第84話 狐神の真の姿
「私の正体を話す時が来た」
クロの声が変わった。以前より柔らかく、どこか女性的な響きも混じる。彼の右目の紋様が強く輝き、言葉を発するたびに微かな二重音が聞こえた。その体の輪郭が揺らぎ、時折半透明になる瞬間もあった。今日の祭りと昨日の地下鉄での儀式が、彼の存在そのものを不安定にしているようだった。
「私は…狐神の片割れだ」
ルカは息を呑んだ。彼の正体についてはうすうす感じていたが、それを聞くのは衝撃的だった。部屋の光が不安定になり、鏡の反射が揺らめいた。蓮のノートのページが風もないのにめくれる。彼は急いでそれを開き、震える手でスケッチを続けた。「祖父が探していたものはこれか...」と彼は小さく呟いた。
「十年前、チヨが狐神を封印した時、その力は分割された。九つの欠片と…二つの意識だ」
「二つの意識?」
「ああ。一つはチヨの中に。もう一つが私だ」
クロは自分の顔、特に右目の紋様に触れた。その仕草には、自分自身への違和感が表れていた。右手が震え、彼の体は波のように揺らめいていた。
「私はチヨと対をなす存在。彼女が『記憶を守る』役割なら、私は『記憶を変える』役目を持つ」
彼は窓から射す月明かりに手をかざした。光が彼の手を通り抜け、壁に狐の影を作り出す。奥宮の鏡に、九つの尾の影が一瞬映り、部屋中の光が揺らめいた。
「最初はただ…混乱していた。自分が何者なのか、どこから来たのか、何のために存在するのか…」
クロの声には苦悩と孤独が滲み、彼の右目から一筋の涙が流れ落ちた。彼の体が震え、右手を握りしめて感情を抑えようとする仕草が見えた。面の下では表情が何度も変わり、男性の顔と女性の顔が交互に浮かんでは消えるようだった。
「冬の厳しい夜、ルカの前に現れたのは…偶然ではなかった。私は他の欠片と繋がりがあり、お前が姉を探していると感じた。だから導き役として接近した。だが、自分自身も何かを探していた。自分の欠けた部分を…」
彼の言葉には痛切な後悔の色が込められていた。右目の紋様が強く脈打ち、青い光が部屋中に投影される。月光の下で彼の影が九尾の狐の形に変わり、壁に映し出された。まるで彼の本当の姿が顕現しようとしているかのようだった。
ルカは困惑した表情を見せた。
「でも…なぜ私を導いたの? あなたの目的は?」
クロは一瞬、目を伏せた。その表情には罪悪感と、何か言い難い感情が混ざっていた。彼女が鏡を差し出した夜を思い出したように、遠い記憶を辿るような表情だった。
「最初は…欠片を集め、封印を解くためだった」
クロは正直に答えた。
「私は不完全だった。チヨの光を求め、彼女と再び一つになりたかった。そのためには封印を解く必要があった」
蓮が静かに尋ねた。
「でも、どうして欠片を集めるためにルカさんが必要だったんですか?」
この質問に、蓮の科学者としての分析力が現れていた。彼は感情に流されることなく、物事の本質を見極めようとしていた。
「血の繋がりだ」クロが答えた。「チヨの封印を解くには、同じ血を引く者が欠片を集める必要があった。私自身では欠片を使えない。代償を払えないからだ。すでに私自身が欠片のようなものだからね」
クロは一瞬言葉を切り、続けた。彼の言葉はますます女性的な響きを帯び、チヨの声に近づいていた。
「だが、旅を共にするうちに、私の中の何かが変わった」
彼は言葉を選ぶように間を置き、右目の紋様が強く明滅した。
「私自身の記憶が戻り始めたんだ。特に…お前の決意を見たとき」
彼はルカを見つめた。その瞳には複雑な感情が交錯していた。
「お前がチヨの記憶を守ろうとする強さを見て、私も思い出した。彼女の思いを…彼女の想いを」
「あなたの記憶?」
「ああ。私もまた、多くの記憶を失っていた。私が誰であるかを」
クロは目を閉じ、胸に手を当てた。その手が青く輝き、彼の体が半透明になる瞬間があった。
「私はチヨの一部でもある。彼女の記憶と思いを受け継いでいる」
彼の声は微かに震えていた。周囲の鏡がその震えに呼応するように、光の波紋を投げかけた。彼の言葉に従って、部屋の光の模様が変化し、壁に無数の記憶の断片が映し出されているようだった。
「彼女がお前を守りたいと願ったように、私もまた…お前を守りたいと思った。それが私の本当の願いだと気づいた」
「巫女として覚醒させたい、という意図はなかったのか?」ルカはクロの目をまっすぐ見つめながら問うた。
クロは一瞬、言葉を詰まらせた。「それは...無意識の願いだったのかもしれない。写し世の均衡を守るために巫女が必要だと、心のどこかで」
彼の声には迷いが感じられ、右目の紋様が不安定に明滅していた。
静江が補足した。
「封印の儀式の際、狐神の力と意識が分割された。善なる部分はチヨと共に封じられ、もう一方の部分がクロになった」
「しかし、それは単純な善悪ではない」
クロが続けた。
「記憶を守ることと変えることは、表裏一体だ。両方が必要なのだ」
