第81話 クロの告白
クロが一歩前に出た。彼の体からは緊張感が伝わってくる。右目の紋様が強く輝き、彼の声は微かに震えていた。蓮の手元の装置が反応して針が大きく振れる。
「選択の時が来た。だが、その前に真実を知るべきだ」
「真実?」
「ああ。狐神の真実、そして…私の正体について」
クロは黒い面に手をかけ、ためらいがちに触れた。面の下で、彼の表情が複雑に変化しているのがわかった。そして彼の後ろの壁に映った影が、人の形から九つの尾を持つ狐の形へとゆっくりと変容していくのが見えた。光に照らされた影は青い霧を纏い、時折揺らめくように不安定な姿に変わる。
「私は…初めてお前に会った時から、真実を知っていた。だが、それを言うことができなかった」
彼の言葉には痛切な後悔の色が混じり、右目の紋様が不規則に明滅していた。面の下から漏れる声には、次第に女性の調子が混ざり始めていた。
緊張が部屋を満たした。クロはゆっくりと狐の面に手をかけたが、すぐには外さなかった。部屋の空気が重くなり、耳の奥で時間の軋むような音が響き始めた。蓮のノートが震え、ページがめくれる。彼の測定器の針は振り切れ、一部は機能を停止していた。
「待って」
静江が声を上げた。
「ここではない。影向稲荷の奥宮へ行くべきだ。すべての始まりの場所へ」
「奥宮?」蓮が訊ねる。
「影向稲荷の中心、時の狭間の結節点だ。現世と写し世の境界が最も薄い場所。写し世の記憶が最も強く現れる神聖な空間」
部屋の空気が変わり、時間がゆっくりと流れるような感覚があった。遠くで鐘の音が鳴り、それは記憶の奥底に眠る何かを呼び覚ますようだった。蓮が困惑した表情で尋ねた。
「奥宮? それは…」
「影向稲荷の奥、一般には知られていない秘密の神域だ」
静江は窓の外を見た。夜の闇が深まり、満月が昇り始めていた。その光が異様に強く、部屋の隅々まで銀色に染め上げていた。窓の外には青白い霧が立ち込め、月の周りには薄い青いリングが現れ始めていた。時の狭間が開き始める前兆だ。
「今夜は特別な夜。月の力が強まる。奥宮へ行き、そこで真実を確かめるのだ」
蓮はノートに何かを記し、静江に尋ねた。
「その奥宮では、何が起きるんですか?」
彼は測定器の数値を確認しながら言った。「この数値は異常です。空間の歪みが発生しているようなものです」
「それは行ってみなければわからない」
静江は謎めいた笑みを浮かべた。
「ただ、君の祖父も見たことのない光景になるだろう」
ルカは手紙を胸に抱き、頷いた。彼女の目に迷いはなかった。母親から教わった「真実は恐れずに向き合うべきもの」という言葉が心に響く。
「行きましょう」
四人は写真館を出た。チクワも一緒だ。猫は今夜、ルカのそばを離れようとしなかった。月明かりの下、その白黒の毛並みが淡く輝き、時折青みを帯びて見えた。チクワが歩くたび、その足音が不自然に大きく響き、まるで大きな獣が歩いているかのように聞こえた。猫の瞳には不安と期待が混じり、何かを予感しているような光が宿る。
道中、町は不気味なほど静まり返っていた。窓という窓に明かりがともり、戸という戸に鍵がかけられている。人々は無意識のうちに、今夜何かが起こることを感じ取っているのかもしれない。空気は冷たく、呼吸のたびに白い息が漂い、それが青い光を帯びているように見えた。
「この世界には二つの側面があるんだ」クロが静かに話し始めた。「現世と写し世。私たちが普段目にする世界と、記憶や感情が実体化する世界。多くの人はその境界に気づかない」
彼の声には痛みと覚悟が混じり、右目の紋様は揺らめくように明滅していた。右手が微かに震え、何かを抑え込もうとしているようにも見えた。
蓮が熱心に聞き入る。「祖父の理論通りだ…『現実は波動であり、観測者の意識によって固定される』と言っていました」
彼は装置を調整しながら言った。「この『記憶波動計』は祖父の最後の発明品です。通常の電磁波とは異なる波動を測定するよう設計されています。その数値が今、振り切れています」
「ほぼ正しい」クロが頷いた。「だが、その波動を操作できる存在もいる。それが狐神と、影写りの巫女だ」
その言葉にルカは自分の胸元に手を当てた。自分もまた、そうした存在になり得るのだろうか。




