光が差す方へ
落ちる。
その感覚が体中を支配した時、叩き付けるように扉を開く音がした。そして聞き覚えのない男の人の叫び声が屋上に響いた。
「待つんだ!! カナデ!!!」
「!!?」
カナデが息を飲む気配がした後、私の落下する感覚が止まった。
私は片足だけを壁のふちに、かろうじて引っ掛けている状態だ。私を落ちないように手を力強く握ってくれたのは他ならぬカナデだった。カナデのもう一つの手は、屋上の手すりをしっかりと握りしめていた。
カナデは最初自分のしている事がわからない様子だった。それはそうだろう。自分が相手を落そうとしていたのに、その相手を助けているんだから。
一瞬、カナデはすごく悲しそうな顔をした。しかしすぐに表情を打消し、私の腕を引っ張り、私の体を屋上に引き戻した。
両足を地につけた途端、私はどっと汗が噴き出す感覚を味わった。両膝がガクガクと震え出し、膝から崩れ落ちてしまった。
初めて死を意識した。それだけでなく、りこのあの世界の終わりだという表情を思い出すと、冷や汗が止まらない。
私……なんて事を……。そうだ、りこは? りこは大丈夫だろうか?
少し冷静さを取り戻した私は、りこのいる場所へ視線を向けた。するとそこにはお兄ちゃんやロバートさん達がいた。片岡と芝崎がりこを縛っていた縄を解いている。
しかしその中に見慣れない人物がいた。私達よりは年上だろう。しかしそこまで年は離れていないように見える。高級そうなスーツに身を包み、いかにも品の良さそうな人だ。その人は思いつめた表情でカナデを見ていた。
「……誰なの?」
思わず呟いた私の言葉に、カナデが力なく答えた。
「……私の夫よ」
「!?」
予想していなかった答えに、私が目を見開くと、縄が外れたりこが私に駆け寄ろうとした。
「あやねちゃん!あやねちゃん!!」
「っ――――りこ!」
涙で顔をぐしゃぐしゃにしたりこを見た途端、早くりこの側に行って抱きしめたい衝動に駆られ、私は立ち上がり柵を乗り越えようと、手すりに手をかけた。しかし次の瞬間、
「どこに行こうっての? 私を置いて行かないで!」
「いっ――!」
そう叫んだカナデが私の腕を引っ張りあげる。あまりの痛みに私が怯むと、カナデは私を抱きしめた状態でポケットからナイフを取り出し、私の喉元に当てた。
「あやねちゃん!!」
「カナデ、やめろ! やめるんだ」
カナデの行動に、その場にいた人達全員が凍りついた。りこは可哀想なほど青ざめているし、カナデの旦那さんも必死にカナデを止めようと叫んでいる。お兄ちゃんやロバートさん達はカナデを刺激しないように、息を殺してこちらの様子を伺っている。
「うるさいうるさいうるさいうるさいうるさい!!!! どいつもこいつも私の邪魔ばかりして! なんでよ!? なんでこの場所にいるのよ貴斗さん! 離婚届書いて置いてたのに! 探さないでって手紙置いてたのに!」
カナデは旦那さんを睨み付けた。今すぐここから出ていけと言わんばかりの表情だ。そんなカナデを旦那さんは見たことがなかったのか、少し怯んだようにも見えたが、すぐにカナデの視線を受け止め、毅然とした表情で話し始めた。
「……あんなもの、認めるわけがないだろう。君がいなくなって僕がどんなに悲しかったか……すぐに探し回ったんだ。けれど君の所在を知っている人は誰もいなかった……本当にどうしようかと思ったよ。
けれど離婚届が置いてあった机の引き出しに、君とそこのあやねさんが写っていた写真があった。僕は君の卒業写真から、あやねさんの名前と連絡先を知り、あやねさんの家に電話したんだ。……そこで今の現状を知ったよ……」
そこで旦那さんは大きく息を吐き、言葉を切った。その先の言葉を言いたくない。そんな気持ちがこちらにまで伝わってきた。しかし視線はカナデを捉えたまま離さない。カナデも旦那さんを見たままだ。カナデは無表情だが、どこか切なさを湛えていた。
旦那さんは大きく深呼吸をした後、口を開いた。
「君がりこさんを誘拐して殺害しようとしている事をね。僕はすぐに君がここにいる事がわかったよ。僕が持っている不動産で、人が来ない場所はここしかない。そうやって僕と彼らはここに来た。……どうして、このような事をするんだカナデ! 頼む! こちらに戻ってくれ! そこにいると危ないだろう! 君 の お 腹 の 中 に は 子 供 が い る の に !」
「!!!??」
衝撃的な発言に、その場にいる全員が息を飲んだ。
カナデのお腹に赤ちゃんが……!?
