第9話 湿板の儀式
ルカは「魂写機」をセットし、調整した。今夜は穏やかな記憶ではなく、消された存在。乾板では不十分かもしれない。彼女は迷った末、湿板コロジオンの準備を始めた。
「湿板を使うのは久しぶりだな」
ガラス板にコロジオン(ヨウ化物含む)を流し、硝酸銀の溶液に浸す。橋爪家の「影コロジオン」には、影向稲荷の狐火の灰が混ぜられ、魂の強い感情を吸収する特性があった。硝酸銀の液から引き上げた湿板から、銀色の液体が滴り落ちる。その瞬間、現像室の一角が青緑の霧に包まれた。
「月が欠けていく夜...魂が浮かびやすい時」
彼女は呟きながら、湿板を丁寧にカメラの暗箱に設置した。湿板は15分以内に撮影と現像を完了しなければならない。時間との闘いだ。失敗すれば、佐助の強い感情が彼女自身の記憶を侵し、歪めるかもしれない。写し世の魂は時に現世の記憶を奪う。ルカの胸に不安が渦巻いたが、彼女は表情を変えなかった。
「チクワ、窓から出ていって」
猫は従順に月見窓の下に移動した。それでも金色の瞳は警戒心に満ち、何かを待ち構えるように見えた。窓から差し込む月の光が、床の魔方陣を明るく照らし出す。ルカは河内の写真を特殊なライトボックスに置き、上からカメラを構えた。
「影よ、形よ、記憶のかけらよ——」「写祓、始めます」
儀式的な低い声で告げると、彼女は目を閉じた。三呼吸して、ゆっくりと瞼を開ける。その瞬間、灰銀の瞳の色が僅かに濃くなった。青みを帯びた銀色へと変化する。影写りの巫女の血が、目覚めるような震え。ピントグラスを覗き込むと、そこには単なる写真の姿だけでなく、淡い光の残響が見える。
シャッターを切る。カシャリ。
その音は写し世の境界を震わせ、ルカの感情抑制を一瞬解き放った。乾板に光が定着する瞬間、現像室の空気がさざ波のように揺れた。壁の鏡が同時に振動し、それぞれに異なる映像が浮かび上がる。一つには川で遊ぶ子供たち、別の鏡には悲しむ家族、また別の鏡には埋葬の風景。チクワが背筋を伸ばし、耳を立てる。
鏡の一つに、一瞬だけ白い小袖の少女が映った気がした。短い黒髪、優しい笑顔。ルカは目を瞬いた。その姿はもう見えない。
「出てきて」
ルカは静かに呼びかけた。写真の空白部分が微かに霞み始める。霧が渦を巻き、人の形に凝縮されようとしている。
「あなたの名前は?」
霞の中から、少年の姿がおぼろげに浮かび上がった。十歳ほどの少年。しかし表情はなく、目は虚ろだった。かつて存在していた証が、この世界に溶け出してくる。
「わたしはルカ。夢写師。あなたの記憶を写し、浄化するために来ました」
少年は口を開いたが、音は聞こえない。唇の動きから、彼は何かを懇願しているようだった。その言葉は空気を伝わらず、ただ波紋だけが広がる。と思った瞬間、少年の影が激しく震え始めた。
「見ないで!」
突然、声が現像室に響き渡った。チクワが驚いて跳び上がり、ルカも思わず後ずさった。鏡がきしみ、現像室の温度が急降下した。霜が窓ガラスに走り、ルカの吐く息が白く凍る。
「佐助、怖がらないで」
ルカは震える手で、硝酸銀の滴る湿板を再びセットした。時間との闘い。15分の制約が彼女の緊張を高める。心拍数が上がり、感情が揺らぐ。この子の悲しみが、彼女自身の中にある何かと共鳴している。幼い頃に感じた喪失感、誰かを忘れることの恐怖。彼女は深呼吸し、自らを落ち着かせた。写し世の感情に飲み込まれれば、写祓は失敗する。最悪の場合、彼女自身が記憶を失う。
「もう一度」
シャッターを切る。カシャリ。
この瞬間、時間の流れが変化する。現像室の柱時計の針が逆回りを始め、やがて止まった。七時四十二分を示している。ルカはそれに気づかず、少年に集中していた。
少年の姿がより鮮明になる。唇が色づき、目に光が宿り始める。だが同時に、その表情に怒りが浮かび上がった。
「なぜ私だけ?みんな見て見ぬふりをした。記憶から消した。それなのに、なぜ私だけ思い出さなきゃいけないの?」