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第89話 記憶の混乱

「私の記憶は…少し混乱しているの」


ルカは額に手を当てた。昨夜の儀式で、彼女は姉を忘れていた10年間の記憶を代償として差し出した。その結果、頭の中は断片的な記憶で埋め尽くされ、時系列が曖昧になっている。父がカメラを構えた日の光景、母が花を活けていた朝の匂い、三人で撮った家族写真の温もり—それらが次々と甦る。そして、それらに混じって、父がチヨを救うために欠片を探していた姿や、母が静かに涙を拭っていた夜の記憶も。喉元まで込み上げてくる感情の波に、彼女は一瞬戸惑った。これまで感じたことのない強さで、悲しみと喜びが同時に押し寄せる。


「当然だ。記憶の再構築には時間がかかる」


クロミカゲは窓辺に近づき、外の景色を見た。その姿が窓ガラスに反射せず、直接外の景色が透けて見えることに、ルカは奇妙な感覚を覚えた。


「記憶は単純な直線ではない。螺旋状に絡み合い、時に交差し、互いに影響し合う」


クロミカゲが指で空中に螺旋を描くと、その軌跡に青い光が残り、ゆっくりと消えていった。軌跡が描く模様は、父のレンズを通して見た光の軌跡に似ていた。


「10年間の空白は大きな代償だった」クロミカゲの表情が鬱陶しさを帯びる。「その喪失が、今後あなたの人間関係にどう影響するか…見守る必要がある」


その言葉の重みをルカは感じた。失われた記憶には、もう二度と取り戻せない人々や場所、感情があるのだろう。彼女は喪失感と期待が混ざり合う複雑な思いを抱えたまま、静かに頷いた。かつての彼女なら、この混乱した感情を即座に抑え込んだだろう。しかし今は、その複雑な感情を少しずつ自分の中に受け入れようとしていた。


「でも、なぜ町の人たちは何も覚えていないの? 祭りの異変も、奥宮での出来事も」


「秘匿の霧がかかったからだ」


クロミカゲは説明した。狐神の力の一部である「秘匿の霧」は、一般の人々から超常的な出来事の記憶を隠す。それは彼らを守るためでもあり、世界の均衡を保つためでもある。


「秘匿の霧は写し世と現世の均衡を保つ自然の仕組みなんだ。過剰な記憶の漏出が現世に混乱をもたらさないよう、通常の人間の記憶から消し去る」


耳を澄ますと、遠くから鈴の音が微かに聞こえてくるようだった—過去の記憶の残響だろうか。


「風見蓮は? 彼も忘れてしまうの?」


クロミカゲの表情が柔らかくなった。


「彼は特別だ。完全には忘れないだろう。感覚として、あるいは夢として、記憶は残る」


両手を広げると、指先から微かな青い光が放たれた。


「彼の目は真実を見る力を持っている。祖父譲りの才能だ。彼の科学的な視点と記録が、秘匿の霧に溶けない錨となる」


朝食の準備をするため、ルカは一階へと降りた。チクワが彼女の足元に擦り寄り、クロミカゲに向かって親しげに鳴いた。


「チクワは私を認識している」クロミカゲは猫の頭を優しく撫でた。「動物は真実を見る目を持っている」


猫の瞳が金色に輝き、その白黒の毛並みが一瞬青く染まったように見えた。チクワはクロミカゲの手に頭をこすりつけ、懐かしむように喉を鳴らした。胸の下ではカシャリと硬い音を立てて、何かを伝えようとしているようだった。


「この猫は影向稲荷の使者だ」クロミカゲが静かに付け加えた。「夢写師の記憶を守る存在として、代々この館に寄り添ってきた」


チクワが魂写機の方向を見つめ、まるでそれを守るかのように低くうなった。彼の金色の瞳には、遠い記憶の残響が映っているかのようだった。

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