私はとっさに片手で、ナイフを持っていた方のカナデの腕を抱え込み、もう片方の手で手すりをしっかり握った。いきなり動いたせいかナイフが少し喉元に当たり、出血してしまった。りこが息を飲んだ気配がしたが、必死に堪えてくれたようだ。
カナデは突然の私の行動に目を見開き、ナイフを持った手を私から離そうとしたが、私がカナデの腕を
抱え込んでいるせいか、うまく動かせないようだった。カナデはあわあわとおかしいぐらいに慌てている。
「な、何してんのあやね! 危ないでしょ血が出てるよ!?」
「自分でしておいて今さら何言ってるの! ちょっと切っただけだから大丈夫! そんな事より絶対に私はカナデを屋上から飛び降ろさせないから! 赤ちゃんがいるのに何考えてんのよバカ!」
私はカナデと目を合わせながら手すりを力一杯握りしめる。例え私の身に危険があっても、今の一番大事な事はカナデと、カナデの赤ちゃんを守る事だ。
私の言葉にカナデはビクッと身を震わせる。しかしフッと息を漏らした後、クスクスと笑い始めた。
「お腹に子供がいるからなんだって言うの? 今までの人生ろくな事がなかった。だから私は好きな人と……あやねと一緒に死にたいだけ。貴斗さんの事なんて好きじゃない。貴斗さんじゃ絶対嫌なの! あはははははは!」
そう言ってカナデはおかしそうに笑い出したが、もう私にはわかってしまった。カナデの真意が。
「…………嘘だね」
「う、嘘じゃないよ! なんでそんな事がわかるのよ!?」
「わかるよ……だって私は人生の半分をあなたの親友として過ごしてきたからね」
その言葉を伝えた後、カナデは虚を突かれたように固まった。私から再び親友という言葉が出たのが、信じられない様子だ。
私はゆっくりとカナデの手からナイフを外した。カナデは抵抗せず、されるがままになっている。カナデの手を握り直し、正面からカナデを見据えた。
「ねぇ、カナデ……私はカナデが楽になるなら、私の事が一番好きだと言うのなら、一緒に逝ってあげてもいいって、一瞬でもそう思ったよ。でも、もうそれは出来ない。だってカナデが本当に愛しているのはもう私じゃなくなったから」
「な、何言ってるの! あやねが一番好きだよ! 貴斗さんなんて嫌いだって言ってるじゃない!」
「カナデは元々嫌いな男には、存在していないように無視をするよね。それなのに旦那さんにはまるで自分に言い聞かせるように嫌いって言ってる。それに離婚届を予め書いていたのって、事件が発覚してから旦那さんに迷惑をかけないようにするためじゃないの?……そして一番の要因は」
私はすぅっと深呼吸をする。この言葉を、カナデの心の一番大事な部分に届いてほしかった。
「カナデ、あんたが死ぬのをやめた事だよ。旦那さんの声を聞いて。興味のない人間だったら、カナデは止める言葉も聞かずに飛び降りていたよね? ……本当はずっと旦那さんに止めてほしかったんじゃないの?」
「っ――――! う、うぅぅぅぅぅぅ!」
私の言葉を聞いた瞬間、カナデはその場に崩れ落ちた。瞳からは涙がポロポロ零れている。両腕はお腹を抱えるようにしていて、それは我が子を守るようにも見えた。
「怖いよ! だって私、あやねの事が好きだった! 私も母親みたいにレズだった! いつか貴斗さんやこの子を裏切るかもしれないって考えると胸が張り裂けそうになるの! そうなるくらいなら今死んだ方がマシよ……!それに私は今まで酷い事ばかりしてきた! 私の宝石は汚れたままで、きれいになんてもうなれない……!」
「そんな事ない!!!」
その時、今まで黙っていたりこが叫んだ。カナデは驚いてりこを見た。
「水嶋さん、私が貸したブレスレットを触ってみて。そのムーンストーンはマイナスエネルギーを取り込んだとしても、自浄する力がとても強いの。汚れても、きれいになる。だから水嶋さんの宝石だって絶対きれいになれる! 水嶋さんがそう望んでいるなら絶対に! 私だって前のイジメられていた自分が嫌だった! でも変われることができた! 私にできて、水嶋さんができないなんて、そんな事は絶対にない!」
「……春川……さん……っうぅ!」
カナデはりこを見たまま、そっとブレスレットを触った。そして声を詰まらせながら涙を流した。
「カナデ……」
旦那さんがこちらに近づいてくる。カナデは一瞬体を強張らせたが、私は大丈夫だと、そっとカナデを抱きしめた。旦那さんは柵越しに、カナデの手を握った。
「カナデ……今まで苦しませてごめん。でもこれからは、僕がいる。君の悩みを僕に分けてくれないか? 僕と君と、そしてこの子といっしょに、生きていこう」
「だめ……! だめよ! 私、こんな事件を起こしてる。あなたの隣にいられない。あなたにまで迷惑をかけられない……周りに何て言われるか……!」
「周りなんて関係ない。僕は君を愛している。……確かに君のした事は許されない事だ。だからこれから警察に自首しよう。周りから何て言われても、僕が君を守るから……家族だから」
