紫月花の日常――1
「紫月花の日常」
これは、紫月花という少女が、ただ幸せに生きていく物語である。
「着いたな……」
新幹線のドアが開いた瞬間、
むわりとした熱気と、街の喧騒が一気に押し寄せてきた。
吐き出されるようにホームへ降り立つと、
胸の奥がざわざわと波打った。
期待と、不安。その両方が入り混じったざわめき。
あの静かな村では、一度も感じたことのない感覚だった。
足元から響くアナウンス。
スーツ姿の人々が慌ただしくすれ違っていく。
自分たちだけが、この街の中でぽつんと取り残されたような、
そんな場違いな気持ちに襲われる。
「……人、めっちゃ多いな」
思わず漏れた声は、自分でも驚くほど小さかった。
「そうだな……見つかるといいんだけど」
隣の集の声も、どこか沈んでいた。
都会のざわめきに呑まれないように、慎重に、自分の心を守るような話し方だった。
「何言ってんの? 探しに来たんでしょ?」
円が一歩前に出て、振り返る。
人波の中でも、その笑顔は微塵も揺らがなかった。
背は一番ちっちゃいくせに。
なんでいつもあんなに堂々としてんだか。昔から謎だ。
4月上旬。
桜の花びらが舞う中、俺たちは新しい一歩を踏み出した。
理由はただ一つ。
紫月花を探すためだ。
花は8年前、突然姿を消した、もう一人の幼馴染だ。
田舎の山の中、地図にも載っていないような小さな村。
そこで、偶然にも同じ年に生まれた四人の子供がいた。
俺、武道祭、竹中集、桃咲円、そして紫月花。
狭い世界の中、俺たちは毎日一緒に遊び、笑い、生きていた。
しかし、あの村には奇妙な掟があった。
俺たちには理解できなかったが、花だけは特別だった。
村の信仰の象徴であり、誰も逆らえない家の唯一の娘。
最初は一緒に遊ぶことも許されず、毎日遊べなかったが、俺たちの大切な仲間に変わりはなかった。
だが、ある日を境に、花は家から一歩も出られなくなった。
改札を抜けると、俺たちは一つの魂を見つけた。
何度も改札にカードをかざしては、首を傾げているサラリーマン風の男。
その動作は、もう何十回も繰り返されたような、無意識のループに見えた。
「……気付いてないんだ、まだ」
集の声が重く沈んだ。
男の姿は、他の人間には見えていない。
それはつまり――すでに死んでいるということだ。
「きっと……帰ろうとしてるんだろうな」
「会社か、家か……」
円が小さく呟く。
男のスーツはシワだらけで、靴も片方潰れていた。
どこかで過労に倒れたのかもしれない。
それでも「行かなきゃ」と思い続けたまま、この場所に囚われている。
――それが、この世に留まってしまった魂だ。
20XX年、日本
この国は変わった。
現代の日本では、地震や台風と並び、
“霊災”と呼ばれる超常現象が、深刻な社会問題となっている。
霊災とは、死者の魂がこの世に未練を残し、成仏できずに彷徨い続ける現象のこと。
その怨念は建物や自然の中に入り込み、破壊や殺傷を引き起こす。
ニュースでは自然災害と同じ扱いで速報され、地域ごとの警戒情報が流れるのが日常となった。
だが、霊災の恐ろしさは単なる破壊にとどまらない。
死んでも死にきれなかった魂は、生きている人間さえも、
苦しみの渦へと巻き込み、引きずり込もうとする。
だから被害者の多くは精神を病み、自殺、失踪、
あるいは原因不明の死を遂げる。
人口が減少し続けているこの国にとって、
霊災は看過できない“人災”でもある。
対策を講じなければ、国家の維持すら危うい。
対策として“霊災害対策庁”という政府直属の機関が設立されたらしいが、
ニュースや専用アプリによる速報はあるものの、
実際の対策は不明瞭で、問題の根本的な解決には程遠いのが現状だ。
人々は見えない恐怖に怯え、
誰かが戦っていることだけを信じて生きている。
この国は死者を疑って生きる国になったんだ。
「大丈夫ですか?」
俺が声をかけると、男性は驚いたようにこちらを見た。
「君、私が見えるのか?」
「はい。見えますよ」
そう答えると、男性は安堵したように微笑み、ふらりと寄ってくる。
「仕事に行かなきゃいけないのに……どうしてもここを通れなくてね……」
困惑の表情を浮かべながら、改札機に何度もカードをかざすその姿には、
もはや生気が感じられなかった。
この場所の空気にも馴染まず、輪郭が少しだけにじんでいた。
「あなたは、もうこの世の者ではありません」
俺はできるだけ感情を出さないように、静かに告げた。
男性はしばらく黙っていたが、
やがてふっと力が抜けたように視線を遠くに向けた。
「……やっぱり、そうか」
小さな声で呟く。
「受け入れられませんか?」
「いや、死んだならいいさ。妻に先立たれて……それからは、ずっと仕事ばかりでね。……会えるなら、私はその方がいい」
