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第88話 久遠木の朝

記憶の海は深く、暗い。潜れば潜るほど、光は届かなくなる。けれど、そこにこそ真実が眠っている。恐れずに潜ろう、自分自身の記憶の底へ。そして時に、光と影のバランスを知ることが、記憶を正しく写すための第一歩となる。


夜が明け、久遠木の町に朝日が差し込む頃、写真館では奇妙な静けさが漂っていた。前夜の出来事は夢のようでありながら、確かな現実となって彼らの前に立ちはだかっている。奥宮での儀式、クロミカゲの誕生、そしてルカの選択—すべては現実だった。


ルカは二階の窓辺に立ち、町の様子を眺めていた。普段通りの朝の光景。人々は日常の営みを始め、店は開き、子どもたちは学校へと向かう。どこからか母の子守唄に似た調べが風に乗って聞こえてくるようで、幼い頃の記憶が鮮明に甦る。父が窓辺でカメラを手入れしながら微笑んでいた姿も、心の奥から浮かび上がってきた。誰一人として、昨夜この町で何が起きたのか知らないかのように。呼吸するたびに、胸の奥に重いものを感じる。これが新しい記憶と古い記憶の混ざり合う感覚なのだろうか。


「記憶は不思議なもの」


背後から声が聞こえた。振り返ると、クロミカゲが立っていた。青白い髪と金色の目、そして狐の耳と尻尾を持つその姿は、昨夜奥宮で生まれた新たな存在—チヨとクロが一つになった姿だった。朝の光を受けると、その姿は半透明になり、光が透過して虹色の光芒を放っていた。部屋の隅では時間の軋む音が微かに響き、クロミカゲの言葉に呼応するように空気が震えている。


「姉さん…いや、クロミカゲ」


「どちらでもいい」彼らは微笑んだ。その表情にはチヨの優しさとクロの知性が混ざり合っている。「私の中には、二人の記憶と意識が共存している」


クロミカゲの瞳の色が一瞬だけ変化した。右目が青く、左目が金色に輝き、次の瞬間には元に戻る。彼らの内側でも、二つの意識が調和を模索しているのだろう。まるで、遠い記憶の向こうから父と母が互いを見つめるような、親密さと緊張感が同居している。


「まだ完全に安定していないようだね」クロミカゲは自分の手を見つめた。その指先から微かな青い光が漏れ、瞬く間に消えていく。「二つの魂が一つになるには、時間がかかる」


「クロミカゲ…あなたは、姉さんでもあり、クロでもある新しい存在なのね」ルカは慎重に言葉を選びながら尋ねた。「町の人々には見えないの?」


「そうだ。私は写し世と現世の狭間に存在する者。特別な目を持つ者か、写し世との強い繋がりを持つ者だけが私を認識できる」クロミカゲは窓の外を見つめながら答えた。「チヨの記憶と魂はこの姿の核となり、クロの力と意識がそれを包み込んでいる。二つの存在が融合した新たな存在、それが私だ」


「このまま進めば、あなたは巫女の境界に引き込まれるかもしれない」クロミカゲが突然真剣な表情で言った。「写し世の力を扱えば扱うほど、現世に留まることが難しくなる。それに備えるべきだ」


ルカはその警告の重みを感じながらも、クロミカゲの姿をじっくりと見つめた。その姿は不思議と町の人々には見えないらしく、朝からの買い物に静江と出かけた風見蓮も、他の人々もクロミカゲに気づかなかった。写し世と現世の狭間に存在する者として、その姿は特別な目を持つ者にしか見えないのだ。

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