浄化
その少し前、舞は宿屋を飛び出して、ただ闇雲に走っているうちに、急に辺りがシンと静まり返ったので驚いて顔を上げると、牧場地帯の方へ出たのを知った。ここで、この世界へ来て初めてルクルクを見たんだったっけ…。レムとマイユのことを思い出した舞は、ふらふらと二人の家へと足を運んだ。きっと、もうとっくに寝ているはずだ。腕輪を見ると、時間は午前二時を過ぎていた。舞は、さすがにこんな時間に起こすことは出来ないと思い、道から横の、低い枠で囲まれた牧草地の方へ、登って行った。
ルクルクが、気の下辺りで固まってじっとしていたが、舞の気配を感じたのかこちらを見た。舞はふと、思った…そうだ、この子達の声って聞こえるのかしら。
舞は、そっと術を掛けて見た。心を通じさせる魔法…話をさせる魔法では、本来なかった。ルクルクのうち、数頭がこちらへ寄って来た。舞は、そっとその頭を撫でた。考えたら、私は今夜この子達の仲間のステーキ食べたよね…。
ちょっと複雑な気持ちだったが、それが生命の営みというものかもと、舞は話し掛けて見た。
「こんばんは。起こしてごめんね。レムとマイユが起きる時間まで、ここに居させてくれる?」
ルクルクは、明らかに驚いた顔をした。そして、言った。
『怖いやつ。あっち。街のほう。感じた…起きた。』
どう聞いても、そう聴こえる。何かを感じたから起きたのであって、舞が起こしたのではないということなのか。でも、怖いやつってなんだろう。つくづく、グーラはとても人に近い思考の持ち主なのだと舞は思った。会話には一応なるが、考えて解釈しなければならない。
「怖いやつって何?何を感じるの?」
『来る。』そのルクルクは、怯えたような顔をした。『来る。怖い大きなものと、飛んで、来る。』
他のルクルクも騒ぎ出した。舞は、何事かと思わず空を見た。すると、黒い気を大量に発している何かを足に掴んだキールが、ラキを乗せたまま街から山の方角へとすごいスピードで飛びぬけて行った。
「キール!」舞は叫んだ。「ラキ!大変…すごい真っ黒な気だった!飲まれてしまうわ!」
舞は追い掛けて走り掛けたが、走ってもとても間に合う距離ではない。街へ戻ろうかどうしようかと迷っていると、今度はマーキスがキールを追うように、アークとシュレーを乗せて上空を飛びぬけて行った。
「マーキス…。」
舞は、せっかく止まった涙が、また込み上げて来た。駄目、泣いてる場合じゃない。どうしたらいいの。きっと、圭悟達はまだ残っているはず…訳を聞きに行かなきゃ!
舞が踵を返して街の方へ行こうとした時、後ろから声が呼び止めた。
「あら、マイ?」マイユだった。「ルクルクが騒ぐから、何かあったのかと思って。こんな時間にどうしたの?」
舞は、マイユを振り返った。
「マイユさん、今は説明している暇はないんです。でも、何か大変な物が山の方へ現れました。仲間が、それを何とかしようとしてるんです。ルクルクは、それに反応して騒いでいます。」
「舞!」圭悟の声が後ろから呼んだ。「舞…やっぱりここだったか。」
舞は、走って来た圭悟と玲樹、リシマを見て言った。
「キールが…!山の方へ!」
圭悟が頷いた。
「アディアだ!アディアが完全にデューに乗っ取られて、変げし始めて…街中では大変なことになると、キールが飲まれるのを覚悟で掴んで飛んで行ったんだよ!」
舞は、山の方を見た。
「ああ、どうしよう…早く浄化しないと!キールが飲まれてしまうわ!」
圭悟は、腕輪を開いて、何かを素早く打った。そして、言った。
「舞がここに居たことは知らせた。マーキスが迎えに行っているから、ここで待たせてもらおう。」と、レムとマイユを見た。「すみません、牧場の隅でいいので、そこで仲間が戻って来るのを待たせてください。」
二人は頷いた。
「そんな、中で待つといい。どうせあと二時間ほどで起きなきゃならなかったんだ。」レムは言って、中へと促した。「さ、早く。外は冷えるだろう。」
圭悟は頷いて、歩き出した。舞も、何度も山の方を見ながら、中へと入って行った。
家の中では、マイユがお茶を煎れてくれた。
「メグから手紙が届いてね。」マイユは、微笑みながら言った。「命の気を元に戻してくれたんだって?ありがとう。おかげで魔物は来なくなったし、怪我をしてもすぐに治るようになったよ。本当に困っていたからね。」
圭悟が、頷いた。
「少しでも、生活が良くなったのなら良かった。でも、まだ問題が残っていて…それを消してしまわないことには、安心出来ないんです。既に山の向こうのリーマサンデでは大変なことになっている。こちらも、時間の問題なのです。」
マイユは口を押さえ、レムは険しい顔をした。
「…やっぱり、気が乱れたのは何かの陰謀だったのか。」
