第93話 現像室の奥の扉
霧が渦を巻き、一つの形を作り始めた。それはチヨの姿だった。彼女は儀式の時と同じ巫女装束を着ている。色彩が反転し、白い小袖が黒く、赤い袴が青く見える。
「姉さん…」
しかし、それはクロミカゲの一部が形作ったものだった。
「私の中のチヨの意識が、この形を取った。お前に見せたいものがある」
チヨの姿をしたクロミカゲは、霧の向こうを指さした。そこには一つの扉が浮かんでいた。古い木製の扉。父が仕事部屋に使っていた部屋の扉によく似ている。光と影が交錯し、扉自体が呼吸をするように膨張と収縮を繰り返している。
「視覚化して理解しやすくするため、チヨの姿を借りている。私の中の彼女の意識は独立した存在ではなく、クロとの融合体の一側面だ。この姿は一時的なもので、純粋にチヨ自身ではない」クロミカゲはルカの混乱を察したのか、説明を加えた。
「現像室の奥の扉」
彼女は呟いた。写真館の現像室には、普段は見えない扉があると言われていた。「記憶の深淵」と呼ばれる空間への入口。橋爪家の書物に記された、伝説の扉。父もよく話していた、魂写機の本当の秘密を隠した扉。
「その扉の向こうに、最後のピースがある」
「最後のピース?」
「ああ。お前の記憶を完全にするための、そして…私たちの真の姿を知るための」
「写し世の深淵は記憶の最深部。この場所は通常、生きている人間が訪れることはできない」クロミカゲの声が説明を加えた。「だが、お前は影写りの巫女の血を引く者。その力が目覚めれば、この場所との交流が可能になる」
ルカは扉に向かって歩き始めた。霧の中の記憶の断片が、彼女に触れるように寄ってくる。幼い頃に両親と過ごした夏祭り、学校での忘れかけていた友人との思い出、写祓の最初の成功体験…それぞれが彼女の心を揺さぶり、時に喜び、時に悲しみをもたらす。父が魂写機の使い方を教える声が聞こえ、母が写真の美しさを語る言葉が響く。
父が「写真は感情の結晶だ」と語り、母が「記憶は水の流れのよう」と囁く声も、鮮明に蘇ってきた。
霧の中から、写真館のミニチュアや両親の作業部屋が浮かび上がり、記憶の舞台を多様に彩る。父がチヨを救うために欠片を探す姿、母が静かに祈る後ろ姿—これまで彼女が知らなかった記憶の断片までもが甦る。
しかし不思議なことに、どれだけ歩いても扉との距離は変わらないように感じる。歩けば歩くほど、扉が遠ざかるような錯覚。
「どうして…近づけないの?」
「お前自身が拒んでいるからだ」
チヨの姿が彼女の横に現れた。色彩が反転した世界で、その姿だけが本来の色彩を保っていた。温かく、懐かしい色合い。
「心のどこかで、真実を知ることを恐れている」
「そんなことない…私は姉さんを取り戻すために、すべてを捧げたわ」
「それは間違いない。だが、お前は他の何かも恐れている」
チヨの指が彼女の胸に触れた。その接触で、ルカの胸が熱くなる。鼓動が早まり、呼吸が浅くなる。
ルカは立ち止まり、自分の内面を見つめた。何を恐れているのだろう。姉を失うこと? 記憶を完全に失うこと? それとも…
胸が締め付けられる感覚。両親の葬儀で流れた曲が耳に蘇る。父のカメラを撮る手が止まり、母の微笑みが消え去った日。チヨがいなくなった後の孤独な夜々。感情を抑え込み、冷静を装った日々。自分の心に蓋をして生きてきた時間。
「私は…自分自身を恐れているの?」
「そうかもしれない」
チヨの姿をしたクロミカゲが彼女の肩に手を置いた。その手から温かさが伝わってくる。母の手のぬくもりに似た、安心感を与える温かさ。
「夢写師として、お前は常に他者の記憶と向き合ってきた。だが、自分自身の記憶とは真剣に向き合ってこなかった」
それは確かに真実だった。ルカは自分の感情を抑え、他者の記憶を写し取ることに集中してきた。自分自身の記憶や感情を深く掘り下げることを避けてきたのだ。
