闇の中
アディアは、震えていた。
とても寒くて、我慢出来ないほどなのに、どこにも隠れるような場所はなく、そして隠れるために身を動かそうにも、その自分の身がどこにあるのか分からなかった。辺りは真っ暗で何も見えず、ただただ身を切り裂くような寒さだけがあった。アディアは、自分が死んだのだと思っていた。所詮一人の女の記憶でしかない自分が、その女として違う命で生きようとしていたなんて、許されることではない。自分は、もっと暗く邪悪な命だった…古来から悪魔と恐れられ、忌み嫌われた男の、その命を分けられただけの物だったのだ。
アディアは、涙を流した。いや、実際には体を見つけられないので何も頬を伝うものは感じなかったが、それでも涙を流していた。この記憶のままの、女なら良かったのに。少しは嫉妬深いかもしれない。優柔不断かもしれないし、自分勝手かもしれない。それでも、普通の女であることには変わりはなかったのに。自分の奥底に流れる、邪悪な命の波動を感じて、アディアは身を縮めようとした。だが、身動きは取れなかった…相変わらず、体がどこにあるのか分からないのだ。
すると、極近くで声がした。
《何を考えている…その体の主は、とうにオレの気に耐え切れずに死んだ。お前は、ただの記憶に過ぎない。命をつないでいたのは、オレが分け与えた気のおかげ。すぐにオレの分身として記憶を複製しようとしたが、お前のその記憶が邪魔をした…おかげで、こうしてわざわざ話しかけなければならぬ。面倒なことよ。》
アディアは、その声に言い知れぬ不快感を感じた。何とか避けようと、聞かずにおこうとした。すると、その声の主は、不快な声を上げて笑った。
《変なヤツよ。お前はオレだ。オレが何もかも忘れて、その記憶を自分のものとしたようなものだ。根底にある命の色は変わらない。嫌悪しようとどうしようもないぞ。》そして、その嘲るような声が、険しいものに変わった。《オレの古くからの敵が、復活している。お前の力が要るぞ。あいつがここへ来たら、必ず捕らえて殺せ。この繭は、あらゆる負の感情を読み取ることが出来る。普通は取り込むために使うが、あいつばかりは滅しよ。さもなくば、お前の命はない。なぜなら、お前の命を狙ってこちらへ来るからだ。既にやっと抜け出した、オレの本体へのルートを絶たれた。このままでは、あちらから力を補充することが出来ぬ。ま、オレも種は仕込んでおいたがな。お前はここで命の気を地から吸い上げながら、あいつらを待て。必ず、息の根を止めるのだ。そうでなくば、お前の命はない。》
アディアは、震えた。命の気を吸い上げる…?そういえば、足の方が何か地面に埋まっているような気がする。そして、そこから暖かい何かが体を伝って上がって来て、髪へと抜けて行くような感じがする…。
実際には、アディアの体から無数に伸びた木の根のようなものが、地面に突き刺さっているのに過ぎなかったのだが、アディアにはそう思えた。自分が意図しなくても、勝手に足からどんどんと力が上がって来る…その命の気の暖かさに、アディアは夢中になって気を吸い上げ始めた。声の主の、満足そうな気が伝わって来たが、アディアは寒さから逃れるのに必死で、そんなことには全く気が付かなかった。
舞は、ばったりとその場に倒れていた。
黒い気が舞を包み込み、手を振り払われたアークはその気の圧力と振り払われた衝撃で後ろへ倒れた。しかし、手を振り払われたおかげで、アーク自身はその気に侵食されなかった。
舞は、その黒い気に包まれて、のた打ち回っていたかと思うと、バタリとその場に倒れたのだ。シャルディークの憑依したマーキスが、必死に手から力を放ってそれを取り除こうとする。光は舞を包んで、舞から引き剥がすようにその黒い気を包み込んで封印の方へと引っ張って行くと、その小さなほころびの中へと押し込むようにした。
『「封じ込める!」』
マーキスが叫んだ。シャルディークの声とダブって聞こえる。二人は手を翳して光を発すると、そのほころびを縫うようにして丁寧に封じた。
《くそ!くそ!シャルディーク!覚えていろ!覚えて…》
デクスの不快な声が、そこでフッと消えた。封じ終えたと皆がホッとしている中、マーキスは必死にこちらへ浮いたまま飛んで来て舞を抱き上げた。
「マイ!マイ、しっかりせよ!」
舞は、目を閉じたままぐったりとしている。デクスは封じた…まとわり付いていた気は引き剥がした。ただ、気を失っているだけなのか。マーキスは舞の頬に触れて、じっとその顔を見た。シャルディークの目を使う…マーキスがそう思って見つめていると、いつもよりはっきりと気が見えた。その黒い気は、舞の人格を司る核を包んでいる…その核へ侵入する機を、じっと伺っている。
「入り込んでいる。」マーキスが、絶望的な声で言った。「マイの核を狙っている…。」
皆が息を飲んだ。シャルディークの声が言った。
《浄化はナディアの力ぞ。しかし、我と同じようにあれには今、どうしようもない。誰かに憑依せねばその力を使えない。命の気の流れを変えるのとは訳が違う…今は、ナディアは命の気と深くつながっておるからあのようなことが出来るのだがな。浄化などは、我のように血筋の者に憑依するよりない。知っての通り、憑依するには合う合わないがある。》
アークが言った。
「我が妻のナディアでは?!同じ血筋であろう。巫女なのだ。」
