206号室 榎木ヒサギ File1
「ははぁ、それにしても、人生つまんなそうな顔してますね、リクさん」
この、話の最中にも関わらず唐突に年上の男性を罵倒してきた女子高生は、榎木ヒサギという。
長い茶髪のおさげを首の横から前に出して、時々そのおさげを手で弄くるのが癖の、明るく活発な女の子だった。
明るく活発、というか、人生つまんなそうにしているらしい僕とは正反対に、人生を謳歌しているような、常に楽しそうな笑顔を浮かべている子だった。
彼女は僕達マリナキクナが事務所を構えるマンションの住人であり、今日は依頼があって訪ねてきたらしいのだが、その話をしている最中にそんなことを言われれば、例え相手が客だろうと、顔が引きつるのは仕方のないことなのだろう。
「あ、やっぱ怒りました? 駄目だなぁ、そういうのをネタにしないと、いつまでも人生楽しくなんてなれないっすよ?」
「……で、依頼の話だけど、榎木さん」
「やだなぁ、もう。無視しないで下さいよ。それと、私のことはヒサギちゃんでいいって言ってるじゃないっすか。なんならひっさーでもいいっすよ? これ、学校んときの私のあだ名なんすけど」
「依頼の話だけど、榎木さん」
今度はやや語感を強めてそう言った。この子のペースに巻き込まれるワケにはいかなかった。というか、そういうのはマキで間に合っている。
いや、そういうのが欲しいワケじゃないんだけどさ。
「えー、またしても無視っすか。この前マキさんと話した時なんか、すぐにヒサギちゃんって呼んでくれたのに、まったく、あの所長にしてこの副所長ありですね」
「君、意味解ってないで言ってるだろ」
両方貶す言葉だそ、それは。
僕がそう返すと、彼女――ヒサギちゃんは満足そうな笑顔をより一層強め、体を今座っている客人用のソファから机に前のめりの姿勢へと変えた。
「わざとっすよ。リクさんって、マキさんのことになると無視しないから」
「……で、依頼っていうのは、学校での出来事のことで良かったっけ、ヒサギちゃん」
「わ、名前で呼ばれた」
わざとらしく目を丸くするヒサギちゃん。
「そうしないと君が話を進めないからだろう」
「あはは、まぁそのつもりでしたけど。――あれ? それはそうと、そのマキさんは今日いないんすか? そういえばナナさんもいないっすね」
「ああ……今日は二人とも別件の依頼でね。僕は待機」
「え、待機? サボりじゃなくて?」
そう言われて、流石に苛ついた僕は露骨に舌打ちをしてヒサギちゃんを睨む。
しかし彼女は特に反省している様子もなく、愉快そうな笑顔で「冗談っすよ、冗談」と言うだけだった。
……舐められているんだろうか。
僕は、一つ深めの溜息を吐く。
「……一応僕の名誉の為に言っておくけど、サボりじゃないから」
と、ここでヒサギちゃんは机に前のめりになっていた体勢から、ソファにもたれる形に直していた。
首の横から前に出しているおさげを指で弄くりながら、彼女は言う。
「だから解ってますって。こうして私と駄弁ってくれてるのも、お仕事だからなんすよねー」
「まぁ、そういうことになるのかな。っていうか、駄弁ってる自覚があるならさっさと進めてくれないかな、話」
「ふふ、リクさんって、ハッピーエンドかバッドエンドかで観た映画の評価してるでしょ」
「いきなり何の話?」
「映画を観ようって基準のポイントがそこって話っすよ、リクさんは」
なんだろう、ヒサギちゃんの言っていることがなんとなく解らない。全くもって理解出来ないというわけでもなく、ただ、だからこそなのか、ここで七歳下の女子高生に「どういう意味?」と聞き返すのは妙に憚られた。
いや、もしかすると、この話こそがその本題とやらなのかもしれない。
「さぁ、どうだろう。僕自身あまり映画は観ないから」
「自覚がないだけで、絶対そうっすよ。バッドエンドなら評価悪くて、ハッピーエンドなら評価高い。あ、リクさんなら逆もありえるかも?」
そう言って、ヒサギちゃんはクスクスと笑い声を漏らす。
「流石に怒るよ?」
「やだなぁ、もう怒ってるくせに。けどまぁ、要はそういうことっすよ。結果重視、如何に劇的で感動的なバッドエンドでも、バッドエンドであるが故に評価は軒並み下げられてしまう」
