少年の日の思い出
はじまりは、とても些細なことだったのだと、今にしてみれば思う。
昔から、自分の感情を表現することが得意ではなかった。嬉しい。悲しい。悔しい。楽しい。寂しい。好き。嫌い。欲しい。いらない。それは、王としていずれ立つ自分になされた教育のたまものであったのかもしれないし、あるいは、生まれ持っての性質なのかもしれなかった。本当はたくさんの感情が心の中にあったけれど、彼は、いつもそのたくさんの気持ちにふたをすることを覚えていた。
ザルツは、子供にしてはひどく達観した様子の、扱い難い王子だった。
そんな彼に、少しでも人間らしさを与えようと思ったのか、あるいは気まぐれなのか。国王とその王妃は王子と歳の近い貴族の子供たちをたびたび城に呼んでは、ザルツと一緒に遊ばせた。
「ザルツさま。こちらを差し上げますわ」
「王子。ぼくの贈り物も見てください」
しかし、ザルツはその時間があまり好きではなかった。たいてい貴族の子供たちは、親からザルツの機嫌をとるようきつく言い含められていて、いつも彼になにかを差し出そうとしたり、あるいはその見返りを求めようとしていた。にこやかなその作り物めいた笑みに、ザルツは吐き気すら催した。
ただ。
「おい、ザルツ!これ見ろよ!お前も知ってるだろ、うちのオヤジ。ひひ、似てるだろ」
何が楽しいのか知らないがいつも愉快そうに笑う同い年の少年のことは、嫌いではなかった。アルノーという名の少年だ。今日は地面に書いた彼の父親の似顔絵に腹を抱えて笑っている。
「……ラドラック男爵は、もう少し、その……頭髪があると思うが」
「えー?そうか?ほら、この辺のおでこのあたりとかそっくりじゃねえ?」
彼が指す箇所をまじまじ見ていると、横から別の声があがった。
「ほんとう!そっくり!」
「だろ!ほら、こいつもそういってる」
ザルツの横にはいつの間にか小さな女の子がいて、にこにこと笑っていた。彼女もまた、アルノーと同じようにいつも楽しそうにしている少女だった。
「ザルツ、またおでこにシワができてるわ。そんなんじゃすぐにおじいちゃんになっちゃうわよ」
「そんなわけないだろう」
「そんなわけあるもの。あ、そうだわ、ねえ、今から遠乗りしましょう!ね、いいでしょザルツ!きっと気持ちいいわよ、おでこのシワだってどっかにいっちゃうんだから!」
ぱん、と少女が手を打って提案すると、アルノーも「賛成!」と声をあげる。ザルツは難しい顔をして……そして気づかれないように眉間のシワに触れながら、はあ、とため息をついた。
「お前は馬に自分一人で乗れないだろう」
「うん、だから、また一緒にのせてね」
彼女が、無邪気に笑った。
アルノーも、そして5つ年下の少女も。彼らはとても素直だ。素直で、明るくて、笑ったり泣いたり、自分の欲求に正直だ。困らせられることもあったが、ザルツはそんな2人と過ごす時間が嫌いでは……気持ちに嘘をつかなくていいのであれば、好きだった。
「馬に乗るの、楽しいね」
前に乗った少女がいう。表情は見えないが、きっと流れる風景に楽しそうに瞳をきらめかせているに違いない。
「そうか、それならまた乗せてやるし……自分で乗れるように、教えてやろう」
小さく答えたザルツの声に、ふふ、と少女は嬉しそうに笑った。隣に馬をつけたアルノーは「俺も呼んでくれよ!」と主張していた。それに少女が声をたてて笑う。和やかな場に、いつしか、ザルツも口元をほころばせていた。
ザルツは、2人が好きだった。
だから少年は親友になったし、そして、少女は、彼の想い人になった。
***
再婚を周囲に勧められたとき、一番最初に浮かんだのは、彼女の顔だった。
いや。彼女のことを忘れたときなど一日たりともなかったのだから、浮かんだ、などというのはうそだ。子どもだった当時は、政略結婚をするしかなかった。そのために彼女を妻にすることが叶わなかった。でも、今は違う。ザルツは王になった。誰も彼に反対することなどできない。
ただ、懸念はあった。自分の失態だ。最初の結婚をしたころ、政略結婚に荒れて彼は周囲に八つ当たりしたのだ。そして、笑顔で祝いの言葉を述べてきた彼女自身にも、ひどく冷たい言葉をかけてしまった。
好きな女に、思いを告げることも許されないままほかの女との結婚を祝われる。こんなに心がつらくなることがあるだろうか。思い返せば自分の態度は最悪で、許されることでもないが、あのころは、ザルツもまだほんの子供に過ぎなかった。
結婚式当日。久しぶりに見た彼女は、美しかった。彼女は控えめで、それでいて作り物ではない笑顔を相変わらず見せてくれた。自分はやはり、彼女のことが好きだと、そう確信する。
祝いの宴も終わりに差し掛かったころ。風にあたってくると、ザルツは少し席を離れた。もうすぐ好きな女性が自分のものになるのだと思うと、年甲斐もなく、そして自分の柄にもないのに心が浮かれたのだろうか。昔自分の感情が抑えきれなくなるといつも来ていた西塔の屋上に、何年かぶりにのぼった。
「……」
壁によりかかると、下の中庭に人影が見えた。それがたとえば見回りの兵士や、宴に出席している貴族だったら、彼は気にも留めなかっただろう。
しかし、その2つの人影は彼にとって見覚えがあるもので、じっと目を凝らしたのも仕方がない。
自分の妻と、そして自分の親友。
女は、悲しげな表情で何かを男に告げる。男が、彼女の肩に優しく手をかける。女は、涙を流していた。
ザルツは、再婚するにあたって調べさせた時に聞いた情報を思い出した。ラドラック男爵家の長男の縁談の話。それはまだ正式なものではないが、2人は幼馴染で、とてもよくお似合いだと評判なのだと。これほどまでにいい縁組はそうそうないと。
ザルツは、そんな情報を聞いていながら、耳をふさいだ。正式な縁組がまだなのなら、問題は何一つもない。
何一つもない、はずだった。
ザルツの頬に、あたたかいものが流れる。涙なんて流したのは、十何年ぶりのことだっただろうか。




