この世界って術式を用いた魔術が主流って聞いてたけど……。チッ、あのババア、やっぱりいい加減な情報与えてやがったか。秘匿性も何もあったもんじゃねえな」


 つい漏らした私の呟きを彼は拾う。

 あり得ない。そんな事があるはずがない。


 魔法なんて御伽噺に出て来るだけの眉唾物。

 昔々から始まって、めでたしめでたしで終わる物語の中だけの産物――そう、思っていた。


 いつの時代の物かも分からない古い書物には魔術と魔法はしっかりと明文化されている。

 そう、明文化されているのだ。

 当然のように、文章に、明確に、違いが書き示されている。


 私はこれを、魔術発展の妨げになるからこのような措置がとられているのだと思っていた。現実と夢物語を複合させないためだと思い込んでいた。

 でも違った。

 魔法は存在して、魔術とは全くの別物だった。


 昨今の馬鹿な魔術師は魔術と魔法を一緒くたに考える者もいるが、とんでもない。

 触媒を用いて魔力を代償に支払い、事象(・・)を計算式にして発動する魔術とは異なり、魔法は性質も因果も捻じ曲げて、魔力を用いて現象(・・)を引き起こす。


 何かを燃やす魔術なら、燃やす対象と燃えるための燃料。そして燃えるための状況を計算式に編み込んで発動させる必要があるが、魔法は違う。

 魔法は術者の意志によってただ燃やすのだ。過程も理論もすっ飛ばして、燃やすという結果が発現するのだ。


 魔力を使うという点では同じだが、執行される効果が天と地ほども違う。魔術と魔法では次元そのものが違うのだから当然だ。

 魔法とは神の所業であり領域なのだ。決して人間が振るって良い類の力ではない。


 だというのに、


「バレてんならわざわざ隠す必要もなさそうだな」


 そう言うと、彼の内から魔力が噴き出した。

 今まで彼から漏れていた魔力が小川のせせらぎだとしたら、今の彼の魔力は荒れ狂う大海の奔流。近くにいるだけで質量を持った魔力に押し潰されそうな錯覚に陥りそうになる程に、質も量も一気に跳ね上がった。


 そしてそれに呼応するかのように彼の背中から一対の翼が広がり、殺伐としていた処刑場には不釣り合いな美しさを醸し出す。


「ふぅー。開・放・感!」


 水晶のような羽根がキラキラと舞い散るさまは幻想的で、まるで天上の絵画、至高の芸術という言葉がよく似合う。

 民も、魔術師も、騎士も、兵士も、国王夫妻も、マヌケも、毒婦も、そして私も。

 その場にいる全員、時が止まったように見惚れてしまっていた。


「これが俺の魔法が顕現した姿【晶翼】だ。悪くないだろ?」


 悪戯が成功した子供みたいに笑う彼は、魔法を操る彼は、本当に何者なのだろうか。


「ああ悪い、いつまでもそんな恰好じゃ窮屈だよな。ちょっと待ってろ」


 彼は呆然とする皆を放置して、魔法なんて使わず、純粋な膂力だけで枷を引き千切り、金具を破壊した。


 じょ、常識が通じませんわね……。


「……貴方って本当に人間ですの? 今なら魔物の一種で、化け物だって言われても信じますわ」

「純度百パーセントの人間だっての」


 何言ってんだコイツと言わんばかりに私を非難の目を向けて来ますが、むしろ私がその目をしたいのですけど。


「あ、でも違うか。なんでも【晶翼】を展開させた俺は半神半人(デミゴット)らしいから、今の俺は半分人間っていうのが正解だな」

「何よそれ。結局は半分化け物みたいなものじゃない!」

「自由になった途端に失礼な奴だな。これでも過去の事例を振り返れば、一応勇者に分類されるらしいぞ、俺」

「何が勇者ですか、白馬に乗って出直してきてくださいな。貴方は勇者というよりは魔王の方がお似合いです!」

「白馬に乗るのは王子様だろうが……って、魔王?」


 どこの世界にか弱い淑女の処刑間近に取引を持ち掛ける勇者がいるのかしら。しかも内容がお前の命を寄越せよ?