逆もまた然りっすね、とヒサギちゃんは続けた。
「劇的で感動的なバッドエンドを、僕は知らないな」
「私も知らないっす」
あはは、とヒサギちゃんは笑う。
……ほんと、この子は。
「バッドエンド作品なら幾つか知ってますけど、そういうのって、絶対に救いが残ってるんすよねぇ。バッドといいつつ、全然悪い終わり方じゃないし。そういう、完全な絶望感に包まれたバッドエンドは知らないっすよ。けどまぁ世界広しと言いますし、どっかにはあるんじゃないすか? そういう終わり方も」
「どんなに感動的でもバッドエンドなら評価は軒並み下げられてしまうんだろう? そんなのを作る物好きがいるとは思えないな」
「ふふ、リクさんはB級映画を知らないようっすね」
「名前だけなら知ってるけど、いざ説明しろと言われたら自信が無いな」
「でしょう? 私もっす」
じゃあ言うなよ。
「いや、まぁでも、監督がやりたい放題して作った映画がそう呼ばれてるんじゃないすか? あと予算が凄い少ないとか」
「ああ、漠然とだけど、確かにそういうイメージだね」
「だから、そういうとこを探していけば、見つかる筈っすよ」
「君はそんな、感動的なバッドエンドを見たいのかい?」
「ん? ああいや全然? 胸糞悪いじゃないっすか、そんなの」
「……」
本当に、何が言いたいのか解らない。初めて喋った時から変わった子だという印象は抱いていたが、自分からその話の種を振っておいて、自分からその種を胸糞悪いと言う。
結局、この話がヒサギちゃんの依頼に繋がっているのかどうかも解らないまま、僕は彼女の駄弁りに付き合わされていた。
「それにほら、最初に言ったっすよ。結局バッドエンドなら評価は下げられるんです。で、私が言いたいのはその逆」
「つまり、どんなに端的でつまらなくても、ハッピーエンドなら評価は軒並み上がる?」
なら最初からそっちをクローズアップすれば良かっただろうに。
「まぁ、少なくともさっきのバッドエンドよりかは上がるんじゃないすか?」
「……ああ、君が何を言いたいか、段々解ってきたよ」
「え、やっとっすか? っていうか解ってなかったんすか?」
真剣に驚いた様子で、ヒサギちゃんは目を丸くした。物凄く馬鹿にされているような気分だった。実際、馬鹿にされているのだろうが。
とにかく、彼女の発言はスルーして、僕は続ける。
「世間の評価は、基本的に結果重視だね。それが嫌なのかい?」
「うん、まぁ、解りやすく言えばそうっすよ。リクさんにしたってそう、過程をもっと大事にしましょうよ」
「僕?」
なんで突然僕に矛先が向くんだろう。
ただそれは少し考えて、すぐに答えが出た。単にさっきから僕が話を急かそうとしていたのが気に食わないだけだったのだろう。
「ああ……、いや、僕の場合はその過程にすら到達してなかった気がするけど」
「駄弁りも大事な過程っす」
と、そう言ってからヒサギちゃんは机の上に置いてあった客人用の麦茶を一気に飲み干した。
それから、げっぷを誤魔化す為の一回の咳払い。
「来月、文化祭があるんすよ」
「うん、それで?」
ようやく本題に入ったことは、容易に察することが出来た。
「クラスで催し物をやるんすけどね。連中のやる気がないんすよ。無いっていうか……そうっすね、なぁなぁで済まそうとしてる感じ? 皆で盛り上がりたい、だけど準備とかそういうのは面倒臭い。そういう奴らばっかなんすよ」
「それは……なんというか、面倒臭いね」
「でしょう? でもまぁ私もそれとなく諭したりするわけなんすけど、あいつら挙って言うんですよ、終わり良ければ全て良しだ。って、まるで、免罪符のように」
本来その言葉は、本当に物事が終わった時に使う言葉の筈だ。それでは終わりが良くなること前提で話が進んでしまっていて、良くない。
何にしろ、終わり方を良くしようとする行動を取らないと、決してハッピーエンドにはならないのだから。
「それを何とかして欲しいっていうのが依頼なのかな」
といっても、公立高校に何の関係もない他人が入れるワケも無さそうなので、僕が出来ることといえば限られていそうだ。
