第85話 ルカの選択
鏡の光が揺らめき、映像が再び変化する。次第に、チヨの姿が浮かび上がってきた。白い小袖姿の彼女は、微笑みながらルカを見つめていた。その映像は現像室の扉が一瞬映るビジョンへと変わり、クロが「ルカの記憶が次の試練を呼び出す」と囁いた。
「姉さん…」
ルカは思わず手を伸ばしたが、それは幻に過ぎなかった。手は鏡面を通り抜け、冷たい感触だけが残った。彼女の心は苦しみと喜びが入り混じり、震える感情に満ちていた。自分に押し込めていた感情が、堰を切ったように溢れ出していく。
静江が前に出た。
「さあ、選択の時だ。チヨの手紙にあった通り、二つの道がある」
彼女は中央の台に手を置いた。その手から淡い光が広がり、床に描かれた九角形が浮かび上がった。
「封印を強化するか、解くか。どちらを選ぶ?」
ルカは震える手で、チヨの手紙を再び取り出した。姉の言葉を読み返す。空間全体が波打つように揺れ、時間の流れが歪んでいるのを感じた。彼女の胸が締め付けられるような痛みを覚える。10年間のチヨを忘れた孤独な夜々、写真館での空虚な時間が脳裏に浮かぶ。
「私には…どんな権利があるの? 姉さんの意志を尊重すべきでは?」
その言葉を口にした瞬間、鏡からの光が不安定になり、揺らめいた。壁の影がさらに濃くなり、室内を這うように動き始める。時間の軋む音が強まり、それに混じって誰かの囁きが聞こえた。
「その考えも理解できる」
静江は静かに言った。
「だが、チヨ自身がお前に選択を委ねたのだ。それが彼女の最後の意志だった」
蓮は黙ってルカを見つめていた。彼の眼鏡に映る光が鏡の反射と共に揺らめき、彼の表情にはルカへの深い共感が浮かんでいた。「私たちには選択する権利と義務がある...祖父もまた選択を迫られた...」彼は小さく呟いた。「その選択が何であれ、あなたを支えます」
ルカは深く考え込んだ。封印を強化すれば、チヨは写し世に留まり、記憶の守護者となる。解けば、チヨは現世に戻れるが、狐神の力も解放される。どちらを選んでも、何かを失うことになる。どんな選択にも代償があるのだ。
「どちらにも…代償がある」
「すべての選択には代償が伴う」
クロがチヨの言葉を繰り返した。彼の姿が一瞬、半透明になり、チヨの面影が重なって見えた。彼の右目の紋様が強く脈打ち、異様な青い光を放っていた。その光は鏡と反射し合い、複雑な光の模様を壁に映し出していた。
静江が付け加えた。
「ただし、もう一つの道もある」
「もう一つ?」
「ああ。それは…欠片をすべて使い、新たな契約を結ぶことだ」
ルカは驚いて静江を見た。
「新たな契約?」
「ルカ、お前はすでに五つの欠片を手に入れた。それぞれの代償を払ってきた。その経験が、お前に新たな道を開いたのだ」
鏡の光が一段と強まり、室内が揺れた。床の欠片も微かに輝き始め、それぞれが中央へと光の筋を伸ばした。その光に照らされた壁に、チクワの影が大きく映り、九つの尾を持つ狐の姿へと変容していった。
チクワは興奮したように鳴き、ルカの足元を走り回った。その動きが猫のものでないように見えた。優雅で力強いリズムがあり、まるで儀式の舞を踊っているようだった。背中の毛が青く輝き、尾が九つに分かれて見える瞬間があった。
蓮が前に出た。彼の眼鏡に光が反射し、複雑な光の模様を映している。彼の表情には、科学者としての冷静さと、人間としての温かさが混在していた。
「僕にはよく分からないけれど…ルカさんが本当に望むのは何ですか?」
彼の質問は単純だが、核心をついていた。ルカは自分の心の奥深くを見つめた。今までの旅の中で見てきたもの、感じたこと、欠片を得るために失ったもの—それらすべてが彼女の中で結びついていく。幼い頃の両親との記憶も、少しずつ鮮明によみがえってきた。父のカメラ、母の優しい手、そして姉の笑顔。
「私が望むのは…姉さんと共に生きること。でも、それが無理なら…せめて記憶を完全に取り戻したい」
彼女の言葉に呼応するように、九枚の鏡が一斉に強く輝いた。蓮はすかさずノートに何かを書き留め、光の模様をスケッチしている。
「これは祖父の記録にあった『記憶の波動』だ…」彼は興奮した声で呟いた。「光のパターンが記憶を映し出している!」




