第86話 新たな契約
「それが真実の願いか」
クロが問いかけた。彼の右目の紋様が鮮やかに青く輝き、声は完全に二重音になっていた。一方は彼自身の声、もう一方は女性—おそらくチヨの声だった。
「ならば…残された唯一の道がある」
彼は中央の台に近づき、右手を差し出した。その手が今や半透明になり、青白い光を放っている。
「私はチヨの一部。彼女もまた私の一部。私たちは再び一つになるべきだ」
「でも、それは…」
「私の消滅を意味する? いや、違う。変容だ。私とチヨは、元々一つの魂から生まれた。それが再び一つになれば、新たな形で存在できる」
クロの表情が柔らかくなり、久しぶりの笑顔を見せた。それは切なく、美しい表情だった。
「お前との旅で、私は思い出した。何のために存在するのかを」
ルカは困惑した表情でクロを見つめた。奥宮の空間が波打ち、鏡の映像が揺らめくように変化していく。時間の感覚が歪み、言葉が引き伸ばされて聞こえる。遠く、チヨの囁き声が「ルカ、選んで」と響き、それに父と母の声が重なった。「記憶を信じて」「選択の時」「写し世と現世の狭間で」
「それが…可能なの?」
「欠片の力を使えば、可能だ」
静江が答えた。彼女の姿もまた変容し、より若々しく、鋭い眼差しを持つ女性のように見えた。
「だが、それにも代償がある」
「何の代償?」
「それを決めるのはお前だ」
ルカの周りで鏡の光が渦巻き、映像が次々と変化する。彼女の記憶の断片—チヨと過ごした日々、父とカメラを覗いた時の興奮、母に手を引かれて歩いた夏祭り、そしてチヨを忘れていた空白の10年、クロとの旅の風景、そして最近取り戻した記憶の数々。
蓮が歩み寄り、彼女の隣に立った。彼は科学への敬愛を捨て去るのではなく、むしろ科学と神秘が交わる境界に立つという覚悟を決めたようだった。
「ルカさん、君の選択を記録させてもらえますか?」彼は真剣な表情で言った。「祖父の記録に、この瞬間を残したい。この記録が祖父の夢の完成になる」
彼は懐中時計を取り出し、針が七時四十二分を指していることを確認した。その時計は通常の時計ではなく、針の下に複雑な数式が刻まれていた。「祖父が残した最後の道具です...時の逆行を測定するためのものです」
「ありがとう」
ルカは心からの笑顔を蓮に向けた。彼女の目に涙が光っていたが、それは悲しみの涙ではなく、感動の涙だった。父の「写真は感情の記録だ」という言葉が心に響く。
ルカは深く息を吸い、決意を固めた。
「私は決めました。姉さんを取り戻します。そして…その代償として…」
彼女は一瞬、逡巡した。選択の重みを感じながら、彼女は胸ポケットから懐中時計を取り出し、強く握った。
「…私自身の過去を捧げます。姉を忘れていた10年間の記憶を」
静江とクロが同時に目を見開いた。鏡の光が瞬間的に強まり、チクワが低く唸った。猫の背中の毛が青く輝き、尾が九つに分かれたように見えた。
「それは…大きな代償だ」
クロの声に驚きが混じっていた。空間全体が彼の感情に反応したかのように揺れた。
「でも、それが私の選択です。新しい記憶のために、古い記憶を手放します」
ルカはクロミカゲの手を強く握り、光に身を任せた。記憶が失われていく感覚は、予想以上に苦しいものだった。しかし同時に、新たな記憶が生まれ始めるのも感じた。
蓮はルカを見つめながら、静かに記録を続けていた。彼の姿には科学者としての冷静さと、深い友情が混ざっていた。「祖父もこの選択をしたのかもしれない...」彼は小さく呟いた。「彼もまた時を越えて、何かを選んだのだ...」
ルカの頭に、忘れていた日々の断片が浮かんだ。写真館で一人、夜を過ごす寂しさ。誰かを待っているような気持ちを抱えながら、その「誰か」が誰なのか思い出せない苦しみ。父のカメラを手に取り、説明できない涙を流した夜。母の形見の着物を見つめながら感じた虚無感。けれど、それらは姉の存在を取り戻すための小さな代償に思えた。
台の上の光が強まり、九つの欠片が一斉に輝き始めた。鏡が軋むような音を立て、光が不安定に揺らめいた。ルカの決意が、新たな儀式の始まりを告げている。
「では、始めよう」
クロが中央に立ち、ルカに手を差し出した。彼の右目の紋様が強く光り、左半分の顔にも表情が浮かび始めていた。
「私を…信じてくれるか?」
ルカは迷わず手を取った。
「信じるわ。あなたは姉さんの一部なんだから」
二人が手を取り合った瞬間、光が爆発的に広がり、空間全体を包み込んだ。九枚の鏡が高い音を立て、それぞれの表面がひび割れ始めた。