「まぁ、そうっす。人生の先輩として是非、アドバイスみたいなのを貰いたいんすけどねぇ」
「……ふむ」
正直、僕の高校時代は黒歴史みたいなものだし、あまり思い出したくはないけど、僕らの時の文化祭は、思えば今のヒサギちゃんのクラスとは真逆なようで、物凄く似ていた。
終わりを良くする為に、必死になり過ぎていた節があったのだ。
あれがこうだ、これがどうだ、それは違う、でもこいつはあれだ。
と、真剣に議論しているからこそ結論が出なかった。皆が満足する結果を出さなければ意味が無いと言って、結局誰も満足出来ない結果を出した。
劇的でもなんでもない、ただのバッドエンドだったのだ。
当然そんな結末じゃない文化祭もあったが、もう五、六年前の出来事だ。漠然とした記憶しか残っていない。
「問題は、そのクラスの子達が、必ず終わりは良くなると思い込んでいることだね」
「そうっすね、まぁ物は捉えようなんでしょうけど、その、何とかなるだろうっていう楽観的な見方を何とかしたいです」
「ちなみに、催し物は何をするの?」
「劇っす」
「劇?」
今の学生も劇とかするのか、僕らの時代すらも、もう時代遅れな感じがしていたのに。
「――端的でつまらない、だけどハッピーエンド、そんなありふれた劇っす」
そう言うヒサギちゃんの表情は変わらず笑顔のままだったが、しかしどこかつまらなさそうな、そんな口振りだった。
そんな彼女の変化に気付かないフリをしつつ、僕は話を進める。
「ふぅん、自作?」
「そうっす、なんで解ったんすか?」
「いや、何となくだよ」
ただ何となく、ヒサギちゃんが既存の童話なり物語をそんな真っ向から批判するようには思えなかったから、聞いただけだった。
「自作って言っても、私が作ったんじゃないっすよ? クラスに童話好きの奴がいて、劇やるーって言ったらそいつ、脚本作って来たんですよ。こちとら既存の童話演る気満々だったのに」
「段々愚痴になってきたな」
「おっと、これは失礼。そんなつもりは無かったんすけど」
「まぁいいよ、でもそれなら、単にやる気の問題なんじゃないのかな。そんな素人が作った脚本じゃ、やりたくないって人もいるだろう」
「そうでもないっすよ。脚本を持って来られた時は、確かにクラス皆戸惑いましたけど、中身的には大部分から評判良かったし」
「どんな内容でも、ハッピーエンドなら評価されるってやつか」
「そういうことっす」
「……ヒサギちゃん、今君は大部分と言ったけど、君も含めて何人、その内容を評価しなかったのかな」
「ん、あー……そう来るんすか……参ったな」
別にヒサギちゃんを困らせようなどとは思っていなかったのだが、僕の質問を受け彼女は目線をずらし、自分のおさげを指で弄る。
「その大部分っていう言葉は撤回っす。もしかしたら私以外の全員かもしれないし」
「解らないのか」
恐らく表面上はヒサギちゃんも含め、その脚本を評価したのだろう。
……いや、この子が人に合わせるなんて野暮なことを本当にするんだろうか。長い付き合いでもないけれど、なんだかそんな気がしてならない。
「そんなもんですよ、集団生活なんて。過半数取れれば、他の過半数以下の連中は合わせるしか無いんす。そうやって、下手な荒波を立てないんすよ」
まぁ、私はそんな暗黙のルールなんて、知っちゃこっちゃないですけどね。
ヒサギちゃんはそう続けて、いやらしく笑い声を上げて見せた。
「……やっぱり」
「やっぱりって?」
「君は、他人に合わせるなんてしなさそうだと思ってたんだ」
「やだなぁ、私は私がしたいことをしてるだけっすよ。そっちの方が楽しいって、思ったことをしてるんす」
「なら、その時もそう思ったの?」
「あの時は、どっちかっていうと逆っすね。あの脚本でやるのは嫌だったから、意見しただけっす。私の言うように、既存の童話を劇にしても、本当に楽しくなる保証なんてどこにもないでしょう?」
それが解っていながら、一人否定意見を出したというのか。
「でも結局は多数決で、その脚本で演ることになったんだろう?」
