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書庫にて


「バスダック、いい?」

ノックの後、書庫の扉が薄く開いて声の主が頭だけ姿を見せた。

「これは姫巫女、ご質問ですかな?」

入室を促されてサクラがバスダックのいるほうへ近寄る。

「うん、この印、なに?」

彼女が出した本の内容を見て、バスダックが少し目を見開いた。

「地図ですね…ああ、この印は井戸があるのです。こちらは灯台、これは連絡塔です」

「?」

「ここにもあるでしょう?通信機がついていて、見張り番がいるのです。何かあったら通信機を通して遠くの領地へも伝えることが出来るんですよ」

ほー、と感心する表情に幼さが垣間見えてバスダックは微笑んだ。

「ここ、くずれた」

「そうでしたな。新しい地図には危険箇所としてこの印をつけることになるでしょう。これにはとりあえず手書きで」

バスダック専用の、少し低めで大きい机。そこで書き物をしていたバスダックは、そのまま地図に手早くV字の印を書き込み地図をサクラのほうへ押しやった。

「姫巫女は、この老いぼれについては目を瞑ってくださっているようですな」

ぴくり、と朝薔薇色の髪の毛が揺れる。

「ゆっくりで構いませんので聞かせていただけませんか?…どうして人を遠ざけるのか」

「……」

「お茶を淹れましょう」


静かな書庫に、茶器の音だけが響く。この老人は、普通なら嫌われる水気を自ら持ち込んでいるのだ。

湯気がほんわりと上がるのを見つめていたサクラは、手渡されたカップのお茶を一口飲んで、細く長く息をついた。

「……人の、距離、上手くできない。慣れてない」

彼女は視線を地図に落ちたままだ。

「優しいは、怖い。嬉しい、は、苦しい」

「何故ですか?」

地図を走る、複雑にからみ合った線を指がなぞっていく。

「なかよし、別れ、今まで、上手くない、から……。困るの、は、なくていい」

バスダックはサクラの言葉を編むようにしてつなぎ合わせる。

「失うのが辛いと困るから、人の関わりを避けていらっしゃる?」

「…うん。私、起きない、知ってる……それに」

「それに?」


「キセキ、2こ、ないよ」


「…なんのことです?」

ふ、とサクラが不思議な微笑みを見せた。

「バスダック、ロジェノ、仕事、公平。宿木、わかってる。だから、平気」

「公平ですか」

「ロジェノ、おいでよ」

「……ばれてましたか?」

するりとロジェノが細く開いた扉から入ってきた。あまり悪びれている様子はない。

「盗み聞きとは行儀の悪い」

「申し訳ありません―――― あ、アルスラン様でしたら只今地方へ出ていらっしゃいますので心配無用ですよ」

「……ね、希望わかって、してくれる」

「なるほど、姫巫女は人を見る目がおありのようですな」

含みのある言葉にサクラが肩をすくめる。

「私は毎日、主と双子の針のむしろで板ばさみですけどね――――― いえ、構わないのです。私の何気ない一言にピリピリしているのを見るのは楽しいですから」

ヒドイ人だなぁ、とサクラは人事のようにロジェノを見ている。

「程ほどにしておきなさい」

「もちろんです。それにしても、姫巫女は案外繊細でいらっしゃる。いつもは無表情で通しているのは演技ですか?」

「ううん、もともと」

「素晴らしい。共感できます。私もこう見えて内側は繊細ですから」

「どこが」

「ああっ!…傷つきました」

(いつもと変わらない、得体の知れない笑顔で言われても…)

「ですが、この世界全体を愛していただくことはできませんか?少なくともそれが出来ないような方には見えませんが」

「うん。それは、いいよ」

「その全体の中に大事な人が散らばっていたら、もっと世界を愛せませんか?」

「んー…」

とたんにサクラが眉間に皺を寄せた。

胸元から分厚くなってきた紙の束を取り出すと、ぺらぺらと文字を探し始めた。

びしり、と指をさす。


『制御不能』


「分かるような、分からないような」

「いやはや…申し訳ありませんが、もっと詳しく教えていただけますかな?」

「というか、どこからこの言葉を拾って来たのか気になります」


仲が良いという事とは違う、人を愛するという事がよく分かっていないから怖いのだ。

その時自分が変わってしまうのではないかと思って不安になる。

それをよく表す言葉だと思ったのだが、残念ながら端的過ぎて難解になってしまったようである。

(もし、万が一、眠るのが嫌になってしまったら?)