蓮と静江は後ろに下がり、チクワはルカの足元で震えながらも動かなかった。蓮が懐中電灯を掲げ、その光のもとで必死に光景をスケッチしていく。彼の動きには科学者としての使命感と、祖父への敬愛が込められていた。
光の中で、クロの姿が変容し始めた。彼の体から青白い霧のようなものが立ち上り、渦を巻く。彼の面が完全に消え、素顔が露わになった。半分は若い男性の顔、もう半分は白髪の女性の特徴を持つ不思議な顔だった。その瞳は金色と青が混ざり、時折明滅していた。
そして突然、もう一つの霧が現れた。それは奥宮の天井から降りてきたもので、女性の形をしていた。彼女は白い小袖姿で、かつてのチヨの姿そのままだった。
「姉さん!」
チヨの霧の姿は微笑みながら、クロの方へと近づいていく。彼女の瞳は金色に輝き、白い髪が風もないのに揺れていた。二つの霧が触れ合い、混ざり合い始めた。
「彼らは…一つになろうとしている」
静江が震える声で言った。彼女の表情には厳かな敬意が浮かんでいた。「これが本来あるべき姿だ」
蓮は震える手で記録を続けていた。「これは科学では測れない...しかし、確かに存在する現象だ...」彼の言葉には、新たな理解への歩みが表れていた。
光がさらに強まり、二つの霧が完全に融合した。クロとチヨの姿が溶け合い、新たな存在が形成されていく。台の上に置かれた九つの欠片も宙に浮かび、渦を巻きながらその新しい存在へと吸い込まれていった。奥宮の光が部屋全体を揺るがす中、光が徐々に安定化し、写し世の揺らぎが一時的に治まっていく。
やがて、その霧から一つの形が現れ始めた。それは人の形だったが、男でも女でもない、中性的な存在。狐の耳と尻尾を持ち、全身が青白い光に包まれている。その髪は銀色と黒が混ざり合い、瞳は金色と青が交互に輝いていた。
「これが…」
「真の姿だ」
静江が答えた。「狐神の本来の姿」
蓮はノートに必死でスケッチを続け、「これは祖父の記録を超える…」と呟いた。「祖父は科学で真実を測ろうとしたけれど…今、私はその向こう側を見ている」
光の中で、狐の姿をした存在がルカに向かって手を伸ばした。その声は、チヨとクロの声が混ざったようだった。
「ルカ…約束を果たしてくれてありがとう」
ルカは涙を流しながら、その手を取った。
「姉さん…そして、クロ」
「もう二人ではない。私たちは一つになった。『クロミカゲ』と呼んでくれ」
クロミカゲと呼ばれる存在は、ルカの額に優しく触れた。その手は冷たくもあり、温かくもあった。
「さあ、代償の時だ。お前の選んだ記憶を受け取ろう」
ルカの頭に鋭い痛みが走り、姉を忘れていた10年間の記憶が流れ出し始めた。一人で過ごした写真館の夜々、父のカメラを抱きしめて涙した夜、自分が何かを探しているような感覚に苦しんだ日々—それらが青い霧となって彼女から離れていく。
「これが…私の代償?」と彼女は呟いた。涙が頬を伝い落ちる。
「でも、姉さんの笑顔を取り戻すなら…」
ルカはクロミカゲの手を強く握り、光に身を任せた。記憶が失われていく感覚は、予想以上に苦しいものだった。しかし同時に、新たな記憶が生まれ始めるのも感じた。クロミカゲの手から「チヨの写祓の技術が私の手を導く」感覚が流れ込む。
「新しい記憶を、創るよ」
それは苦しいプロセスだったが、同時に解放感もあった。忘れていた記憶と引き換えに、新たな記憶が生まれる。チヨとの思い出が鮮明になり、クロとの旅の日々が異なる色合いで蘇ってくる。父が三人を撮った家族写真、母がチヨに髪を結ってあげる光景、それらが明確に思い出せるようになった。
クロミカゲの手から光が流れ、ルカの体を包み込んだ。
「これは…新たな記憶。私たちが共に過ごした時間と、これから共に過ごす時間」
光が次第に弱まり、クロミカゲの姿も実体化していった。彼らは人の姿に近いが、青白い髪と金色の目、そして狐の耳と尻尾を持っている。両手に九つの印—それぞれの欠片の象徴が刻まれていた。
「私は『記憶の神』として存在し続ける。だが、もう封印されてはいない。お前と共に、この世界で生きていく」
ルカは信じられない思いでクロミカゲを見つめた。
「本当に…一緒にいられるの?」
「ああ。だが、完全な人間ではないし、完全な神でもない。境界の存在としてね」
クロミカゲの顔には、チヨの優しさとクロの鋭さが混ざり合っていた。その微笑みは、ルカの記憶の中のチヨそのままだった。