旦那さんはゆっくりと、カナデを抱きかかえ、柵の乗り越えさせた。そしてカナデを安心させるように微笑んだ。
「君は君のお母さんのようにはならない。僕も君のお父さんのようには絶対にならない。そしてこの子も君じゃない。……きっと幸せになれるよ」
「貴斗さん……! うっ……ひっく……うわあぁぁぁ!」
その言葉はきっと、カナデにとって、呪いを解く魔法の言葉だったのだろう。カナデは旦那さんに抱きしめられながら、子供のように泣いた。まるで子供時代に泣けなかった分を取り戻すかのようだった。
私も涙ぐみながら、柵を乗り越える。それを待っていたかのように、りこが私の胸に飛び込んできた。りこも泣いていた。震えるりこを、私は力いっぱい抱きしめた。
私とりこ、カナデと旦那さん、お互いが最愛の人をしばらく抱きしめていた……。
「皆さん、ご迷惑をお掛けしました。……あやね、春川さん……本当にごめんなさい。……ブレスレットありがとう」
泣きはらした瞳で、カナデは私達に頭を下げた。旦那さんもカナデを支えながら、一緒に頭を下げる。
そしてカナデは自分の腕からブレスレットを引き抜き、りこにブレスレットを返した。りこはブレスレットを自分の腕につけた後、深呼吸をし、カナデの頬を叩いた。
「!?」
りこの行動に私達は驚いたが、カナデはまるで、こうされるのが当然。といった様子だった。
りこは今度はカナデの両手を握った。カナデはこれには驚き、戸惑った表情をりこに向ける。
「水嶋さん……叩いてごめん。でも今は、まだあなたを許すことはできない。けれど、幸せになってほしい。私、水嶋さんのために、アクセサリーを作るよ。あなたの力になるために……」
その言葉を聞いたカナデは、再び泣きそうな表情になった。しかし、ぐっと堪え、りこに頭を下げ、ありがとうと呟いた。
カナデは次に私を見た。カナデと目が合った瞬間、今までの思い出が走馬灯のように蘇った。辛かった事、楽しかった事、長い間私たちは共有してきた。色々な事があったけど、確かに私とカナデは親友だった。
「あやねもごめん……今までありがとう。……さようなら」
「うん、私も……今までごめん。ありがとう。幸せになってね……さようなら」
お互いに握手をし、別れの言葉を告げた瞬間、もうカナデとは会えないような予感がした。カナデもそれを感じたのだろう。けれど私たちは微笑んだ。そしてお互いの幸せを、心から願った。
カナデはもう大丈夫。再び狂気に飲まれることはないだろう。カナデを受け止めてくれる旦那さんがいるから――――。
この場にいる全員に頭を下げた後、カナデと旦那さんは、屋上を後にした。
二人を見送った後、私とりこは皆に向かって頭を下げた。
「お兄ちゃん、ロバートさん、片岡、芝崎、本当にありがとうございました。こうして無事りこを助け出す事ができました」
「私からもお礼を言わせて下さい。皆さんのおかげで、助かりました。感謝してもしきれません……」
私達がお礼を言うと、皆安心したように微笑んだ。
「本当に二人とも無事でよかった……最初心臓が止まるかと思ったぞ」
「僕もです……あやねさんもりこも、こうして会える事ができて本当によかった」
お兄ちゃんとロバートさんが大きく息を吐いた。そんな二人を片岡が背中を思いっきり叩いた。
「も~二人とも、ため息なんかつかないで、もっと喜びましょうよ! 私すっごく嬉しいですよ! 一件落着!」
「片岡! お前ははしゃぎすぎだ自重しろ! すみません二人とも……」
芝崎はなぜか片岡の代わりに謝っている。そんな皆を見て、私はやっと心の緊張がとけた気がした。
りこも皆を見て微笑んでいる。
「じゃあ俺たちは先に車に戻っているから、二人は後から来い。……積もる話もあるだろうしな」
お兄ちゃんはそう言って、屋上から去って行った。お兄ちゃんに続いて、ロバートさんや片岡、芝崎も屋上を後にした。
私と二人きりになった後、りこはずっと黙ったままだ。沈黙が怖い。
「…………りこ、ごめん怒っているよね? 私がカナデと飛び降りそうになった事」
私がおそるおそるりこに謝ると、りこは私の胸に飛び込んできて、私の胸をぽかぽかと叩いた。強めに叩いてるせいか、思わず咳き込んでしまう。
「ケホッ……! 痛い、痛いよ! りこ!」
「痛くしてるんだもん! あやねちゃんのバカバカバカ! 本当に怖かったんだから! 私と逆の立場だったらどう思う!?」
その言葉に罪悪感が湧く。もしりこが私を置いて逝ってしまったら……。
「……私も後を追っていたかもね。ごめん、あの時はりこを助けるために、あの方法しかないと思ったから……もう絶対にあんな事はしない。りこを置いて逝ったりはしないよ……」
「ばかぁ……!」
りこは叩くのをやめ、私を抱きしめた。本当に怖かったのだろう。涙声になっている。私もりこを抱きしめ返した。
しばらく私たちは、そうしてお互いの体温を確かめ合った。もう空には月がでている。月の光を浴びたりこのムーンストーンのブレスレットが、まるで私たちを守るように、光を発していた――――。