そう言って、彼は柔らかく微笑んだ。
「よければ、奥さんのところまで送りますよ」
「本当かい?」
「はい。……円、お願い」
「うん」
円は一歩前に出ると、静かに両手を組み、目を閉じた。
「——黎明」
小さく囁き、指を組み合わせ型を作り、深く呼吸し、ゆっくりと息を吐く。
静寂の中、空気が少しだけ澄んでいくような感覚。
やがて、柔らかな光が地面をなぞるように広がり、淡く揺れる扉が現れた。
天に向かって伸びていくその光の向こうに、どこか懐かしい気配があった。
「ここを通れば、奥さんに会えるよ」
円の声も、もう祈りの一部のように優しかった。
男はそっと扉に手を伸ばし、そのまま足を踏み入れる。
その顔は、穏やかで、満たされていた。
光が彼の身体を包み、輪郭を溶かしていく。
そして、静かに、完全に、彼は消えた。
消える寸前、彼の口元が「ありがとう」と呟いた気がした。
駅には、再びいつもの喧騒が戻ってくる。
だが、そこにいた誰一人として、一つの魂が救われたことに気づく者はいなかった。
「……奥さん、会えたかな」
俺の呟きに、隣の円が胸を張る。
「当たり前。私の扉、信じなさいっての」
「……そうだな」
改札の外を見やると、陽の光が強く差し込んでいた。
「さ、行こっか。アパート!」
円がぱっと表情を明るくする。
「どんなとこなんだろー?」
「どうせボロいアパートに決まってる」
集がぼそっと言い、俺たちは歩き出す。
知らない街。
知らない日々。
でも、俺たちは歩き始める。
「ちゃんと電気つくよねー?」
「流石に点くだろ」
キャリーケースを弾ませながら笑う集と円。
「てか、東京駅広すぎ!」
「駆け込む気持ちも分かるな」
俺達の村とは比べものにならない広い駅。
「村よりデカいんじゃねーの?」
そんな大都会に来て、俺も集も円も、どこか気持ちが浮ついている。
そして、それは突然だった。
俺はふと、駅の壁に貼られた一枚のポスターに目を奪われた。
そこに映っていたのは、敬礼をして微笑む一人の少女。
「……はっ、花っだ……」
思わず、声が震えた。
「え?」
「マジ!?」
「こっ、これ……花だろ……」
指先が震える。
少し大人びた雰囲気、洗練された化粧と服装。
それでも俺にはわかる。
あの瞳も、髪も、笑い方も、間違いなく、花だ。
「このネックレス……」
円がポスターに顔を近づけ、食い入るように見つめる。
次の瞬間、ぱっと体を離し、満面の笑みを浮かべた。
「ほら……この指輪……!」
銀の細いチェーンに、小さな指輪が通されている。
それは、かつて俺たち三人が花に贈った“お守り”だった。
「間違いない……花だ……!」
集の声も、わずかに震えていた。
街の喧騒が遠のいていく。
まるで時間だけが止まったみたいだった。
ポスターに映っていたのは、確かに“生きている”花の姿。
少し大人びた雰囲気、洗練された化粧と服装。
それでも俺にはわかる。
あの瞳も、髪も、笑い方も、間違いなく、花だ。
「間違いないよっ……絶対花だよ!!」
円の目に涙がにじむ。
花は制服を着ていた。
胸元で揺れる指輪のネックレス。
敬礼のポーズで微笑むその笑顔は、あの頃と同じで、
さらに綺麗になっていた。
「このマーク……なんだっけ……」
「……なんだろ。でもこれ、警察の募集じゃね?」
ポスターの下部には、どこかで見覚えのある太陽のシンボル。
その横に大きく書かれた言葉。
――『あなたも街を、守りませんか?』
「てか……敬礼してんの、やばい……」
「うん……綺麗すぎるよっ………でもさ」
円がじっとポスターを見つめ、言葉を続けた。
「まだ16歳なのに、警察ってありえる?」
「ないな」
「無いね」
「顔も髪も完璧すぎるし……モデルじゃない!?」
「そうかもな。制服着てるだけってことか」
「この規模の広告なら、絶対有名人に違いない!」
円は興奮気味に叫び、俺と集はすぐにスマホを取り出した。
「事務所、調べられるかな……」
「この規模なら、情報残ってるはず!」
「……やっぱり花、可愛いよっ」
「よかったな」
涙を抑えきれない円。集がそっと肩に手を置いた。
変わったのは外見だけ。
花の笑顔は、あの頃とちっとも変わっていない。
いや、むしろもっと綺麗になっていた。
あの時見た泣き顔は、もうどこにもない。
俺たちと離れていた時間を――
ちゃんと生きて、強くなってくれていた。
その事実が、たまらなく嬉しかった。
円も集も口には出さないが、同じ気持ちだろう。
もう一度会える。
会いたい。
早く伝えたい。
上京して、まだ数時間。
もう“花が生きている”と確信できた。
俺たちは、花に近づいた。
確かに、一歩。
いや、もう……すぐ手の届くところまで来ている!!
「――きたぜっ!東京!!」




