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物言わぬ鏡

 わたしが本当にザルツの妻となった翌朝、渋る彼をなだめながらわたしは自分の部屋に戻った。以前のことを思い出したのだ。進展があったにも関わらず、なにも報告がないとすねていた、つまり、わたしを支え続けたくれた彼のことを。


 なんだか、少しのうしろめたさと、そしてどきどきとはやる興奮とがないまぜになりながら、自室の扉をそろりと開ける。部屋に入って鏡を見ると、そこには艶めく肌の女が映っていた。

「…顔色がやけにいいわね」

 その理由もすべて知りながら、気恥ずかしさをごまかすようにそう呟く。いつもだったら、このあたりで少年が鏡の中に現れて、にやにやとした笑みを浮かべながら、「ん?どうしたのさ、王妃サマ」なんて語りかけてくるところだ。


 そう、いつもだったら。


「…カガミ?いないの?」

 問いかけても、鏡の向こうからはなんの返答がなかった。こんなことは今までに…つまり、あの少年が現れたあの日からは一回だってなかったのに。

「カガミ?まだ寝てるの?あんたってばそんなお寝坊さんだったかしら?」

 先ほどまでとは違う心臓の早鐘を聞きながら、わたしはからかうように口を開く。そう、まだ朝早いから。だから、きっとあと数刻後には、「いっつもお寝坊なのはどっちだよ」なんて生意気な口をきく彼が現れるはずだ。


 現れてはずよね。お願いよ、現れてちょうだい。あなたは、いなくなったりしないわよね、カガミ。


 心の中で懇願する。口に出したら真実になるような気がして、なぜか言葉にできなかった。今までだって、この鏡を抜け出してふらふらと(どういう原理だかわからないけど)探索していたこともあったじゃない。そうよ、きっと朝の散歩にでも出ているんだわ。だから、もう少し時がたてばきっとすぐに彼は戻ってくるわよ。


 わたしの願いとは裏腹に、鏡の精の少年は、朝食の支度ができたと侍女が呼びに来ても、そしてその朝食を終えて自室に戻ってきても、鏡の中に姿を現すことはなかった。


***


 心の中のもやを晴らすことができないまま自室の中をうろうろとしていると、再び侍女が扉をノックした。聞くと、ザルツが呼んでいるのだという。わかったわ、と答えて、一瞬のち、昨夜のことを思い出して急激に頬が紅潮した。

 しかし、要件はなんだろう。呼ばれた先はまさか寝室ではあるまい…とはしたない考えが浮かんでしまい、ぶんぶんと頭を振った。 そして、ようやく思い至る。きっと、昨夜の…つまり、白雪とロッシュ皇太子の件だ。

 

 こういう時、王妃は…そして、白雪の母親は、どういった服装で行けばいいのだろう?どのように娘と、そしてきっと彼女を愛しているであろう少年と向き合えばいいのだろう?


「ねえカガ…」


 鏡に向かってそう呼びかけて、しかしそこに映る自分の姿を認めて、自分の愚かさに呆れた。


 彼が今、なぜここにいないのか。そして、どこにいるのか。気にかかることはいくらでもある。本当は、不安でたまらない。これまで、彼がわたしの背中を押し続けてきてくれたのだ。わたしが王妃として、ザルツの妻として存在することができるようになったのも、すべて彼のおかげだから。


 彼は、私のコーチで、母親で、先生だった。


 しかし、何より、あの生意気で、口達者なあの少年は、かけがえのない親友になっていた。


 だから。


――引きこもりやめなよ。不健康一直線だよ。病は気からともいうし、まずはそこから改善しよう。

――ねえ王妃サマ。あんたが王サマに言いたいコトって、どんなコト?聞きたいコトは?文句も、注文も、お願いも、いっぱいあるんじゃない?