レムが言うのに、圭悟は驚いた顔をした。
「え、やっぱりって?」
レムとマイユは顔を見合わせた。
「昔っから、山の方へ行く人達の間では有名な話だったんだよ。山には神も居るが、悪魔も居る。悪魔に憑かれたら、真っ黒い息を吐いて死んでしまう。決して、悪魔の誘惑には乗ってはいけないよ、っていう。ただのおとぎ話だと思っていたけど、ここ数年の間に、山で訳の分からない化け物のような形の、それでも辛うじて人の形みたいなものの、死骸が見つかるようになっていたんだ。新種の魔物かと皆が思って見ると、行方不明の奴らの服装と同じうえ、持ち物までそっくりそのまま持っていた。それは、人が変げしたものだと、皆が悟った。だが、怖いので見つけた場所に埋めて葬ってしまっていたけどね。」
圭悟と舞、それに玲樹とリシマは顔を見合わせた。リシマが言った。
「…恐らく、合わなかったのだろうの。」リシマは、暗い顔をした。「その、皆が言うところの悪魔の気が強すぎて、それに耐えきれずに体が崩壊して命を落としたのだろう。つまりは、悪魔にも憑くのに適した体があって、それでなければ憑けなかったのだ。数年前…その頃から、画策していたということか。」
レムが、言った。
「しかし、それも二年ほど前からピタッと止まったんですよ。」と、確認するようにマイユを見た。「そうだよな?確か二年前ぐらいまではしょっちゅうそんなことがあって、皆山へ登るのをためらっていたが、ここ最近はなかったよな?」
マイユは頷いた。
「ええ。平和になったから、悪魔が居なくなったんじゃないかって言っていたのよね。覚えてるわ。」
リシマは、頷いた。
「そうか…。」
圭悟は、思っていた。それは、きっと自分に合う器を見つけたのだろう。それが、デューだったのだ…デューは死なずに、それどころかデクスを受け入れたことで病を克服したのだ。お互いの利害の一致で、あのデューは居たのだ。
そこまで話した時、俄かにルクルクがまた騒がしくなった。圭悟が慌てて立ち上がって外を見ると、そこに、マーキスがキールを降ろしていた。レムが、それを見て叫んだ。
「ああ、グーラが!」
しかし、圭悟は首を振った。
「大丈夫、あれはオレ達の仲間のグーラ。あのグーラが居なければ、今頃は街まで、今話していた悪魔に飲まれていたかもしれない。」
舞が、慌てて走って出て行った。一目散にグーラの姿のまま横たわるキールに駆け寄ると、その顔を見た。キールは、目を閉じてぐったりしていた。
「ずっと、あのアディアを掴んでいたからな。」ラキが、舞に言った。「もろにあれを食らっていた。だが、意識を失わずに、あの場所からは逃れたんだ。」
舞は、キールの頬を手で挟んだ。
「キール…。」
そして、目を閉じた。心の中へと入って行く…浄化の光は、舞自身から発せられ、それが奥へ奥へと分け入って行った。かなり奥まで来ても、まだ黒かった。舞は、どうか芯まで真っ黒になっていませんようにと願った。すると、不意にその心は、フッと消えた。
《キール…!》
舞は、何も無くなったキールの心の中を、キールを探して見回した。どうなったの?全部黒くなってしまっていたの…それを、私が全部消してしまったの?
《キール!》
舞は、必死に呼んだ。キールが、消えてしまった。舞は、涙を流しながら、ずっと呼んだ。
《キール!キール…本当に全部あなたは消えてしまったの!》
すると、向こうの方、何かの戸が少し開いて、何かが覗いているような気がした。
《…マイ?》
その声は聞いた。舞は、急いでそちらを見た。
《キール…?私よ。みんな浄化したわ。迎えに来たの。》
キールは、安心したようにその戸を開けた。
《マイ…よかった。では、助かったのか。》
舞は頷いて、キールの心を抱き締めた。
《分かるでしょう?私の気を読んで。間違いないでしょう?》
キールは、目を閉じた。そして、頷いた。
《間違いなく、マイだ。心地よい…連れ帰ってくれ、マイ。》
舞は、頷いた。
《行きましょう。》
目の前が真っ白になって、舞は目を開いた。キールも、同時に目の前で目を開いていた。
『マイ…助かった。』
キールは言った。舞は頷いた。
「本当によかった。最後は自分に閉じこもっていたのね。それで助かったんだわ。」
キールは頷いた。
『ほんに心地の悪いものだった…あんなもの、二度と掴みたくないわ。』
ラキが、フンと横を向いた。
「手のかかるやつよ。オレがどれほどに大変だったか…しかし、主のお蔭で、あれが街中に出現せずに済んだ。」
ラキが言ったので、皆が山の方角を見た。遠く山肌に、禍々しい気が湧きあがって渦巻いている。あれは、もはやアディアではないものを中心にして繭を作るように地に根を張っている。
舞は、その気に背筋が寒くなるのを感じた。