「ええ、それで、今に至るってワケです。大道具とか、衣装とか、やること結構あるのに、ほぼ手付かずなんすよ」
終わり良ければ全て良し。ここで僕は、ヒサギちゃんのクラスメイト達が免罪符に使っているその言葉を思い出した。
彼らの言う終わりとはなんだろう。
劇の幕が閉じた時だろうか。
彼らがそれに満足した時だろうか。
――はたまた、一人否定的な意見を出したクラスメイトを、皆で説得した時なのだろうか。
彼らが良しと思った瞬間が終わりだとするなら、まだ始まってすらいないのに、もう彼らの中では終わっているのだとしたら――
話が飛躍し過ぎている。僕はそう思って、自分の思考を中断した。
「私的には、端的でつまらないハッピーエンドをやるよりかは、劇的で感動的なバッドエンドの方がマシだったんすけどね。やっぱり世間一般的に、評判良いのはハッピーエンドなんすよ」
「君はクラスメイト達に、そう言ったの?」
「そうっすよ」
……ああ、成る程。なんとなくだけど、解った。
「それが、原因かもね」
僕は一つ溜息を吐く。
その後、僕はヒサギちゃんにあることを問い掛けて、この話は解決へと向かった。
解決、というよりも、最初から問題にすらなっていなかったのだろう。解決出来ない問題は、問題とは言えない。ただヒサギちゃんが、オリジナルの脚本に否定的な意見を出したが故に、クラスメイト達は気付いたのだった。
この話は、なんてつまらないのだろうと。
一ヶ月後、僕はマキとナナに連れられて、ヒサギちゃんの通う高校へと来ていた。
その数日前、ヒサギちゃんが事務所に来ては文化祭の話をマキと嫌というほど話し、ご丁寧に招待券を三枚置いていったせいだった。
ヒサギちゃんのクラスが演じる劇は、僕達が体育館に入った頃には既に始まっており、人はそれなりに混んでいた為、立って見ることになった。
劇の題名は、ロミオとジュリエット。
――悲劇。
僕はあの時、劇的で感動的なバッドエンドなんて知らないと言い、ヒサギちゃんもそれに同調したが、なんてことはない、ヒサギちゃんは知っていたのだ。劇的で感動的なバッドエンドは存在し、悲劇という一つのジャンルとしてすら確立されているということを。
ただそのロミオとジュリエット、原作と違う点が一箇所だけあった。
それが一ヶ月前、僕がヒサギちゃんに聞いた質問内容であり、クラスのやる気を削いだ要因。
ハッピーエンドだった。
本来ならジュリエットとロミオ、二人とも死んで劇は幕を閉じる。この劇はそのシーンの後、何かワケの解らない光が二人に降り注いだかと思えば、二人は生き返り、互いに抱擁し合い、ナレーションは二人がその後幸せな家庭を築くことを告げ、そして幕が閉じた。
その瞬間、劇的で感動的なバッドエンドの名作は、端的でつまらないハッピーエンドの駄作へと変貌したのだと、僕は感じた。
作中の設定、台詞、人物関係、全てが台無しになり、その全ての意味が無くなっていたのだ。ただ二人が生きて幕が閉じるというだけで、あの有名な台詞も、とても軽々しく感じられた。
ヒサギちゃんのクラスメイト達も、それを自覚してしまったのだろう。大道具も、衣装も、作りはとてもじゃないが作り込まれているとは思えない出来で、幕の前に現れてはお辞儀をしている面々の顔ぶれも、何だかパッとしていなかった。
ただ、幕が閉じている間も、彼らがお辞儀をしている間も、客席から絶え間無く拍手が鳴り響いている事実を、彼らも、僕も、ヒサギちゃんも、認めなければならないのだろう。
「リクくん、無理矢理連れてきたこと、まだ怒ってるの?」
劇が終わって構内を三人でうろついている最中、ふと隣を歩くマキに問い掛けられる。
「……別に、そうじゃない」
確かに僕は怒っていた。ただマキに無理矢理連れて来られたことに関してはもうそれほど怒っているわけでもなく、ヒサギちゃんの劇の内容にしたって、一ヶ月前にネタバレを受けていたため、すんなりと受け入れられた。
なら僕はどうして怒っているのだろう。
考えられる原因があるとすれば、それはあの劇のジュリエット役が、ヒサギちゃんだったからに違いない。
マリナキクナ 依頼ファイル No.13 完