 完全に悪役のセリフじゃない。


「ハハハッ! いいな魔王! 勇者なんて甘ったるい英雄よりよっぽど俺好みだ」


 キョトンとした表情から一転、彼は人懐っこい笑みを浮かべる。どうやら彼の琴線(きんせん)に触れたようだ。


 人垣に振り返り宣言する。


「たった今、勇者から魔王に転職した(あきら)だ。少しの間この世界に邪魔させてもらうぜ」

「何が魔王だ! お前たち、たかが餓鬼一人に何を手間取っている! 魔術が駄目なら剣で押せ!」


 実にあっけらかんとした宣言は兵たちの激昂を煽るだけとなった。

 波のように兵士が押し寄せてくるが……おそらく無駄だろう。




 彼は断頭台に設置されていたギロチンを無造作に引き剥がし、そのまま押し寄せる兵士に向けて振り抜いた。


「オラァアア」

「ぐわあああああっ」


 力任せに鎖を引き千切る怪力の持ち主だ。そんな者が巨大な刃物を振り回せばどうなるかは火を見るより明らか。かつて私の首を切断するために磨かれた刃は、私を殺そうとした者たちの身体を鎧ごと切り裂いていく。

 抵抗も反撃も意味をなさない。

 兵士たちは彼に近づくことすら許されない。返す刃でもう一度振り抜き、空気を裂く轟音が兵たちの鎮魂歌となる。

 いくら数を増やしたとしても、生半可な人数では太刀打ちできない。


 今この場は公開処刑を観戦する場から、賊を打つための戦場、そして一方的な屠殺場へと姿を変えた。


「ありえぬ! なぜ我々が蹂躙される!? 相手はたったの一人。しかもまだ子供なのだぞ!!」


 騎士の一人が叫ぶが、次の瞬間には骸へと姿を変える。

 数では質を凌駕することは叶わない。その典型を見ているようだった。


 しだいに彼に立ち向かう者は減り、恐怖に囚われる者が増えていく。


「ひぃぃーーーや、やめ……がはっ!」

「……存外、人殺しってのも何の感慨も感傷も沸いてこないもんなんだな」


 また一人の命を奪った彼は憂いを帯びた瞳でそんなことを呟く。

 私だって死を見るのは初めてではない。魔物を間引きもしましたし、時には盗賊のような無法者を手にかけたこともありました。

 ですが、彼は文字通り格が違った。

 一騎当千。まるで刃を交えること自体が烏滸(おこ)がましいと言わんばかりの圧倒的な力量の差がそこにはあった。


 阿鼻叫喚が支配するこの状況を覆すことは、もはや不可能だ。


「こんなことをしてただで済むと思っているのか!」


 騎士に守られたマヌケが吠える。


「この処刑は国王の勅命により決定され、決して覆らぬ絶対の行為なのだ! 下賤な賊如きが邪魔をしていい道理はない!」


 よくこの状況でそんな態度がとれるものだと感心する。が、尊大な態度は気に入らないにしても、マヌケの言うことはもっともだ。

 勅命とは絶対者である王の権力が詰りに詰まった発言。それを覆せる権限を持つ者などこの国には存在しない。例え誰が何と言おうともその命令は遂行され、果たされる。

 絶対王政の名は伊達ではない。勅命とはそれ程までに重いのだ。


「人様に道理を説く前に自分たちの行いを顧みるんだな。命を奪う物も奪われる物も、それを見世物として楽しむ輩も等しく平等だ。平等ゆえに自身もまた命を奪われるのを覚悟しなければならない。そんな当たり前の覚悟もなく、自分たちだけ安全地帯で傍観者を気取ってる奴なんて虫唾が走る」


 俺の価値観の押しつけなんだがな、と彼は呟く。僅かに(うかが)える彼の表情は、長年の夢が叶わなかった人が浮かべる独特の儚さが見え隠れする。


「どうせわからないだろうが……まあ、後学のために教えといてやる。いつまでも権力を笠に着ていると取り返しのつかないことになるぞ。生きている限り、自分を奪う側の人間だと勘違いしないことだ。