シャルディークは、しばらく黙った。それから、また答えた。
《…試してみても良いが…恐らく、無理であろうな。あれはか弱い。マイになら憑依できた可能性があるが、今は憑かれておるのがマイであるから。》
舞の額に、玉の汗が滲み出始めた。おそらく戦っているのだ。マーキスが、舞を抱き上げた。
「とにかく、ここから離れようぞ。対策を考えねば…このままでは、マイが…。」
小刻みに震える、その言葉の後をシャルディークの声が続けた。
《核を侵食されずとも、気の圧力に耐え切れず別のものに変げするか、細胞が破壊されて死するか…。いずれにしても、時間の問題ぞ。》
マーキスは目に見えて震えていた。そして、そのままシャルディークの力を使って、神殿の横を飛び、神殿入り口の方へと回りこんで行った。皆は引き続き足を取られるその腐葉土の中、必死にそれについて行ったのだった。
やっと神殿前の広い空間に出ると、戻っていたナディア、メグ、ダイアナ、それにチュマとアレスが慌てて寄って来た。
「どうした?」目を閉じて息を切らせている舞を見て、アレスが言った。「なんと。あの清々しい気が…。」
アレスに抱かれたチュマが、絶望的な目で舞を見て、言った。
「マイ…!あれが、あれがマイに入ってる!」
ナディアとメグが、驚いて舞を見た。
「浄化をせねば!」ナディアが、急いで言った。「舞をここへ。」
マーキスが、そこへ黙って舞を横たえた。舞は眉を寄せて息を荒げ、汗を浮かべて必死に何かと戦っていた。ナディアは手を翳して、浄化の光を舞に降らせた。目を閉じて、じっと考え込むような顔で、術を放っている。そのうちに、ナディアは顔を上げた。
「これは…かなりの執念でマイの核に取り憑いておるわ。」ナディアは、目を開けて言った。「簡単に剥がれて消え去るはずが、少しずつ削っても、そのせいで余計にマイの核に爪を立てて離れまいとするような…これ以上、何かするのは危険よ。逆に、その必死な力でマイの核に入り込んでしまうかもしれない。」
マーキスから、スーッとシャルディークの姿が出て来た。マーキスの目が、青色に戻る。そのシャルディークは言った。
『抗えない力で一気に消しに掛からなければ無理ぞ。封じられると必死に放った力がマイを捉えたのであるから。今までの比ではない執着であろうし。ナディア…』
皇女のナディアが目を上げたが、シャルディークは別の方向を見ている。スーッと、女神ナディアの姿が現れた。
『あれに、憑かれてしもうたのですね。しかも、マイが。』
女神ナディアが言う。シャルディークは頷いた。
『主の力でなければ無理ぞ。誰か、憑ける者はここに居るか?』
女神ナディアは、皆を一人一人見た。
『我は女性であるので…女性でなければ憑けませぬ。』と、真っ先に皇女ナディアを見た。『ナディア…主はか弱いわね。我の力を受け止めることは出来ませぬ。メグもおそらく憑依と共に命を落とすでしょう。元より我が子ではないのですから。ですが、そこの緑の髪の。主ならば可能やもしれませぬ。』
皆の視線が、ダイアナに注がれた。ダイアナは、驚いた顔をした。
「我が?」
女神ナディアは頷いた。
『主には、我と同じ血が流れているように思いまする。そのうえ、気がとても大きい。力の許容範囲が広いのですわ。』
ダイアナは、戸惑ったような顔をした。
「我は人にグーラと呼ばれる種族。人との血縁関係など、無いはずなのに。」
女神ナディアは、首をかしげた。
『ですが、主から同じ波動を感じまするわ。』と、シャルディークを見た。『そうは思いませぬか、シャルディーク。』
シャルディークは、黙って見ていたが、頷いた。
『確かにの。ナディアの言う通り、主からはナディアと同じ波動を感じる。微かなものであるが。グーラと申すなら、マーキスと同じ。恐らくなので気が大きいのだ。主ならば、ナディアの気にも耐えうるであろうぞ。』
マーキスが、すがるような視線をダイアナに向けている。頷こうとするダイアナの前に、アレスが進み出た。
「我らの女王を、そのような危ないめにあわせる訳には行かぬ。たった一人の王族ぞ。王に子は、このかたしか居なかった。なので、女でありながら王座に就かれたのだ。我にはこのかたを守る義務がある。どうしてもというのなら、我が。」
ナディアが、首を振った。
『我は男性には憑けませぬ。気の種類が違う。お互いに面倒なことになりまするから。』
マーキスが言った。
「頼む、ダイアナ。オレの妻ぞ。命より大切なものだ。このままでは、これに食われてしまう。たとえ死するとしても、このような形でなどマイは望んではおらぬ。何よりマイを取り込まれたら、巫女の力をいいように利用されてしまうやもしれぬ。そうなれば、我らももっと険しい道を行かねばならなくなるのだ。」
ダイアナは、迷った。一族の発展をと、父は亡くなる前に言い置いて逝った。力が弱いメスである自分が王位に就くことを、一族の誰もが憂いた。しかし、アレスが進み出て、次の王族が生まれて王座に就くまで絶対に守りきると宣言し、そうしてダイアナが王座に就いたのだ。アレスは、グーラの一族で王に次ぐ力の持ち主だった。なので、皆が納得したのだ…ダイアナは、王の血筋を守ろうとしてくれるアレスのためにも、早く跡継ぎを生まねばと思った。なので、皆を連れて金色の瞳の同族を訪ねて来たのだ。
迷うダイアナの前で、舞は更に眉を寄せていた。このままでは…。