第82話 奥宮の儀式
影向稲荷に着くと、境内は静寂に包まれていた。普段なら神主や巫女たちがいるはずだが、今夜は誰もいない。代わりに、境内のそこかしこに青白い霧が漂い、足元を這うように動いていた。鳥居の影が月明かりで伸び、九本の線が地面に刻まれているように見えた。
「神主は?」
「私が帰るよう言っておいた」
静江は本殿の方へ歩き始めた。彼女の足取りは若々しく、まるで長年の重荷から解放されたかのようだった。
「今夜の儀式は、私たちだけで行う」
「儀式?」
「ああ。真実を知るための儀式だ」
本殿につながる石畳は月光に照らされ、その輪郭が青く浮かび上がる。まるで青白い炎で縁取られているかのようだ。静江が歩くたび、石から微かな青い光が立ち上り、彼女の足跡を追うように動いていた。
蓮は測定器をかざしながら歩いていた。「驚異的な数値です。空間の歪みが最大値を示しています。これは祖父の『時の結節点』の理論に一致します」
彼のノートには複雑な数式が並び、波形のグラフが描かれていた。科学者としての冷静さと、未知への畏れが入り混じった表情で、彼は現象を記録し続けていた。
一行は本殿の裏へと回った。そこには小さな祠があり、その向こうに細い山道が続いていた。道は普通の目には見えないはずだったが、今夜は月光に照らされてはっきりと浮かび上がっていた。
「この先が奥宮だ。神社の創建以来、特別な者だけが訪れる場所。時の狭間の中心だ。この地は現世と写し世が重なる特別な場所。感情の波動と月の光が結びつき、土地の記憶が最も強く現れる」
山道は暗く、細い。蓮が持参した懐中電灯の光だけが彼らの道を照らしていた。しかし、その光はやがて不必要になった。道沿いの木々が、葉から淡い青白い光を放ち始めたのだ。空気は湿っており、苔と古木の匂いが鼻腔をくすぐる。場所全体が神秘的な気配に包まれ、足を踏み入れるたびに時間の流れが変わるような感覚があった。
「写し世の光?」
ルカが問うと、静江は頷いた。
「ここは現世と写し世の境界が最も薄い場所。特に今夜は」
蓮は数値を確認しながら歩いていた。「これは科学では説明できない現象です...計測不能な領域です」彼は装置をしまい、代わりにスケッチブックを取り出した。「祖父の最後の日記には『計測できないものこそ、最も大切なことがある』と書かれていました。今、その意味が分かります」
道は山の中腹へと続き、やがて石の鳥居が見えてきた。それは本殿の鳥居より古く、苔に覆われている。その上部には九つの小さな窪みがあり、欠片を納める場所のようだった。鳥居の周りでは、時間が歪んでいるようだった。耳を澄ますと、子供の笑い声や大人の囁き、ときおり鈴の音が聞こえた。過去の残響だ。ルカの耳に両親の囁き声が聞こえる錯覚がある—「おいで、ルカ」という母の声と、「選択の時だ」という父の声。
「ここからが聖域だ」
静江が言った。「心を清めなさい」
鳥居をくぐると、そこには小さな神殿があった。本殿よりもずっと古い様式で、屋根はこけむし、壁面には複雑な彫刻が施されている。壁には狐の姿や、九つの円を持つ幾何学模様が彫られていた。最も目を引くのは、過去の巫女たちの彫像—それぞれが異なる時代の衣装を纏い、共通して七時四十二分を指す懐中時計を手にしている。彫像の瞳から微かな囁きが聞こえ、記憶の残響が壁に反射するように響く。「記憶を守れ」「時を越えよ」「心を開け」と。
「ここが奥宮…」
ルカは息を呑んだ。場所全体から、強い力が感じられた。写し世との境界が極めて薄い場所だということが直感的に分かる。彼女の肌には鳥肌が立ち、一瞬頭痛が走った。耳元で誰かが囁くような、しかし言葉にならない音が聞こえる。「ルカ、忘れないで」—チヨの声だろうか。そして、もう一つ別の声も。「カメラを持って、ルカ」—父の声に似ている。奥宮の壁には無数の鳥居が重なるような彫刻が施され、その隙間から過去の音が漏れ出しているかのようだ。
「中に入りましょう」
神殿の扉は重かったが、静江がある場所を押すと、音もなく開いた。中は薄暗く、月光だけが天窓から差し込んでいた。湿った古木の香りと、仄かな香木の匂いが入り混じり、ルカの感覚を研ぎ澄ませた。
内部は予想外に広く、中央には石の台があり、その周りを九枚の鏡が取り囲んでいた。鏡はそれぞれ異なる方向を向き、複雑な反射が室内に光の模様を作り出していた。ルカには、鏡の中に人影が映っているように見えた。父と母の姿だろうか。彼らは優しく微笑み、そして消えた。肩に手を置く感触、髪を撫でる温もりを一瞬だけ感じる。父が「写真は感情の結晶だ」と語り、母が「記憶は水の流れのよう」と囁く声が聞こえた気がした。
「これが『記憶の門』」
静江が言った。「九枚の鏡が、九つの欠片に対応している」
彼女は中央の台に進み、彼らに続くよう手招きした。ルカたちが台の上に上がると、鏡の配置がよく見えた。それらは九角形を形作るように配置され、それぞれが中央を向いている。鏡の周りからは、時間の軋む音が強く響いていた。
「これは祖父の記録にあった『記憶の共鳴点』だ...」蓮は震える声で言った。「時間と記憶が交差する場所...祖父は最後にこの場所を求めていたんですね」
彼は小さな装置を鏡に向け、数値を確認した。「異常値です...時間の流れが複数層に分離しています」装置を手に取ったまま、彼の目に涙が浮かんだ。「祖父、あなたは見ていたんですね...そして何かを選択したんですね...」
「欠片を、対応する鏡の前に置きなさい」




