第92話 懐中時計の秘密
ルカは震える手で胸ポケットから懐中時計を取り出した。針は七時四十二分を指したまま。しかし、昨夜からわずかに動いているような気がする。七時四十三分。表面に刻まれた模様が、魔方陣の光に反応して青く輝いている。父が大切にしていた、祖父の形見の時計だった。
「これは封印の瞬間を指している」
クロミカゲが説明した。
「チヨがお前に最後に渡したもの。『時間が止まっても、記憶は流れ続ける』という思いを込めて」
「チヨの時計が魂写機と共鳴し、私の記憶を呼び覚ます」とルカは感じた。クロミカゲが「チヨの意識がルカの記憶を写し世に繋いだ」と補足する。
ルカは時計をじっと見つめた。チヨの最後の言葉が耳に蘇る。「わたしのこと、ずっと覚えていてね」
時計を鏡に向けた。瞬間、時計と鏡が共鳴するように光を放った。まるで父のフラッシュが焚かれたように、まばゆい閃光が部屋中を包む。
「何が…」
現像室全体が震動し始めた。床の魔方陣が強く輝き、鏡の映像が流動的に変化していく。現在と過去、現実と記憶が入り混じっているようだ。ルカの足下で床が揺れ、天井から砂埃が落ちてくる。遠くから時計の振り子が大きく揺れる音が響き、耳の奥で時間の軋む音が強まった。
「記憶の深淵が開いている。時の狭間の最深部だ」
クロミカゲの声にも動揺が混じった。その姿がさらに不安定になり、チヨとクロの姿が交互に現れては消える。
「これは予想外だ。お前の記憶の再構築と、私の誕生が相互に影響し合っている」
心の奥で、何かがほどけていくような感覚。長年縛られていた鎖が解き放たれるような解放感と、同時に恐怖も感じる。ルカの中で感情の洪水が押し寄せてきたが、今回は抑え込もうとはしなかった。父の「感じることから逃げてはいけない」という言葉が心に響く。少しずつ、彼女は自分の感情と向き合い始めていた。
「クロミカゲ、あなたは?」
「大丈夫だ…チヨの意識が強くなりすぎているだけだ。彼女もまた、お前との約束を果たそうとしている。ルカの巫女の力で私の存在が安定する」
床から光の柱が立ち上がり、天井の月見窓に向かって伸びていった。それは現像室を完全な写し世空間へと変容させつつあった。部屋の色彩が反転し始め、暗いはずの部分が明るく、明るいはずの部分が暗く見える。すべての音が反転したように、静寂の中に強烈な音の波が押し寄せてくる。
「もう少し続ければ、あなたも巫女の境界に引き込まれるかもしれない」クロミカゲが警告した。「肉体を持つ者が時間の波動に長く晒されると、精神が現世から切り離される危険がある。でも…これはあなたにとって必要な試練かもしれない」
「どうすれば…」
言葉が終わる前に、光が爆発的に広がり、ルカの視界が白く染まった。
意識が戻ったとき、彼女は見知らぬ空間に立っていた。無限に広がる白い空間。床も壁も天井もなく、ただ白い霧のようなものが漂っている。耳を澄ますと、霧の奥から遠い笑い声が聞こえてくる。母と父と姉と自分、四人の家族の笑い声。これが時の狭間の最深部、記憶の深淵なのだと直感的に理解する。
「ここは…」
「記憶の深淵だ」
クロミカゲの声が聞こえたが、その姿は見えない。声だけが空間に反響するように響く。遠くからは時間の波紋が小さな水滴の音を立てて広がっていく。
「お前の記憶の最深部。時の狭間の中で最も深い場所だ。通常、生きている人間が訪れることのできない場所。肉体を持つ者は時間の波動に耐えられないため、この場所に辿り着くことは難しい」
ルカは周囲を見回した。霧の中に、様々な映像の断片が浮かんでいる。それぞれが彼女の記憶の一部だ。子供の頃の遊び、学校での出来事、写祓の儀式、そして両親との思い出。父が初めて小型カメラを手渡してくれた日の喜び、母が写真の現像を教えてくれた夏の夕暮れ、両親とチヨと四人で撮った最後の家族写真。特に鮮明なのは、父が「写真は心の鏡だ」と語った夜の記憶だった。彼は魂写機を手に取り、ルカの肩に手をかけて、「いつか、この焦点の先に別の世界が見えるようになるだろう」と静かに言ったのだ。
歩くと、足下に波紋が広がり、色が反転する。歩いた後の足跡が黒く残り、ゆっくりと元の白に戻っていく。時間の感覚が歪み、言葉が引き伸ばされて聞こえる。記憶の霧が彼女の記憶に応じて色を変化させる—両親の思い出は暖かな赤とオレンジ、孤独の記憶は深い青へと。
「なぜ私がここに?」
「お前は特別だ。夢写師として、そして…封印の鍵を持つ者として」