 〝殊勝(しゅしょう)〟っていい言葉だよな?」


 揶揄(やゆ)するように彼は言う。


 …………これは推測どころか憶測にも満たない〝もしかしたら〟の話。

 彼が本当に異世界から来た来訪者だと仮定して、更には私の観眼が確かなものだとした上での可能性の話ですけれど……。


 彼は彼の世界でも同じような目にあっているのかもしれません。私のように理不尽に嘆き、不条理に涙した経験があるのかもしれない。

 何故かそう思った。

 そう思えてしまうくらいに彼の言動は異質なのだ。これは異常と言い換えてもいい。

 平等などと。そんなありもしない幻想を本気で語るなど、英雄譚に憧れる子供ぐらいなものだ。


「世迷いごとを!」

「まあ、どのみちお前と政治論を語るつもりなんてねえ……――よっ」

「キャっ!」


 まるで荷物のように私を肩に乗せる。


「そんなもん、国のお偉いさん達とで討論でもなんでもやってろ。そんなことよりこいつは俺が貰っていくからな」


 いい加減マヌケとの会話に飽きてきたのだろう。実に面倒そうに答える。

 それはいい。私もあのマヌケとの会話の後は疲れてしまうから、彼の気持ちはよくわかる。


 ですが、


「何ですかこの扱いは!」

「なんだよ、ここから逃がしてやるっていうのに何が不満なんだよ。もう俺と取引しただろうが」

「だから扱いですわよ! 私を麦袋か何かと勘違いしているんじゃありませんこと!?」


 こんなの淑女に対する扱いではありません!

 そう伝えれば、彼は舌打ちしながらも態勢を変える。


「ったく。これなら文句ないだろ」


 悪態混じりなセリフとは裏腹に、今度の彼は腕を背中とひざ裏に回し、私を丁寧に抱きかかえ直す。


「え? えっ? これは……!」


 繊細な壊れ物でも扱うように回された腕。これは密かに焦がれ、憧れていたお姫様抱っこ。

 可愛げのない私には縁がないと思いながら、半ば諦めながらも諦めきれずに抱いていた分不相応な態勢。


 会って間もない殿方にされているというのに、顔に熱が集まるのを感じる。


「待て! 逃げるのか!?」

「逃げる? 違うだろ。見逃してやるんだよ」

「なっ――!」


 そんな私の反応に気づかず、彼はマヌケを鼻で笑う。


「良かったな。お前ら全員、この女がいなかったら最後まで俺とやりあうことになってたぞ? そうなってたら……その残念なお(つむ)でもわかるよな」


 彼は翼を広げて体制を低く構える。


「せいぜいこの女に感謝して余生を過ごすんだな」


 言うが早いか、もう興味はないとばかりに一瞥すらしないで羽ばたき一つで宙に浮く。


 その時、視界の端に尻軽(レベッカ)が悔しそうにこちらを睨んでいるのが見えた。

 私に成り代わり、恥辱の中で殺そうとしていた者のおかげで命が助かったなど、安いプライドを持ったあの女にとっては屈辱だろう。


 もしかして……今のは私の為の意趣返しなのかしら? ――とも思ったが、違うだろうなと思い直す。私の体面を気遣ってくれたというよりも、どちらかといえば当てつけに近かったように感じられた。

 相手が嫌がるからやる。いじめっ子の考え方だ。


 結果的に私をダシにされたようで面白くはありませんが……あの顔を見れたのだからまあいいでしょう。悪い気はしません。


 そんなことを考えていたが、その余裕はすぐに霧散する。


「しっかり掴まってろよ」


 彼が羽ばたきを加えて本格的に空を目指して飛翔すれば、空気を流動させ、重力など歯牙にもかけない浮上は想像以上に速い。


 ――この腕を離したら死ぬ!

 浮遊感に包まれる中で私は目を瞑り、無我夢中で彼の首にしがみついていた。






「おい、もう大丈夫だぞ」


 数秒後、彼に言われて恐る恐る目を開けば……目の前には男の顔――!


「ちょっ近い! 近いですわよ!!」

「おい、待て! 暴れんな! 落ちても知らねえぞ!」

「……落ちる?」


 ふと眼下を見下ろせば王都が視界に入った。

 わらわらと動いているのは人間だろうか。豆粒よりも小さい。


 ―――――ッッ!!


