第90話 現像室へ
朝食を終え、片付けを終えたルカは、ふと思い立った。心臓が早鐘を打ち、手のひらに汗がにじむ。何かに呼ばれているような感覚が、彼女の全身を駆け巡る。遠くから母の「行っておいで」という声が聞こえるような錯覚さえある。
「現像室に行かなきゃ」
クロミカゲは少し驚いた表情を見せた。右目の紋様が強く輝き、表情が一瞬チヨのものに似た柔らかさに変わった。
「なぜだ?」
「なんだか…呼ばれている気がするの」
ルカはその感覚を言葉にするのが難しかった。心の奥から聞こえる声、魂の呼応のような感覚。父が古いカメラを初めて触らせてくれた時の高揚感、母が写真整理を手伝ってくれた時の温もり、そんな感覚が混ざり合っている。しかし、その衝動に従わずにはいられなかった。
「くらやみ」と呼ばれる現像室へと向かった。土蔵を改造したこの空間は、写し世との境界が最も薄い場所。橋爪家代々の夢写師が、写祓の儀式を行ってきた聖域だった。扉に手をかけると、その木の感触がいつもより温かく感じられた。まるで生きているかのように、木目が脈打っているようだった。
扉を開けると、中は普段より暗く感じられた。窓から差し込む光も弱く、壁の鏡は曇っているようだった。まるで深い水の底にいるような、圧迫感と浮遊感が同時に訪れる。頭の奥に、父が好きだった古い歌が流れ始めた。部屋中に埃と古い薬品の匂いが漂い、床には過去の写真師たちが残した足跡の痕が微かに見える。壁に並ぶ写真から、かすかな囁き声が聞こえるかのよう。
「おかしいわね…」
ルカは懐中電灯を点け、中に入った。クロミカゲも黙ってそれに続く。
現像室の中央に立つと、ルカは違和感を覚えた。床に描かれた魔方陣が、かすかに光を放っている。まるで、何かの儀式が今まさに始まろうとしているかのように。「奥宮の光が現像室に繋がっている」という感覚が彼女を包む。空気が重く、粘りつくような感覚がある。呼吸するたびに、胸が締め付けられるような痛みが走る。そして、耳の奥では時間の軋む音が次第に大きくなっていく。
「これは…」
「記憶の深淵が開こうとしている」
クロミカゲの声に緊張が混じった。その姿が揺らぎ、一瞬チヨとクロの二人の姿が重なって見えた。
「私の中のバランスも崩れている…」クロミカゲは苦しげに呟いた。「チヨの意識がルカの記憶に共鳴し、俺の力を制限する。この場所が、彼女の記憶を刺激するんだ」
「大丈夫?」ルカが心配そうに問うと、クロミカゲは小さく頷いた。
「チヨの記憶と意識は私の中核だが、クロの力と意志がそれを包み込み、形を与えている。だが時に、強い感情や場所の力によって、このバランスが崩れる。今、お前の記憶が再構築される過程で、現像室も反応している。深層の記憶が浮かび上がろうとしているんだ」
その言葉に呼応するように、床の魔方陣の光が強まった。同時に、壁の八つの鏡がそれぞれ異なる光景を映し始める。鏡の表面が波打ち、液体のように揺らめいている。まるで母の化粧鏡に映る幼い自分のように、懐かしくも不思議な感覚だった。
「これは…私の記憶?」




