第26話 霧の島と、魂の囁き
神の嵐を乗り越えた三人を乗せた商船は、目的の島の沖合で、その歩みを止めた。
これ以上は、呪いを受けて船が動かなくなる、と船長は言った。彼は、感謝の印として、小さなボートと、数日分の食料を三人に渡してくれた。
「…本当に、行くのか? あの島から、生きて帰ってきた者は、一人もいねえんだぞ」
船長が、本気で心配してくれているのが伝わる。
「ああ」とアキラは頷いた。「オレたちには、やらなきゃならないことがあるんだ」
三人は、小さなボートに乗り移り、島へと向かった。
近づくにつれて、その島の異様さが、肌で感じられた。周りの海は穏やかなのに、島の上だけ、まるで意思を持っているかのように、濃厚で、冷たい霧が、渦を巻いている。
ボートが、黒い砂浜に乗り上げる。
一歩、島に足を踏み入れた瞬間、背後で見ていたはずの船の姿も、海の青さも、全てが乳白色の霧に飲み込まれ、世界から、完全に切り離されたような感覚に陥った。
しん、と静まり返った世界。聞こえるのは、自分たちの呼吸の音と、心臓の音だけ。
「…なんだか、嫌な感じだな」タカシが、身を震わせる。
「空気が、重い…。魔力が、淀んでいるというより、悲しみに満ちている感じがするわ」
ヒトミが、周囲を警戒しながら言う。
アキラは、魔法のコンパスを取り出した。針は、霧の奥を、まっすぐに指し示している。
「行こう。こいつだけが、頼りだ」
三人は、互いの姿を見失わないように、声を掛け合いながら、霧の中を進み始めた。
しばらく歩くと、どこからともなく、囁き声のようなものが聞こえ始めた。
――ザンネンだったな、力しか、取り柄がないのに…
「!?」
タカシが、弾かれたように足を止めた。
「今、何か聞こえなかったか?」
「いいえ、何も」
「気のせいか…?」
――あの二人には、お前は、ただの荷物だ…
「うるせえ! 誰だ!」
タカシが、何もない空間に向かって叫ぶ。その声は、霧に吸い込まれて、虚しく消えた。
「タカシ、どうしたのよ、急に大声出して」
「だってよ! 今、誰かが、オレのこと、バカにしやがったんだ!」
タカシの目には、焦りと、普段は見せない、深い不安の色が浮かんでいた。グリフォンとの戦いで、空を飛ぶ敵に何もできなかった無力感。カラト・アルナフルで、知恵比べについていけなかった疎外感。その心の弱みに、囁き声は、的確につけ込んできていた。
「タカシ!」
アキラが、彼の前に立ち、『真実の盾』を突き付けた。
「これを見ろ!」
盾の鏡面に映ったのは、不安げなタカシの顔ではなかった。そこに映っていたのは、仲間を守るために、たった一人で巨大な木箱を支え、闘技場で、最強の『エースモンスター』として咆哮する、勇ましいタカシの姿――彼の魂の、本当の輝きだった。
「…あ…」
タカシは、自分の本当の姿を見た。仲間たちが、自分をどう見て、どれだけ頼りにしているかの『真実』を。
「…そうか。オレは、エースモンスター、だったな」
憑き物が落ちたように、タカシの顔に、いつもの自信が戻った。
その時、今度は、ヒトミが足を止めた。
「…アキラ? タカシ? どこへ行くの? 待って…!」
彼女の目には、アキラとタカシが、自分に背を向けて、どんどん霧の奥へと去っていく幻影が見えていた。
(嘘…なんで…? 私は、もう、必要ないっていうの…?)
いつも気丈な彼女の、心の奥底に眠る、『孤独』への恐怖。霧は、それをも見逃さなかった。
「ヒトミ!」
アキラの声が、幻影をかき消す。アキラは、ヒトミの手を、強く握った。
「オレたちは、ここにいる! どこへも行かない!」
握られた手の、確かな温もりが、ヒトミを現実へと引き戻す。
「…ご、ごめんなさい。何でもないわ」
強がる彼女に、アキラは、静かに盾を見せた。そこには、三人のオーラが、固く、強く結びついている光景が映し出されていた。
そして、最後に、霧は、アキラに牙をむいた。
――司令官殿、どうして我々を見捨てたのですか…
ローデリアでの、あの敗北の光景。血に濡れた大地。倒れていく兵士たちの、うらめしそうな目。
アキラの足が、地面に縫い付けられたように、動かなくなった。
(オレのせいだ…オレが、ゲーム感覚でいたから…みんな…)
自己嫌悪の沼が、アキラの心を沈めていく。これは、盾では消せない。なぜなら、それは、実際に起こった、変えようのない『真実』だからだ。
「――アキラッ!」
ガシッ!と、力強い手が、アキラの肩を掴んだ。タカシだった。
「下を向くな! それは、もう終わったことだろ! お前は、そこから立ち上がったじゃねえか!」
「そうよ!」ヒトミも、アキラの前に立ち、その目をまっすぐに見つめた。「あなたが、その痛みを知っているから、私たちは、ここまで来られた! あなたが、あの日のあなたを、侮辱するんじゃないわ!」
二人の、魂からの叫び。
それは、どんな魔法よりも、どんな神器の力よりも、強く、アキラの心に響いた。
そうだ。オレは、もう一人じゃない。
この仲間がいる。この絆がある。
それが、今の、オレの『真実』だ。
アキラが顔を上げた瞬間、周りを包んでいた、重苦しい霧が、すうっと、晴れていった。
まるで、三人が、島の試練に打ち勝ったことを、認めたかのように。
霧の晴れた道の先。
そこには、苔むした、巨大な遺跡が、静かにその姿を現していた。
魔法のコンパスが、その遺跡の中心を指して、激しく光を放っている。
「…見つけたな」
アキラは、仲間たちの顔を見て、力強く頷いた。
彼らの絆は、神の妨害をも、魂に巣食う弱さをも、打ち破ったのだ。
次なる神器は、もう、目の前だった。