――何があっても、だれがキミを傷つけようとしても、ボクは味方だから。

――魔法の鏡の精が本心から告げてあげる。あんたはとても美しい。

――がんばりなよ。


 彼は、わたしに一歩踏み出す勇気をくれた。彼が、わたしを暗く、陰鬱な部屋のカーテンを開けて外の光の素晴らしさを教えてくれたのだ。

 だったら、わたしは、彼のその教えを翻すわけにはいかない。わたしは、もう自分の足で立ち、自分の頭で考え、そして自分の口で言葉を紡がなくてはならないのだ。鏡の精を頼るのではなく。


***


 それから数刻後。わたしは自室に戻ってきた。


 つい先ほど、接見の間でわたしたちは白雪、そして隣国のロッシュ皇太子との面会を終えた。昨晩のことを叱ったわけではない。ザルツは、娘とその友人に対する態度ではなく、一国の王として、隣国の皇太子に対する態度で面会したのだった。


 その意味に気づいたロッシュ皇太子は、緊張に震えながらも、きっぱりとザルツ、そして白雪に告げたのだ。


「私は、白雪姫を愛しています。彼女を、どうか私の妻として迎え入れることをお許しいただきたいのです」


 白雪は泣いて喜んだ。威厳ある国王陛下を演じていたザルツは彼女のあふれ出んばかりの喜びに気おされ、少し態度を崩さざるを得なかったほどだ。しかし、そこは元来の気難し屋。まだ年若い皇太子と愛娘の婚姻をおいそれと認めるわけにもいかない。婚姻自体は白雪が15を迎える2年後にすること、そしてそれまでは今まで通り、自国で勉学や修練に励み続けることなどを誓わせていた。


「とうさまのケチ!すぐにでも一緒になりたいのに!」


 白雪はそう反抗していたけれど、昨晩のことがあるからだろう、そう強くは出れないようだった。わたしが接見の間を出ると待っていたらしい彼女が、わたしに近寄ってきた。


「かあさま、昨日は心配をかけて本当にごめんなさい」

 美しいかんばせを曇らせて、白雪はそう謝る。わたしの右手は、なんのためらいもなく彼女の美しい漆黒の髪を撫でた。これまでだったら、きっとできなかっただろうその行為に、わたし自身が驚いてしまう。しかし、白雪はくすぐったそうに、顔をほころばせた。


「あなたは、わたしの大事な娘よ。これからも、ずっと。だから、どうか幸せになってね」

 わたしがそう告げると、白雪はうるんだ瞳で微笑んだ。

「かあさま、あたし、とうさまとかあさまが大好き。2人の娘で、本当によかった」


***


「そのあと、ザルツが接見の間を出てきたんだけどね。眉間にこーんなにシワを寄せちゃって。あの時の表情ったら、本当に面白かったわ。本当に娘のことを溺愛しているんだから。そうとは見えないくせにね。やっぱり国王も父親ね、娘が嫁ぐのが寂しいんだわ」


 不機嫌そうな、そしてどこか寂しそうなザルツの様子を思い出すとなんだかおかしくて、つい口元が緩んでしまう。わたしはその時のことを思い出しながら、鏡に向かって面白おかしく説明した。


――へえ、よかったね、王妃サマ。あんたの顔、とっても楽しそうだよ。


 そんな風に返してきそうな少年は、しかし、姿を一向に現さない。鏡に映るのは、数か月前よりもずっとずっと綺麗になった女だけだ。

 

 王に愛されず、継子を憎み、部屋にひきこもって継子を呪う陰険で邪悪な王妃様。そう噂されてきた女は、今やその陰もない。

「ほら、見てよカガミ。あんたの成果よ、誇ったらいいわ」

 軽口を叩いても、鏡の中からは何の声も聞こえない。


 自分の足で立つと決めた。それは、彼がわたしに教えてくれたことだから。だけど。


「わたし、まだ、あんたにちゃんとありがとうも言ってないわ…」


 だけど、今だけは、泣くことを許してほしい。ぬぐってもぬぐってもあふれ出る涙を、「泣くと化粧が崩れるよ」と小生意気に慰める声が、もう聞こえないから。

大変、大変長らくかかってしまいました。お読みくださっていた方々には、申し訳ございません。


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