練習
喋れるっていい。
会話の練習は一からやり直しになったが、格段に言葉が分かるようになった。
ここ数日は境界線を越えたところでシャル相手に練習している。
喋れないという事は、やはりストレスだったらしい。
サクラの顔が明るくなったとバスダックが言っていた。
鼻歌を歌っていたサクラは、ふと棚に仕舞ってあった自分のコートのポケット探る。
指先に冷たく硬いものがあたって思わず笑みがこぼれた。
取り出した手のひらには音叉。
それで軽く膝を打って耳に当てると、久々の感覚が蘇ってくる。
サクラは音楽に対して雑食だ。
歌声も楽器も電子音も、気に入ればウォークマンにいれて覚えてもなお聴き続けていた。
あの日は雪の降る音を聞こうと思って外に出たので、部屋に置いてきてしまったのが悔やまれる。
音叉はたまたま楽器屋で見つけて、なんとなく買ってしまった。
絶対音感なんて必要ないと思っていたが、これがあれば「ラ」の音が分かる。
いつ聞いても変わらない音を聞くと心が落ち着いた。
(―――― そうだ)
「失礼しまーす…あら?」
「リュカ、早く入って」
「お嬢様がいないわ」
「書置きは?」
このところ毎日お嬢様はどこかへ姿を消している。
必ずといっていいほど、たどたどしい筆跡ながら書置きをして言ってくれるのがありがたい。
「えーと…あら、カイエ様のところかと思ったら」
「散歩ね。お一人で行かれるなんて珍しい」
「でもこれ、安心するから探さないでって書いてあるんだけど…」
「多分、心配ないからって書きたかったんだと思うわ」
なるほど!とリュカは手を叩いた。
「じゃぁお掃除をしてお茶の用意ができても帰ってこなかったら探しに行こうね」
「そうね」
窓を開け、ベッドを直したり床を掃いたりしていると、何か変な音が聞こえた。
「?」
「どうしたのシャル」
「何か聴こえない?」
動きを止めてじっとしていると、その音はどんどん高くなり、あるところからどんどん低くなっていく。
何回かそれが繰り返された後、音は消えた。
「な…なんか怖い!」
翌日も、その次の日も気がつくとあの音がする。
「お嬢様ぁぁぁっ!どこ行ってたんですか!あの音聞きましたか!?」
今日の散歩を終えて部屋に戻ったサクラに、リュカがものすごい勢いで飛びついて来た。
「…音?」
「先日からどこかで得体の知れない音がするんです!まるで呻き声みたいな……魔物かもしれません!!」
くるり、と視線を上に向けたサクラは、気まずそうな顔になった。
「ごめん。それ私、たぶん」
「ええ!?」
「ア――ア――ア――ア――ア―――― これ?」
「え?……そうです!ど、どうしてそんな」
どうやら発声練習というのは普及していないらしい。
「のど、れん…練習?」
「喉の練習ですか?」
「うん、たくさん練習、大きい、声出る」
「大きい声…そうだったんですね!よかったぁ、てっきり私はまた魔物でも現れたかと」
「……まもの」
リュカの目が泳ぐ。
「あっあのっ申し訳ありません!その、得体の知れない、という比喩で……どこで練習してらしたんですか?」
「フェスティ」
「あー、お嬢様お気に入りの樹ですね。ここで練習するんじゃダメなんですか?」
「うるさい、は、困る。カイエが」
「カイエ様なら大丈夫ですよ。聞こえませんから」
「聞こえる」
硬い発音が更に硬くなったことにリュカは目を瞬いた。
「カイエ、音、聞こえる。まいにち、夢、だけ、まちがい」
「そうなんですか?」
やや戸惑い気味の表情にもサクラはじっと瞳を見つめて譲らない。
「分かりました!では、今度お嬢様に ――― 」
「リュカ」
「はい?」
「サクラ。サ・ク・ラ、呼んで」
「あ、申し訳ありませんついつい」
この元気な侍女はどうしてもお嬢様が抜けきらないらしい。
「決して忘れているわけではないんですよ?初めてサクラ様が私の名前を呼んでくださった時も嬉しかったんですが、お名前を教えてくださった時は本当に感動しました!!」
「……」
サクラが変な顔になった。
「サクラ様?」
ふるふると首を軽く振った表情はどこか暗い。
それ以来、彼女は名前を呼ぶことを指摘しなくなった。




