第98話 写し世と現世を繋ぐ儀式
「だから、最後の儀式を行わねばならない」
「最後の儀式?」
「ああ。写し世と現世を繋ぐ儀式だ」
チヨの姿とクロミカゲが、ルカを中心に円を描くように立った。クロミカゲの両手から青い光の糸が、チヨの両手から白い光の糸が紡ぎ出され、それがルカを包み込み始める。二種類の光が交差し、複雑な幾何学模様を形作る。チクワも光の輪の一部となり、その金色の瞳から淡い光が放たれ、「夢写師の記憶を守る存在」として魂写機の方向に爪を立てた。
「これは…」
「あなたが両世界を繋ぐ橋となるための儀式よ」
チヨの声が優しく響いた。母の子守唄の調べが混じったような、懐かしく温かな声色。
「これまであなたは写し世を写すだけだった。だけど、これからは写し世と現世を繋ぐの」
光の糸がルカの体に絡みつき、次第に締め付けが強くなる。彼女は息苦しさを覚えた。光の糸が肌を通して体内に入り込み、血管を流れるように全身を巡っていく感覚。室内に時間の波紋が広がり、チヨの囁き声—「選んで、ルカ」—が反響した。
「痛い…」
ルカが呟くと、チヨの表情に心配の色が浮かんだ。
「耐えて。これは必要な過程よ」
クロミカゲが厳しい表情で言った。「力を受け入れるためには、代償が必要だ。欠片は使用者の最も強い未練を選ぶ」
光の糸が次第に速度を増し、ルカの体内を駆け巡る。同時に、彼女の記憶の断片が押し寄せてくる。幼い頃の思い出、両親との日々、父のカメラを初めて手にした日の興奮、母の温もり、写祓の訓練、そして…チヨの封印の瞬間まで。あまりの情報量に、ルカの意識が揺らぎ始めた。
「これ以上感じたら、私の記憶が…散らばってしまう…」
彼女は膝をつき、頭を抱えた。光の渦に飲み込まれそうになる感覚に、恐怖が押し寄せる。記憶の断片が混濁する感覚に、彼女は一瞬意識が遠のきかけた。10年間の喪失に続き、さらに記憶を失うことへの恐れが彼女を捉えた。
「自分の力を信じて」
チヨの声が心の奥深くから響く。
「あなたは強い子よ。感情を恐れる必要はない」
クロミカゲも近づき、彼女の肩に手を置いた。
「チヨの愛が、俺を形作った。ルカ、俺はお前を守るために生まれた存在だ」
その言葉に、ルカの中に決意が芽生えた。巫女としての責任と人間としての願いの葛藤が彼女の心を揺さぶるが、チヨの写祓の技術が彼女の手を導くのを感じた。「私が影写りの巫女の継承者なのか」という問いが浮かんだが、今はただ前に進む決意だけが必要だった。
「姉さんのために…そしてクロのために…この力を受け入れる!」
彼女は叫んだ。光の糸が一斉に彼女の瞳に向かって収束していく。そして、最も強く集まったのは、ルカの目だった。彼女の灰銀色の瞳が、徐々に金色に変わっていく。痛みを伴う変化だったが、ルカはそれに耐えた。
視界が変容し、世界が違って見え始めた。光のスペクトルが広がり、これまで見えなかった色彩が見えるようになる。人や物の周りに、微かな色の靄が見える—それは記憶のオーラだった。父のカメラのレンズ越しに世界を見るような、鮮明で豊かな色彩。記憶を見る目、心を映す瞳。これが影写りの巫女の真の力だと本能的に理解した。
「これで…見えるようになるわ」
チヨの姿が言った。
「写し世だけでなく、記憶の流れそのものが」
「影写りの巫女は記憶のオーラを視覚化し、写し世の記憶を現世に定着させる力を持つ」とクロミカゲが説明を加えた。「金色の瞳は記憶の流れを直接見る能力。これからお前は人々のオーラから感情や記憶を読み取れるようになる」
チヨの姿とクロミカゲの間で、光の糸が複雑な結び目を作り、それがルカの心臓のあたりに収束した。
「この結び目が、お前と私たちを繋ぐ絆だ」
クロミカゲが説明した。「これにより、お前は私たちの力を借りることができる」
儀式が終わり、光が消えた。ルカは自分の体に変化を感じた。より軽く、より敏感に。そして何より、視界が変わっていた。人や物の周りに、微かな色の靄が見える。それは記憶のオーラだった。影向稲荷の札を手に持つと現像室の光が安定する感覚があった。
「これが…記憶の色」
彼女は呟いた。クロミカゲのオーラは青と金が混ざった複雑な色合い。チヨの姿は純粋な白い光に包まれている。そして、彼女自身の周りにも、父譲りの深い藍色と母譲りの優しい桜色が混じったオーラが広がっていた。
「すごい…」
ルカは新たな視覚に圧倒されながらも、同時に不安も感じていた。これほどまでに世界が鮮明に見えることは、これまでの彼女には想像できなかった。感情を抑え込むことで、世界の色彩も抑え込んでいたのだろうか。「記憶の色を見ることは、時に重い負担となるだろう」と予感した。