「過去の巫女たちは記憶を守ることに専念してきた」チヨの姿が静かに語った。「だが、お前には別の可能性がある。記憶を創る力だ」
「記憶を…創る?」
「そう。記憶を守るだけでなく、新たな記憶を創り出す。それこそが、次の段階の影写りの巫女の使命」
幼い頃のルカの姿が霧の中に浮かぶ。泣き叫ぶ少女、感情を爆発させる子供。そして次第に表情が硬くなり、感情を閉ざしていく少女の姿。
「感じると傷つくから…」彼女は呟いた。「だから、感じないように…」
父が仕事に没頭し、母が黙って家事をこなす姿。両親が喪失感から立ち直れず、少しずつ生気を失っていく様子。そして、残されたルカが必死に感情を押し殺し、普通の顔をして生きようとする姿。彼女は両親の葬儀でさえ、涙を見せることができなかった。
「あなた自身も強い人だったけれど、チヨを忘れたとき、感情も一緒に閉じ込めてしまったのね」チヨの姿が溜息交じりに語った。
「私が向き合うべきこと…それは…」
ルカの脳裏に、様々な記憶の断片が浮かび上がる。両親との記憶、チヨとの思い出、孤独だった日々、そしてクロとの出会いと旅。すべての記憶が彼女の中で重なり合う。
「感情を抑えなくていいんだよ、ルカ」
その言葉が、彼女の心の奥深くから蘇ってきた。チヨは常に彼女に言っていたのだ。感情を表現することの大切さを。それは決して弱さではなく、強さなのだと。父も母も、本当は同じことを伝えようとしていた。
ルカの目から涙があふれ出た。これまで抑え込んできた感情の波が、彼女を押し流す。悲しみ、喜び、怒り、恐れ、そして愛。あらゆる感情が一度に解放される。その感情の奔流は一気に押し寄せるものではなく、長い間閉ざされていた扉が少しずつ開いていくような感覚だった。
「私は…自分の感情を恐れていた」
ルカは静かに認めた。両手で顔を覆い、肩を震わせる。
「感じると傷つくから、感じないようにしてきた。でも、それは半分の生き方だった」
チヨの姿をしたクロミカゲが彼女を抱きしめた。
「そう、ルカ。感情を恐れる必要はない。感情こそが、人間の証だから」
その言葉は、父が写真を撮る意味について語った言葉と重なる。「写真は感情を写すものだ。感情が宿らなければ、ただの絵に過ぎない。」
ルカは涙を拭い、決意を固めた。そして、彼女は少しずつ感情を受け入れ始めた。一度に全てではなく、一歩一歩、自分自身と向き合っていくという決意。再び扉に向かって歩き始めた。今度は、扉が少しずつ近づいてくる。彼女の決意が、扉を引き寄せているかのように。「ルカの感情解放が写祓の最終段階」という認識が彼女の中に生まれる。
「そう、その調子だ」
ルカの背後でチヨの声が励ました。それは母が初めてカメラを持たせてくれた時の声と重なる。「怖がらなくていいよ。自分の目で見たものを写せばいい。」
「自分自身を受け入れれば、扉は開く」
扉の前に立ったルカは、深く息を吸った。その扉の向こうに何があるのか、まだ分からない。しかし、もう逃げることはない。魂写機を通じて写し世と対話する感覚が彼女を包み込む。
「姉さん…わたし、もう逃げないよ」
彼女はノブに手をかけた。手が震え、胸がドキドキする。恐れもある。だが、その恐れに負けない決意がある。
「感情を抑えなくていいんだよ」とチヨの言葉が心に響く。それは父と母の言葉でもあった。
「写祓には二つの段階がある」チヨの形をしたクロミカゲが静かに語った。「まず記憶を結晶として写真に定着させる『結晶化』。そして次に、その記憶が実体を持って現れる『具現化』。お前はこれまで結晶化しか成し遂げていなかった。だが今、感情を解放することで、具現化の扉が開かれようとしている」
ルカは扉を開いた。
まばゆい光が彼女を包み込み、意識が再び遠のいていった。光の中から、父の笑顔と母の優しい目が浮かび上がり、チヨの手が彼女を導くように伸びてきた。