「キャーーーッ! おち、落ちる! だめ離さないで!」 

「だぁああ! 暴れんなって言ってんだろうが! ほんとに落ちるぞ!」


 そこは足場がない不安定……どころか、足場など存在しない遥か上空。矢すら届かない高さで滞在していた。


 それから私が暴れ、彼が宥めるやり取りを繰り返し、冷静さを取り戻すには暫しの時間を有した。







「落ち着いたか?」

「…………はい。お見苦しいところをお見せしましたわ」

「ったく、キャラ崩壊しすぎだろうが。最初の威勢はどこいった」


 取り乱した姿を見られて顔から火が出そうだ。

 とんだ醜態だ。恥ずかしい。


「そ、そんなことより! 先ほど私をダシに使いましたわね!」

「バレたか」


 悪びれた様子もなく認めやがりましたわこの男。

 ええ、ええ、分かっていましたとも。別に何も期待などしておりませんでしたとも。


 なるほど魔王だ。性格が悪い。


「そんなに怒るなって。お前だってあいつ等の悔しそうな顔見て、少しは気が晴れただろ?」

「……溜飲が多少なりとも下がったのは否定いたしませんわ」

「だろ? だったらいいじゃねえか。そんなことより見てみろよ。中々の絶景だぞ」


 促されて視線を彼と下以外に向ける。するとその瞬間、彼への怒りや高所への恐怖など吹き飛んでしまう。


「世界ってのは広いよな」


 世界――そう、これは世界だ。


 どこまでも続く地平線。

 国境を越えた先に僅かに見える青は海だろうか。空の青と海の青が混ざり、境界線を描いている。


 地図などで自他国問わずに地理は把握しているつもりでした。ですが、机上では決して知ることも、見ることも出来ないであろう情景は、感動の濁流となって私の胸中を襲う。得も知れぬ解放感が全身を駆け巡る。冷たいはずの肌を撫でる風がどこか温かく感じられた。


 広く、広く、どこまでも広く。無限に続いているのではと錯覚しそうになる程に果てしない。城から眺めた城下などではなく、まさに世界の光景。それは確信的に美を奉納した光景だった。


 ――知らなかった……世界とは、こうも大きく、かくも美しいものだったのですね。


 自嘲的な笑みが自然と漏れる。

 まったく……なんだかんだ言いながら、私はつもりになってばかりですわね。


「この星がどれだけの面積を有しているかなんて知らねえけどよ、これでもまだほんの一部なんだぜ? こんなの見せられたら、人が抱える悩みなんてちっぽけだって思わないか?」


 その通りですわね。

 私はちっぽけな存在だというのに、全てを一人で賄おうとしていた。


 民の生活改善。人材発掘。魔術の鍛錬。学問の探求。貴族たちの牽制と賄賂。政への干渉。商人との繋がり。王族との婚約。

 そんな頑張りもたった一人の毒婦によって台無しにされた。その結果が公開処刑なのだから、本当に私は空回ってばかりの滑稽な女です。

 視野を広くしていたつもりでしたが、まだまだ小さな箱庭で翻弄していただけなのですか。


 

「あー、例え国家だろうが所詮は数ある一集合体でしかないわけだし、情報伝達能力も未熟な社会集合体に追われようがなんとかなるもんだ。それに、己を誇るでなく、己を高めるでもなく、他者を貶め、見下してプライドを維持するような奴らが運営する、そんな社会制度が気に入らなければ変えればいいし、なんなら捨てたっていい。排他的な国に未来なんてないしな。

 あ! なんならどこかの村でのんびりと生活するって選択肢もあるわけで……。もちろん楽な生活じゃないかもしれないけど、それでも穏やかには過ごせると思うぞ。その生活基盤が出来るまでだったら協力もする。まだ若そうなんだし、誰かいい男捕まえて家庭を持つってのも悪くないと思うぞ。

 あ! あと――」

「……何が言いたいんですの? いまいち要領を得ないのですが」


 長々と訳の分からないことを喋る彼を制して訝しげに見ると、彼は気まずそうに視線を逸らしてそっぽを向く。


「あ~……だからまあ、なんだ……泣くな」

「え?」


 泣く? 誰が? 私が?


「泣きたくなる気持ちも分からなくはないし、存分に泣かせてやりたいけど……あ~、俺の前では泣くな。こういうのには慣れてないんだ……どうすればいいか分からなくなる」


 気づけば私の視界はかすみ、頬を生温い滴が流れていた。


 思えば、この方に出会ってから調子を崩されっぱなしです。まだ数刻も経っていないというのに、もう訳が分からない。


 誰かに否定され、死を望まれる。そんな尊厳死すら許されない身の上だった嘆きと悲しみ。生き残ったことへの喜びと不安。一度自覚してしまうともう駄目だ。それらが混ざり合い、抑えの利かなくなった感情が声にならない慟哭となって口から溢れ出す。