彼の言葉に、蓮はノートに何かを書き込みながら頷いた。「二元性の合一...祖父が探し求めていた『記憶の真理』だ。彼は常に『物理法則の向こう側』を見ようとしていた...」
ルカは少しずつ理解し始めた。チヨとクロは、本来は一つの存在の二つの側面だったのだ。だから彼女はクロに初めて会った時から、どこか懐かしさを感じていたのかもしれない。母の形見の着物を見たときの感覚に似ていた。
「それで…あなたは欠片を集めて何をしようとしていたの?」
「最初は…チヨと再び一つになろうとしていた」
クロは素直に答えた。
「自分が不完全な存在だと感じていたからだ。だが、今は分かる。それは単なる自己満足にすぎなかった」
彼の言葉には深い自己洞察が込められていた。右目の紋様から一筋の涙が流れ落ち、その涙が青く輝いて床に落ちた。床に触れた涙は小さな青い花になり、すぐに消えた。
蓮が初めて口を開いた。彼はノートに何かをスケッチしながら言った。
「でも、なぜルカさんが欠片を集める必要があったんですか? クロさん自身が集めれば…」
「それができなかったのだ」
静江が説明した。
「クロは欠片を感知できるが、自力では使えない。代償を払えないからだ。すでに彼自身が欠片のようなものだからね」
「そして」クロが続けた。「ルカには選択する権利がある。チヨの妹として」
蓮は困惑を隠せずにいた。その表情には、科学者としての好奇心と、目の前の神秘への畏怖が交錯していた。「この現象は...科学で説明できるものなのか、それとも...」彼はノートを強く握りしめた。「祖父は科学と神秘の境界を探求していたが...」
彼は装置を取り出そうとしたが、急に手を止めた。「もう測定する必要はないのかもしれない...理解するための別の方法があるのかもしれない...」
その瞬間、鏡からの光が強まり、それぞれが異なる色合いで輝き始めた。光が交錯し、中央の台に映像が浮かび上がり始めた。鏡の面がゆがみ、まるで窓のように別の空間を映し出す。それは十年前の封印の儀式の光景だった。
若きチヨが巫女装束で中央に立ち、周囲には神主や村の長老たち。そして、小さなルカの姿も。彼女の隣には両親が立っている—父は黒い髪に優しい目をした男性、母は長い髪を束ねた凛とした女性。チヨは決意に満ちた表情で、狐神—巨大な青白い狐の姿に向き合っている。奥宮の空気が震え、時の狭間の力が鏡を窓のように変えていく。
「これが…十年前の儀式。奥宮は時の狭間の中心だったのね」
ルカが震える声で言った。心の奥底に眠っていた記憶が鮮明によみがえり、彼女の目から涙があふれた。幼いときの記憶—姉との別れの場面—が彼女を押し潰しそうになる。それでも彼女は目を離さなかった。これが真実なのだ。
映像の中で、チヨは両手を広げ、詠唱を始めた。周囲に時間の波紋が広がり、静かな唱和が空間に響く。狐神は苦しむように身をよじり、その体から光が放たれる。それは九つの光となって四方に散った—欠片の誕生の瞬間だ。そして…チヨの体が光に包まれ、彼女自身も変容し始めた。彼女の髪が白く変わり、瞳が金色に輝く。
映像の中の小さなルカは泣き叫び、チヨの名を呼んでいる。両親が彼女を押さえつけているが、彼女は必死で姉に手を伸ばしていた。父は深い悲しみに沈み、母の頬には涙が伝っていた。父のカメラが床に置かれているのが見えた—最後の家族写真を撮るつもりだったのだろうか。
「イヤ! お姉ちゃん! 行かないで!」
その声に、ルカの目から涙があふれた。幼い自分の記憶が蘇る。チヨの犠牲を止められなかった悔しさ、無力感。そして両親の悲しみ。母の肩が震え、父が彼女を支える姿。儀式の後、ルカは高熱を出し、目覚めた時には姉の存在を忘れていたのだ。
映像はさらに続く。チヨの体から分離した一部が、別の形となって現れた。それがクロの原型だ。チヨは狐神と共に消え、奥宮の鏡の中に吸い込まれていく。彼女の最後の言葉だけが残った。
「わたしのこと、ずっと覚えていてね」
映像がより鮮明になり、ルカが見たことのない光景が続いた—封印の後、混乱する夕霧村の人々。彼らの記憶が青い霧のように抜け出し、徐々に村が霧に包まれていく。「記憶の代償」として夕霧村の集合的記憶が失われていく様子が映し出された。老人たちは自分の名前を忘れ、子供たちは泣き叫んでいた。そして最後に、村を去る人々の姿。彼らの表情は空虚で、自分たちがどこから来たのかさえ忘れていた。
映像が消え、静寂が訪れた。ルカは涙を拭いながら、クロを見た。彼の右目からも、一筋の涙が流れていた。彼の表情には深い痛みと、自らの責任を痛感するような後悔が浮かんでいた。体の輪郭が揺らぎ、クロの存在そのものが不安定になっているようだった。
「あなたは…姉の一部」
「ああ。だからこそ、お前のことを守りたいと思った。旅の途中から、それが私の本当の願いだと気づいた」
クロの声には深い決意が込められていた。周囲の鏡と欠片が共鳴するように輝き、彼の声に力強さが加わった。それはもはや彼自身の声ではなく、何か大きな存在の声のようだった。




