第94話 蓮の観察
目を覚ますと、ルカは現像室の床に横たわっていた。頭に鈍い痛みを感じる。外から急ぐ足音と、扉をノックする音が聞こえる。
「気がついたか」
クロミカゲが彼女の傍らに座っていた。その姿はより安定し、チヨとクロの特徴が調和しているように見える。表情には安堵の色が見える。
「どれくらい…気を失ってた?」
「数分だ。だが、お前の中では、もっと長い時間が流れたのだろう」
ルカはゆっくりと起き上がった。頭の中が驚くほど整理されている感覚がある。記憶の断片が正しい場所に収まり、時系列が明確になっている。そして何より、感情が少しずつ自由に流れるようになった感覚。代償の喪失が彼女の感情を解放したことを実感する。
「私、思い出したわ…すべて」
彼女は静かに言った。胸の奥から湧き上がる感情を、もはや恐れていない。しかし、それは嵐のような感情の爆発ではなく、静かな小川のような穏やかな流れだった。少しずつ、彼女は自分自身と和解し始めていた。
「十年前の封印の儀式で、私は姉さんから時計を受け取った。『必ず帰ってくる』という約束と共に」
クロミカゲは頷いた。
「そして、お前はその約束を守った」
ルカは懐中時計を見た。針がわずかに動いている。七時四十三分。一分だけ進んだのだ。かつて父が「時間は記憶の流れを映す鏡だ」と語っていたことを思い出す。
「時間が…動き始めた」
「ああ。記憶が戻り、封印が解けたからだ」
ルカは立ち上がり、現像室を見回した。壁の鏡は普通に戻り、床の魔方陣も光を失っていた。しかし、部屋の雰囲気は以前と違う。より明るく、より開放的に感じられる。窓から差し込む光が、以前よりも鮮やかに見える。父が最後に撮った家族写真が壁にかかっている気がした。
「でも、扉の向こうで見たもの…あれは何だったの?」
「それは…」
クロミカゲが言葉を切ったとき、現像室の扉が開いた。風見蓮が心配そうな顔で顔を覗かせている。彼の手には小さな機械と、祖父の日記らしきノートがあった。
「ルカさん!大丈夫ですか?」
「蓮さん…」
「写真館が揺れて、光が見えたので…」
彼は現像室に入ってきた。ノートを開き、何かのデータを記録している。クロミカゲの姿は彼には見えていないようだが、蓮の目は部屋の異変を感じ取っているようだった。耳を澄ませば、彼の周りに時間の軋む音が微かに響いているのが聞こえた。
「僕の計測器が振り切れました。祖父の記録にも、『記憶の波動』が最高潮に達すると空間が振動すると…」
彼は熱心にデータを記録し、しばらくして顔を上げた。ノートを開きながら、「祖父は科学で測ろうとしたものを、僕は今、目の前で感じている」と呟いた。
「何があったんですか?」
「ちょっとした…記憶の整理」
ルカは微笑んだ。これまでにないほど自然な笑顔だった。蓮の存在が、現実に戻ってきた感覚を強めてくれる。彼は「普通の人間」として、彼女を現世に繋ぎとめる錨のような役割を果たしていた。母が「人と人との絆は、決して記憶だけでは作られない」と言っていたことを思い出す。
「本当に大丈夫ですか? 顔色が…」
彼はルカの手を取り、脈を確かめるように親指で手首を軽く押さえた。その優しさに、ルカは感謝の気持ちを覚えた。
「ええ、むしろ良くなったくらい」
蓮は彼女をじっと見つめた後、安心したように肩の力を抜いた。しかし、その目は鋭く部屋の隅々まで観察している。蓮の存在が彼女に現実感を与えてくれる。失われた10年間の記憶の喪失感の中で、新たな繋がりの温かさを感じた。
「何か…見えませんか?」ルカが尋ねた。
「いいえ、見えはしません。でも感じます」彼は静かに答えた。「祖父と同じように」
「良かった。あなたがいてくれて良かった」
ルカは素直に気持ちを伝えた。蓮の頬がわずかに赤くなった。彼はルカがこれほど率直に感情を表現するのを見たことがなかった。失われた記憶と引き換えに、彼女は少しずつ感情を表現する術を取り戻しつつあった。
「そろそろ、準備をしなくちゃ」
ルカは現像室を出ようとした。蓮の手をそっと握り、クロミカゲに頷きかける。
「準備?」
「ええ。明日から、私たち…新しい旅を始めるの」
「新しい旅?」
「そう。記憶をすべて失った村を探す旅」
彼女の声には確信があった。扉の向こうで見たもの、感じたことが、彼女に新たな使命を与えたのだ。そして、耳の奥で風の音が囁いた—「心の欠片」「霊の欠片」「封印の欠片」という言葉が、風に乗って届いてくる。
「行きます」蓮は迷わず言った。「僕も一緒に」
ノートを閉じ、彼は真剣な表情でルカを見つめた。
「僕の祖父も、その村のことを探していました。記録によれば、霧梁県の北部に存在するはずです。彼は『記憶の波紋』と呼ばれる現象を研究していて、夕霧村で何かを発見したようです」
「夕霧村…」ルカは静かに言葉を繰り返した。その名前は知っているはずなのに、記憶が霧の中にあるようで、捉えどころがない。
「ありがとう」
ルカは心からの笑顔を蓮に向けた。彼女の目に涙が光っていたが、それは悲しみの涙ではなく、感動の涙だった。父の「写真は感情の記録だ」という言葉が心に響く。