 涙とは、いつまで経っても涸れないものなのですね。もう出し尽くしていたと思っていたのに、まだ泣くことが出来るなんて思っていませんでした。

 そう思うとまた無性に泣きたくなった。






「やっぱり辞めるか? ああは言った手前だけど、別に無理して協力しろなんて言わねえよ。か弱い女を巻き込むような話じゃないしな」


 泣き止んだところで声がかかる。


 何を見当違いな。それでは私が困る。今更人並みな幸せなど、私は求めていないのだ。


「ソフィアよ」

「ん?」

「私の名前。ただのソフィア。所有者なら所有物の名前ぐらい知っておくべきでしょう」


 地位も肩書もなくなった私はただの罪人(ソフィア)。家名を名乗る事ももう二度とないでしょう。


「……いいのか?」

「私は構いません。どうせ帰る場所もありませんし、捕まればまた断頭台に連れていかれるだけですから。それなら貴方といた方が身の安全を守れるというもの」


 家名を失ってもこの国が故郷だということに変わりはない。

 私はまだ生きている。拾った命はもう私の物ではありませんが、生きているならば母国のため、同郷の人のために出来ることがまだあるはず。


 私は私という一個人として、成すべきことを成すだけです。


「……ですが、貴方の方こそ本当に良いのですか? 今更ですが私はどう考えても厄介者。自ら面倒事を背負い込むような物ですのよ? 貴方の目的なら国を敵にするのは悪手ではなくて?」

「本当にいまさらだな……。いいんだよ。人の死を見世物にするような奴等は古今東西、下種だって相場は決まってる。そんな下種と仲良しこよしなんて反吐が出るね。何が悲しくてそんな気に入らねえ奴等に手を貸してもらわねえといけないんだよ」


「貴方……バカですのね」

「まあ、間違っちゃいねえな」


 そう言って苦笑する彼は、少し、ほんの少しだけ素敵に見えた。



「本当にいいんだな」


 真剣な顔での問いを首肯で返す。


「私の命は既にアキラ様の物」


 私は覚悟を決めた。

 私はもう貴族ではないけれど、それでも受けた恩は必ず返します。

 今まで育んでくれた王国の大地。

 今まで支えてくれた王国の民達。

 そして、国家を敵にしてまで救ってくれたアキラ様。


 それら全てのために生き恥を晒しましょう。


「全てがアキラ様に背くとも、影のように付き従い、晩鐘が過ぎ去る最後の一刻まで御業の憂いを晴らすために尽力いたします。

 私の血も肉も心も魂の一遍までアキラ様の糧とし、アキラ様が掲げる誇りと名誉の礎の為に忠誠を捧げることを誓います」


 私はアキラ様に大仰な誓いを立てた。


 命を助けていただいたのなら、命を賭して力になりましょう。

 舞台役者の如く華やかさはないけれど、言葉に込めた想いに偽りはなく、軽くもありません。


 ……そんな一大決心だったというのに、それを聞いてアキラ様は呆れたように溜息を吐いた。


「何度も言うが、俺が求めてるのは俺に従順な下僕でも、忠誠を誓う臣下でもない。もっとこう……なんだ? 本心を言えるようなパートナーみたいな……そう相棒だ! 相棒だよ相棒! 俺が求めてたのは一蓮托生の相棒なんだよ」