まだ想像できない。

でもきっとそれは、この世界にとって迷惑な事には違いない。


沈黙の後、バスダックがのほほんとした声で呟いた。

「そういえば、このところフェスティの木の下で歌ってらっしゃる曲は、なんとおっしゃるのですか?」

「?」

色々あるので、どれのことを言っているのかよく分からない。

「荘厳な旋律で…物悲しい感じの曲も美しいのですが、もう少し柔らかく包み込むような」

言われるがままいくつか旋律を口ずさむと、バスダックが頷いて目尻を下げた。

聖母を歌う曲は色々あるが、そのなかでも最もポピュラーなシューベルトのアヴェ・マリア。

「その曲です。是非ここでお聞かせ願えませんかな?」

「へ?」

「ずっと気になっていたのですが、堂々と盗み聞きするのも気が咎めまして。一度でいいから一曲最後まで聞いてみたいのです」

そんな事言われても、聞かせるために歌っていたわけではないので戸惑ってしまう。

「それは是非。誠実かつ公平な私たちに、ご褒美というのはいかがでしょう?」

ロジェノの言葉は軽いが、からかっているような響きはない。


すぅ、と息を吸う静かな音の後、サクラは目を閉じて歌いだす。

歌い方はまったくの自己流で、音楽の授業でも本気で歌ったことなどない。

それがここに来て、頭を空っぽにして歌うことの心地良さにとりつかれていた。雑念が入ってしまいそうな自ら選んだ退屈な生活の中で、楽しみだと言ってもいい。

楽器になった身体に意識を集中すると、何かが見え、近づいてくるような気がする。


一瞬、比喩ではなく何かが寄り添ったような気がして薄目を開ける。

目の前を通り過ぎるのは綿毛のような光。

さっきまでそこにいた二人や整頓された本が消えて、フワフワとした光が近づいたり離れたりしながらサクラの周りを回っている。

その綿毛が意思を持っているのは明らかだった。

こんなことをするのは、他に思いつかない。

もしかしたら宿木だからわかったのかもしれない。


神様。


(……そっか、ほんとうにこの国のどこかにいるんだ)

嬉しさのあまり、微笑んでいることに気付かなかった。

歌い終わりの気配を感じてか、光が舞い上がり始める。


「……うわぁっ!?」

ロジェノの顔が間近に来ていた。

「な、な、なに?」

「ちょっと意識が遠い所にあったようですから」

確かに歌い終わったことをあまり意識していなかったが。

急速に戻ってきた回りの景色に一息つく。同時にバスダックも息を吐いた。

「……素晴らしい。本当に…お願いしてみるものです。貴女の歌声を聴けて良かった」

サクラには最大の賛辞だ。

「それにしても、最後のほうはどうなさったんですか?さっきの言葉が嘘みたいな……私まで呆けてしまうような笑顔でしたけれど」

「お美しいと言いなさい」

「もうすぐ…眠る。宿木の、時間」

「それは、何か感じるものがお有りで?」

サクラがしっかり頷くと途端に目の前の顔が引き締まる。

「準備、ある?」

「そうですね、禊と正装をご用意しましょう」

「では、私はその後の方を…」

ロジェノが足早に部屋を出て行く。

二人のこういう切り替わりの速さがサクラには丁度良い。


そして―――――― 

その日はあっという間にやってきたのである。



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