 一人で勝手に納得するアキラ様。


「なんですか、それ」

「だから相棒だっての。いやーずっと引っかかってたんだよ。こう、喉に刺さっていた小骨が取れた感じ? あースッキリした!」


 よっぽど嬉しかったのでしょう。相棒を連呼するアキラ様はにこやかに笑う。

 ……私には何がそんなに嬉しいのか分かりませんが。


「そうと分かったなら上下関係ナシだ。命を寄越せなんて無粋な事ももう言わない。一蓮托生といこうぜ、相棒」


 もう……本当に身勝手な魔王様ですわね。

 乙女の覚悟を何と心得ているのでしょうか。一度問いただして聞いてみたいものです。


 あまりにもあっさりとした対応に、恨めしげに見てしまうのも仕方ないことだと思います。切実に。


「はぁ……」


 ついついため息が漏れますが、それも許されるでしょう。

 これは……もう駄目ですわね。認めるしかありません。


 私はこの傲慢不遜で、不器用で、でもちょっとだけ優しい魔王に私は期待してしまった。

 あらゆる苦難を押しのけ、あらゆる困難を打ち砕けるであろう強大な力。

 悪政を正し、常識を破壊するであろう志の狂おしさ。アキラ様なら民に危害を加えることもないでしょう。


 なにより、恩を感じる以上に私は心惹かれ、魅せられてしまった。


 確か前に書物で読みましたわね。個人では抗えず、逃れられないことへの名称。

 これも一つの運命というものでしょうか。陳腐ですけど悪くありませんわね。

 私にとっての運命は、きっとこの魔王との出会いなのでしょう。


 弱った女に手を差し伸ばすなんて、本当に魔王というのは悪い御方のようです。

 肩ひじ張っていたって私も年頃の娘。そんなの、コロッといってしまうのは仕方がないじゃありませんか。

 これは予感です。やはり、私はこの方に全てを捧げることになるでしょう。


「……どうやら魔王からは逃げられないみたいですわね」

「あ? なんか言ったか?」

「何でもありませんわ」


 それでも私だってただでは転びはしませんことよ。

 言いましたよね。私は高い、と。

 貴方は相棒だとおっしゃりますが、取引をした時に私は命を差し出す決意をいたしました。私がアキラ様の所有物になったのはまごうことなき真実。私は一度決めたことを蔑ろにし、それを撤回するつもりはありません。例え地の果てであろうともこの命尽きるまでお供いたしますとも。


 ですが、私もやられっぱなしで終わりはしません。いつの日かアキラ様も私の所有物にして見せますから、期待していてくださいね。


「ッ!?」

「あらどうかなさいましたか?」

「いや……なんか今、寒気が……」


 さすがですわね。勘もよろしいようで。

 でも一度手を差し伸べたのですから、最後まで責任を果たしてもらいますわよ。

 ふふふっ。逃がしませんからね。



 いつか私の魔王様。




 遠くない将来。この国は魔王軍によって一番最初に滅ぼされた国として歴史に名を刻む。

 魔法を操る魔王の絶対的な力量の差に加え、魔王の元には数多くの種族が雑多に集い、王国騎士以上の錬度を見せて圧倒せしめた。

 そして同時に、圧政に苦しんでいた民が解放された喜びを知る歴史的瞬間ともなった。


 勝利を得た魔王。その時の光景が描かれた絵画には、魔王の傍らに銀の髪をした美しい娘が寄り添うように立っていた。



 そんな亀裂が広がり、既存の殻が砕け、あまねく世界に魔王の武勇が広まるのはもう少し先のお話し。



簡単に裏設定。


毒婦(レベッカ)は転生者。

駄女神様のずさんな魂管理でこの世界に転生してしまい、それによって世界に混乱を招き、悪影響を及ぼしてしまうビッチ。

それを収拾するために無理やり晃が使わされた。


すぐ近くに元凶がいたのだが気が付かなかった晃は、後になってソフィアからレベッカのことを聞いて羞恥に悶えることとなる。



~オマケその後の一幕~


アキラ「おいソフィア、お前ちょっと匂うぞ。まずは行水でもした方がいいんじゃないのか?」


ソフィア「な、なな、乙女に向ってなんてこと言うんですか! 貴方にはデリカシーというものがないのですか?!」


アキラ「ない! そんなもの母親の胎内に置いてきた!」


ソフィア「偉そうに言うな!」


 ブンっ


ソフィア「……どうして逃げますの?」


アキラ「殺気を感じたら普通避けるだろ! なんだよブンって、風切音がおかしいだろ!」


ソフィア「それを受けるのが殿方としての器量というものでしょう。たかだか女の張り手ぐらい甘んじて受けなさい」


アキラ「ふざけんなっ、女の張り手ってレベルじゃねえよ! そんなもん受けるぐらいだったら俺は狭量な男で十分だ!」


 ザザッ


アキラ「なに! 回り込まれただと!?」


ソフィア「知りませんの? 悪役令嬢からは逃げられませんのよ」


 ドパンッ


アキラ「痛い……」


 こんなやり取りがあったかもしれない。



おかしい。衝動的に書いたけどこんなはずじゃなかった。もっとざまぁな感じにするつもりだったし、短い予定だった。それなのに予想以上に長くなってしまった……

なぜこうなった?

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― 新着の感想 ―
[一言] 私も外伝的な短編書きたくて検索してたら発見しました。面白かったです
[良い点] こちらの話も面白く楽しんで読ませていただきました ……2回ほど [気になる点] 誤字脱字など 可笑しくてついつい笑ってしいましたが→笑ってしまいましたが 婚約者であった私が何度嗜めよう…
[一言] 抹消対象スルーしてるが、気付くための特典とかはなかったのかな? きっとなかったんだろうなぁ(笑) あと誤字 いちよう→一応、ですね
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